「……これでよし、と」
引越し業者から受け渡されたダンボールをいったん仕分けしきり、華耶は額の汗を拭った。小さい身体でよくもまあこれほどセカセカと動き回るものだと海は感心しながら華耶の様子を眺めていたが、ふと、不安が胸からせりあがってきた。
「……本当によかったんだよな?こんな家借りちゃって。家賃だって安くないのに」
秋季キャンプを終えた11月の暮れ、天王寺に家を借りた海と華耶。球場からも車で30分ほどで着くのだから、悪くない。
球団には寮から出ることのほか、近々籍を入れ、ごく身内で式を挙げる予定であることも告げた。まだデビューして間もないこともあって、式は出来るだけコンパクトにさせて欲しいという海の要望はすんなりと通り、海は少し安心した。
卒論も順調に進めているという華耶は、一応、大学の指定した寮には在籍したまま、しばらくの間は天王寺の借家で卒論を進めながら同棲することとしていた。
「いーのいーの。あたしだって家賃払うわけだからさ。住まいのゆとりは心のゆとりって言うじゃない」
「言うの?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
華耶が適当な言葉を笑顔で言うので、海は華耶を軽く小突いた。
「それに……」
「それに?」
「たとえば、だよ。たとえば、本当に現役の間ずっと海くんが兵庫にいたとして、だよ?」
「……いつまで居られるかだけどね」
「そのときはそのとき。問題は、本当にずっとここにいたらの話。子供ができたとき、部屋がなかったらそれはそれで困るでしょ?」
「困るっていうのは…………あぁ」
かつて自分が父親の情事を見た時の不快感が海の中で古傷のようにうごめいた。
あれは特殊な事例であることは間違いないのだが――と海は自分の中で言い聞かせたが――
「それなりに家が大きくて部屋がいくつもないと、あたしたちにとっても子供たちにとっても、困ることたくさん出てくると思うんだ。いつ、何が起きてもいいように、住まいは出来る範囲でちゃんとしたところにしたほうがいいかなって思って」
「なるほどね」
「……って言っても、どうしようね。移籍のことだってあると思うし……まー、その時はその時でまた考えたらいいと思うけどさ。子供のこと考えると、どうとでも取れるようにしたほうがいいかなっては思うんだ。幸い、あたしはリモートで働ける仕事しさ」
プロ野球は海の所属するエクスプレスリーグ、そしてシティーズリーグの2リーグに分かれている。そのうち、どちらかというとやや玄人向けと言われているのがシティーズリーグ――通称・Cリーグ。
その試合をややコアな目線で切抜き配信を行ったり、リーグ全般の広報も行ったりする企業が、Cリーグチャンネルだ。youreTUNEでの再生数は多いものだと1000万再生を超えたものだってある。
どんな形であれもう一度野球に関わりたかった華耶が、特に熱心に狙っていた企業のひとつがCリーグチャンネルだった、と海は聞いていた。
実際のところは、本人が希望すれば本社勤務ではなく年間の多くをリモートでも働けるというところが華耶にとっては一番重要だったのではないかと海は思っていた。
いつどう異動になるか分からない仕事だから気を遣わせてしまったのではないかと思い、海は引け目を感じていた。本当はもっとやりたい仕事だってあったのでは――そんなことを考えることもあったが、それを口には出さなかった。
華耶の実家のある長野からだってそう遠くなく、12球団のうち半数近くが固まっている関東圏の球団であれば、もう少し華耶の仕事選びにも楽をさせることもできたのだろうけれど――と海は思ったが、華耶だって覚悟をして自分についてきたのだ。華耶にも華耶なりの考えがあって行動しているのだ。そう思うと、海は華耶の考えに口を出すことはできなかった。
「育休とかだってちゃんとついてる会社だしさ。福利厚生がしっかりしてるとこ就職するのが大前提だったしね。だから、その辺は海くんがあたしを好きにしていいってことで」
「……好きにしていいって言われるとなんだかな」
「だってさ、あたしの口から子供たくさん欲しいって言ったらプレッシャーになるでしょ?あたしを抱くことにプレッシャーなんか感じちゃったら、海くん、自分に帰れる場所がなくなっちゃうでしょ?」
「……そんなに欲しいの?子供」
海は華耶が軽く言った言葉に少し嫌そうな顔をした。
「子供は家族の幸せの象徴じゃない」
「……俺はあんまりそう思わないけど。何そのステレオタイプなやつ」
ニッ、と笑顔を浮かべたままの華耶に、海は複雑な表情を浮かべながら目を伏せた。
結婚するということは、いずれは自分も父親になる日がくるということだ。いつまでも華耶の彼氏という立場のままではいられない。
しかし、自分がそうして父親になり、子を育てる――というビジョンが海にはまだ見えなかった。
あんな父親の遺伝子を持った自分が、いい父親になれる自信がなかった。肌を重ねる日々の中で、いつかは二人のもとに子供ができることは常に頭にあったけれど、改めて華耶から直接そう言われると華耶から自分を求められたとき、自分は男で居られるかどうか不安だった。
「……じゃあさ、こう言い直そっか」
華耶は不安げな表情を浮かべた海に寄り添い、そう切り出した。
「あたしね、海くんを幸せにしたいって言ったよね」
「ああ」
「海くんの家のことも知ってるから、なおさらなんだよ。海くんのお父さんはあのあと、子供作ったんでしょ?なんかさー、悔しいじゃない。海くんのことも、海くんのお母さんのことも、最初からなかったことにしようとしてさ。だから――あんな……あんな、って言ったらさすがに失礼かもしれないけどさ。あんなお父さんよりも、ずっと、ずーーっと、幸せな家庭をさ……築きたいんだよね。たくさんの子供に囲まれてさ――そんな楽なもんじゃないって分かってるけどさ、なんかこう……昔めっちゃ流行ったアメリカのホームドラマみたいなさ、たくさんの子供に囲まれて賑やかでさ……ああいう家庭を築きたいんだ」
「その時には俺の声をあのドラマの"おいたん"があててくれるわけか」
「あてなくてもいいくらい声はいいじゃない」
「……声優に失礼だぞ」
「へへへ。でもさ、せっかくやっとずっと一緒にいられるんだからさ、あたしはできればその分、今までできなかった以上にたくさんの夜を過ごしてさ、結果的にたくさん子供欲しいっていうのはあるよ。それは本当。ほら」
ダンボール箱を開け、華耶が取り出したのは過激な衣装やら下着やら……とても他人に見せられるようなものではないものも混じった、まさに欲にまみれた塊だった。
何度か華耶はこうした物をつけて自分の目の前に現れたことはあったが、海が見たことのないものだって随分増えている。思わず海はいくらかそれを手に取り、怪訝な表情を浮かべながら箱へと戻した。
「……俺の知らないものがずいぶん増えたね。なんだよこれ。もはや下着としての機能がないじゃないか」
「いやー、最近また"こっち"だけが成長期でねぇ。どうしてもサイズが合わなくなったものは処分したんだけどさ」
「まだ育ってたのか」
「少しくらいは背のほうに栄養がいってくれるといいんだけどね。太ったわけじゃないのが幸いだけど」
「……」
言われてみれば、確かに――と海はじろじろと華耶の体を見漁った。
華耶なりに努力してきたのだろう。本人が言うように決して太ったわけではなく、単純に、もとから低い身長に似つかわしくないはじけ飛びそうな体つきがさらにレベルアップしたような――少し気を抜けば海の思考をつい鈍らせるような体つきになっていた。
思わず下着のタグをもう一度見て、サイズを見つめてから、もう一度華耶のほうを海は向いた。
「あー、もう!駄目だって海くん!あたしは逃げないからさあ!こう、無言で抱きつくのは心の準備がっていうか体格差を考えて欲しいっていうか……!」
どうせ1月の末になればまた海は春季キャンプでばたばたと忙しくなるのだから、しばらくの間は一緒にいさせて欲しいという、珍しく華耶が放ったわがままだった。
料理教室に通ったと以前言っていた華耶は、自分なりに家事を勉強してきたのだろう。『うちに代々伝わるトルコライス』なんて言って、引っ越してきて最初の夜は盛大に料理を振舞われた。食べるものにはしばらく困らないだろう。
俗に言う"甘ったるい生活"……もしくは"爛れた生活"がそうして一ヶ月ほど続き、辺りはまたクリスマスムードをなしはじめた。
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「……はじめまして」
自分の都合とはいえ、これから実質息子のような形となる海にとって、相手側の父母というのは、なかなか顔合わせといってもぎこちない挨拶になるものだった。
まして、華耶の親なのだから大丈夫だろう、という考えがある一方で――親というもののイメージが自分の中ではあまりよくないイメージとなってしまっている以上、海の表情は硬かった。
金こそ振り込まれ続けてはいるが、相変わらず連絡の取れないままの母親にもとうとう一切の連絡を入れられないまま、この日を迎えてしまったという後ろめたさもあった。
籍を外れ、既に戸籍上は母親はただの他人にはなってしまっている。
とはいえ、これから自分はよその家の息子になるのだと思うと、海は果たして本当に自分のやろうとしていることは正しいのかどうか――ここにきて激しく葛藤した。
華耶からのプロポーズを受け、そのまま挨拶も含めて年越しはうちで、と言われてから慌しかったこの数日も、寝られたものではなかった。
「そんなに気にしなくていいのに」
華耶はそう言ってくれたが、移動の新幹線でも結局落ち着かず、ずっと貧乏ゆすりをしたまま寝るにも寝られず――タクシーの中で華耶に寝かしつけられるような形でやっと十数分ほど寝られたかどうか、というところだった。
「あなたが海くんかな。華耶からよく話は聞いてます。ささ、どうぞ座って」
隣に華耶が座ったのもあるが、初めて会う華耶の母親、三葉は160cm台くらいの身長だったし、父親の竜匡は華耶に似たのか少し小柄だったものだから、極端に高い海の座高はよく目立った。
「背の高い人はやっぱりイスに座っても大きいものだね」
竜匡は見上げるような形で海を羨ましそうに見つめた。
「……どうも」
ぎこちなくそう挨拶をした海。どこに行っても背のことと生まれのことを言われることには慣れてはいたが、海自身なかなかこの場に慣れられなかった。
「改めて紹介するね。お父さん、お母さん、この人が……あたしのカレシ……ううん、もうすぐお婿さんになる海くん。テレビで見たことあるかもしれないけど……チーターズの選手。まだ3年目なのに、今年は代打で.280近く打ったくらいの将来の天才打者」
「天才打者は言いすぎだよ」
海は華耶の脚色したような言い草に嫌そうな表情を浮かべた。
「でも.280くらい打ったのは事実じゃない」
「華耶、その辺にしときなさい」
海の表情を読み取った三葉になだめられ、華耶は本題に戻って話し始める。
「前にも少し話したけど、海くんのお母さんはもう日本にはいなくて、お父さんとも事実上の絶縁状態。だから、海くんのほうから、あたしたちの家に入って、婿養子になりたいっていうことで今日来てもらってる」
「うちとしては歓迎だよ。事情の大体は華耶から聞いてるし、華耶がそこまで言う男の人なら、佳井家に是非入れてあげたい」
「男の子がいなくてちょっと焦ってたところだしね、うちは一人っ子だったから」
「結構、頑張ったんだけどね」
「お父さん」
竜匡もあまり言葉は上手ではないようで、華耶に睨まれて言葉をつぐんだ。
「プロポーズも……海くんが本当は最初だったんだけど、あたしが改めてプロポーズし直した。あたしがちょっとビビっちゃってね。お婿さんにしてほしいなんて、一応言われる気はしてたけど……やっぱり、突然言われるとあたふたしちゃって」
「海くんが先だったの?」
「えぇ、まぁ」
「うちの娘を……ありがとうね。この子、落ち着きがなくて」
話が違うじゃないか――と三葉は華耶を見つめ、ニッと笑った。華耶は気まずそうな笑みを三葉に向け、顔を真っ赤にさせた。
「でも、俺は華耶に……華耶さんに助けられましたし――」
「まぁまぁまぁ、その話はまあいいじゃない」
慌てて遮る華耶。何かまずいことでもあったか?と海は目配せするのだが、なにやら華耶としてはその部分の話は黙っておきたいようで、海もそれ以上は言おうとしなかった。
「第一、最初に助けられたのはあたしのほうだったからね。電車でヤバそうな外国人にナンパされかけたところを助けてくれたんだよ」
「華耶、あんた東京でそんなことなってたの?」
「うん。英会話なんて習うもんじゃなかったね」
「でも、その英会話で就職決まったわけだし。佳井家はグローバルな家だから、英会話だけは外せないからね」
「……楽しそうな家なんですね」
嫌味のつもりで言ったわけでもなく、純粋に言い放った言葉が、いったん盛り上がっていた空気を裂いた。
出された茶に手をつけながら、海はぎこちなく笑った。
「……こういう空気、久々なもんで。俺みたいなのがここに迎えてもらえるなら、嬉しいです」
「そりゃもう。戸籍上婿ってだけだから、この子をたくさんかわいがってあげてね」
「人をペットみたいに言うのやめてよお母さん」
「ペットみたいな体して何言ってるの」
「よさないか二人とも」
今度は竜匡が二人の会話に釘を刺した。決して竜匡だけが口を滑らせるような家ではないようで、海にはそれが滑稽に見えた。
言葉でつつきあう三人を見ながら、海は『普通の家というものはこういうものなんだよな……』という思いと、自分が歩んできた人生とは結局なんだったのだろうという言いようのないむなしさが襲ってきた。
これからの新しい人生を、自分の意思で生きてやるんだという感情と同時に、ここまで失った20年近くの人生そのものは決して埋まらないことへの絶望とが隣り合って、海は相変わらず硬い笑顔のままでいた。
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去年の暮れ、そうして華耶の家で挨拶をしたときに押してもらった婚姻届の判と養子縁組の書類とをもう一度確認する海と華耶。書類に漏れがないかどうかも確認し、改めて役所へと向かう二人。
「応援歌だって歌詞変えないといけないだろうし、グッズだってこれから変更になるって考えたら、球団としては大変だよな」
「登録名変えないっていう手もあったかもしれないけど、それは海くんの人生じゃないもんね」
「荒屋の苗字を捨てるためだけに生きてきたようなものだからね」
「もう一度聞くけどさ、海くん」
「何?」
「……本当に、あたしでよかったんだよね?」
不安そうに、手をぎゅっと、固く握る華耶。自分から望んだはずのことだが、それでも時々不安になるようで、華耶はじっと役所の入り口前でその足を動かそうとしなかった。
「当たり前だろ。他に誰が俺の彼女と……母親の代わりやってくれるんだよ。お前、俺を幸せにしてくれるんだろ。きっと……これから俺が会う人間、他の誰しもが華耶ほどは俺を幸せにはできないよ」
「それも……そうだね。野暮だったね」
「それに――」
「それに?」
すっと一歩踏み出し、背中で海は語りだした。
「華耶が『もうダメ』とか『一緒じゃないと嫌』とか言ってるときの顔、好きなんだよね。今更他の女抱けるかよ」
「かッ……海くんっっ!!あのさあ!!こう見えてあたし結構まじめに――」
「今夜も――これからも、俺にだけ見せてくれるんだよな?ああいう恥ずかしい顔」
振り返り、不敵に笑った海に華耶は言いかけていた言葉を止め――顔を真っ赤にしながら「もう知らない!」と言いながら、役所の入り口に一人で突っ込んでいった。
それを半笑いで見つめながら海もまた、その後ろをついていった。