大阪、伊丹空港。戦列から離れた海は、自らの意思で沖縄を離れて大阪に戻っていた。
重症ではないからこそ、無茶して動いて怪我を悪化させかねないと思った海は、このキャンプを素直に諦め、オープン戦や開幕に間に合わせるための療養期間を設けることにした。
《……別に、俺を追ってこなくてよかったのに》
《練習の様子はそれはそれで撮らないといけないけど、私の仕事はヨッシを追うことだからね。悪いけど》
ぴたりと同行したままのオルガに対して海は嫌味を言いながらキャリーバッグを押して歩き始めた。そんな海をなんとも思わぬそぶりでオルガもまた当たり前のようにカメラを取り出して追いかけ始める。
こんな姿撮ってどうするんだよ――と海はオルガを蹴り飛ばしたい気分だったが、手を出すだけ自分の株だけが下がることを知っているから、内心むしゃくしゃしながらも大股でその歩みを止めなかった。
《追ってきても、今の俺には何もないよ》
《でも追わないと何も撮れないからねー。そういう仕事だから、うちらも》
《よしてくれよ。今俺にカメラ向けても、何も撮れやしないよ。怪我した男がそこにいるだけで、後は何もない。仮に同情してるつもりだとしても、お前にできることなんか何もないんだぞ》
《でも、荷物くらいなら持てるからねー》
オルガはカメラを向けながら、海の手荷物を代わりにすっと持った。一本取られたような状況に海は思わず舌打ちをした。
《家に帰るの?》
《まあね。子供がインフルエンザかかっててさ。もう熱は引いたらしいけど、このあとどっか寄ってなんてことはできない。少しでも早く父親に帰らないと》
《そっか》
タクシーへと向かった海をオルガは追いかけていきながら――
《一応さ、私もキャンプは切り上げて大阪にいるから。これはこれで撮らせてよ。あんまりいい気しないと思うけどさ、こういうのはこういうのでちゃんと撮らないと、こっちもそういう仕事だから》
《メディアなんてみんなそんなもんだからな》
海はフッと笑って、タクシーへ乗り込んだ。
「吹田の江阪まで」
「はい」
タクシーのドアが閉まる。ふと、車窓からそれなりに心配そうな表情を浮かべているオルガの表情が見て取れた。カメラこそ回し続けているが、オルガ自身もどんな言葉をかけていいのか分からないのか、それとも、単純に怪我をしている人間への哀れみや同情なのか――。
海はそんなオルガの安直な表情をなるべく見ないようにして、まっすぐを見つめた。普段メディア側の人間でいておきながら、こんなときだけ一丁前に一人の人間に帰る――。木村だってそうだ。
メディア側の人間ならメディア側でそちらに徹すればいいものを、中途半端に一人の人間として自分に構うくらいなら、そんな仕事やめてしまえ――と海は思った。
だからといって遠慮のないメディアの人間が自分にかかわってきたらきっと自分は不機嫌さを露骨に出すのだろうけれど――。
玄関の前にこそ着いたものの、素直に家の中に入っていいのかどうか、海は悩んだ。今自分の空間を知ってしまったら、自分はそこから抜け出せなくなる気がする。できるだけ一人でいたかった。でも、この世界に自分で一人で居られる場所はない。
ロックを解除し、左手でノブを不自然に開けてゆっくりと家へと入った海。華耶は仕事中のようで、降りてこなかった。晴留や新たちが家から出て行って空き部屋になった部屋のひとつを、最近、どうしても一人になりたいときの一時的な居住空間にしていた海はいったんそこに荷物やらなにやらを置き、ゆっくりとベッドへ寝転んだ。
結局、病院に居ても家に居ても、やることは大体同じだ。強いて言うならば病院よりも自由が利くから、ネットで何か買い物をするだとか、少し大きい音で動画などを流しても何も咎められないという利点だけがそこにあった。
家に戻ってから何時間かの間、部屋に鍵をかけてそうして再びなんということもない時間を過ごした。ゲームをしようにもコントローラを握る手に変に癖をつけそうな気がしたし、結局、寝ながらテレビや動画を見たり、大人を消費するくらいのことしかできなかった。
こんなことなら大阪に帰らずに、華耶の実家のある長野にでも逃げればよかっただろうか――とも海は思ってしまった。大阪という街は自分を隠して生きるには――別に自分を隠すというわけではないのだが、自分の世界だけで生きるには人が多すぎる。それは、東京の無機質なビル街の中にある人々の無関心さとは違う。
別に近所の人間や、自分がこのあたりに住んでいることを知っている一般人に特段何かされたエピソードがぽんぽんと出てくるわけではないのだが、普段の球場でのことを考えると海は特に単独で大阪の街を練り歩くことへの抵抗感をとうとう拭えずに今日まで生きてきた。
かといって長野へ一人で行くのは、家族を見捨てることになる。病み上がりの子供たちを置いて一人華耶を残して……などというのは、海には出来なかった。出来るわけがない。自分は野球選手であると同時に、父親なのだ。自分から野球が今取り上げられてしまった今、自分は一人の人間であるより先に、父親なのだ。
冷静になるために頓服薬を飲み、海はやや強引に眠りについた。
家に帰ってしばらくの間は左手だけでも料理が食べられるように、と華耶はおにぎりとサンドイッチをよく作ってくれた。海はそれを少し恥ずかしく思いながら食べた。
これが何年か前だったならば、きっと柊理は
「私もサンドイッチがいいなー」
なんて言っていたかもしれない。頭も切れるほうだし、晴留のように色んなことにこそ挑戦したがるものの少し甘えん坊だった柊理。どの子供たちだって頑張って生まれてきたが、中でも一番頑張って生まれてきた――華耶がどうしても産みたいと言った柊理も今の4月で小学6年になる。
相変わらずきょうだい同士べったりの琉美と諒斗だって中学3年になり、直人を追うようにして高校受験が始まろうとしている。直人は啓皇への推薦入試を無事に突破し、直人なりにどう次の3年を過ごすべきかを考えているようだった。
〈――薫ちゃん、責任取って辞めるって言い出したんです〉
〈今辞めたって、しょうがないじゃないですか。私、それは絶対ダメだって止めたんです。でも……少なくとも今のままじゃ、投げ続けられないって……〉
〈一応、本人の気持ちが戻るまでしばらく薫ちゃん、マウンドには上がらないみたいです。私……どうしたらいいか……〉
海は、数日前に聞いた、ジェネルの受話器越しからでもハッキリと分かる沈んだ声に対して気の利いた言葉を返せなかった。
〈分かってるんです。こんなこと、海さんに今言ったってどうしようもないこと〉
〈でも……嫌じゃないですか、こんなの。当てたくて当ててるわけじゃないですし、海さんだって当たりたくて当たったわけじゃないのに〉
そんなジェネルの言葉に海は
「何度も言うけどさ。自分にどうしようもできないのに、中途半端に他人のことに足なんて踏み入れちゃかえって相手を傷つけるもんだよ。俺だって……好きで病室にいるわけじゃない」
と、突っぱねるようにして通話を切った。
その態度がよくないことだって海自身分かってはいるが、だからといって自分には、薫にも、ジェネルにも、どうにもできる自信がなかった。変に薫にすぐ連絡するのも憚られたし、気にするなと声をかけたい一方で、薫が気にしないわけがない。
それに、今年こそはと自分が意気込んでいたのもまた事実だ。自分に嘘はつけない。決して薫のせいではないのだが、気にするなという言葉がかえって、薫の心も、そして、言った自分自身の心にも傷をつける気がして、海は連絡を取れずにいた。
正直言って、もうどうしようもない気がした。気持ちだけは前に向いているのだが、身体がそこについてこない。身体がついてこないから、どれほど前を向こうとしていても気持ちだって段々引きずられて、もう無理だと思い込んでしまうようになる。まだ手首だって治ってすらいないというのに、悲観しかできずにいる。
〈――それでは音程を保って歌えるでしょうか!7曲目に挑むのは、The Xの『Hunting Time』!どうぞ!〉
「次にバット持ってさ、1ヶ月以内に調子が戻らないようなら俺、辞めようと思う。……結局、華耶が望んだもの、叶えてやれなくてごめん」
ふと、他愛もないテレビ番組を見ながら海は隣でポップコーンを食べている華耶を向かずに、ぽつりとつぶやいた。
「……」
「今でもテレビ局だとかなんだとか、カラオケだとかさ。ちょくちょく俺の曲使ってくれるからさ、それだけでも結構お金が入ってくるんだよ。別に、お金の問題ってわけじゃないけどさ」
もしゃもしゃ、とポップコーンを食べていた華耶はその手を止めずに、なみなみと注いであったシマを大きめな一口でごくりと飲み込み――再びポップコーンへと手を伸ばした。
「俺さ、思っちゃったんだよ。柊理も、琉美たちも、今年で卒業だろ。辞めるならもう今年しかない気がしてさ――」
「――子供たちを盾にするんだ」
華耶から意地悪な言葉が返ってきた。海は予想してなかった言葉に、言葉を少しの間止めた。
「……そんな言い方ないだろ。でもさ、なんかもうダメな気がするんだよ」
「違う」
華耶は海を見ようとはしなかった。もしゃもしゃとポップコーンを食べ続けながら、他愛もないテレビ番組をずっと見続けていた。
「……ダメってことにしたいだけじゃん、今の海くん。戦う前から諦めるなとかさ、そこに可能性がある限り大量ビハインドで迎えた9回の攻撃だって諦めないとかさ、今まで……ずっと強がってきたじゃん。……やる前から……やる前から、自分を諦めないでよ」
「でも俺はもう――」
華耶はぐるっと海のほうへ体を向けて、悲しげな表情を見せた。てっきり怒っているのかと思ったが、単純に怒っているだけでもないようだった。
「……あたしは、身体がこんなんだから、周りについていけない中で、便利屋として扱われるようになって自分を見失った。あたしのお父さんは、自分よりすごい選手を目の当たりにして、もっとがんばらなきゃ、って思って、それで無茶して負った怪我の影響で野球を諦めた。……違うんだよ。優勝だって日本一だって、海くんに託したかった。でも、あたしが本当に今望んでるのは――今更こんなこと言ったら、都合のいい女かもしれないよね。だったら、もっと早くから言えばいいものをなんて、きっと海くんに死ぬまでずっと恨まれ続けても仕方ないんだけどさ……でもさ、違うんだよ。あたしや、あたしのお父さんみたいに、やる前から自分の限界を悟って現実から逃げる形で諦めるんじゃなくてさ……やるならさ、やってから諦めてほしいんだよ、どうせ夢を諦めるならさ。日本一になれなかったのだって、海くんはやれるだけのことはやった。ようやったよ。あんなクソみたいな……どこの世紀末だよってチームで、ようやったよ。十分すぎるくらい、ようやった。本当に……本当によく頑張った。でもね、去り際まであたしは……海くんが、佳井海であることを忘れないでほしいんだよ。怪我の影響でもうダメだって思ったなら、それはしょうがない。だけど、バットをもう一度握る前からさ、もう自分はダメだみたいな前提でいないでよ。バット握りました、今までみたいに振れません、なんとか自分なりにもう一度頑張ってみました、それでもやっぱダメでした、くらいやってよ。……海くんが……海くんがずっと周りに対して思ってたことだよ?『どうして自分から終わってもない試合を終わったような顔してるんだ』って――」
華耶は涙をぽろぽろと流しながら、海に訴えかけた。
「……分かってるんだよ。言うのが30年遅いんだよってこと。あたしは、そうやって――あたしだけじゃない。うちの家族が海くんに夢を託しすぎた。きっと海くんなら、あたしたちの分までの夢を叶えてくれるって思っちゃった。だから、この怪我はあたしへの罰でもあるんだ。だから、あたしをいくら乱暴したってかまわない。腰の骨が折れるまであたしを抱いたってかまわないし、首に手をかけてあたしのこと本気で壊す勢いで抱いたってかまわない。頬をぶたせろって言うなら、いくらぶったっていい。尻を蚯蚓腫れになるまで叩きたいなら、叩けばいい。……何したっていいからさ、自分の思うようにいかなかったからって、そのゴールを目前にして、走るのをやめないでよ。走るのが無理なら、歩いたっていいからさ。……見えてるゴールから、理由をつけて逃げないでよ……」
海にすがるようにしながら華耶は黙って泣き続けた。言うだけ言ってから
「でもさ……ごめんね……あたしのせいなんだ、この怪我は……っ」
と、なるべく手首そのものには触れないように、華耶は海のその右腕を何度もさすりながら泣いた。
海はそんな華耶を咎めることはできなかった。無様でも走らなければいけないという使命からはそれでも逃げたかったが、華耶の訴えも無碍にはできなかった。
華耶だけではない。きっと、日本中の――世界中の――いったいどれほどの数がいるかなど本当は分からないが、自分を信じるファンというものがいるのならば、自分はそれらが納得する形で退かなければならない。
それでも海は、自分の打撃はもう戻らないだろうとは思っていた。だが、戻らないなら戻らないなりに、華耶の言うように自分の言葉で退かなければならない――そう思った。
こんな怪我さえなければ、という思いと、ここまで野球というものに振り回されさえしなければもっと楽に退けただろうに、という思いとがその考えの足を引っ張ろうとしたので、海はぐっと唇を噛んだ。
できることなら全てを投げ出してここからいなくなってしまいたいという思いは同時に、胸の底では蠢いていたのだが――。