《俺もね、分かってはいるんだよ。俺はこの27年……常に、ないものねだりをしてきた。もし、あの時こうだったら――とか、もしあの時こうじゃなかったら――って。でも、今に納得できないから、ないものねだりをするのは仕方のないことだ。人生って、そんなもんだろ》
打撃練習を待っている間、オルガにつかまって海は取材を受けていた。取材、という体ではあるが、オルガとしてはとにかく、限られた時間で海の言葉をたくさん仕入れたかったようで、カメラを片手に海に詰め寄って、いろんな話をしたがった。
もし今突然10歳若返ったら優勝できると思うか――?
というオルガの言葉に思わず海は辟易した。カメラの前で『無理』なんて言葉を言うわけにはいかない。自分だけが10歳若返ってもどうしようもないからだ。そこに清兵衛も田中もいないのに、自分の今の精神状態をもって10歳若返っても、何も変わらない――そんなことを話すわけにはいかない。
海はありとあらゆる言葉を使ってなるべく直接的で攻撃的な言葉を避けたが、オルガもなかなか退いてはくれなかった。
海の心の奥底にある言葉を引き出さないとドキュメンタリーとしてはありきたりなものになってしまうからこそ、オルガはなるべく海の失礼に当たらないように――それでも、海の過去をつついた。
《4割打ってもまだ文句言われてたって前に聞いたけど、やっぱそういうのも関係した?》
あまり掘り返してほしくない言葉を言われた海は、一瞬オルガに向けて嫌がった表情をした後、苦々しい表情で少し考え込み――
《……まあ、関係しないわけないよね。普通は4割打ちたくても届かないんだ。当たり前に4割だ、4割だ、って言うけど、もともと4割打者なんてそんなにポンポン出てくるもんじゃないんだから》
と、素直に自分の気持ちを語った。
《それは私くらいでも知ってるよ》
《そうだろ。……バットに当てさえすれば、きっと何かが起きる。でも、空振りだけは本当に何も生まない。だから、しっかりバットに当てながら、自分の打撃ができるポイントだとか、自分のスイングの今できるベストがどこにあるのかを見極めながら俺はスイングをしていた。……俺には、ミスが許されなかった。ドラフト1位っていうのは、そういうものだから。そして俺は結局、それに耐え切れなくて何度も押し潰されてきた。もし、お前の言うように今俺だけが10歳若返っても、今の俺の心がここにある限り、俺はきっと、悩み続けると思う。もう一度またあの頃のようにシーズン記録を作れるような打撃ができたとしても、それでも俺は、納得しない日々を繰り返すと思う。そこに勝利がない限りは、今の経験を持ったまま若返っても、今以上に気持ちをすり減らして、きっと元々より打てなくなってると思う。スポーツって結局、勝利至上主義だから》
海は搾り出すように、寂しい目をしながら最後の言葉を放った。自分の無力さを認めてしまう言葉だからこそ、海はその言葉を苦しそうに言って、うつむいて黙ってしまった。
野球は興行なんだと言われながらも、勝てなかったら勝てなかったでそれはそれでその責任を押し付けられてきた日々が、海から重苦しい言葉を吐き出させてしまった。表情を沈ませたままの海に、カメラを向けたオルガは少し悩んだ末に、一つの質問を投げかけた。
《じゃあ、逆に聞くけどさ。リーグ最底辺レベルの打率しか残せません、打点もホームランもそんなにありません、だけど打つタイミングが全部試合を決めたり、試合の流れを変えるようなものばかりでした、って選手がヨッシみたいな大御所みたいに扱われてたら、それは面白くないでしょ?……仕事しててもさ、たまにいるんだよねー。全然働かないくせに、なんかちょっと肝心な場面でだけノコノコ出てきて、この仕事は私がやりました!みたいなやつ。最後のちょっとしたことだけやって、自分が仕事を全部キめたような顔だけしやがってさ。ああいうのやられると、目にビスでもぶっこんでやりたくなるくらい腹立つんだよね。マジでいっぺん遺伝子からやり直して来いって思うもん》
オルガはきつめの冗談を交えながら、真剣な眼差しで海を見つめた。
オルガはたびたび、海が自分の無力さを自虐することを否定した。
自国出身の英雄なのだからもっと誇ってほしい、というものや、それじゃ撮れ高が、だとかいう感情なんかよりも、単純に、自信を失った人間を見ていられないのだろう。オルガは自分の声が映像に入ってしまうことも忘れて、攻撃的な言葉を交えて海へカメラを回し続けた。
《ずるい質問するね、お前》
海は鼻で笑いながら、髪をかきむしった。ヘッ、と乾いた笑いを浮かべ、そして腕を組んでしばらく考え込み、
《そうだね――》
と、一言つぶやいてから、ため息を吐いて――
《あまりここの部分は使って欲しくないんだけどさ……正直さ、居たよ。居たよっていうか、居るよ。うちにもそういう奴。それに、俺がこれだけ打ってるんだから、お前らだって……って思うことだって、あるよ。でも、俺もできるものなら、もっと打率なんてなくてよかったから、そのヒットひとつひとつが、試合の流れを変えることができたならどれほどよかっただろうとも思うよ、やっぱり。負けた試合で打ってても帳尻合わせだ、なんてファンからもきつく言われるくらいだから。うちのファンは、何かと荒っぽいからね。でも……そうだね。だからといって、お前が言ったような奴にはなりたくないかな。俺はいつ、どんな状況でも打ったヒット一つ一つが流れを変えられる価値があると思って打ってるし、どんな状況でも、打席一つ一つに、今日の試合をひっくり返せるほどの要素が詰まってると思って打席に立ってる。だから、そりゃあ……試合を決める場面で打席立ってたら、考えることだってたくさんあるし、ここで打たなきゃ、っては思うよ。でも、それ以外の場面を適当にやり過ごすことなんか、俺は絶対にしない》
そう言って海は立ち上がり、打席に向かう準備をした。
《あー、いいね、そういうの。そういうのさ、みんな喜ぶんだわ。そういう言葉、みんな聞きたがってたんだよね》
とオルガはカメラを追従させて立ち上がり、海の肩を叩いた。
《茶化すなよ》
海はオルガの腕を振り払い、打席へと向かった。
オルガは海と近しい選手へも積極的にカメラを回していた。ジェネル、真悟、そして――薫。
浅井薫という世間一般には『単なる打撃投手』としか思われていないその女性を、海やジェネルは信頼していたし、薫もまた、二人を信頼していた。
他のスポーツにおいてもメディカルスタッフだとか、コーチだとかと厚い信頼の上にスポーツが成り立っていることが少なくないことをオルガもよく知ってはいた。ただ、海に取材するにあたって、浅井薫という打撃投手が海のために球速をアップさせるトレーニングをしていたことだとか、薫をはじめ、打撃投手らへの待遇の改善、給与アップを海が球団に申し付けた過去があるだとか――海を知る上で薫についてもよく知る必要があるとオルガは強く思っていた。
海にすらまだちゃんと詳しくは話したことがなかった、高校時代の足の怪我のこと。大学時代、足の怪我の影響からかなかなか球速が戻らなかったこと。代わりにコントロールや球のキレ、さらに出所の見づらいフォームへの改良や変化球の数を増やすことを模索してみたこと――。
一度は『プロの舞台で海と勝負する』という夢を諦めかけていた少女が、ダメもとで受けた海のいる球団へ打撃投手として入団し、そして今、別の形で夢を叶えている。
他人へいい影響を与えているにもかかわらず、自分が未熟だからだとか、自分が失敗ばかりしているからだとか――海がそうして自分を卑下することをオルガは嫌った。でも、それを海に直接指摘しすぎることは海のパフォーマンスへ影響しかねないことくらいはオルガだってわかっているから、TPOだとか、そのつつき方だけは一応わきまえているつもりだ。
海が打席に向かうことで、近くで軽く投球練習を行っていた薫もまた、マウンドへと向かっていく。
海は先ほどまでの少ししおれた表情なんかとは打って変わって、戦士の顔つきになっていた。
きのうも何本もバットを折り、今日も再び新しいバットを握り締める海。今日は一体何本折るのだろう――オルガはそんなことを考えながら、マウンドに立ってから少し上ずり気味の薫の投球を見つめていた。
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「……はぇっ!?」
バタン!と音を立てて何かが倒れたことに、華耶は思わず慌てて後ろを振り返った。
「え……!?なに、なに……?」
いったんパソコンに備え付けていたカメラを停止させ、席を立ち上がる華耶。
割と固めのものが倒れたようだったが――とあたりをきょろきょろと見回すと、棚に置いてあった写真たてが倒れていた。
「あー、これか。もう……びっくりさせないでよ。地震かと思ったじゃん。えーと地震速報は……ないね。なんだ、ほんとに突然倒れただけか。縁起悪っ」
いかに仕事用の部屋とはいえ、掃除は定期的にしているつもりの華耶だったが、その写真フレームの裏は少しだけほこりがついていた。
華耶はほこりを振り払い、軽く棚の上をふき取り――もう一度写真たてをゆっくりと置いた。
まだ海と出会って間もない頃の写真だ。
初対面の海と秋葉原方面で飲食した喫茶店。そこのソフトクリームが気に入った華耶は、海とのデートで方向が合いさえすれば、そこに行きたがった。
相変わらず表情の硬い海と、相変わらず、海にベッタリで、派手にピースしてみせている学生の頃の自分のの写真。華耶のお気に入りの写真のひとつで、それを写真にして現像した上で、アナログ時計にもしてあった。
自分も海も、あまり見かけの歳をとらないほうだが、やはり30年近くも前の写真となると、互いに今よりは当然若い。
常に女として見られることを意識し続け、そして今なお20代後半から30代前半に見られてもおかしくない姿を保っている華耶だったが、この頃の、海と出会った頃の自分をなるべく劣化させたくない、という思いの強さが華耶の若さを保ち続けていた。
この頃はまだ大学に入りたてで、ノーメイクだった。自分の肌には自信があったから、化粧なんてしなくてもいいものだとばかり思っていた。今だって極端な厚塗りをするわけではないが、当時の肌と比較されると、やはり時代の流れはいくらかは否めない。
もっとも、自分と同い年の芸能人や役者なんかを見ていると、自分のほうがもっと若いという自負だって常にあるし、町を行く人々を見て、耳に入ってくる自分と大体同じくらいの歳になった、という言葉を聞くたびに華耶は、自分の若さの維持が成功し続けていることを改めて自負した。そして海もそれに呼応し続けるように、若くあり続けている。
とはいえ、少しでも気を抜いたら一気に老け込んでしまうような歳にまでなってしまった。老いを受け入れる、というのも悪いことではないのかもしれないが、いつか、海が『もう一度父親をやり直したい』と言っている以上、自分だってもう一度"妻"として受け入れられる姿でなければならない。それが一体何年後になるかは分からないが――華耶は決して自分が"女"であることをやめるつもりはなかった。
『……言っておくけど、俺はやめないよ。俺は、俺のためにこれまでも戦ってきたんだ。これからもそうするつもりだ。この戦いをやめはしないよ。俺が俺であるために――華耶との最初の約束だって、守り続ける。華耶の気持ちを無碍にはしないし、心には留めておくけど……それでも、俺なりにケジメをつけたいんだ。華耶に出会ってなかったら、華耶と結婚してなかったら、俺はきっと、今以上に俺を堕落させてただろうから』
自分の分まで野球をしてほしいという思いを託したせいで海が傷つきながら戦っている以上、華耶はそれが海の妻として生きる償いだと思っていた。
海はきっと現役最後の日まで自分を認めないだろうけれど、もう十分すぎるくらい戦った。華耶が望んだもの以上の景色を海はたくさん見せてくれたし、日本一にこそなれなかったもしれないが、二度の世界一には輝いた。
写真に映っている自分は、海にただ一目惚れしていて――それでいて、野球をしている荒屋海という男にただただ惚れていた。壊れるまで抱かれたいと思っていたし、今よりももっと浅い次元で、この男と一生生きていきたいと思っていた。
「ねーえ、華耶。あんたさ……その人にプロポーズなんかするときはさ……変な言葉なんか使わないでさ、自分の都合なんか押し付けないでさ、まっすぐ、その人を受け入れてあげなさいよね。その人、あんたがちょっと触れてみせた心の一部なんかよりももっと深いところでいっぱい傷ついてるから。今度その人に会ったら、もっと、幸せにしてあげなさいよね。あたしも大分頑張ったけどさ、プロポーズだけ間違っちゃったせいでさ、30年、その人を苦しめちゃった。だからさ……あんたはもっと……優しく、純粋に受け入れてあげなさいよ、その人のこと。あんたが思ってる以上に、繊細で、傷つきやすくて、脆くて……それでも、戦い続けることをやめない人だから」
華耶はそう笑いながら、写真立てに背を向けた。
はぁ、とため息をついた華耶は、なんだか仕事という気分に戻るのは少し億劫な気がして、うんと伸びてから手元の水筒からコーヒーを一口含んだ。
もう一口コーヒーを飲み、気分を入れ替えようと作業用のPCのブラウザを起動してチーターズの動画チャンネルへと飛び、キャンプの映像を覗くことにした。少し、練習している海の姿を見てエネルギーを注入使用と思ったからだ。
「――え……っ?」
しばらくの読み込み中の画面のあと、ようやく動き出した映像。華耶はそのカメラが映し続けている光景に思わず口を押さえ、目を丸くさせた。
何か悪い冗談であってほしいと二度ほど目をこすってもう一度映像を見直し――
「……嘘……?」
と、もう一度、震えた独り言をつぶやいた。
アナログ時計の秒針の音が、いやに華耶の心を不安にさせた。