〈――それでは、残念ながら入院中のため今日は来られなかった田中楓斗選手からのメッセージです!皆さん、バックスクリーンをご注目ください!〉
〈えー……皆さん、どうもこんにちは。25年間お世話になりました、田中楓斗です。いまいち下の名前が定着する前に皆から田中、田中って言われてしまって、少しでも目立とうと金髪なんかにもしてみたり、登録名もわざわざフルネームで田中楓斗ってやってみたんですけど……自分ではまあまあ似合ってるつもりではいたんですけど……なんか、ご好評いただけませんでした。多分うちには他にもう素で金髪の佳井さんがいるからだと思うんですけど……〉
バックスクリーンに映し出された田中の姿。肩にギプスなどをはめてないあたり、おそらく手術の前に撮影されたものなのだろう。ユニフォーム姿に身を包み、相変わらず冴えない、パっとしない顔で、なんとなくフワフワしたまま、本題になかなか入れないトークが続く。
海は椅子に座りながら、田中の挨拶を半笑いで見続けていた。
田中なりに、最後まで自分らしくいようと思ったのだろう。自分の前ではもう少しまともな会話ができるようになったはずなのに、あえて田中は『自分にはこういう場はふさわしくない』といったような態度を会話下手で表現したのだ――と海は好意的に思うことにした。
バックスクリーンに映された田中のトークも、編集で面白おかしく編集で早回しされ、その後は田中の軽めの挨拶が流し出された。
〈――ひょんなことから1年だけ延長して投げさせていただいて、シーズン中盤からは僕の希望を受け入れてくれて、先発にも戻らせていただきました。……結果的に、皆さんの期待に添えられるような投球もできませんでしたし、きっと、皆さんからしてみたら、僕の投球はこれまでもずっと、周りの投手と比べると地味だったかもしれません。勝てそうで勝てなかったあの日も、僕の不注意で勝ちを落としたあの日も……肝心な場面で肩を壊したあの日も、ありとあらゆる時の流れの中で、田中楓斗という、なかなか顔を覚えてもらえない投手が、25年にわたって皆さんの茶の間にその名前を届けてしまってたかと思います。その度に、『ああ、今日もチーターズダメそうだな……』ってハラハラさせてしまったり、『もっと球の速いエースがいたらなあ』なんて愚痴りながら、僕のみっともない顔に文句言ったりした日々が、きっとあったと思います。……そんな日々があったということ……そして、そこに田中楓斗という冴えないエースがいたことだけ、どうか、しばらくの間、忘れないでください。そして……こんな大事な日に皆さんの前で、最後の一球すらも投げられずにいたこと……本当に、申し訳ありません。これからも、僕のいなくなったチーターズを応援して……どうか、派手な勝利を呼び込めるチームに、皆さんの力で導いてください。お願いします〉
田中は最後、なんとか振り絞るようなぎこちない笑みを浮かべながら、似合ってもいないダブルピースで手を振ってその動画の幕を閉ざした。
肩の治療に時間がかかるということ、そして、また引退試合のためにマウンドに戻ったら今度は独立リーグなんて視野に入れてなんて諦めの悪さが出てしまいそうだから――と田中は引退試合を拒んだ。
本当はそれだけではなく、結局、自分の力では一度も日本一に導くことができなかったこと――。チームは数年前、30幾年ぶりに優勝こそ果たしたが、日本一という視点で見ると、かれこれ60年以上日本一にはなっていない。優勝の立役者の一員にはなれたのかもしれないが、何度も惜しいところまでいって最後の一歩が届かなかった自分が、引退試合など――。田中はそんな気持ちでいたことを、海は知っていた。
清兵衛が引退するどうかくらいの頃だろうか、当時のエースが『自分はこれまでこのチームで投げ続けてきたのだから、自分に引退試合をさせて欲しい』とせがんだことがあった。自分たちが引退するときには自分から引退試合の話をしなくてもチームのほうから言ってもらえる立場にいたいものだ――と話したものだった。結局、あれから優勝こそは一度あったものの、とうとう日本一には一度もなれなかった。田中はきっと、そんな理由でもつけて断ったのだろう。
だからこそ、きっと、全てを成し遂げて引退するであろう自分の引退試合には、自分を呼んでほしい――とも田中は言っていた。きっと、自分にできなかった最後の一歩を、海ならば最後の最後に成し遂げてくれるはず――と、田中は海に、キャリアの最晩年を託した。
海は田中に「そんな都合のいいドラマなんて、いまどき漫画でもそうそうない」と言って、鼻で笑った。
笑うしかなかった。
田中もきっと分かってはいたはずなのだ。
そんな日は、決して来ないということを――。
「いやー、ひどいね」
華耶は笑い声を上げながら新聞を折りたたみ、ため息をついた。笑い飛ばさなければやっていられない、という表情と、ため息でもついてなければやっていられない、という表情とが混ざった、なんとも複雑な渋い表情を浮かべながら、新聞を折りたたんだ。
『黄金期にタダ乗りさせてもらえて嬉しいです。前いたとこは弱いチームでしたけど、移籍してきてからずっとチーターズは強いままなんでこのままずっとここにいようと思ってます』
「……ってこないだファン感で言ってた選手じゃんこれー!よりによってなんでバトシなんかにさあ!?」
華耶はわざとらしい口調でモノマネをしてみせ、ソファにガタン!と大きく背を倒した。
「そりゃ、バトシはうちらよりずっと強いから、『黄金期にタダ乗り』できるじゃないか。2年2億2千万?多分、契約内容云々よりも、うちらよりも楽して黄金期にいられるところに居たかったんじゃないの。弱いチームでプレーしてると自分のブランディングに支障が出るから、みたいなやつなんだろ」
「なんでそう冷静でいられるのさ、海くんは」
「皆、あんな監督のもとじゃ命を賭けられないって思ってるんだよ。どいつもこいつも、今までチームを出て行く奴はそうだった」
海はスポーツ新聞で偉そうな内容のコラムを書いている、もともとチーターズに所属していたはずだが元チーターズとは一言も書かれておらず、移籍先のチームを肩書きにしている同僚を指で突き刺すようにしてトントンと強めにつついてみせた。
華耶は海が冗談ではなく、今でもそれなりにそうした選手のことをよく思っていないことを肌で感じ取り、一旦からかうのをやめた。
「それでもまだ残ってる奴らは大体、大阪府内にデカい新居建てちまったから出て行きたくてもローンの都合上出て行けない奴らか、他に使ってくれそうなチームがないからって分かってる奴か、粉ものが好きで好きでたまらない奴か、単に黄色が好きな奴かのどれかだよ。あれほどやめてくれって言ってるのに、球場からの罵詈雑言だとかもなかなかなくならないどころか、最近は『逮捕できるもんならやってみろ』みたいな気でいるみたいで、逆に野次が増え始めてる、そのたびに出禁になる奴が出てきては、また新たな奴が野次やら暴力沙汰やらで出禁になる。そういう、自分の命の危険を感じてチームから出て行く奴だっているだろうしね。人が変わらなきゃ、一生、こんなチームはこのままだ。それでちょっと優勝してみたら、皆一瞬だけ全部忘れて、半年もしたらまた悪い意味で元通りだ。何年か前に一度は優勝したことなんて、もう皆忘れてしまってるようにね」
冷めたような口調で海は天井を見つめた。
「お前だって知ってるだろ。これが、俺には25年繰り返されてきたんだ。これじゃ一生勝てないよ。俺の同期でレギュラー争いしてた内野が、俺含めてほぼ全員FA権を使って、それで俺以外が全員FAで移籍していったことだってあった。あの時も、監督についていけないとか、キレてばかりの監督を見返したいからとか、チームの空気がよくないから、っていう理由ばかりだった。他球団の評価を聞きたいなんて便利な言葉使ってるけどさ……所詮、そんなもんだよ。それにさ、いなくなるのは選手だけじゃないよ」
海はおそらく華耶が見落としたであろう、コーチの異動についての記事を指差す。
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海は小室に突然呼び出され、指定された府内の公園へと足を運んでいた。
11月下旬の空は、まるで自分の今後の人生を占っているかのように、どんよりとして、灰色だ。どんよりとしているはずなのに、どこまでも透き通った灰色で、色使いにはメリハリがなく、単調な色使いだ。
せめてその色に濃淡さえあれば、淀んでいて、嵐を感じさせるような胸騒ぎさえ起こしてくれるのだろうけれど、どこを見渡してもペンキをひっくりかえしたような真灰色だ。
ウンザリする空の色に海は真っ黒なジャケットを震わせ、ポケットに手を突っ込んだ。しばらくして、駐車場にこちらへと向かってきながらパッシングする、二人乗りの丸みを帯びたフォルムの高級車・ペッシェル993が見えた。小室が長年乗っている愛車だ。手入れのされた深緑のボディが周りの退廃した色の風景からとても浮いて見えた。
「呼び出して申し訳ありませんねぇ、佳井くん」
「なんですか、どうしても会いたい用事がある、って」
「まあ、とりあえず乗ってください」
「男とデートする趣味はないんですけどね」
「僕もですよ」
海は少し窮屈そうにしながら車に乗り込んだ。近くで見るとよくも小室はこんな車を乗り回しているものだ――と思うような見た目以上の大きさを持つボディだ。海はなるべく荒っぽくならないような乗り方をした。
「君には、謝らないといけないことがあります」
「なんです」
「僕は今年でクビです。それも、大分前から決まっていました」
「クビって。なんでまた」
「君を賭けの材料に使ってしまったんですよ、僕は」
「賭け?」
話がつながらないじゃないか――と海は思いながら、高速道路へと向かっていくコーチの車から窓の外の景色を眺めていた。
空も、ビルも、見渡す限り、どこもかしこも灰色だ。自分の今後さえも――。
「ええ。君を今季3番で起用すべきと提言したのは、僕です。監督は本来、君をもっと下で打たせたかったんですよ。半ば、見せしめのために」
「見せしめ」
「ええ。佳井くん――君がもう終わってしまった選手であることを証明し、君をスタメンから引き摺り下ろし、君ありきの打線――そしてファンそのものの、君ありきという意識を入れ替えるために」
「ずいぶんな言いようですね」
「分かっていたのではないですか?自分がそういう扱いを受けていることは」
「……反発したんですか、監督に」
海は小室の問いには答えず、本題に話を強引に戻した。
「日本一にでもなれたら自分が間違っていたことを認めるつもりとも言ってましたが……結果、僕がチームから出て行かなければならなくなりました。監督の意にそぐわなかっただけでなく、結果的に采配に口を出したのに日本一にも、首位にもなれなかったことの責任を取ってもらう、と」
海は思わず鼻から噴出すような笑い声を出し、気の抜けたような笑い声を上げた。とても馬鹿馬鹿しくて、自分の中の常識が間違っているのではないかという気にすらなった。
「2位で引責辞任するコーチなんて、聞いたことがないですよ」
「そうでもしなければチームは一生2位のままだと監督は思ってるそうです。いかんせん、僕は長いことこのチームに居続けました。毎年のようにスカイクロウズ、そして今度はバトルシップスに独走を許し、我々は一度も独走態勢に入れないまま何度も何度もその世代交代に中途半端に成功し、中途半端に失敗した――だから、一度このチームを壊さなければならない、ということだそうです。そして、派手に壊せない理由が、佳井くん――君にある、と監督は思ってるんですよ。ですから、その外堀を埋めていくために、先に僕を追放するんですよ」
「ひどいもんですね。コーチにしてみたらそんなの、八つ当たりじゃないですか」
「ええ、まったくです」
淡々と話し続ける小室。淡々とした声色と表情だが、なるべく平静を装おうとしている様子が見て取れ、ギアボックスにかけた手は時折わなわなと震えていた。決して、レースのベース車両にもたびたび使われていたほどのハイパワーである933による揺れではない。手に浮かんだ血管が、なるべく感情を顔には出すまいとしたコーチの配慮を思わせた。
「君を――君の尊厳と、これまで積み重ねてきたものを守るために、僕なりに頑張ったつもりです。君はこれまで、よくやりました。僕も、まさか君がシーズン中盤までかけて、あれほど輝きを取り戻すとは、僕は思ってもみませんでした。本当に……今年は何か一波乱あるかもしれない――と、僕は年甲斐もなく心踊ったりもしました」
「でも、不甲斐なく俺は夏から調子を崩してしまい、このザマです。期待に添えられなかった、俺の責任です」
「ええ……ですが、僕もまた、君を守ることができませんでした。申し訳ない。僕が首を切られてしまった以上、来年はきっと、君にも監督は手をかけることでしょう」
「……今こそFA権を使うべきだ、とでも言いたいんですか」
「えぇ。ですがきっと……使わないでしょうね」
小室の問いに、海は黙った。使えるものなら、今すぐにでも使いたいのだ。逃げ出せるなら、この戦いを自分から終えるには、今しかないのだ。
それでも、今から何かをするには自分は歳を取りすぎたし、立場が高くなりすぎた。
そんなこと、できるわけがないのだ――。
「……今更、使えませんよ。ここで勝ち取らなきゃ、意味がないんですよ。どうせ晩年を汚すなら、最後まで戦い抜いて汚したいです」
「ですが、あの監督では、汚させてもくれないかもしれないんですよ。君、分かってるんですか。今こそ、自分のために生きるつもりなら、泥を被ってでも――」
「……それで、バトシにでも移籍できたら、俺、どうなるんです?ワイベあたりにでも移籍したら、どうなるんです?……全国民からの笑いものですよ。『ああ、結局佳井も、弱いとこじゃやりたくないんだな』って思われて、終わりです。あまりに俺は、人々の期待を背負いすぎました。……最後までこの荷物を背負って死ななきゃいけない立場の人間なんですよ、俺は。もう、自分の意思で下ろせる荷物じゃなくなってしまったんです。人の期待っていうのは、そういうものです。勝手に付きまとってきて、勝手に錘【おもり】になっていくんです」
海は思わず語気を強め、回転数を上げるエンジンに呼応するかのように思わず喉に力を入れて声を出してしまい、最後はしぼむような声でつぶやいた。
「……きっと、そうさせてしまったのは僕の責任でもあるのでしょうね」
「そんなこと、ないですよ。初めてFA権を行使したときに俺に声がかからなかった――あのとき、俺の人生はもう決まっていたようなもんです。あとはそこから俺が、自分の力で自分の運命の扉をちゃんと開けられずに、とうとう扉を開けるだけの力を衰えてなくしてしまっただけのことです」
「……申し訳ない。きっと、心の中で僕も、君を、チームの核だと信頼しきっていたんでしょうね。いつまでもいてくれるものだ、と。せめて僕だけでも、君のキャリアに寄り添えればよかったものを」
「コーチがどれだけ俺にアドバイスしてくれてもきっと俺は……ここで戦うことを選んでたと思いますよ。コーチのせいじゃないです。正直言って」
「……申し訳ない」
小室は何度もそうつぶやき、阪神高速の環状線を快調に飛ばし続けた。
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「小室コーチも、うちをクビになってバトシの一軍守備コーチに異動になった」
「えっ、はぁ!?く、クビ!?いや、でも報道じゃそんなことは……」
「それは華耶たちが耳にした報道レベルの話。実際は……まあ、うん、色々あったんだよ。そういう意味では、一身上の都合ではあるけど」
「公にできない何かがあったってわけ」
「まあ、なんとかして情報をつかもうとするメディアはいるだろうけど」
海は華耶の光らせた目線を受け流すように、冷めた口調で返した。
「でも、バトシか。よりによって、バトシなんだな。……きっと、最初から辞めるつもりでいて、うまいことやりくりしてたんだろうな。きっとバトシは、この先もしばらく安泰だろうな」
海はため息をつき、目を細めた。
「俺、多分さ、干される。小室コーチの件には、俺が絡んでる。俺を擁護したコーチが干されたってことは、俺はいよいよ、やばいと思う。開幕即二軍のまま上がれないなんてことだって、あるかもしれない」
「やばいって何よ。皆が納得できる理由もなく.350打った人間をいきなり干したりなんかしたら、それこそ新の比じゃないくらい世間から叩かれたり――」
「そこだよ。新の件があるから、今、世の中は誹謗中傷にデリケートだ。監督がなんかひたすらやばいことをしても、監督が『それは誹謗中傷だ』って言ったら、うかつに世間は文句を言えなくなる。ある意味、監督が思い切ったことをするには、今ちょうどよすぎるんだよ」
海は華耶の言葉を遮りながら、相変わらず冷めた口調でつぶやいた。華耶もはっとした表情で海の言葉を受け取り、不安そうな表情を浮かべた。
やばい、と簡単に言った海だったが、華耶もその言葉の裏に隠れている意味一つ一つを理解しているからこそ、顔を青白くした。
「……ひどくない?そんな話。ここまで必死に頑張ってきてさ」
「それは、俺や華耶の主観だよ。監督からしてみたら、俺は頑張ってないんだろう。そう思われてしまってるなら、仕方がない」
「でもそれは、監督の主観じゃない」
「所詮、チームを率いるのは監督だからね。監督の主観に俺がいないなら、仕方がない」
「よくない。……よくないよ、そんなの。……よくないよ」
「俺だってこのままで終わっていいとは思ってないよ。……終わらせられるかよ、このまま」
海はもう一度手に取った新聞をぐしゃりと右手で握り潰してしまい、肩を震わせた。震わせたところで、この後自分に待っているであろう運命を変えることが容易でないことも、震わせたら運命が変わるとも思っていなかった。
結局、人間ひとりひとりの怒りだとか闘争心なんてものは、たいしたエネルギーなんかにはならないのだ――と思いながら、海はその握り締めた新聞を手から離し、一度両膝を手のひらで叩いたあと、黙り込んでしまった。