「やっぱ、ちょっと落ち着かないですねー。普段とちょっと気合の入り方、違うじゃないですか」
ジェネルの放り投げたボールは少しだけ左に逸れ、海はそれを冷静にキャッチした。
「まあ、しょうがないよ。俺一人の問題だけじゃないし、それを球団が許可しちゃったわけだし。なんなら連盟のほうまで挨拶しにいったらしいよ」
「わざわざ球界連盟にまで?」
日本の記者に混じって色々とカメラを回したり、あちこち見て回っているオルガをはじめたしたフィンランドからの記者団を海は流し目で見つめた。
「オフの日だとかも映せる部分は映させて欲しいって言われてる。プライバシーなんてあったもんじゃないよ。さすがに、家にはあまり来てほしくないとは言ってあるし。俺の口から今日はやめてほしいって連絡入れることだってあるだろうし、向こうが撮りたいものがこっちが映して欲しくないことだっていっぱいあるから、その辺は強めの態度に出るつもりでいるよ。これまで何日か自主練習とかにもあいつらついてきたけど、大変だよ。俺、別に取材が入ってるから練習に力入れるってわけでもないし、なんなら今年一年は勝負の年になるだろうから、本当はもっと俺の視界に入らないようなかたちで撮影しててほしいくらいだ。気が散って仕方がない」
海は頭をかきながら、ジェネルとキャッチボールをしていた。本当に嫌そうな表情でその遠くにいる取材陣を睨み、時折ため息を吐いたが、ジェネルはどこかカメラを意識しているのか、カメラに向かって手を振ったりなんかしているものだから海はそんなジェネルに呆れてみせた。
「あのなあ。別にお前を撮ってるわけじゃないんだぞ」
「えー?でも、海さんを追うってことは、私にも必然的にカメラが回ってくるってことじゃないですかー。家に帰ってからの心の支えは華耶さんですけど、グラウンドでは私が心の支えだってことを世界に発信するチャンスじゃないですかー」
「バカ言え。世界中にお前の愚かさを発信するつもりか」
海は少し乱暴にジェネルに向かってボールを放り投げた。
さすがに意思疎通のひとつも取れないようではまずい、ということもあり、オルガの隣には常に英語の話せる球団広報がついてやりとりをしていた。
オルガも野球の基礎知識くらいはいくらか覚えた上で来日してはいるものの、練習の意味だとか、そもそもキャンプという文化だとか、オルガの中でよく分からない部分については大体スタッフが答えていた。
オルガがおそらく理解していないであろうこともスタッフが補足しながら教えているものの、時折オルガが練習の妨げになるような位置に飛び込んだりなどするのでその度にスタッフが注意するような場面がたびたび見られてしまっていた。
オルガ以外のスタッフにも、あまり野球を知らないであろうからこそ気をつけて欲しいポイントだとか、やめてほしいことだとかをその度に教えているのが遠くからでも分かったし、スタッフが大体のことをやってくれるから海も気楽だったが、そういうのは練習の前にやっておいてほしかった――という思いもあった。その度に練習が止まるのはまあまあフラストレーションが溜まるものだ。
これがまだオルガだけの問題だからいいものの、スタッフ全員がオルガのようにやたらと積極的で教えて回らなければならないとなると練習どころではないし、もしそんなことになろうものなら、オルガをはじめ取材班の存在が邪魔でしかならなかっただろう。
「ずいぶん気合入ってますね、佳井さん」
「当たり前だ。今年はもう一回這い上がらないといけない一年になるからね」
「佳井さんにもっと生きた勢いのいい球投げられるように、冬の間に球速またちょっと上げたんですよ。大リーグの投手とか色々参考にしたんです、ストレートの投げ方」
薫はそんなことを言いながら、マウンドに上がった。
「確かに球、走ってるな。いい感じだ」
最初のど真ん中一球を見送った海。秋には140に届くかどうかと言われていたストレートが、気持ち若干また速くなったように、海にもしっかりと感じられた。
捕手としての練習もこなさなければいけないこともあり、この日は真悟がマスクをかぶっていた。真悟は山なりにボールを返し、
「ギリギリまで腕が出てこない、出所も分かりづらいフォームですからね。見た目以上に大分速く感じますよね、アレ。ここで構えててもやっぱ速く感じますよ、今の薫さんは」
と海にその速球について語った。
「ほんと、今からでも中継ぎか先発ローテの谷間あたりで使えないかな。その辺の似たような顔した中堅どころより、よっぽどいけるだろ」
「ええ」
真悟は再びサインを出しながら、外に構えた。向かって右からのクロスファイアは今までよりも大分速く、キレのいい球に見えた。
海はそれを流れに逆らわず、少し振り遅れて捌くのが精一杯だった。若干鈍い音を立てたボールは、左へとぐんぐん逸れていき、レフト定位置ほどの深さから思い切りファールグラウンドへ落ちていった。
「ああいうのをしっかり打てなきゃ、ダメだな」
「薫さん、球走ってますから。仕方ないです。体感、150後半くらいには感じますよね、アレ」
「バカ。150後半をナメすぎだよ。140後半から150そこそこくらいならまだ分かるけど」
海は少し悔しそうな表情を浮かべながらつぶやいた。真悟が慰めるようにして放った言葉はかえって海を不快にさせたようで、真悟はばつの悪そうな顔をした。
「カーブいきまーす」
薫が変化球を予告し、真悟にサインを出した。内角低めだ。
「おっ……」
死角から切れ込んでくるゆるいカーブは、速球を見た後だと、予告されていたはずなのに腰が抜けそうになった。相変わらず、自分の体に当たるのではないかというようなコースから中ギリギリいっぱいをついてくる、正確なコントロールだ。
海はしっかりそのカーブを見定め――スイングをぴたりと止めた。コンマ数ミリほど、わずかにボールだろうか――といったところだ。
「よく止めましたよ今の。振っちゃいたくなりません?ここまでビタビタな球来たら」
「お前なら今の打てたのかよ」
「多分無理です」
「だろ」
真悟からどうせ審判によってはストライクを広めに取られたりする場合だってあるのだから、いっそ振ってしまえばいいのではというような小言を言われたが、海は軽く反論し、真悟を黙らせた。
「内角、好きなように投げてくれ」
「はーい」
軽く何種類かの持ち球を見せた後、海はいつも通り薫に内角にボールを投げ続けさせた。
真悟は薫がボールを海に当ててしまうのではないか、と何度も薫とサインを交換することがあったが、それでも薫はストライクゾーンギリギリを突くような球を投げたがるのをやめなかった。
それでいて海が要求するように内角いっぱいに構えたところにいつもしっかり投げてくるのだからそのコントロールに慎吾は薫のマウンド度胸を評価していた。自分が同じようにマウンドに立って同じ球を要求され続けたら、恐怖で腰が抜けてしまうだろう。
ミットを構える側にいる真悟は、そうして投げ続ける薫の神経も大変だが、捕手もまた、薫のコントロールを信頼してないととてもじゃないがこうしたコースにミットを構え続けることだって躊躇われるだろうと思った。普段打撃練習の間こうしてマスクを被る球団スタッフや他の捕手は一体どれほど肝を冷やしていることだろう――そんなことを考えていた。
当然、時折抜けるボールも出てくるわけだが、海はそうしたボールを避けるのも練習のひとつだ、と言ってこの日もギリギリのボールを何度かかわした。
真悟はマスクを脱ぐ頃には汗まみれになり、海を思わず軽く突き飛ばしたくなるような衝動にかられ――実際に肩を軽く腕で突いた。
「佳井さん!ああいう心臓に悪いことしてたら、俺死んじゃいますよ。ドキドキするのは女の子の前くらいがちょうどいいです」
「お前、そんな大柄なのに女の子の前じゃ一丁前にドキドキしてモジモジするのか」
「おっ……大柄かどうかなんて、どうでもいいじゃないですか。ガタイのでかさは度胸のでかさに比例しないんですよ」
「でもお前、いずれは正捕手になるつもりなんだろ。まさか、ずっと代打でいるつもりとか、今野が言ってたみたいに素直に外野に回るつもりだってないだろ」
「それは……まあ」
真悟は海に痛い所を突かれて押し黙った。実戦ではここ数年あまりマスクをかぶっていないものだから、キャッチャーとしての勘だとか、自分なりのリードを確かに少し見失いそうになっていたのは事実であり、その結果がこの疲労だ。
内角を突かなければいけないときだって、きっと近い将来やってくる。当ててしまうかもしれないようなきわどいボールを要求しなければならないことも、また、マウンドに上がる投手が薫ほどのコントロールがないのに内角を要求しなければいけないことも――。
「こんなんで疲れただのなんだの言われてちゃ、お前本当にそのうち一塁あたりにコンバートされてしまうかもしれないぞ」
「それは……そんなことあったら、俺は自分からトレードを志願しますよ」
「獲ってくれるところがあったらな」
海の言葉は辛辣だった。ただの嫌味で言ったというよりは、海自身も出たくても出られなかった経緯があるからこそ、『言えばなんだって通るものではない』というメッセージをこめた、重い一撃だった。真悟はボディブローのように突然突きつけられた現実を胃で受け止めながら苦しそうに苦笑いを浮かべた。
「……とにかく。捕手としての練習はしますけど。佳井さんやジェネルさんの練習っていうか、薫さんがマウンドに立ってるときの捕手はちょっとまだ俺には荷が重いってコーチに相談します。危なっかしくて、自分の打撃にも支障が出そうです。あんなの見てたら」
「まあ、コーチも思いつきで提案したようなもんだしね。明日からは普通に練習したらいいよ。でも……捕手ってそういうポジションだぞ。その現実から逃げてたらお前、本当に今のままだぞ」
「分かってますよ」
と、汗だくになった真悟をいったん見送った。
「調子、まあまあってとこですか」
「まあまあ……か。いいや。そのレベルにすら届いてない気がする」
海が真悟の愚痴に付き合ってやったのを遠くで見ていたジェネルが、いったんベンチに下がった海の隣に座った。
「ってことは、まあまあってことですよね」
「俺はまあまあだとは思ってないんだけどね」
「だからこそですよ。見てて分かりますよ。本調子じゃないって感じしますけど、キャンプ始まってすぐの割にはまあまあ打ててるくらい、って感じですよねー。バットの折れ方見てると。じゃあ、まあまあってことです。初日ってそんなもんですから」
「今年も職人を泣かせる春がやってきたよ」
今日海が折ったバットの数々をスタッフがオルガに向かって見せながら『これはあとで箸などにリサイクルされる』と遠くで説明しているのを海は苦笑しながら見つめていた。
「そもそも木のバット使う必要があるのか?とか思ってそうだな、アイツ」
「言われてみれば確かに」
ジェネルが突然言い出した海の言葉にくすっと笑った。
長いこと野球をやっていると、あまりに木で野球をしていることが常識になりすぎてしまい、ついついそもそもプロ野球が木製バットでなければいけないのかというその意義を忘れそうになる。
「それこそですけど。こないだ、バラエティ番組でやってましたよ。アイスの木の棒でホームラン打つ、って」
「……は?」
海はジェネルが言い出した言葉の意味にしばらく迷った。アイスの木の棒を一体どうするつもりなのだ――と悩んで、なんとなく、材料になる木材が切られる前の状態のものをバットの形にくりぬいたのだろうな、と勝手にイメージした。
「アイスの棒を……バットにね。面白いこと考える奴もいるもんだ」
「ほんとですよ。しかも打っちゃうんですよ、それで」
「へえ」
そりゃあ、バットの形をしているのだから、折れさえしなければきっと飛ぶだろう、と思って海はとたんに関心をなくしたような返事をした。ジェネルは海の無関心さに、おそらくちゃんとしたイメージができていないだろうから説明をしようと思ったのだが――
「でも――」
と、海に話題の先を越されてしまった。
「撮れ高、どうするんだろうな。いやまあ、アイツらからしてみれば、ちょっとシーズン1年追ってるだけでも全然面白いのかもしれないけどさ。俺、このままたとえば代打のままだとかさ、あるいはオープン戦で調子崩したりしてそもそも二軍スタートとかだったら、二軍を追いかけるわけ?まさかだろ。高い金払って日本に来てるんだから、一軍を追うよな。俺が一軍にいる前提で多分あいつらはいるんだろうけどさ。あいつらが思ってるほどの佳井海が撮れなかったらどうするんだろうな。だからって、密着取材来てるからって俺を無条件で一軍に置き続けるみたいなバカな真似はしないだろうし」
「あんまそういうこと言わないの」
ジェネルは海の唇に人差し指を当てた。
「……なんだよそれ。華耶の真似か?」
「はい」
突然のタメ口に海は思わずジェネルを睨みつけた。ジェネルはニコニコしながら、じっと海を見つめて、唇に当てた人差し指を離したあと、海の額に向けてコンとその指を突いた。
「ヤな感じ。お前は絶対華耶にはならないんだから。お前はお前だよ。華耶の代わりを真似することはできるかもしれないけど、華耶そのものにはなれないんだからさ」
「わかってますよーだ。ちょっと、やってみたかっただけです。私は私ですし、私にしかできない海さんのサポートがあるはずなんで」
「お前がそれを言うとなんか別の意味に聞こえるんだよ」
「今更じゃないですかー」
軽口を叩くような口調でジェネルがぺらぺらと話すのを、海は呆れ気味に返した。ジェネルはふふっと笑いながら海の軽口を流し、ベンチの脇からスポーツドリンクを取り出してぐっと飲み込んだ。
「海さん。今年がラストチャンスだとか、そんな思いつめないでくださいね。今年またレギュラーに戻って、それから、ずーっと……ううん。なるべく、ずーっと。私と一緒に、悪あがきしましょうね。私マジで、海さんのいないチーターズでなんてそんな頑張れないと思うんで」
「じゃあそのときは移籍したらいいじゃないか。俺がいなくなる日は、そう遠い未来じゃないかもしれないんだから」
「それを考える時間がもうちょっと欲しいからできるだけ長く現役でいてほしいって話してるんじゃないですかー。鈍感なんだからー」
「鈍感で悪かったな」
ジェネルはけらけら笑いながらベンチから再び立ち上がり、海へと手を伸ばした。
「さあさあ、あんま休んでなんかも居られないですし。練習、戻りましょう」
「分かってるよ。お前なんかに言われなくても」
海は少しムっとしたような表情で立ち上がり、同じくスポーツドリンクを飲み込んでから追いかけるようにしてベンチから出て行った。