プロ1年目のシーズン終盤、プロ生活で最初に打ったホームランが、自分が生まれる前からプロで活躍していたかつての大投手から打ったものだと聞いたとき、海はなんとも思わなかった。
「翌年には引退してますからね。一軍で打たれた最後のホームランが荒屋選手のホームランなんですよ」
「そうなんですか」
なるべく遠くへ飛ばそう、と思って振ることは多少あっても、別にそれは一発を狙って振っているわけではなく、結果的にホームランになったという打球が海にとっては多かったから、それ以上の言葉はあまり浮かばなかった。
あくまでも自分は、誰しもがつい見上げてしまうような高弾道の打球ではなく鋭いライナーを放つことを意識しているから、それがたまたま衰えずにスタンドインしたにすぎない――海の放つホームランというのは、大概そういうものだった。
「――あの時は初球のパームを引っ掛けてライト側に大きくファウルになりました。こちら、そのときの映像になります。二球目のパームを見逃したときは何か意図があったんですか?」
「……ストライクゾーンから外れそうだと思ったので」
「なるほど、よくボールを見るタイプですものね。結果的に三球続けてパームが来ましたが」
「……向こうがいけると思ったんじゃないですかね、パームで。直球と激しい緩急を使い分ける投手だとは聞いてたので、ストレートだったら流して打てばいいやというくらいのつもりで、もう一回パームがくると張ってました。正直言って、あの一球がストライクになってくれたおかげで、三球勝負をかけてくるんじゃないかなって思ってましたから。おそらくその勝負にはパームを投げてくるだろう、って」
「自信はあったんですね」
笑みを浮かべながら質問をしてくるインタビュアーに、海は内心苛立った。
「自信がなくて打席に立ったら顔に出ますから。読みなんて、当たれば褒められますし、外れれば怒られる、そんな単純なもんです。投手は色んな打者からアウト3つとらなきゃいけないけど、打者は5打席あったら2安打打てばとりあえずはみんな褒めてくれますから。たまたまあの打席はその読みがうまく当たって、うまくホームランになってくれただけです」
打てないと思って打席に立つ奴がいるものか。お前はそんな打者を知っているのか――と言いたい気分だったが、海は先日の芸人とのトーク番組で芸人を困らせてしまったこともあるので、少し抑えておいた。
「でも、バックスクリーン直撃弾でしたよ。自信につながったんじゃないんですか?」
「その後の打席は確か満塁だったと思ったんですが、その後の打席でしくじっちゃったので、特には。あの日はよく当たってたので、もったいないことをしました。たった一発打っただけで、自分はいけるかもしれないって思っちゃってるんですよ、打率2割ちょっとしかないのに。あの場面でもう一度ホームランが打てていれば試合をひっくり返すことだってできたかもしれません。でも、できませんでした。ああいう一発を放った後だからこそ、平常心でしっかり次の打席を打てるようにならないといけないですよね。変に自信なんてつけて、誇張したいいイメージのまま打席に入ったって、僕らは3割の中で戦う職業ですから。一瞬のよかった悪かったを引きずってなんかいたら、投手の思う壺です」
そうインタビューでは答えた海。
映像を思い返すと、確かにあの一打は自分のスイングが間違っていなかったという自信を今になって与えてくれる。それでも、いかんせん凡打で帰ってくる打席が多すぎて、当時のことなんて少し忘れかけていたところがあった。
映像をテレビ局側が用意してくれたからいいものの、自分の中であの会心の当たりの感覚を映像もなく思い出せと言われたら、難しかったかもしれない。
正直なところ、よかった1打席のことを思い出せといわれても、年間140試合を超える中で、そこからさらにたまたまうまく打てた1打席のことなんか思い出せない――海はそう思っていた。
日々日々、海はプロの世界に揉まれる中で、自分のスイングに確かな自信をつけていた。
去年の方向転換がまるで意味がなかったこともそう、木製バットのクセのつかみもそう――まずは自分の中で、楽に振って内野の間を抜いたり、外野の手前に落とす感覚をしっかりつかみ始めている。
今季、打率は時折3割の入り口がちらつくようになった。二塁打だって数も増やした。足の速さで二塁へ向かえたというよりかは、しっかりとボールをバットに乗せた打球で悠々と二塁へたどり着いた打球のほうが多い。ここまで一度、三塁打も放っている。自分がもう少し足の使い方がうまければ、ランニングホームランも狙えたかもしれない――そんな打球だった。
それでも、本塁打が0というのは見劣りがするらしく、前野からはともかく、生駒からもたびたびその点を指摘された。
もったいない――と。
何がどうもったいないのか、海には理解できなかった。三振して帰ってくればそれはそれで文句を言うというのに、打率を上げたら上げたで文句を言われる、というのは海にとってあまりいい気分はしなかった。
「3割打てって言ったのは、コーチだったじゃないですか」
海は生駒に対して不満を露わにした。素直にまっすぐな言葉で生駒に対し言葉を突きつけた海。生駒は困ったように頬をかいた。
「いや、そりゃそうなんだけどな。お前、高校時代は甲子園でもホームラン打ってるだろ?なんというかさあ、別にヒット打つなら打つなりになあ。それこそほら、お前、割としっかり球を捉えたがる割には、フォロースルーが気持ち若干ちょっと大きいから、走り出しが遅いだろ?左打者だからまだいいものを。だから、一塁でアウトにならないようにフォロースルーを少し調整してみるだとかさ」
「コーチも俺が足で稼ぐタイプになってほしいんですか」
「そういうわけじゃない。俺はむしろ、お前にはいわゆる天才打者になってほしい。世間がうらやむほどのな。でも仮に、お前がこのまま本当に外野の手前くらいに落ちる打球くらいしか打球が上がってこないなら、苦手だ苦手だって言ってる足を生かす工夫を少し年月かけてしてみるとかしないと、今のままじゃ勝ち残れないぞ、お前」
生駒の言葉に対して、海はそれなりに思うところはあったようだが、ふと眉間にしわを寄せ、苦々しい顔で生駒を見つめた。
「……正直言って、別に監督【あのハゲ】の好みに応えるために野球やってるわけじゃあないんですけどね、俺。」
「いや、それはそうなんだけどさあ……なんかこう……意地……違うよな、意地張ってんのはどちらかというと監督だもんな……」
どう言葉をかけていいのか生駒は迷っている様子だった。
「練習、戻っていいですか」
「ああ。悪かったな」
邪魔するつもりなら帰ってくれ、というような目つきで海はバットをその場で素振りして、練習へと戻った。
生駒もまた、苦虫を噛み潰したような顔をして海から少し距離をとった。
生駒からしてみたら、海のスイングの綺麗さやフォームの自然さ、綺麗さは絵に描いたようなものがある。何かコツをつかめば、2桁本塁打だって堅いだろうし、何かきっかけさえあれば、20本塁打くらいはノルマとされるくらいのセンスを絶対持っているはずだと確信していた。
それを殺しているのは、海を取り巻く環境や、ソリが合わない監督の問題だけではなく、なかなか海の才能を引き出すことのできない自分のせいという部分もあるのかもしれないと生駒は考えていた。
今のままでは海を潰しかねないから、いっそ海をトレードに出し、他球団から将来のスラッガー候補を引き抜く手段に出てみてはと前野に進言してみたこともあったのだが――
『高卒ドラフト1位を3~4年で放出なんてしたら、俺らは日本中の笑いものやろうが、ボケが!!』
……と前野にこっぴどく叱られてしまった。
もう少し打球が鋭ければヒットになった打球もあっただろう。もう数メートル打球が伸びていれば、試合の流れを変えることの出来る長打になったフライアウトだってあっただろう。
海自身がその『あともう少し』のところをなんとかして掴もうとしているのは分かっている。分かっているが、スイングの基礎が出来上がっているからこそ、生駒は今の海に対して、もう一皮剥けられないもったいなさを感じずにはいられなかった。
振り切れずに三振になるようなパターンだってだいぶ減ってきた。プロの球に順応するのは時間の問題だ。
特別苦手とするような球やコースだって特にない。だからこそ、なんとか自分のような立場の人間が才能を開花させなければ――と生駒は試合前の練習の間、苦悩していた。
〈9番――ピッチャー――赤松に代わりまして――バッターは――荒屋――背番号――25――〉
5回の時点で4対4と打ち合いになっていたこの試合、海は早々と代打で呼ばれた。
愛知ドルフィンズの本拠地となる球場、ダガヤドームは改めて見ると随分と広い。外野の深さやフェンスの高さを考えると投手戦になりそうなものだったが、一度外野守備のもつれや内野と外野との間の連携ミスなんかが起きると、かえってその外野の深さが仇となることを思い知らされた。
今年から専用の応援歌がついた海だったが、どうにも自分がその応援歌の歌詞ほど期待にこたえられているのかどうか考えていた。
まして、自分の中ではすでに自分の苗字は佳井のつもりだから、いまだに荒屋と呼ばれることにむずがゆさを感じていた。
対するドルフィンズの投手も交代をはさみ、この回からマウンドに上がったばかりの者が投球練習を行っていた。
次の打者の足が速い分、できれば邪魔にならないように二塁打くらいは放っておきたいのだが、そうそう狙って打てているならば自分の打率は2割7分前後で頭打ちにはならないのだ。
「……スライダー、だな」
投球練習の際に少しだけスライダーが浮き、甘いところに流れていったのを海は確認した。
バッターボックス付近で、ボールをなるべく芯で捉えてすくい上げるイメージで二度、三度、バットを振る。
曲がり幅は大きいが、曲がり始めが早く、浮く。それでも曲がりは大きいし、速球にも勢いがあるから、上位打線をこれで詰まらせて早々と流れをつかんでおきたいのだろう。
――荒波切り裂け 荒屋――♪
――大いなる 期待に応え
羽ばたけ荒屋 海の彼方へ――♪
打席に立った海は、その初球、意外にも速球を外角高めに放り込んできたことに呆気にとられた。
投球練習中のボールを見ていると、スライダーを多投してくるイメージがあったから、完全に意識から外れていたそのボールには海はまったく反応できなかった。
「アカンな。この試合」
「まだ一球目ですよ」
「読み打ちで棒立ちするような奴は要らん言うとんねん。アイツはいつもそうや。何で来た球にすんなり反応できへんのかな、あのクソ金髪は」
「初球を高く打ち上げて凡退するよりかはええやないですか」
前野が不満そうに貧乏ゆすりをするのを生駒は嫌そうな目で睨みながら諌めた。思わず、普段は封印している関西弁が前野につられて出てしまうほど、生駒は前野の見限りの早さに苛立った。
二球続けて速球が放り込まれる。内角低めの少し雑なところへ放たれた速球を海はスイングするが、スライダー一本という頭があったからか、少しだけ振り遅れ、そのボールはグラウンドの真横めがけて転がっていく。
「それ見ろ、アカンやないか。何べんこんな打席を見てきたと思てんねん」
前野がベンチで嫌そうな顔をしながらベンチの空席を蹴る。突然座席を蹴られた若手は嫌そうな表情を見せながらも、振り返ることはしなかった。
近くで見ていた若手もまた、それを心底軽蔑するような顔を浮かべている様子が中継のカメラに抜かれていたが、きっとベンチにいる誰もがそんなことには気づいていなかったことだろう。
三球目のスライダーは思わず手が出そうになるが、ど真ん中から徐々に外れていくそのボールに海は粘ってその腕を引っ込めた。
ギリギリのところで助かった一球だったが、間違いなくこのスライダーは打ち返せる――そう確信した海。
一度打席から外れ、もう一度スイングをして戻る。
「打てる……違う、打てる、じゃないな……打つ……そう、打つ……」
ぶつぶつと打席に戻った海は、バットを構えてなおブツブツと小声で打つ、と呟いていた。
自信がなかったわけではなかったが、自信が確信に変わったのを逃したくなかったからなのか、滅多に小言を言わなかった海はこの時随分と口を動かした。
四球目、放たれたボールは――やはりスライダーだ。それも、狙ったところからは外れたらしく、投手はしまった――という表情を浮かべた。ぐぐぐ、っと曲がってくるボールはど真ん中からやや高め付近へと吸い込まれるようにして曲がっていく。
来た――!
タイミングも狙い球もコースもぴったりだが、あとはこれがどこまで飛んでくれるか――綺麗に芯で捕らえた球は、乾いた音を立てながらライトスタンドめがけ、フライと言うにはやや控えめな、ライナーというにはやや高い弾道で勢いよくぐんぐん伸びていく。
高めのボールでなければ、この高いフェンスに阻まれたかもしれない――打球の行方に確信はしながらも、勢いが殺されることを想定して海は一塁へと全力で走ったが――最後までその弾道は衰えることなく、そのままドルフィンズの応援団が待ち構えるライトスタンドへと吸い込まれていった。
2年ぶりほどになるホームランに、海は少しだけ手ごたえを感じたが――それでも、フェンスに阻まれたかもしれないと思うくらいの打球に、内心あまり喜べない様子でベースを一周した。
ベンチで待ち構えたカメラには控えめに中指と薬指を折り曲げ『I love you』のサインをしておき――そのままベンチへと下がっていった。
「なんだよ、あんまり嬉しそうじゃないな。このまま試合が終われば、お前、お立ち台だぞ」
「たぶん、ほかの球場だったらもっと素直に喜べました。あと何センチか低かったら、たぶんフェンス直撃で終わっていたでしょう」
肩をバシバシと叩きながらベンチで祝福する生駒に、海は鬱陶しそうな表情を浮かべながらベンチに座った。
「相変わらず辛口だな、お前」
「ほかの球場だったら、きっと、誰もがホームランだって確信する打球だったと思うんです、今の打球。俺自身、二塁打になってくれればと思って振ったものでした。だから、きっとフェンスに当たっても二塁打にはなっただろうとは思うんです。でも、俺は心の中で、もともとフェンス直撃くらいにしかならないと思ってたから、あの打球は入らないと思ってしまった。手ごたえがまあまああったはずなのに、自分の打球の行方を信じられないっていうことは、まだまだってことです。まして、さっきの球はド真ん中でしたから。この球場全体を納得させられるようなホームランではなかったでしょう。ってことは、皆が俺に望んでいるような打球にはまだまだたどり着けていないってことです」
「結果的に入ったんだから、もう少し喜んでもいいと思うがね」
「誰もが納得する打球を放てないと、あんたはともかく監督【あんなやつ】には今後も使ってもらえないでしょうからね。俺には、こういうやり方しか多分できないと思うので」
「……」
手ごたえのある打球、というものを海は掴んだ気でいた。ただ、それはあくまで安打性の打球だけであって、しっかりとしたライナー性やフライ性の打球はまだまだだ――海はそう思いながら、バットを見つめた。
〈もっと嬉しそうにしてもいいのに〉
案の定、スピーカーから流れる華耶からの響く声も、生駒と同じような言葉だった。
「一応結婚するっていうのに、だらしないヒットばっかり打ってちゃ、華耶に愛想尽かされちゃうだろ」
〈そんなことないよ。かっこよかったよ、あのホームラン〉
「なら、いいけど」
〈それに、あんなポーズまでしちゃってさ。あれ、なんだかんだ理由つけたとしても、あたしに向けてしてくれたんだよね?〉
「……どうだっていいだろ。そんなの」
〈ま、そういうことにしといてあげるよ。にひひ〉
試合後、部屋で通話をしていた海。無事に就職も決まり、あとは卒論を提出すれば卒業はほぼ確定――というところまで華耶も順調に日々を送っていた。
〈……やっと、また一緒になれるね、海くん〉
「……ああ。寮だってもうじき出られる」
待ち遠しくてたまらないのは二人も同じのようで、電話越しに二人の距離は普段よりも近く感じられていた。数百キロ離れた物理的な距離が、まもなくまた一緒になれる――その高揚感が二人を高ぶらせた。
〈忙しくなるね、これから〉
「寮を出るつもりでいるっていうのはもう球団には話したから、いくらかは大丈夫だと思うけど」
〈キャンプ、大丈夫なの?〉
「秋季キャンプのことだろ?まぁ……大丈夫だろ。たぶん」
〈たぶんって〉
「2~3ヶ月あったらなんとかなるよ、たぶん」
〈2~3ヶ月なんて毎年あっという間だったじゃん。駄目だよー、オフシーズンなんてあっという間なんだからさ〉
「毎日が長くなりそうだからな。一日は24時間しかないのに、俺たちは夜のほうが長いし」
〈それは……ふふっ、まぁ、そう……だね……〉
華耶は突然の海の言葉に嬉しそうにしながら、照れくさそうにしてしばらくしどろもどろな様子を見せた。
少しでも華耶が嬉しく思う一日を増やしてやれたら、と海もまた思った。