海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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18・次の一歩のために

「999……1000」

一枚ずつ紙幣を数えた海はハードケースに慎重にそれを詰め込んでいく。

憂いは断っておきたい――そう思った海は、一人、タクシーを呼んで虎ノ門方向へと向かっていた。

 

あれほど大きな騒ぎを起こしていても、多額の賠償金を支払い示談にこぎつけたという父・楓悟。それでいて未だに東京の一等地に住んでいられるあたり、よほど資金には余裕があったのだろう。

 

その後仕事がどうなったかは知らないが、こんなところにまだ住んでいられるあたり、人脈か何かしらでうまいことやりくりしたのだろう――そう思うと、海は口から毒が出そうな気分だった。

《――クソだな》

 

聳え立つマンションを見上げながら、睨みつける海。入り口で手続きを済まし、エレベーターで部屋へと上がっていく。

楓悟は出張で不在らしい。そのほうが都合がよかった。

さくら、と言ったか。父親の愛人――今はれっきとした妻になった女が対応してくれるらしく、海は手短に用件を済ますべく部屋へと入った。

 

「いらっしゃい」

「……どうも」

 

笑顔で出迎えてくれた父の女――さくらを、海はあまり直視できなかった。この女があんなろくでもない男に抱かれ、乱れ、そして子供まで作っているという事実を海は受け入れられなかった。

 

「紅茶でも入れましょうか」

「結構です」

「あら、どうして?」

「あの男に何を指示されてるか分からないので。用件を済ましたら俺もすぐ帰るので」

「……指示って……そう……」

残念そうな顔でさくらはイスに座った。イスに座るよう言われた海は、イスくらいならばと素直に応じた。本当は、金だけ渡して帰るつもりだったのだが、渋々座った。

 

「用件は二つです。近々、俺は籍を向こうの家に移します」

「向こうに移す、って……」

「18歳以上なら親の許可が要らないんでしょう。近々入籍し、それを期に、向こうの婿養子に入れさせてもらおうとも思っています。向こうの親にはもう話を通してあります」

「そんな……」

何をのんきに驚いているのだ、この女は――と海はイライラした。

 

「出て行けと言われてしまったからには、仕方がありません。いまさら親子の仲が修復できるとは俺は思いませんし、出て行けと言い出したのは、あの男のほうです。であれば、俺は出て行くだけのことです。きっと、あの男も喜ぶでしょう」

「でも――」

海は口を挟もうとしたさくらを睨み、一方的に話し続けた。

 

「あの男から何を吹き込まれてるかは分かりませんが、俺やおふくろの人生をめちゃくちゃにした男の苗字はもう名乗れません。それでも、人の目につく仕事を選んでしまった以上、少なくとも俺は寮から出て行くタイミングまで待つことにしてたんです。プロ入りと同時に入籍では、さすがに悪目立ちしすぎますからね。……あんたはあの男と、好きなように生きたらいい。俺の人生には、たまたまあの男がいなくてもなんとかなっただけの話です。あの男もわざわざ俺を止めはしないでしょうし、互いに好きに生かせて下さい。正直言って、あの男が生きてるだけで俺は迷惑なんですよ。よくない形でニュースに名前も出てしまいましたし」

「でもね、海くん――」

「……気安く俺の名前を呼ばないでもらえますか」

 

テーブルに手のひらを叩きつけ、さくらをじっと睨む海。

「あんたのことまで嫌いにはなりたくないんですよ、俺は。でも、あの男の女だってことだけで、俺は理性を保つのがギリギリなんです。あんたがどうしてあの男と添い遂げようと思ったかなんて知りませんし、聞きもしません。だから言ったでしょう、これからは好きなようにあの男と生きてくれ、って」

「……」

黙って海の話を聞き続けているさくら。ひどくうろたえたようで、反応に困ったような――おどおどした様子を見せていた。

 

長居すればするだけ、自分の命が薄く、薄く、一枚ずつ殺ぎ落とされるような気がした。海は少し早口になって話し続けた。

 

「俺はあの男に『自分の金があったからお前だってここまでこれたんだろう』と言われました。俺は今後、その引け目を感じて生きたくないんです。今、あの男がどんな仕事をして、どんな金で生きているかは知りませんし、自分から知るつもりもありません。ただ、あの男が昔からそうした汚れた金で俺を育てたかもしれないと思うと、なおさら俺はあの男に金を返す必要があると思いました」

運んできたハードケースのバッグを机に置き、鍵を開ける。

 

「ここに1500万あります。高校時代の学費だの、自由に使えていた金だの――全部まとめて、おつりつけて返してやります。俺が球団から受け取った契約金やら、自分の力で稼いだ年俸やらで手元に入った、汚れてない金です。この日のために、球団から支払われた金をなるべく使わないようにしてきました。今までの形だけの恩を返すので、今後一切俺には関わらないでください」

「だけど、こんな金――それに、あの人だって本当はそんなに悪い人じゃあ……」

悪い人じゃあ――という言葉に海は顔を真っ赤にして怒鳴り散らしたい気分だったが、必死でこらえた。少しでも気が緩んだら、手が出てしまいそうだった。

脈が高鳴り、首筋に嫌な汗が伝うのが分かる。海は早くこの場から逃げ出したい気分だった。

 

「……あんたにとって悪い人じゃないかもしれないけど、俺にとっては罪人であり、家を棄てた人間です。許せるものじゃありません。この金がどれほどあんたらの生活の足しになるのかは分かりませんが――あんたもせいぜいあの男に棄てられないうちに自分のなりふりを考えることですね。それじゃあ」

「待って――」

待って、と腕をつかんださくら。汚物を見るような目でそれを睨み返す海。

「なんですか、足りませんでしたか」

「そういうことじゃなくて……その……あの人も、ちょっと冗談が過ぎることがあるから、その――」

「……冗談で浮気するような男のことなんか、俺は信じませんよ。それじゃあ」

その腕を振りほどき、海はマンションを後にした。

年俸だってこの二年でそれほど上がっていないのに、強がって1500万なんかを置いていった海。

こんな大金を渡してしまったからには、しっかり試合に出て稼がないといけないな――と思いながら、つばを吐き捨てた。

 

~~~

 

『正直言って、去年のスタイルでは一生打てません。だから、俺は俺なりのやり方でやります。結果は1年、2年もすれば出せると思います――』

 

キャンプ早々、海は前野と打撃フォームをめぐって対立をした。

本来のスイングに戻した海は、徐々に飛距離を取り戻していき、シート打撃では綺麗なアーチを描くことも度々見られた。

 

本来のスイングに戻してから、これまでの自分のスイングには、自分がそれまでイメージしていたよりもはるかに余計な力みがあることに改めて気づかされた。

自分では去年のスイングは自分らしくなかったと思っていたが、それ以前のスイングもにも力みがあった――そんな手ごたえを感じる日々が続いた。

もちろん、練習で打っているようなボールがそのまま試合で打つことができたら苦労しないのだが、打ち頃のボールをしっかりと外野の深いところまで飛ばせることに海なりに自信をつけていた。

 

前野はずっと『あんなガタイで全力でフルスイングしてないように見えるのが腹が立つ。大体、守備だって飄々としていて、やる気を感じられない』とメディアに漏らし、今度は走塁や守備にまでダメ出しするようになった。

 

打撃と違い、走塁はさほど得意なほうではなかったし、相変わらず捕球まではいいものの、送球の不安定さが治らなかったこともあって、これには海も多少悩んだ。

 

何かと前野が理由をつけて自分を起用しない都合をつけたいように思えたから、出来る範囲で言いがかりに近い文句を払拭しなければ――と思ったものの、自分の大きい身長を気にして、下手に相手の守備を妨害しかねない足から突っ込むスライディングはあまり好きにはなれなかったし、ベース間は海にとってはやはり短すぎるのだ。

 

小回りが利かないというのは、やはり野球にとっては致命的だ。まっすぐ走れる距離がさほどないのだから。

もし、外野を守れたなら、きっともう少しなんとか足を生かせたのだろうけれど、だからといって今から外野の練習をして開幕に間に合うかと言われると、やはりそうもいかない。

なんなら、外野だってしっかり埋まっている今のチーターズのチーム状況において、スーパーサブとして生きるという手は海にとってはやはり悪手に思えた。

無理して自分を見失うようなことをして、それで華耶のように自分を失くしてはいけない――だからこそ、前野には実力で一塁手としての実力を分からせようと海は思った。

 

「――正直、監督の気持ちも分かるんだよ」

打撃コーチの生駒【いこま】は、トスをしながら悩ましい顔でバットを振り続ける海に話しかけた。

 

「うちの今の打線、一発に欠けるだろ。お前みたいにもともと当てるのがうまい奴なんかにはもっと飛距離を伸ばしてもらいたいと思ってるんだ。お前だって、高校の頃は飛距離もガンガン出してたし、あのまんまプロでもやってもらいたいっていうことなんだよ」

「それができたら俺だって苦労しませんよ。正直言って、俺だって外野の頭を越える球打ってるほうが楽しいですからね。でも、ただ力任せに振っただけじゃ、木製バットじゃボールは飛んでくれません。それでも構わないからって、飛距離だけ追求するようなスイングや身体の作り方をしてしまったら、ヒットが一本だけでも出てくれれば、って場面で今度は狙い済ましたようなヒットが打てなくなる。それはそれで、たぶん俺に求めてる姿じゃない、ってなるんでしょう。もちろん、俺だって脚を生かすようなプレーに今から切り替えられるほど短くバットを振ることだって考えてないですし」

「それをもうちょっとオブラートに包んで言ってくれればいいものを」

「オブラートに包むって、何をですか」

「言葉をだよ」

「実態のないものをどうやって包むんですか」

 

海の冗談の通じない言葉に生駒は思わず頬を指でかき、返答に少し時間をかけた。ほんのちょっとしたジョークや言い回しが時折、言葉の壁もあってか海には通じない。

こうした時、海の周囲は言葉に詰まり、海を次第に遠ざける傾向があった。

「あ……えーとだな、遠まわしに言えってことだよ」

「監督【あのハゲ】みたいなやつに遠まわしに言ったら理解してもらえるんですか」

「……もらえない、だろうなあ…………そうだよな……」

 

怒らせたら面倒だから、そっとしておいている――。

海は決して空気を乱したくて発言しているのではない。理不尽に対して素直におかしいと言うから場が乱れるのだ。

それがこの国では空気が読めないという扱いになる。この間の取材だってそうだった。

海は決して、空気を読まない発言をしているつもりはない。今の社会の中で、海の言葉は容赦がなさ過ぎるのだ。

 

生駒だって、海は時折日本語的な慣用句や言い回しが通じないだけで、決して周囲が思っているほど絶望的に空気が読めない人間ではないことは分かっている。前野のようなタイプと絶望的に相性が悪いだけなのだ。

そういうタイプには皆、内心腹を立てながらも、はいはいと流して場をしのごうとする。それができなくてモノに当たる人間だっている。海だってそうして、プライベートの時間には時折隠れてモノに当たっている。

周囲の人間よりも、海はおかしいと思ったことには素直に疑問を浮かべる。日本語の流れ"的な"ものが分からないからこそ起きてしまう現象なのだ。

 

「海。お前、腐るなよ」

「? ……え、俺、そんなに臭いますか」

ふと、生駒が海の肩をぽんと叩いた。海は生駒の言葉に思わず腕を嗅ぎ始めた。

「そういう意味じゃねーよ。ふてくされるなよって言ってるんだ。いつかお前の力を評価する奴が采配を握ったときがお前の勝負だ」

「それまで雇ってもらえてたら、いいですけどね」

「そういうところなんだよ、お前は」

「だって、コーチが俺の進退を握ってくれてるわけじゃあないんでしょう」

痛いところを突かれた生駒は膝から倒れそうになりながら、頭をかいた。面倒くさいな――と内心思っている様子が、海にはよく見えた。

 

「そりゃそうなんだけどさ、こう……あれだよ。お前を見守る者の一人としてだよ。分かるだろ?心配してるんだよ」

「心配してくれてるのは分かりますけど」

「クビを心配する暇があるなら、しっかり結果出せよ。お前、あんな風に言ったからには本当……3割、近いうち打ってもらうからな。ドラフト1位っていう看板だって背負ってるんだから」

「分かってますよ」

守るべきものも増えたからな――と言い掛けた海はあわてて口をつぐみ、腰をひねってストレッチをし始めた。

 

~~~

 

「『よー見とれ監督!これが俺の力や!荒屋、オープン戦7試合打率.482』……か」

オープン戦、しばらく1番センターで起用されていた海は鬱憤を晴らすようによく打った。その報せは新聞を通じて華耶の目にもしっかりと届いていた。

 

メンバーの負傷離脱やら体調不良やらが重なり、経験したことのない外野を海は臨時で守らされることになったりもした。

自慢の脚力を生かしたキャッチを見せた一方、一歩目の判断の遅さだとか、内野とは違う球質の打球が飛んでくることもあって、その捕球の危うさや、ちょっとしたスローイングの不安定さなんかは、あとでオープン戦の映像を見た華耶の目にも明らかだった。

 

足の速さでごまかせているが、打球が放たれた後の一歩目が、華耶からしても明らかに周りより遅れていることが映像からはっきり分かる。きっと、周囲だって気づいているだろう。

自分が守備のリズムを忘れていく様子を思い出すようで華耶は頭を抱えた。

 

打つほうはいいかもしれないが足をなぜ生かそうとしないのか――という評論家やOBたちのコメントも少なくない。

体格が恵まれているのだから、という前提で常に海を見ている。

 

足がものすごく速くても盗塁や走塁が苦手な選手だって世の中には少なくない。期待の大きさがそうさせるのかもしれないけれど、まだせいぜいプロ3年目を迎えようとしている選手に、それも高校時代は特に足を使ったプレーには定評があったわけではなかった人間にトリプルスリーを狙えだの、理想は3割20本40盗塁だのと目標だけ大きく煽るのは酷なものだ。

記事を書く側はそんなこと考えずに大きいことを書いていれば紙面が売れるのだから、楽なものだろうな――と華耶は思った。

 

であれば、新聞を取り扱う仕事なんかもと思ったが――もっと野球に密接な仕事を華耶はしたかった。せっかくスポーツを扱う新聞記者になったのに、突然政治部に回されたり、社説を書けなどと言われて、自分のモチベーションを保てるとはとても思えなかった。

パソコンに届いた一次審査の通知を確認しながら――できれば、自分が本当にしたい仕事が残りますようにと華耶は強く願った。

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