海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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176・月日を後悔だけが流していく

「ちょっと待ってください。今の入ってましたか?」

「入ってたよ」

「冗談きついですよ。ベース、全然かすってませんでしたよ」

「俺にはかすってたように見えたから取ったんだよ。これ以上やったら試合終了どうこう以前に先にお前を退場処分にするけど、こんなつまらないことで退場になりたいか?天才打者佳井とあろうものが」

「まあまあ……」

「……」

海はストライクの判定に納得いかない様子で球審に声をかけ、逆に相手捕手が仲裁に入り――この審判はこういう人間だから、深追いしてはいけない――と海へ若干申し訳なさそうに目配せしてきたが、それでもなお海は球審を睨み続けていた。

 

9回。ツーアウト、ランナーは二塁。カウント、ツーボールツーストライク。海は6点を追いかける絶望的な状況の中、打席に立っていた。

何度も何度も、絶望的な場面を見続けてきたし、そんな状況で打席に立ち続けてきた。これ以上ひどい場面にだって、数え切れないくらい立ち続けた。

3勝3敗で迎えたポストシーズンFinal。互いに勝てばBBLシリーズ進出がかかっているこの試合、どんな手を使ってでも勝たなければならない――海はそんな気持ちでバットを構えていた。

 

外から中に食い込んでくる外角低めいっぱいを狙ったような球だったが、海から見ればその球はストライクゾーンには遠すぎた。

ここはしっかりと一球見送ってフルカウントに持ち込み、自分がタイムリーを打つかもしくは四球で塁に出さえすれば、後ろの重量級打線が全員ホームランを放ちさえすれば同点に追いつける。

願望としては無茶もいいところだが、現状、なりふり構わず長打を狙う打線を組んでいるのだから、こうした試合くらい、そんな派手な逆転劇があったっていいじゃないか――そうだろう――。

海はそう思ってしっかりとそのボールを見送った――つもりだった。

 

そんな思いを打ち砕くようにして、海の真後ろからやけに派手なポーズと奇声に近い大声とともに、見逃し三振を告げる審判の声が聞こえてきた。

海の問いかけに対し睨みつけながら球審は首を振り、自信を持って今のボールはストライクであり、それを見逃したことによって試合が終了した――その判定を覆すつもりはない意思を見せた。

 

「大体、お前だって薄々分かってただろ。今ここでお前が打ったところで試合なんて覆らないってこと」

「それはジャッジには関係ないことでしょう。気分でジャッジなんてしないでくださいよ。選手には明日がかかってるんです」

「とにかく、俺がストライクだと言った以上、ストライクは揺るがない。それだけのことだ」

「そんなこと、認められますか」

「まあまあ……」

 

海が球審に対して抗議し続け、再び相手捕手が仲裁に入る。それを今野は冷めた表情で手招きを始めた。

海は思い出した。こういうとき、この監督は積極的に選手を守るようなことはするタイプの人間ではないということを。

 

「印象悪くなる前に下がったほうが身のためだぞ。こっちだって、こういう試合だし、あんまりお前みたいな選手を退場にして評判悪くしたくないからな。今引き下がってやったら、退場にはしてやらないから」

「……気遣いとしては最悪ですね」

海は毒を吐いてベンチへと下がっていった。内野席からは、今野がなぜ抗議に応じないのか――そんなブーイングが飛んでいたが、今野にも、海にも、それぞれ理由は違えどそれは聞こえていないようだった。

 

終わってみれば、あっけない一年だった。

 

新の件をめぐって慌しい日々が続いていた、たったこの1ヶ月半の間に海は3割5分まで打率を落としていた。夏までは4割をキープし続け、少し調子を落とし始めた後期混合戦の頃も常に打率は3割8分前後で推移し、シーズン規定4割もしっかり捉えていたはずだったが、その調子は尻切れトンボのように落ちたまま戻ることはなかった。

 

序盤固め打ちを続け、夏が始まった時点で20本に乗せていたホームラン。シーズン30本は余裕で達成でき、40本だって夢ではないだろうとも言われていたはずのその一発も、8月の末からのシーズン残り30試合の間にとうとう1本しか打つことができなかった。

夏に入ったあたりからペースを落とし始めてはいたものの、9月の頭、ジェネルとのアベック弾を放ったのを最後に海のバットからは快音がぴたりと――まるで新の件に海が引きずられるようにして、そのカウントは26で止まったまま、電光掲示板の数字が変わることはなかった。

 

シーズン終了間際、ポストシーズンへその調子のピークに合わせるかのように――それはまるで、死に掛けのセミがもがくかのように、最後の10試合で猛打賞を2度記録した海。

その好調を保ったままポストシーズンに突入した海は調子をキープし続け、この日の試合をあわせてポストシーズン1st、そしてFinalあわせて8試合で打率.406、そして1本塁打――大舞台に弱いと言っていた者全てに土下座を要求するかのような暴れっぷりを見せていた。

 

自分の中では、この勢いのまま自分はBBLシリーズも戦い抜くつもりでいた。

自分の中では、チームの雰囲気はよくないなりにそれでも、シリーズ戦へと乗り込んでいけるほどの力はあるものと思っていた。

自分の中では、本当に今年こそ下克上を狙えるくらいのコンディションがそこにあるものだと思っていた――。

 

だからこそ、球審に言われた言葉が、海には深く刺さった。

 

勝てなかった、勝てなかったといつまでも言われる試合や年は大体、そこに自分の不調があった。木村に言わせたらそれは勝手にイメージ作られたものであって、本当は打っている場面のほうが多いらしい。

ではどうだ。自分が確信を覚えるくらいに打ったところで、結局勝てないときは、どれだけ打っても勝てないのだ。野球というものは一人でやっているものではない。普段、海が周りの打者に対して思っていることを、逆に突きつけられたような気になった。

 

どれほど周りが自分ありきだったとしても、それでも、今までは自分さえ打てば試合に勝てるチャンスは絶対にあるものだと思っていた。その考え自体が、周りの打者が何でもかんでも一発を狙って飛距離ばかり求めるそれと、対して差がない――それを認めた瞬間、自分のこれまでの20年は全て無意味だったことを認めることになるから、海はなるべく気持ちを強く保とうと思い続け、ただ、ひたすらに目の前の打席一つ一つに魂をかけ続けてきた。

 

結果として、今日この敗北をもって、去年のようなどんでん返しを起こせたわけでもなく、あとはファン感謝祭かあるいは何かしらの演出をもって、本当に田中がグラウンドから去ることだけが事実として今そこにあった。

 

自分のしてきた"戦争"は、無駄だったのだろうか――。

 

改めて――今まで感じていたものとはまた別の方向からの無力さが海の心に波を打った。積み重ねてきたありとあらゆるものが、砂の城のように崩れ去り、無に帰っていくように感じられた。

 

何かを成し遂げたくて、それでも何も出来ないまま球界を去っていく選手は自分の他にも、こうして無力さだけでなく、今まで積み重ねてきた日々にあまり意味がなかったという事実と向き合いながら去っていくのだろうか――。

 

人間、多少は自分が超えてきた夜が何のハイライトシーンのないまま無駄に終わったということを認めたくないから、何かしら理由をつけて、『学ぶべきものはあった』だとか、『自分のような者を二度と生まないようにしたい』だとか、どうにかしてその日々に意味を持たせようとする。

長く冗長な話にオチがない奴は嫌われる、とはよく言うし、海だって、オチのなく抑揚のない話をダラダラとされるのは、若い頃の田中なんかがまさにそうだったように、確かにイライラするものはあった。

きっと、自分の人生というものをありのままに語るならば、こうした冗長で、見所もなく、そして振り返りたくなるようなオチがついてくるわけでもない話と同じようなものなのだろう。

 

考えれば考えるほど、海は自分が嫌になった。

他人からしてみれば自分の人生には――それこそ、WBCSを二度制覇した部分だとか、シーズン記録を二度打ち立てたことだとか――見所はしっかりとあると言われるだろう。大体、それすらも成し遂げられなかった人間がたくさんいるのだから、自分の人生を卑下したり、自分を過小評価すること自体がありとあらゆる人間に対して失礼だ、と言われることだって理解はしている。

だが、清兵衛との誓いも、田中との誓いもとうとう果たせぬまま、42~43歳をまたぐシーズンも終わってしまった。

 

今年ダメだったものが来年突然よくなるなんてことはありえないことくらい、自分だって長い間野球生活をしてきたから分かる。ほんの数年前移籍してきたばかりだと思っていたあの声のでかかった先発投手だって、とうとう年齢に伴う成績不良などから、先発から降ろされようとしている。

海は一人呆然と、誰もいなくなった横浜ベイスタジアムのベンチで、ずっと遠くを見つめていた。

 

「……お互い、年を取るわけです。今や僕は佳井さんのお嬢さんを送り迎えしてるわけですから」

何年か前に務めていた会社を依願退職し、個人タクシーに鞍替えした四宮は、ここ最近、家からの出入りの都合上その姿を出しづらくなった真結と広乃の送迎を海から頼まれていた。

最近はめっきり髪の毛が白くなった四宮は、相変わらず安定した走りを見せてはいたが、今までは裸眼だったのに去年からは大きな黒ぶちのメガネをかけるようになったあたり、確かな年月の経過を感じさせていた。

 

「最近ね、僕も、そろそろ新しいことに挑戦しなきゃって思ってるんです。個人タクシーに鞍替えしたのは、空いた時間や休日に副業でまたゲームを作ってみようと思って。この仕事も、65で辞めようかなと思ってるんです。僕一人ならともかく、命を預かる仕事ですから、体がどれだけついてきてると思っても、何かあったときに自分の体や自分の衰えが原因でお客様に迷惑なんかかけたら、どうしようもありません。65で辞めて、それからは一人でまた、ゲームに作ることだけ考えて生きようかなと思ってるんです」

「今いくつでしたっけ」

「63です」

「そんなになりましたか」

「ええ、そんなになってしまいました」

四宮はそんなことを言いながら、ジェネルからの呼び出しがあった店へと車を走らせていた。

 

「あんまりこういう事を聞くもんじゃないとは思ってるんですが」

「今更、何聞いたって怒りませんよ」

四宮からの問いに、海は鼻で笑うようにしながらその不安を振り払った。

 

「息子さんの件さえなかったら、4割30本くらいは打てたと思いますか」

「……はい。正直言って。社会の顔もあるし、家族が危険に晒されてるから動かざるを得なかったけど……自分から動いてほしかったですよね、そりゃあ。球界だって、もっと僕にだけ頼らず、僕より先に大々的に動いて欲しかったです。1ヶ月半、ただひたすら忙しいばかりで、野球どころじゃあありませんでした。それがこのザマですよ。忙しさを不調の原因にはしたくないですけど、ぶっちゃけ、不満の一つくらいは言いたくなります」

海は足を組みながら、時折鼻で笑うような声を出して、自虐的に話した。

 

「僕もね、ゲーム会社を辞めるきっかけを作った社員が、名プロデューサーみたいな……そんなにメガヒットを量産してるわけじゃあないんですけどね、実際は。でも、なんか長い間業界で活躍し続ける人、みたいなので雑誌とかで取り上げられるの見てると、今でも当時のことを思い出して、腹が立ちます。お前さえいなければ、僕は今でも……なんて思いますわ。でも、人間、そこから動かないといけないんです。簡単なことじゃないですけどね。いつまでも、あの時こんなことさえなければ……って、立ち止まってたら、人間、本当に何もできなくなってしまいます。立ち止まってしまいたくなるんですけどもね」

「それは、俺なんかじゃなくて、ぜひ俺の息子に言ってやってくださいよ。アイツ、自分の人生がうまくいかないのは全部俺のせいだって思ってるらしいですから」

海は軽く笑いながら、四宮の言葉を軽く流した。

 

「ごめんなさい、先に帰っちゃって」

「別にいいよ」

おでんが食べたかったから――というジェネルの希望で、銀座の個室つきの小さな居酒屋に海は席を下ろした。

「やけに寒くないですか、今年の10月」

「お前が薄着なだけだろ」

「違ーいーまーすーよー」

海はジェネルの胸元の大きく開いたシャツを指差しからかった。ジェネルは頬を膨らませながら海を睨み、言葉を否定した。

 

「夏はめちゃくちゃ暑くて、9月なんてまだ夏じゃん!ってくらい暑くて、これが10月入ったとたんに急激にズドン!ときましたからね。今日だって寒かったですよ、試合中」

「それで4三振したんだ」

「……あんまり言わないでくださいよ、そういうの。私なりに、海さん待ってる間ずっと反省して反省して……落ち込んでたんですから」

海はふと、ジェネルのもとにグラスが二つあることに気がつき――

 

「……で落ち込んでそれでもどうしようもなかったからって、先に飲んだな?」

「ちょっとだけ」

「本当に?」

「本当ですって」

「何飲んだの」

「……を3杯ほど」

「何?何を3杯?」

3杯、という数字が出てきた時点で海はおい、と思わず声を大にしたかったが、まだ酒を飲んだと決まったわけではないから黙っておいた。

 

「……山崎を3杯ほど」

「バカ野郎」

海はジェネルの額を指で小突き、ため息をついた。

 

「お前、俺ん家で泊まる口実に飲んでるとかだったら本当にそのへんの道路に置いていくから」

「見捨てないでくださいよぉ……なんでもしますからぁ……マジで今日ばっかりはほんとに何でもしますからぁ……」

ジェネルは自分なりに落ち込んでいる様子をややオーバーに見せ、テーブルに顔を突っ伏したまま動こうとしなかった。

「じゃあなんだ、脱げって言ったら脱ぐの?」

「脱ぐくらいで気が済むならいくらだって脱いでやりますよー、マジで今日ばっかりはほんと……」

「今脱げって言ってるわけじゃない。やめろお前、出禁になるつもりか」

顔を突っ伏したまま服をゴソゴソとし始めるジェネルを海は静止させ、あたりを見回した。店員も周りの客も幸い誰も聞いていないようだった。

 

「俺だってね、一丁前に落ち込みたい気分でここに来たってのに、お前、俺が飲む前からそんなんでさ。誰が俺の言葉を聞いてくれるんだよ。誰が俺の思いの丈を受け止めてくれるんだよ」

「……だから、私が身体で受け止めてあげますってば。華耶さんみたいに」

「それはお前が抱かれたいだけだろうが。違うんだよ、そういうのじゃないんだよ。俺は……」

「思いの丈を受け止めてって言ってるのに、私のことは一丁前に壊せないんですか。……臆病者」

「おく――っ、お前なあ。なんかこう……違うだろ。お前も成長しないな、そこだけはほんとに。なんかこう……さあ、今日の試合はどうだった、みたいなのをさ、なんか……話してどうにかならないことだけ降り積もって、気づいたら朝になってるくらいまで飲んでるみたいなこう……」

突然とんでもないことを言い出すジェネルに思わず海はうろたえながら、自分だって本当は不満を漏らしたい気持ちをこらえてジェネルを一旦なだめようとしたのだが、突然ガッ、と顔を上げてジェネルは海を涙目で見つめた。

 

「じゃあ、本当はそんなにショックじゃないってことじゃないですかー。自制心が働いてる程度のダメージって、案外そこまでダメージじゃないことくらい、海さんだって分かってるはずです。私、今年こそは本当に海さんの役に立てるって思ってました。シーズン中ずっと調子がよかったから、なおさらです。海さんと私さえ頑張って打ってれば、きっと今日の試合だってもうちょっとどうにかなったはずなんです。それくらい、今年は手ごたえがありましたから。一年通して。でも、最後は海さんに恥までかかせてしまいました。あれは……あんなんは、私が4三振なんかしなければ、ああはならなかったはずなんです。こんな大事な試合で海さんの役に立てなくて、私なんて、身体くらいしか役に立てないんですどうせ。でも、身体ですら役に立たせてもらえないんです。海さんは既婚者だから。華耶さんは別にいい、って言ってるのに」

「だからお前、その身体がどうとかいう言い方をやめろって……」

海は髪をかきむしりながら、なかなかお通しが運ばれてこないことにやきもきした。

 

ジェネルの放った『自制心が働いてる程度のダメージなんかダメージではない』という言葉が、ずっと喉にひっかかって、痛かった。

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