海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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193・27年分の孤独

危ない――そう思った瞬間には、もう遅かった。幾度となく受けていた内角攻めだって、避けるべきボールは避けてきたし、避けられないようなボールには背中を向けたりして怪我を防いできたつもりでいた。これまでもそうだったし、これからもそうあるはずだった。

 

サイドハンドから繰り出される、出所が分かりづらくギリギリまで腕が見えてこない薫のフォームと、最近めきめきと球速を伸ばしてきたストレート。

その薫がどうしても改善できずにいたのは、時折ストレートが変に指にかかってシュート回転してしまうことだった。とはいえ、ここ数年はそのシュート回転する癖もある程度自在に操れるようにもなっていた。

もともとストレートに強めのシュート回転がかかってしまっていたことを逆手に取り、最近ではストレートとほぼ同じ速度で切れ込んでくるシュートを薫はたびたび左打者――というよりも海に対して内角を突く際、対左投手の対策としてよく投げていた。

 

薫のそうしたストレートの癖を分かっていながらこれまでも海は内角で攻めるよう言い続けてきたのは、薫の唯一無二のコントロールがあったからこそだし、プロのサイドハンドでも時折薫ほどのかかり具合ではないがシュート回転をしがちな投手もいないわけではないからという事情があった。

いくら出所が分かりづらいフォームだからなどと言っても、薫のプロとしては少し遅いストレートの速さだからこそ、仮にそうしてシュートが抜けたとしても海はいつも対応することができたし、逆に薫の球にすら反応できないようであれば、いつか本当に自分は試合中に怪我をするだろうから――海はそう言って薫の内角に対する直球を要望し続けた。

 

確かに、薫の直球は今までよりもだいぶ速く見えた。薫のコンプレックスだった遅い球に固執するあまり、シュートがやや強くかかりすぎてしまったのだろうか――

そんな事実よりも、いくら薫の直球が速くなったとはいえ、こちらに向かってきた球をよけられなくなるほど――薫の直球に癖があると分かっていながら、自分の手元に向かってくるような球だと分かっていながらバットを引けないくらい、昔ほどの判断力や咄嗟の反射神経が自分からはなくなってしまっただけなのだろうか――。

最後の瞬間は、そんな現実から目を背けたくて、反射的に首は横を向き、そして、目は瞑ってしまっていた。

 

コンマ数秒あったかどうかの現実逃避を罰するかのように、本能的にバットを後ろへと引いたことが余計に事態を悪くさせたのか――無防備だった右の手の甲から手首にかけての激痛が海を襲った。打撃の際は手袋をつけない海だったが、きっと手袋をつけていたとしてもこの痛みは大して変わらなかっただろう。

 

なんとかして薫に大丈夫だと左手を伸ばし、サインを出そうとしたが――その瞬間に走った痛みの後のことはよく覚えていない。

マウンドから降りようとしたものの、その場で青ざめて呆然と立ち尽くす薫、そんなに速く飛び出してこれるなら盗塁だってもっとできるだろお前――と言いたくなるほどのスピードで自分の駆け寄ってきたジェネル――。

 

 本当に遠のいたのは意識ではなく、夢だったのかもしれない――。

 

「――うまいこと書いたつもりか。バカかよ」

幸い、手指は動かせてしまうため、海は翌日の新聞を見て吐き捨てるようにつぶやいた。

昨日のうちに入院が決まり、検査の上で右手首にはギプスが巻かれていた海。どうやら、思っていたほど骨折の具合は悪くないらしく、ボルトを入れなければならないレベルのちょうどギリギリくらいで骨折の度合いはとどまっていたらしいが、念のため様子を見るなどの理由で数日ほど入院することになった。

 

とはいえ、全治には軽く見積もって6週間ほどは必要とも医者から言われており、まして、そこから再び戦線に加わって調子を整える――となると、少なくとも開幕には間に合わないだろうし、いかんせんキャンプを離れてしまっていることもあるので、どれほど早くても前期混合戦が終わる頃くらいでないと厳しいものがあるだろう。

そもそも、奇跡的に怪我の治りがよく、開幕前にギリギリ間に合ったとしても、いかんせん右手を負傷したものだから、前ほど力が入るかどうかとか、器用にバットを捌けるかどうかだとか――海にはそれが気がかりだった。

 

きのう、ちょうど琉美と諒斗がそろってインフルエンザにかかってしまったことで家を空けられなくなってしまった華耶は沖縄には来ることができず、一人部屋の病室は海の出す音以外はごくがらりとしていた。

取材陣の入室も完全に断っていたため、すぐさま見舞いに来ようとした木村からはBINEで

 

『僕くらいだったら別にいいでしょう』

 

などと送ってきたが、今は記者の類の顔は見たくなかった。それはオルガたちに対しても同じ事で、オルガたちへも『退院するまでの間、見舞いだとかそういった類のことはちょっと控えてほしい』と連絡していた。

さすがにまったく映像がないのは困るということで代わりに病室の映像を、などと頼まれてしまったものだから、しぶしぶ海は看護師にカメラを手渡して軽く病状の報告と痛々しい手の様子などを撮影してもらったのだが――何が面白くてこんなものを撮影しなければならないのだ、という気持ちが海には強かった。人の怪我を見世物にするものじゃあない――という苛立ちもあったが、球団スタッフからも『こうなってしまったからには……』などと言われてしまい、海はやはりこの世界で自分を守ってくれるのは自分だけなのだなと再認識した。

 

騒ぎを聞きつけた田中からもBINEで無事かどうかの連絡が送られてきたが、なんとなくすぐ返事をする気になれず、海は携帯でテレビを見ていた。沈んだ気持ちのまま朝のワイドショーなんかも見る気になれず――

 

〈――それでは罰ゲームとしてビリビリ椅子を受けてもらいまーす〉

〈嫌やわ俺朝からこんなん!!!!こんなアホみたいな格好して今日最初の企画でビリビリとか!!!!〉

 

相変わらず朝からバカ騒ぎをしているだけのバラエティ番組をなんとなくで見続けていた。

 

話し相手は欲しいが、干渉するような連中と話がしたいわけではなかった。自分をよくは知らない人間か、あるいは、ただなんとなくで話題を提供してくれるような人間が、そばに居て欲しかった。

今、ジェネルだとか華耶だとかに会ったら自分は恐らくろくでもない言動をしてしまうことは簡単に想像がついたが、だからといって田中だとか木村だとか――真悟だとかが病室に来るのも、なんとなくそれはそれで違う気がした。

 

自分を全く知らないような誰かか、自分を佳井海というフィルターなしで話してくれる誰かがいればそれが一番いい――そう思っていたものの、だからと言って四人部屋の病室なんかに入ったらきっともみくちゃにされるだろうから、海はむしゃくしゃした。

 

病室には入れ替わりで若い看護師が入ってきた。自分を佳井海だとある程度認識している看護婦が多いようで、なんとなく自分に何かしらの見返りだとか、サインか何かを欲しがっているような気さえした。

海も自分の人気や知名度を自覚しているからこそ、まあ多少はそういうこともあるだろうと思っていたが、看護師としても自分の仕事という体があるから、たまに表情に一瞬だけ出るが、それらを言葉には出さなかった。

 

だったらいっそ言ってもらったほうが気が楽になったし、なんとなく、胸に秘めているものをこちらが察しなければいけないような状況が今の海にはとても辛かった。

 

こんな所で休んでいるわけにもいかないのだ。

 

それも、別に手術が必要なほどの大怪我だったわけではない――という、ひょっとしたら当たりどころがもうちょっと悪くさえなかったならば、実は骨折などせずに済んだのではないか――という思いすらしたものだから、海はますます自分の情けなさに腹が立ったし、悔しく思った。

 

実質、大した怪我でもないということが余計に自分の気持ちを逸らせたし、そんな怪我"くらい"――思っていたとしても決して"くらい"などとは言ってはいけないのだが、そんな怪我でひょっとしたら自分の今後の打撃はしぼんでしまうかもしれないというみっともなさが海の気持ちをさらに締め付けた。

すぐそばで遠慮なくガンガンと質問攻めにされるのは嫌だったが、罵ってくれるなら罵って欲しかったし、甘やかせてくれるのならば、いっそ、脳が溶けるほどまで甘やかせて欲しかった。今は、中途半端に気を遣われたり、中途半端に寄り添われて、中途半端に去られていくのが一番辛いのだ。

 

薫はどうしているものか、と、薫の心配も海は一瞬してみせたが、だからといって自分から薫に気にするなと連絡したところで薫の気持ちを余計に傷つけてしまうことも考えられた。

自分だって痛いし苦しいが、薫としてもきっと落ち込んでるはずだ。仮にケロっとした表情で立ち直り、きょうもマウンドに立っているというのならそれこそ打撃投手なんかやめて今すぐにでも中継ぎかローテの谷間として使うべきだと思うのだが、さすがにそんなことはないだろう。まして薫は自分なんかを目標にしてここまで野球を続けてきたのだから、気にしていないわけがない。

決して海が自分に対して自惚れているわけではなく、薫が打撃投手になって、ここまで投げ続けてきた姿を知っているからこそ、海は薫のことを案じた。案じたが、それ以上のことはできなかった。

 

考えれば考えるほど、何かしら会話相手が欲しかった。時折、BINEにはこれまであまり連絡なんてなかったくせに、ちょっと競演したことのある芸能人だとかからも心配のメッセージが送られてくる。

海はその通知を見るたびに鬱陶しそうな表情をして、とうとう通知自体にミュートをかけてテレビを再び見続けた。

 

「何回ビリビリやるんだよこの番組」

 

朝8時スタートの番組で、まだ9時前だというのに既に3回ものビリビリ椅子を行っている番組構成に海は思わず苦笑を漏らした。

 

激しく手を使うようなゲームも出来ないため、球団スタッフから携帯ゲーム機・poconeを持ってきてはもらったものの、アクションゲームなんかはご法度なものだから、海は呆然とインストール済みのゲームを見つめていた。

仕方がないので携帯で動画サイトを漁り、なんとなく流し見をしながら、こうでもない、ああでもない――としているうちに昼を迎えてしまった。

 

「……そうか。こうして、歳とるんだな」

 

野球に打ち込んでいるときは、一日の時間の経過などあまり考えたことがなかった。オフの間だって、華耶を連れ出してどこかに出かけたりなんかをしていたが、いざ本当に一人だけの自由の時間を与えられたら――正確には自由ではないのだが、今、突然野球を辞めたら、思っている以上に自分には時間がある。

そして、その時間が大量にあると分かっていても、呆然と携帯なんかをいじっているとその時間も簡単に過ぎていってしまう――。

 

早く現場に戻らなければ――という気持ちが強まっていることと同時に、今本当に辞めてしまったら、自分は有り余るほどの時間が手に入るし、海外で突然豪遊などしたり突然思い立って変な会社なんか建てたりしてろくでもないビジネスでもしない限りは使い道に困るほどの金だって手元にあることを海は思い出した。

 

「……」

 

〈――ということでねー、きょうは先にちょっとお知らせがあります!今までこの4年、配信日を基本的には月・木・土の週3日、ちょっとした動画を金曜日に投稿ってサイクルでやってたけど、4月からいったん配信予定日を水・土の週2日、ちょっとした動画は不定期に変更しまーす!ちょっとね、今年の4月は忙しくなりそうなんだー。一応ね、何かあったらすぐに各種SNSで告知はするから――〉

 

本当におすすめする気があるのかと疑わしくなるような動画サイトのおすすめ欄には相変わらず、自分が一切見る気がない動画ばかり立ち並んでいた。

その中にぽつんとたたずんでいた、シエル・アウリンコイネンの動画。

 

なんだよ、また出てきやがって――

と海は動画欄をスクロールしたつもりだったのだが、携帯はそれをタップと認識したようで、画面には相変わらずまぶしいたたずまいの少女がテンション高めに色々と喋っていた。

 

海の言う"ガワ"が"ガワ"である以上、中身の人間の生活サイクルが変わったら配信のペースだって変えなければならない。"ガワ"は成長もしなければ老化だってしないが、中身は日々年を取るものだから、いつかはこの"ガワ"からだって卒業しなければいけない日だってやってくる。

この"シエルナントカ"の中身が一体どんな人間かは知らない。ジェネルや薫からは、学生だとかよりももともと社会人だった人間だとか、あるいはそもそも社会人をやりながらやっている者だとか、主婦だとか、はたまた実は齢90を越える老人だとか……誰だってこの"ガワ"さえあれば今は人の目を引くことができる一方、その"ガワ"を作るまでの流れがまあまあお金がかかることなんかも聞かされていた。このシエルなんとかという少女も、例に漏れず金には余裕がある人間が中身なのだろう。

 

〈――でね、でねっ。ちょっと苦戦してたイントロのシメの部分もなんとか弾けるようになったんだ。大分ごまかしごまかしではあるけど、最低限外しちゃいけない音だけはちゃんと外さないようになったんだー〉

 

「外してるじゃねーか」

 

これだけは弾けるようになりたいと言っていた『Born to Fight』だけでなく最近は『Take a Flag』にまで手を伸ばそうとしていたシエル。

激しいタッピングを練習しているシエルのギターから鳴る音は、知らずに聞いている人間からしてみたら『まあまあ』弾けているのかもしれないが、もともと弾いている本人からしてみたら『大体』しか弾けていない。

ジェネルの話だと、ギターを始めてまだ2年くらいしか経っていない上に、別にシエルは配信のときにギターだけ練習しているわけではないと考えると、それなりに善戦しているほうなのかもしれないが――。

 

「……」

ふと、両手を動かしてエアーで演奏をしかけていた海は、手首をギプスで固定されていることに気がついた。まさか、エアギターをして症状を悪化させましたなんてことを医者にもメディアにも、球団にも言えるわけがない。

海は動画を停止させ、また別の動画を検索し始めた。結局その後、動画をザッピングして回り、最終的に動画配信サービスで映画を見ることにした。真結と広乃が主演した映画なんかも見ることにしたが、もともと少女マンガ原作ということであまり内容が肌に合わず、海にとっては徹頭徹尾、二人の水着シーンしか頭に残らなかった。……それもそれで父親としてどうなのだろう、とは思ったが。

 

映画を見終わる頃、ちょうど練習が終わったタイミングだったのか、ジェネルから電話がかかってきた。出るべきなのかどうか、海は迷った。

一度、電話に出なかった海は、呆然とその画面を見つめた。かけ直すべきかどうか迷った。今ジェネルなんて見たりその声を聞いてしまったら、自分はおかしくなるだろう。病室には来るなと自分から言うべきかどうか悩んでいたら、しばらくしてまた電話がかかってきた。

 

ジェネルだって電話をかけずにはいられない状態だということを海も理解できた。清兵衛のときもそうだったし、自分が思うような打撃ができなくなってからもそうだったが、ジェネルのいいところでもあり、悪いところがそこにあった。自分には些細なことくらいしかできないのに、動かずにはいられないのだ。

 

自分だって今は心細い。声だけ聞いておいて、病室には来るな、くらいのことは言おう――海はため息をついて、通話ボタンを押した。

 

「……もしもし」

〈……もしもし?海さんですか――?〉

 

世界が破滅することを告げられたかのような沈んだ声がそこにはあった。

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