海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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179・月日が変えたもう一つの物語

「――今季から選手兼任打撃コーチになった佳井海です。まだまだ選手として後任に簡単に道を譲るつもりもありませんが、何か僕から吸収できるようなもの、何か僕から盗めそうな技術があると思ったならば、気軽に話しかけてほしいと思います。よろしくお願いします」

 

「――ヘビーガンFCから1年レンタルで移籍してきた佳井新です。限られた時間の中で自分のサッカーとは何かを表現し、高められたらと思います。よろしくお願いします」

 

それぞれの大事な1年が始まった。

 

はじめ、新は別にアパートを借りるつもりでいたのだが、華耶に説得され、世田谷の新居に住むことになった。

最近は誹謗中傷問題も沈静化し、未だに一定数居た新居の住所を特定して家の周りをうろうろしたり、家に危害を加えようとする者はおおよそ逮捕されたことや、騒ぎが沈静化してからも周囲に警備体制が敷かれ続けているもあって、日常は大分落ち着きを取り戻していた。

 

だが、新が日本に来るとなるとまた騒ぎがぶり返す恐れもあったことから、また関係のない世田谷の新居を狙われるよりであれば、いっそ女しか住んでいない世田谷の新居に新を責任を取ってもらう形で住んでもらって、関係のない真結や広乃、そして晴留に危害が及ばないように新自らも有事の際にはボディガードになってほしい――という狙いがそこにはあった。

 

ただ、もうひとつ華耶の狙いとしてあったのは、晴留や真結、広乃が新に対して内心あまりいい感情を抱いていないのもそう――逆に新も、三人のことを内心見下しているのもそう――。

どうせ一年家にいるのであれば、歳の近いきょうだい同士、一緒に住んで喧嘩するだけ喧嘩をして、その中でわだかまりをなくしたい、というものもあった。

 

海からしてみればそれは理想論であり、その賭けにはあまり賛成できなかったのだが、華耶としてもそうでもしないと新は一生誰とも打ち解けようとしないだろう――そう思っていたからこそ、皆を同時に住まわせる必要があると思った。

そのため、説得、とは表向きで、半ば強引に住まわせた――というのが正しい。

 

はぁ、と海はため息をついてあたりを見回した。相変わらず、ジェネルくらいしか自分についてくる者はいないことも分かっていたし、そのジェネルはキャンプインのこの日、体調不良で練習から外れていた。

 

くすくす、と、あまり気味のよくない笑い声がひそひそと聞こえてくる。中堅どころや若手が、かつて自分が日本に来たばかりのときの、嫌な感じの好奇心を向けてこちらを見てきた。

 

「ねぇコーチ。俺にもどうやったら4割打てるか教えてくださいよォ。俺達の中から4割打てるようになるやつが現れるようになるためにコーチやってんですよね。ねえ?コーチ」

「おい、やめろって。佳井さん、まだ現役辞めたわけじゃないんだから。あっ、佳井さん、って言うのもそれはそれで肩書き持ちには悪いですかね?佳井コーチ」

 

たまにテレビで見かける、ノリが薄ら寒い売れないローカルレベルのお笑いコンビのような動きで二人が自分の周りをうろうろと歩いた。海からしてみればそれが誰だったか分からないほど興味もない選手だったから、じろりとした表情で二人を眺めるに過ぎなかった。

 

「あまり俺は関心しないですね、そういうの」

大柄な黒い長髪をなびかせた男が、二人の後ろにどんと現れた。背は海よりもわずかに低いくらいだが、広くがっちりした肩幅に、均整の取れた筋肉質な体が、決していかついわけではない顔つきを異様に威圧感あるものにさせていた。

 

必要最低限の筋肉をもって器用に、身軽に、そして球の勢いに逆らわずに打つタイプの海とは正反対の打撃スタイルを持っていることが一目で分かる、そんな姿がまさに海の目の前に現れた。海にはあまり馴染みのない姿――確か、トレード組だっただろうか。名前がいまいち思い出せない。

男は海を見ているというよりは、海をからかいにきた二人を見下ろすようにして真顔で見つめていて、振り返った二人は睨み返しながらじっとその威圧感に逆らっていて、昔流行った格闘漫画のワンシーンのようだった。

 

「これはこれは」

「エンペラーズの正捕手争いから脱落して都落ちしてきた、鳴り物入りのモサドくん」

「朝土【あさど】です。朝土真悟【あさど・しんご】。あんまり面白くないですよ、そのギャグ」

「うるせぇな。そのモサいロン毛がどうにかならない以上、お前はモサドなんだよ!」

「そのギャグ、あんまり日本以外じゃ言わないほうがいいですよ」

「うるっせェ!大体、てめーの苗字も似たようなもんだろうがよォ!」

「人の苗字をからかうなって話してるんですよ。分からないようなら俺もそれなりの手段を使いますけど」

「なんだよ、体格差でなんとかしようってのかよ!卑怯者が!」

真悟は汚物を見るような目で睨みつけると、まさに逃げ惑うザコそのものの表情で二人がその場から去っていった。

そんな二人をしばらく眺めていた真悟は吐き捨てるようなため息とともにケッ、と口から邪気を投げ捨て、そして海に対しては少し困ったような表情で、どうにも話しづらそうな様子で海をちらりと見つめ、申し訳なさそうに話しかけた。

 

「……俺も、気になってたんですよ」

「何が?」

「佳井さんのこと、さん付けで呼んだらいいのか、コーチって呼んだらいいのか」

「俺は……まだコーチって呼ばれたくないと正直言って思ってる」

「じゃあ、佳井さんで構いませんね?」

「そうしてくれると、ありがたいかな」

海はそう言いながら、まだ慣れない『コーチ』という呼び名と、その役職――そして、とりあえずコーチという役職がついているだけで、実際のところどうしろ、ああしろ、ともまったく今野らから言われていないその状況に戸惑っていた。

今野に少し尋ねても『そりゃあ君、コーチはコーチだよ。君が見てきたコーチをすればいい』としか言われないのだから、どうしようもない。まして自分の他にも生駒という打撃コーチはいるのだから、下手に口出しするのもそれはそれで生駒や二軍のコーチたちに悪いし、動きづらくて仕方がなかった。

 

「そうだ、俺のことは――」

「分かってる。俺はあんな悪趣味な呼び方しないよ」

「ならよかったです」

思い出したようにして後ろを振り返り、先ほどの二人組がふざけた動きでキャッチボールをしているのを眺めながら、真悟は自分の名をはっきりと覚えてもらえていることに心底安心したような表情を浮かべた。

 

「……」

思わず鼻で笑ってしまうようなパスの弱弱しさと雑さ。そして、妙に当たりだけが乱暴で、そのくせボールは奪えないディフェンス。動きのスピード感のなさに、真剣みのなさ――。

新は練習の光景を見て、思わずため息をついた。

 

「よォ、鳴り物入り。よくお前、日本なんかに来ようと思ったな」

無理矢理染めたようなオレンジ色のけばけばしいケミカルな色合いに、あまり似合ってない無精ひげ、そして腕にびっしりと描かれたタトゥー。

 

 疾風怒濤

 

 唯我独尊

 

という、左右にそれぞれ刻まれた文字が、いやに自己主張するようにして腕から覗いている。

 

「内心、お前みたいな奴を潰したくてウズウズしてる奴で溢れてるぞォ、日本は。クソ生意気なガキがノコノコ来やがってよってよ」

「あんたもそのクチなのか」

「さァね」

 

鼻で笑ったような男の声からふと漏れたのは、タバコの香りだった。

プロ意識が低いなんてもんじゃない――新は思わず毒づかずにはいられなかった。

 

「こんな弱小チームで代表にも声がかからないまま、年齢だけ積み重ねて、それで見た目だけイキり散らして年下をいびって、恥ずかしくないのか、あんた」

「あァ?」

新に詰め寄るオレンジ色の髪の男。背は170と少しくらいなものだから、どうしても新を見上げるような形になる。

 

「残念だったね。背でも俺に勝てなくて、今あんたが俺に勝ってるのは、その無駄に積み重ねた年齢くらいか」

新がそう笑うと、オレンジ色の髪の男は顔を真っ赤にしながら練習着をつかんだ。

 

「お前、二度とサッカーできねェような体にしてやろうか、この一年かけてよォ。不慮の事故って言ったら、世の中大体のことはカタがつくんだからよ」

「あーあー、何やってーんだか、もーう」

そこに割り込んだのは、よく言うところのボブヘアー、悪く言うと坊ちゃん刈りの――30後半にしては童顔だが、20代にしては少し髪型のセンスが古すぎるような――なんとも時代のギャップが外見ににじみ出た男だった。

 

男は少し間延びした声を出しながら、金髪の男と新との間に割り込んだ。

「ねーえー、瀬戸くーん。君はさーあ、そーうやってすーぐ熱くなるから去年だけで3枚レッドカード出されてるわけでしょーう。横浜フューサラーズをクビになった理由、忘れちゃったわーけー?」

「……」

瀬戸、と言われたオレンジ色の髪の男は唇を噛みながら顔を伏せ、妙な間延びかたをする男に説得される形で練習へと戻っていった。

 

「で?ゴールデンルーキーくーん?君は君で、なーんか練習、イマイチ乗り気じゃないみたいねーえ」

「……」

独特な間延びにどう反応していいのか、新は迷った。乗り気ではないことは確かなのだけれど、この手の波長が分かりづらいタイプにどう接していいのか――新は思考を張り巡らせた。

 

「まー、しゃーないっちゃー、しゃーないのーよねえ。埼玉のチームっていったら、みーんなガーネッツのほう行っちゃうかーらねーえ。僕ら、最近はちょーっとよくない低迷の仕方してるしねーえ。前のワールドカップだって、うちらからはだーれもメンバー入りどころか、補欠入りすらもでーきなかったしねーえ。僕が燃え尽き症候群なーんてかかってなけりゃーねーえ、よかったんだけどねーえ……。一応、前の前の大会じゃーねーえ、10番背負ってたんだよ、これでもね、僕。エヘヘッ」

「前の前……10番……えっ、ひょっとして……鳥居選手……ですか?」

「ウェッ!?あー、そうそう。僕ね、鳥居って言います。あー、嬉しいなーあ。ゴールデンルーキーくん、僕のこと、ちゃんと知ってたかー、嬉しーいなーあ」

 

知ってるも何も――

 

そんな言葉を思わず口走りそうになりながら――それでも、本当に目の前にいる男が本当に本人なのかどうか信じられない様子で、新は鳥居を見つめていた。

 

昔はツンと立てたヘアスタイルをしていたし、もっと表情が鋭くギラついていたから、新はそれが鳥居和幸【とりい・かずゆき】――新が幼かった頃憧れていた、地元のサッカーチームであるヴァリエ大阪のエースストライカーだったその男だとはとても思えなかった。

まして、ヴァリエ大阪から移籍し、イタリアの強豪・ロッソネリへと移籍し、当時全盛期を迎えていた、世界一のエースストライカーと言われていた選手としのぎを削りながら2度も得点王争いをした男が、この目の前のやや冴えない男と同一人物だとは、なかなか頭が理解してくれなかった。

 

「まー、とーりあえずさー、軽く1対1でもしながらさー、世間話でもしよーよ。あんなことあーったばっかりでさーあ、あの怖ーい人たちの群れに入るの、君、ちょーっとやーでしょ」

「……ええ、まあ」

鳥居が目をやった先にいる瀬戸たちのパス回し。今しがた瀬戸と衝突があったばかりでその中に飛び込もうものなら何をされるかわからないし、鳥居もそれは分かっているようだったから、新にニヤニヤと表情を崩しながら新に距離を詰め寄った。

 

近くで見つめてもなお、鳥居の姿は自分が憧れた男とはややイメージがずれていた。燃え尽き症候群にかかった、というのがどれほど鳥居のメンタルを壊したのか分からないが、自分があれから背がぐんぐんと伸びてしまったからなのか、鳥居を月日が変えてしまったのか――やはり、鳥居をまだ鳥居とは信じきれない自分がそこにはいた。

 

「あ、そーだ。僕、ユキちゃんって呼んでくれていーから。鳥居さんって言われるの、なーんかさ、硬くて、やーなの。エフフッ。ユキちゃんでも、ユっちゃんでも、カっちゃんでも、トリちゃんでも、なーんでも好きに呼んでくれていーから。あんまりさー、昔は凄かったからー、みたいなのでさーあ、勝手に僕と距離感作られるの、嫌なのよねーえ、エフフッ」

妙な笑い声を挙げた鳥居に馴れ馴れしく肩を叩かれながら、新は練習場の隅へと連れて行かれた。

 

幼少期の頃、自分は握手だけでなく、この男から直にサインだってもらったことがあった。本人はきっと覚えてないだろうけれど、こんな形で幼少期に部屋に飾っていたポスターの選手と再会するとは思ってなかった新は、なんとも言葉にしがたいモヤモヤする感情をずっと抱きながら歩き続けた。

 

「――それにしても」

他に練習を付き合ってくれる者がいないのはジェネルのいない海も、そして移籍してきたばかりの真悟も同じで、海は真悟の足をがっちりと押さえながら腹筋の補助に回っていた。

 

「地味に怖い話ですよね。佳井さんが俺くらいの歳の頃にはもう子供がいて、そして、その子供がサッカー界でプレーしている。しかも、日本代表で、ついこないだまではイギリスの名門でプレーしてたんですよね」

あまりその話を掘り下げてはほしくなかったが、海は黙って真悟の話を聞いていた。

「まあ、そうだね。いくつだったっけ、お前」

「今23です。5月で24になります。こどもの日なんですよ、誕生日」

「へぇ」

海はあまり誕生日そのものには興味なさそうな返事をしたものの、次にやってきたのは『同年代とはいっても、新とは歳が3つ4つ離れてるじゃないか――』という感情だった。

 

「俺と一緒に野球やってる先輩に、俺と同じくらいの歳の子供がいて、俺よりもずっとしっかりした世界で既に世界に名を轟かせている……ちょっと、妬いちゃいますね。俺、何してるんだろうって、悔しくもなりますよ」

「住んでる世界が違うんだから、比べたってしょうがないだろ」

海は真悟の問いに、さも当たり前のようにぴくりとも表情を変えずにつぶやいた。

 

「それはそうでしょうけど。同じくらいの歳って考えたら、意識しちゃうもんですよ。最年少記録だとか、なんだとか。かたや俺は、まだろくにレギュラーにもなれずにいます。意識しないほうがおかしいでしょう。佳井さんは、同い年の例えば……別のスポーツ選手だとかそういうの、あんまり意識しなかったんですか」

「何度かテレビで対談したこともあるけど、別になんとも思わなかったよ。ああ、すごいな、って感情がちょっとそこにあっただけで、向こうの大変さは俺には全ては分からないように、相手からしても、俺の大変さというものはきっと全ては分かってないと思うし。だからか、テレビとか雑誌とか、ネット記事とかでちょっと対談があって、それっきり。俺も、別に喋りがうまいほうではないからね」

「そうですか。じゃあ、きっと歳が近い他のチームの選手なんかも、大して興味がなかったんでしょうね」

「……まあ、そうだけど」

突然知ったような口を利きはじめた真悟に海はなかなかこいつも図太い神経をしているな――と思いながらカウンターをカチカチと押し続けた。

少し荒い息を吐きながらペースを上げ始めた真悟は、苦痛に顔を歪めた。まだ若いというのに、自分なりに後がない立場だと思っているのだろう。ひっそりと手を抜く者もいないわけではないこうした運動に真悟は手を抜こうとはしなかった。

 

「……まあ、でも正直思わないでもないよ」

「?」

真悟は海の言葉に一瞬動きを止めかけたが、海が人差し指をくいくいと動かし、いいから動け、とサインを出した。

真悟はそれを察したようにしてふたたびペースを上げて腹筋を続ける。

 

「髪質も、ガタイも違うけど、背と髪のボリュームだけ見たら、俺の息子はお前に似てる部分はある。お前みたいな、もうちょっとまっすぐな奴だったらな、とは思うよ」

「俺が?まっすぐ?別に普通じゃないですか?このくらいは。過大評価ですよ」

「そのくらいもできない奴が世の中にはたくさんいるだろ。俺の息子が普段どんな風にチームでいるか分からないけどさ。ナメた口調でチームメイトなんかと衝突してないといいなと思うよ。お前みたいなのはきっと、上なんかとは衝突しないんだろうなとも思うしね」

「買いかぶりすぎですよ。俺だって気は短いほうですし、文句のひとつやふたつくらいは言います。現に、トレード志願したのは俺からですし、前いたチームでもそれなりに上とは揉めてきました。新顔だから俺のことをよく分かってはいないこともありますし、隣の芝が青く見えてるだけなんじゃないですかね、佳井さんは。それとも、佳井さんの身の回りが、俺なんかがまっすぐに見えるくらいに歪んだ奴ばっかりだったってことですか」

「……その両方も否定しないよ」

海はカチカチとカウンターで腹筋の回数を数えながら、考えてみたら新が自分に押さえられて腹筋したことなどもなかったな――と思った。

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