海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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174・父に出来ること、父としての限界

「……」

海はため息をついた。つかざるをえなかった。

 

後期混合戦を控え、一週間ほど休養日があるの間もチームは午前中、軽めの練習を行い調整を怠らなかった。

というのも、前期混合戦の間は必ずどちらかのリーグ所属チームが必ずホームゲームとなり、後期混合戦はその逆のリーグ所属チームがホームゲームとなる。

 

今年は後期混合戦がEリーグ、すなわち海の所属するチーターズのリーグがホームゲームとなる。

ところが、後期混合戦の時期と夏の甲子園の時期とが重なってしまうため、後期混合戦がホームゲームになるたびにチーターズは神戸の球場だとか、ネーミングライツを大阪の大手製薬会社であるリョーコ製薬が取得している奈良の球場だとか、京都の球場だとか、時には新潟、秋田、長崎などの地方球場に遠征することになっていた。

それでもスケジュールが合わない場合はSBLをはじめとした独立リーグの球場を借りて試合をするという、試合のたびに大きな移動が伴いがちなハードな日々――通称『死のロード』が待っていた。

 

おまけにそれが8月の特に暑い時期ということもあって、練習はまったくしないわけにもいかないが、かといってハードな練習をして大遠征前に体力を消耗するわけにもいかず、体力の配分が難しい。

そうして毎年この時期は『いくらなんでもチーターズに厳しすぎな条件なのではないか』という声が挙がっては『どこも同じように厳しい条件で試合を回している』という声でかき消されてしまっていたし、なんならこれが一つの夏の風物詩と捉えられてしまっている以上、どれだけ選手レベルで不満を漏らしてもルールなど変わらないだろう。

 

「2年に一度はこの時期大遠征になるわけですけど、やっぱりこう……不平等ですよねー。まるでうちらに優勝するなって誰かが呼びかけてるようなスケジュールじゃないですか、こんなの。よそはこの時期ずっと本拠地で試合できるのに、うちらだけ。ってか、今年は特にひどいですよね。新潟、秋田、富山、静岡、鹿児島、長崎って。すぐ目の前に神戸ブルースタジアムだってあるのに、今回は一度も使われないじゃないですか。こんなスケジュール、移動だけでくたびれちゃいますよ。よほどうちらを弱らせたい陰謀があるんですよ。陰謀論ですよ、インボーロン」

ジェネルは不満を口にしたが、海にはその言葉はあまり聞こえていなさそうだった。

 

「海さん?聞いてますか?おーい」

バットを握ったまま、ティーに置かれたボールを叩くでもなく、ただ呆然と立ち尽くしている海。ジェネルはバットで海をつつくが、海はまだ黙ったままだ。

 

「海さーん。おーい」

「……ごめん。ちょっと黙っててくれないかな」

「え……あ……その、ごめん、なさい……」

振り返るでもなく、背中のままつぶやいた海にジェネルは思わず萎縮した。

 

海は疲れたような様子でベンチへと戻り、スポーツドリンクを口にした。ベンチに置かれている氷嚢を頭に乗せ、はぁ、と深いため息をつき――手すりに前のめりになって肘をついて、どこを見るでもなく、遠くをぼんやりと見つめるような素振りを見せた。

ジェネルは少しでも海の気が紛れればと思って声をかけたつもりだったのだが、とても今の海には自分の声が届くようには思えず、ジェネルもまた表情を重くし、素振りをやめてしまった。

 

『息子さんのPKの件について一言お願いします――』

 

『佳井選手の息子さんが人権を侵害しているレベルでの誹謗中傷に晒されていると――』

 

『誹謗中傷の件で何かコメントを――』

 

『連盟は被害届を提出する方針とのことですが――』

 

『佳井選手も若手の頃はああいった罵声を受けることもありましたが――』

 

『改めて佳井選手はこうした誹謗中傷にはどういったスタンスを――』

 

「……こんな大事な時期に、誰かさんが言うようにほんと、不平等だな」

海はあれから数週間、ずっとマスコミに新の件を引っ掻き回されていることに疲れていた。

自分のことだけ考えて生きるということの難しさもそうだが、父親としての顔と野球選手としての顔、そしてそれと同時に佳井海としての顔とを入れ替えて生きなければならないということに、海は疲れていた。

 

リーグ戦は今年もいつの間にかじわじわとバトルシップスが独走態勢に入り、既に優勝マジックが灯っていた。チーターズとは既に20ゲームほどあるその差がこれから劇的に縮まることは誰だってありえないと思っていたし、海だってもはやその差を縮めることは不可能だとも思っていた。

もはや、いかにしてポストシーズンで下克上を勝ち取るための材料を見出すか、ということに切り替えるくらいしか、戦う意義を見出せなかった。

どうせもう今年の優勝はないのだから今後のために分かりやすい個人成績を求めるというのは中堅も若手も、あるいは今後のことを考えるベテランも同じことで、まして今野が

 

「まあ、極論、ポストシーズンさえ勝てばどうでもいいからね。ポストシーズンはあんまり査定に考えてもらえないから、あとはもう、自分のことだけ考えて野球したらいいんじゃないかな、君たちは。秋にやりかえして日本一を取れば全ては許されるんだから、自分なりの野球と、これからの自分のキャリアのことだけを考えなさいな」

 

……などと、戦い抜くことを半分諦めているのだから仕方がない。

ポストシーズンでいかにして戦うかを試すために言っている部分もあるのかもしれないが、今までの今野の言動を考えると、単にもう諦めてしまっているのかもしれない。それは勝利そのものだけではなく、今居る選手そのものにすら諦めがついているのだ――海にはそんな気持ちが芽生えていた。

 

こうしたことを考えれば考えるほど、海は考えが窮屈になった。だから意地で野球などするべきではないのだ――という自問をすれば、今更逃げてもどうにもならないだろう――という自答が返ってくる。

 

ならば、プレーだけでも自分のことだけ考えてすればいいじゃないか――と左脳が提案すれば、今更大きい当たりだけを求めるような打者と同じような個人技に走れるか――と右脳がそれを拒否する。

 

新のことなど、それこそ、自分で今まで撒いた種が今になって全部芽が出たのだから、一度くらいこの苦境を自分ひとりで乗り越えればいいじゃないか――と佳井海としての心が意見すれば、父親としての心が、こうしたときに息子一人も守れないで何が父親なのだ。だから息子にずっと愛想を尽かされ続けてきたんだろうが――と、父親としての心が自分に意見する。

 

「ああ!もう」

 

両足をダン!とベンチの床に踏みつけ、海は髪をかきむしった。

 

イギリスに戻ってから再びチームに合流し練習している新は、大会でPKを外して以来、少しパフォーマンスが落ちているという情報がちらほら日本にも届いていた。

ただ、その独特なネットスラングを含む日本語までは海外メディアは読み取りきれない部分もあるし、海自体がイギリスではまだこれからの選手ということもあり、イギリスではあまりこの誹謗中傷の件はメディアはあまり触れていないようだった。

新もさすがに日本で自分がどのような叩かれ方をしているかは分かっているとは思うが、こうしたとき、海外というのは『そこまでは誰も追ってこない』という距離がある以上、いい隠れ蓑になっていた。

 

自分もいっそ、下部リーグでもいいからアメリカにでも移ってしまおうか、と海は思ったりもした。

考えれば考えるほどめまいがする思いだったし、なんなら既にめまいが起きているような感覚にも陥った。それが暑さによるものなのか、メンタルからなるものなのかは分からないが、海は近くにいた今野やコーチたちに向かって歩き始めた。

「監督。コーチ。ちょっと話があります――」

 

~~~

 

海は硬い表情で、スーツを着こなしながら球団事務所の大広間にいた。

メディア各社が今か今かといった表情でマイクやカメラを向け、こちらに群がっている。

人の不幸に限ってこうして群がってくることへの気色悪さを覚えた海は、その群れの中に木村の姿がいることに気がついた。

記者会見を開くということを聞き、東京から飛んできたのだろう。普段よりも髪は少し乱れ、ネクタイが曲がっている。割と身だしなみには気をつけるタイプの人間だったから、よほど気が気でないのだろう。……ひょっとしたら、引退を表明するのではないかと勘違いしているのかもしれないが。

 

「……えー、本日はお忙しい中お集まりいただきありがとうございます。皆さんに少しお伝えしたいことがあって、今日はこうした場を設けさせていただきました――」

 

海は重々しい気分で、淡々と話し始めた。

 

「――ここ数週間、ずっと皆様から、僕の息子である佳井新の誹謗中傷の件へのコメントを求められていましたが、やはり一度ちゃんとした場でコメントをしなければいけないと思いました――」

 

激しく焚かれるフラッシュ。

やはりか――と前のめりになる取材陣――。

人の不幸のときばかりこうして集まってみせて、楽な仕事なものだ――と海は冷めた目でそんな取材陣を一瞥し、再びまっすぐを見つめた。

 

「……長い間、球団や球界そのものを通して、選手に対する誹謗中傷をやめようといったメッセージを発信してきましたが、今回このようなことになってしまったことは残念でなりません。誹謗中傷の中には、僕の生い立ちに関して言及した者も少なくなくありませんでした。長い間、僕に対しても『本当は日本人じゃないくせに』といった野次をぶつけてきた人や野球関係者がいた中、僕の息子にまでそうして、日本人の息子じゃないからだとか、非国民だなどといった声を投げつけるのは、僕としては非常に残念ですし、怒りを感じてやみません」

明確な不快感。それは海のもともと鷹のように鋭い目をさらに鋭くさせ、カメラに向かって憤っているメッセージを言葉以上に伝えていた。

カメラへのその目線は、単なる誹謗中傷への怒りだけでなく、それを面白半分で扱ったようなメディアに対しての怒りもあったことに、会場の一体何人が気づけただろうか――。

 

「……そして、そうした誹謗中傷の中には、僕の東京の新居に火をつける、といったコメントだとか、新居に住んでいる娘を襲うだとか、僕の現在住んでいる家を襲うだとか、そういったコメントもありました。これらに関しては開示請求を随時行っている最中ですし、警察へも既に被害届を提出してあります。……この何週間かほど、東京の新居、そして僕の自宅付近には複数警備員を配備してあります。念のため、娘たちも別の安全な場所へ避難させてあります」

ハァ……と深いため息をつき、心底嫌そうな表情を見せた海。思い返すだけでうんざりする、ここ数週間の出来事――海はそれらを一つ一つ、ごくわずかの間だけ思い返し、再びカメラを睨んだ。

 

「仮に冗談で言ったのだとしても、その怒りの矛先を僕の家族にまで向けたことは、非常に残念でなりません。東京の新居付近や僕の自宅付近には実際に刃物だとかサラダ油を持った男が現れたりだとか、塀ににスプレーを撒き散らして落書きした者、面白半分で撮影を決行して近隣住民に迷惑をかけた者、夜遅くに騒音を流しにいった者、庭にゴミを投げてきた者、自宅付近をドローンで撮影しようとした者は少なくありませんでした。今、僕が把握しているだけでも16人が逮捕されています。正直に申し上げまして、僕は今回の件に関して、激しく……激しく、腹の底から怒っています。海外に住んでいる僕の息子に直接手を出せないものから、僕の住居に嫌がらせをするだとか、僕の家族を代わりに攻撃するといったことは、到底許せるものではありません」

 

積極的に話題を提供しようとはしなかったからか、世の中でもっと大きい事件が起きたからなのか、不思議と海の身近に起きたこうした事件はあまりメディアでは騒がれなかった。一部のスポーツ誌では熱心に取り上げてはくれるものの、海は改めて記者たちを睨みつけ――お前らがもっと熱心に取り上げてくれれば――という思いで舌打ちをした。

 

「そうした者たちにどういった事情や背景があろうと決して僕は許しませんし、こうして何かしらの行動に移した者も、ネット上で行動をほのめかした人物、面白半分でそれらを煽った人物、それらを僕は一人残らず、ありとあらゆる法的手段をもって対応し、この騒動にケジメをつけてもらおうと思っています。示談で何とかしようと思っているのであれば、もう遅いです。一生後悔しながら生きてもらいます。どれほどこちらが赤字になろうと、しっかりと裁判も行っていきますし、自分の経歴にしっかりと土をつけてもらいます。無関係な僕の妻、そして子供たちにまで憂さ晴らしの手を伸ばそうとしたことを……一生かけて償い、そして後悔してもらいます」

 

僕が同じようにあなたたちの家族の住んでいる家に火をつけにいかないだけありがたいと思ってください――という言葉が一瞬海の口から出かかったが、それは必死で飲み込んだ。人間、腹が立つといくらでも憎悪のこもった言葉が浮かんでくるものだ。一生腹を立てていれば自分も饒舌にヒーローインタビューができるものだろうか――そんな皮肉なことを考えながら、海は宣言し続けた。

 

「ですから、息子である新に直接……今日お越しいただいた皆さんやその同僚がこの件に対してコメントを求めることはどうか、やめてください。彼は今、肝心な場面でシュートを外してしまったところから立ち直らなければいけません。本人がどれほど気にしているかは僕にもその全ては分かりませんが、彼はこういうところだけは僕に似たのか、あまり皆さんに対してペラペラと不調の理由だとかなんだとかを話してはくれません。皆さんがどれほど執拗に取材して話してくれと言って話してくれるタイプではありませんから、どうかこれ以上、今回の件について詮索はしないでやってください。……最後になりますが、この記者会見を見ている、それでもまだ僕の家族に攻撃を加えようとしている方がいるならば、何をされてもいい覚悟でいるとみなします。……今一度冷静になって、ご自身とSNSやインターネットとの付き合い方について真剣に考えてみてほしいと思います――」

 

海はまっすぐを向いて話し続け、そのたびに浴びせられるフラッシュの波やシャッター音に時折顔をしかめた。

 

今までもそうだったように、どうせ、こんなことをしてもなお、世の中なんて何も変わらないのだ――

 

そんな思いと共に。

 

一日中テレビを賑わせている自分の記者会見のニュースにうんざりした様子で、海はテレビから背中を向けた。

 

「楽でいいよな。本人は。きっとアイツは、こうなることを嫌がって最初から海外にこだわってたのかもしれないけど」

海はそう言ってため息をつきながら、青白い顔のままコーヒーに口をつけた。華耶は笑みを浮かべながら海の隣に座り、手を握った。

 

「ごめんね。本当は、あたしがこういうとき少しは動かないといけないのに」

「いいんだよ。俺が動いたほうが話を大きくできる。新は多分、被害が自分にしか及んでないもんだと思ってるかもしれないし、結局いずれは俺がどっかで動かないといけないと思ってたしね」

「いつか、本当に倍で返してもらうよ、アイツには。別に、アイツのために動いたんじゃない。俺は、家族のために動いたんだから」

はぁ、とため息をついて海は髪をかきむしった。今日何度目かも分からないそのしぐさに、海はこれが癖になっていることを自覚した。

 

「サッカー連盟も、野球連盟も、どっちも動いてくれている。あとは弁護士と警察の仕事。……まあ、裁判とかになったらまた忙しくなるんだろうけど」

「そのときはあたしや、あたしの親族や叔父さん一家が代わりに動くからさ」

「頼むよ。さすがに、試合休んでまでできることじゃないからね」

華耶の笑顔に、海は素直に笑顔で返した。

 

「でも、晴留たちに今のところ何の被害も及ばなくてよかったよ。まさか、本当に火をつけようとするやつが出てくるとかなんて思ってなかったから」

「冗談のつもりだったのかもしれないけどね。最近、そうやってわざと目立つようなことして動画撮影する人とかいるじゃん」

「冗談で済むかよ、こんなの」

海は思わず引きつったような、吐き棄てるにしては声色のひねくれた声を挙げて口を歪ませた。

 

「そりゃそうだけどね。……ごめんね。でも、なんか……惨めだなあ、って」

「世田谷の家もそのうち売り払って別の家建てなきゃいけない日が来るのかな」

「そうさせないために今こうやって騒ぎにしたんじゃん。ダメだよ。あたしたち、まだあそこで全然生活してないんだから。引退したらあそこでゆっくり過ごすために家建てたんだからね。警備サービスだって高いお金払ってるんだから、しっかり弁償もしてもらわないとだし。うちの会社のSPだって派遣してるし」

華耶は強い口調で海に向かって首を振り、しっかりとした眼差しで海を見つめた。

 

「柊理が野球やりたいとか言い出さなくてよかったよ。今後、またなんかのはずみで子供なんかできても、野球だとかスポーツだとかなんかは……やらせたくないな。直人みたいにさ、普通でいいんだよ。普通で。普通に生きるってことがどれほどか……最近直人を見てると本当に思うよ。あのくらいでいいんだよ、本当は」

「ダメだって、そんなこと言っちゃ。自分の人生を卑下しないで」

「結局、俺のせいで周りに迷惑ばかりかけちゃったじゃないか。新のミスとはいえ、新をああさせたのは俺のせいなんだから」

「まーた。ダメだって。ほんとそういうの、ダメだから。もっと強く持ってよ、自分を」

目を伏せ、しぼんだ顔をした海を華耶は揺さぶったのだが、海の落ち込んだ様子はなかなか戻りそうになく、なかなかその重たい頭を上げようとはしなかった。

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