〈バッターは――佳井――バッターは――佳井――背番号――25――〉
地響きでも起こすかのような、うねりを伴った声が球場一体を劈いた。
佳井!佳井!と、その名をまるでこれが引退試合かのように叫ぶ声が球場のどこからも――相手応援団のスタンドからすらも聞こえてきて、海はこれまでにないほど――記憶が正しければ、初めてといったほどに自分への声援がプレッシャーに感じられた。
これほど期待されていて、今年最初の打席をふいになどできるものか――
スタメンへと復帰する事ばかり海は考えていたが、それより先に、まずはこの打席をヒットで飾れなければきっとスタメン復帰どころか、この試合を見に来ている観客からも愛想を尽かされてしまうだろう。海は険しい面持ちでゆっくりと打席へと歩み寄った。
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「別にさ、見にこなくていいよ、開幕戦。出番あるかどうかも分からないのに見に来たって、どうしようもないだろ」
海は朝食を済ませた後、既に食事を終えてコーヒーにしていた華耶にそう言った。
「なんでそんなこと言うかなー。皆で応援しにいきたいのにさ。純粋に、海くんだけじゃなくてチーターズを」
「いいよ、そんなお世辞言わなくても。うちのスタメン候補の名前どのくらい言える?」
「ジェネルちゃんが3番打つってことだけは聞いてる」
「はい失格」
自身満々に答えた華耶の額を海は人差し指で小突き、ため息をついた。
「別に、ジェネルのやつを応援しに来るついでに俺の出番があるかどうかくらいの冷やかしに来るのはいいけどさ。本当に俺、出番あるかどうかなんて分からないんだから」
海の分のコーヒーを注ぐ華耶を向いて、海は少し無愛想にしてつぶやいた。
「分かってるよー。分かってるけど、こんな大事な一年の開幕戦、せっかく甲子園でやるんだよ?家で皆で試合見てますー、じゃ、ちょっと薄情じゃない」
コーヒーを注ぎ終え、腰の後ろで手を組んでニコニコと微笑みながら、首を傾けてなんかみせて華耶は海をじっと見つめた。
海はそんな華耶の、相変わらず幼げな――出会った頃のままの仕草に少し目線を逸らしながら
「……ま、別にいいけど。華耶が来るなら、きっと、直人たちも連れてくるんだろ。ま……うまいことやってよ。俺が試合に出なくても、さ」
と、コーヒーをすすって誤魔化した。
「ちゃんと、あたしたち皆で海くんのタオル持って応援するから」
「いいよ、どうせ華耶たちがいる家族席なんて多分俺からは見えないだろうから」
「夢がないなあ」
華耶は海の後頭部をぴん、と小突いて――
「頑張って、なんて、今更言わないから。誰よりも頑張ってることくらいもう分かってるからさ。これ以上頑張ってなんて、あたしからは言わない。いつも通りで、いいからね」
と微笑んだ。
「分かってるよ」
海もまた、普段よりはぎこちなさのない微笑を浮かべて、コーヒーを再びすすった。
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燃え尽きぬその瞳が
栄光をつかむまで
佳井海 佳井海
夢乗せて飛ばせ――♪
マウンドでキャッチャーとピッチャーが打ち合わせをしている間も、海の代打専用応援歌は鳴り止まないどころかさらにボルテージを上げていった。
海もまた、手に必要以上に力が入っていることに気づきながらも、なるべく平静を装って一度外した打席に戻り、構えなおす。
ノーワインドから力みのなく自然なフォームで繰り出した白球。
初球、ストレートなら振っていこう、と海は思っていた。変化量の大きい落ちるボールをいくつも持っているリリーフだから、仮にストレートでなければ大きく空振りをするだろう。
どうせ、力みなど取れないのだから、ならばストレートを投げてくれと祈りながらその初球は振るしかなかった。一回振ってしまえばきっと、次のボールは冷静になってスイングできるだろうから――そう思って振った海のバットは、外角低めの白球を、確かにしっかり捉えそうになっていた。
しっかりとコントロールされたその白球はいよいよ手前に来て落ち――なかった。
もらった――
バットに白球が乗った瞬間、投手のしまった――という顔が見て取れた。
10回裏、二死ランナーなし。打球が浜風にうまく乗れば、下手したらサヨナラホームランになる。
スタメン落ちという情報を鵜呑みにした外野守備は定位置よりやや後ろ程度で、今までほど後ろに守ってはいない。
パキン!と、心地いい音が自分の耳にはしっかり届いた。一瞬だけ届いて、次の瞬間からはオ"オ"オ"ッ"!!と、全ての音に濁音がついているかのような、怒号にも似た歓声が球場を包んだ。
なかなかの当たりだが――レフトからライト側への、それも少しだけ向かい風だ。うまく流して――それこそ向かい風でさえなければ間違いなく今の当たりはスタンドに入っていただろう――。
海は少し悔しがりながら、その白球が外野の頭を超えてレフトスタンド手前くらいまで伸びることを確信し、ぐんぐんと足を加速させて二塁ベースめがけて走った。
二塁へ悠々到着すると、応援席からはまた一段と大きな拍手と歓声が沸き、海もまた、黄色一色の外野スタンドへ向かって普段より少し大きめに手を振ってみせた。
「海さん――」
翌々日、投手を交代させるために代打を告げられ、打席に向かおうとした海を、ジェネルは呼び止めた。
今日ここまで2打席連続ホームランを含む、3打席3安打と、間違いなく今日のお立ち台がこのまま行けば約束される大暴れっぷりを見せていた。
「分かってますよね?一緒にお立ち台、上がりましょうね」
「俺が狙って一発打てるタイプじゃないこと、知ってるだろ」
「何言ってるんですかー。今まで何度も狙って打ってきたくせに。今更、そういう俺そんなんじゃねえしーみたいなの、ナシですよ」
「だとしても、それができる歳じゃあもうないんだよ、俺は」
「だとしてもですよ。今日ここで、二人でお立ち台に上がるのが大事なんです」
「……俺達はまだ終わってないぞ、ってアピールするためにか」
「よく分かってるじゃないですか」
ふふん、と鼻を鳴らしてジェネルは海の肩を軽く小突いた。
「……野球は俺達二人でやってるわけじゃないんだぞ」
周囲の冷めた目線を見ながら、海はジェネルを睨んだが、ジェネルは海に近寄って耳打ちした。
「でも、私たちが引っ張らないと、もっともっと引っ張らないと、きっとこのチーム、何も変わりません」
「……」
耳元で囁かれた言葉が思いのほか鋭い言葉だったことに海は少しだけ嫌そうな顔をしながら――
「お前も、嫌なやつになったもんだね。俺たち二人の力なんかじゃ何も変わらないって、ほんとは分かってるくせに」
と睨んで、打席へゆっくりと歩き出した。
打とうと思って打てるなら、苦労しないのだ。それが出来ずに結果で示せなかったから、今自分はこんな目に遭っているのだ――。
海は一昨日ほど力んでいない両手で自然にバットを握り、投手を睨んだ。
聞けば、相手投手はまだプロ3年目だという。自分が3年目の頃は、どうだっただろうと、今突然思い出そうとしても、まったく頭にはよぎらなかった。
ランナーを背負い、しかもビハインドだというのにマウンドで堂々とした姿を見せるその姿は、自信か、過信か、傲慢か、やけくそか――。
勢いと自信がたっぷりに乗ったその初球が、切れ味よくぐぐっと曲がり――真ん中やや高めへと吸い込まれていくのを海は見逃さなかった。
もらった――!
しっかりとかち上げるようにして白球を叩けば、自分がイメージしているくらいの角度と速度はつくだろう――そう思って少し大げさに振ったバットは、自分の思い描く理想的なポイントで白球をしっかりと捉えていた。
打球音が耳に届くよりも先に、次の瞬間の歓声が耳が割れるほどで、痛かった。理想的な弾道を描いた白球の先がどこへ着弾したのかまでは、沸き立った観客の群れの中で、追えなかった。
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開幕3カードを終え、打席に向かう海の姿がスコアボードに映し出されると、1.00というその打率がしばらく人々の記憶に残った。
たった9試合終えて、しかもいずれも代打での出場だというのに1.00という打率がそこにあり続ける。それでもなお、海をかたくなにスタメンで使おうとしない今野への采配は格好の的になった。
もっとも、今野を叩いて欲しくて海は打席に向かっているのでもなければ、今野を叩いて欲しくてヒットを打っているわけではない。
自分のヒットを見て今野の心が変わるか、あるいは、監督そのものが変わりさえすれば自分にももう一度スタメンのチャンスはあるかもしれないが、だからといって今野へのヘイトばかりが高まって、応援そのものに別の思惑が漂うのは、それはそれで海にとってはあまり心地のいいものではなかった。
自分が打ったから試合の流れが変わった、あるいは、直接試合を決定付けるようなタイムリーなんかがあった――という場面は、代打だと滅多にない。本来、流れを変えるために代打というものはあるのかもしれないが、大味な試合になりがちなチーターズの状況において、海に出来ることといえば、普段どおり打つくらいのことしかなかった。
強いて言うならば、自分が出塁さえすれば、3番に控えているジェネルに打順が回ってくる可能性があるから、今までは審判によってはボールと捉えられそうな、海にとってはちょうどいい球なんかも積極的に見送るようになったし、そうやって今まで以上にしっかり球を見極めて四球を選ぶ回数が増えた。
それで少しでも勝機をつかめたり、ジェネルが自分の分まで打ってくれるならば、どうでもよかった。どうせどうやっても今野は自分を使ってくれないことは明らかなのだから、自分にできることは何なのかを考えるようになった。
そうして、今年も相変わらず早くもバトルシップスに首位を独走されながら、海の見所というものはあまりないまま4月はあっという間に過ぎていき、ゴールデンウィークに被せた前期混合戦が始まろうとしていた。
「で?浅間?浅野だっけ?うーん、ここまで1打点でしょう。当たれば大きい、って言ったの、誰だったっけ。当たらないじゃない、バットに。困るんだよね、そういうギャンブルっぽい選手じゃあ。いかに僕が一発を重視してるとは言ってもね、限度というものがありますよ、君たち」
前期混合戦を前に最後の試合となるドルフィンズ戦のあと、海は残って今野やコーチ陣との作戦会議に出席していた。
一週間ほど前、正捕手が試合後から体調不良を訴えしばらく欠場していたチーターズ。本来ならば、こういう事態に備えて真悟を獲得していたはずのチーターズだったのだが、監督はあまり真悟のスタメン起用に積極的ではなかった。
それは、海に付き従っているからなのか、単純に好みの問題なのか、リードに問題があるからなのか、打率の問題なのか、真意は海にはまだ分からなかったが、少なくとも真悟が今野から信頼を得ていないことだけは海にはよく理解できた。
「……監督。失礼ですが、アサ"マ"でもアサ"ノ"でもなく、彼はアサ"ド"です」
「ああ、アサ"オ"ね」
生駒がうっすらと口を挟むが、今野はわざとなのか、単純に聞き取れなかったのか――正したのに名字を言い間違えていた。
「君、どう思う。アサオをスタメンで使うべきだとは思う?」
「じっくり使えば、数年後には今の正捕手くらいには育っていると僕は思います」
「ああそう、今の正捕手くらい、ね」
生駒の意見に監督はうんうんと頷き――
「ま、育成の年をどこかで作りたいと言ったのは僕だから、まあ、戻ってくるまでの間だけでもマスクを被せる手ではあるよね」
と、自分で言い出したはずの言葉なのに、どこか投げやりな口調で今野は腕を組んだ。
「僕はね――」
今野はそうしてこめかみの辺りをゆびで掻きながらぶつぶつと言い始めた。しばらく見ない間に、前髪だけでなくこめかみの辺りの生え際すらもどこか以前より寂しく、今野が監督になってからの年月の経過を思わせた。
「仮に、アサノの向上心を刺激してもっとステップアップさせたいなら、あえて、他の二軍の選手をいったん昇格させて、その子にマスクを被せてみる作戦がいいと思ってるんだよ」
「それでは朝土が腐りませんか」
「こんなことで腐る人間なんて、何やらせても育たないよ」
生駒の杞憂を監督はバッサリと切り倒した。半分くらいは、もう真悟のことなどどうでもいいような、そんな適当さが言葉尻に漂っていた。
「君はどう思う」
今季から新たに就任した守備コーチの江角【えすみ】を監督は睨むが、江角は薄い表情のまま――
「監督の意見に賛成します」
と、一言だけ話して口を閉ざした。
再び生駒を見つめた今野は「だってさ。君、反論材料は他にはある?」と詰め寄るようにして話し、生駒はそのままうつむいてしまった。
「じゃ、アサオ君はそのまましばらく一軍帯同のままコンディション調整ということで――」
海には意見を求めることもなく、監督は話を終わらせようとした。自分から話を急に畳もうとした監督は、何かに気づいたような表情を浮かべて海へ目線だけ寄せた。
「そういえば、アサオは君の指導を受けていたね。彼の不調は、君の指導がなってないからなんじゃないの」
と今野は海の顔を見向きもしないまま糾弾した。海はなるべく不満を顔や声色に出さないよう、淡々とした口調を心がけて口を開いた。
「結果を残さなければ生き残れないという感情が少し強いようで、あまりリラックスできていなようです。それでなかなか結果を残せずにいるので、バッティングフォームを少しいじろうかなんて考えになっていたので、なるべく自分を突き通すよう指導しました」
「じゃあ、打てないのは君の指導があまりうまくいってないからなわけだ」
「監督――」
生駒は今野の粗暴な口ぶりにさすがに口を挟んだが、今野は気にも留めずに話し続けた。
「困るなあ。そうまでして試合に出たいか、君は」
「……監督。今、真悟のバッティングフォームを変にいじることは、それまで積み重ねてきた真悟のアイデンティティを自分で殺すことになります。監督が試合で使い続けて試合勘をつかみながら調子を整えるのも、いったん今のまま試合には出さずに練習の中で自分を取り戻していくのも、どっちも悪くないと思います。ただ、真悟に今すぐ正捕手としての資質や結果を求めるのは、僕の若い頃のように、真悟にプレッシャーばかり植えつけて、真悟の本来のポテンシャルを潰してしまうリスクがあります。僕は、真悟の意思を尊重しつつ、アイツを潰さないような指導を心がけているつもりです」
今野は海の視線をしばらくじっと横目で流しながらも、一切そこから引こうとしなかった。
「意思の尊重、ねえ。聞こえはいいけどね――」
一言そうぼやき、時計の分針が大げさな音を立てたタイミングで、今野は腕を組みなおし、場を仕切りなおすようにして口を開いた。
「やったつもりでいるだけで指導した気になれるなら、楽な仕事だよね、兼任コーチなんてのはね。ま、いいでしょう。アサオに関してはしばらく様子を見ながら、僕が使いたくなったら使ってみます。それより先に正捕手が帰ってくるかもしれないけど」
と、最後に嫌味をひとつ吐いて作戦会議はその後、この停滞した空気など最初からなかったかのようにそそくさとお開きになり、海もまた球場を後にした。
「……別に、俺のことなんか待ってなくてよかったのに」
「誰かが待ってないと、きっと辛いだろうと思って」
球場の外では、少し前から振り出した雨を傘でよけて待ちながら、ジェネルが待っていた。
「なんで俺が辛いこと前提でいるんだよ」
「そんなこと言うってことは、辛いことがあったってわけじゃないですかー」
「知ったような口をきくんじゃないよ」
ジェネルの言葉を少し不機嫌そうにして振り払いながら、海はジェネルの傘を持ってやって、少し先に呼びつけたタクシーへと向かった。