海が吹田の実家に帰ってきた翌日、球団から各種SNSやホームページを通じて、選手やスタッフに対する誹謗中傷を控えるようにという内容、そして、前回海の家庭に危害が及んだときのように、過激な行動に出たものは厳しく処罰する予定であり、法的手段をもって既に対応をしているという旨の報せを打つ――という電話がかかってきた。
早い話が、もう一度記者会見を開いてほしい――ということだと理解した海は半ば言わされる形で「記者会見はいつですか」と電話口で答え、夜に記者会見を開くことが決まった。
川口にある薫の実家の洋食屋に相次いでかかるいたずら電話に脅迫電話、入り口へのスプレーでの落書きやら誹謗中傷に満ち溢れた張り紙の連打、そしていわゆる『迷惑系配信者』による店内への突撃や店内の無断配信、そして執拗なレビュー荒らし――。
『我々は選手であろうと球団職員であろうと関係なくそれらを守る義務があります』
聞こえはいいが、結局、最後まで自分という球界の顔を使わなければ世間に対して強いメッセージを届けられない、ということだろう。海は自分だってまだ治療中だというのに、自分がこのタイミングで記者会見を開くとその意味を取り違える人だって出てくるだろうし、自分だって会見の際にうっかり引退について言及してしまいそうだったから、あまり乗り気はしなかった。
本当に球団が守りたいのは自分でも薫でも球団スタッフでもなく、自分たちの立場なのだろう。海はうんざりしながら記者会見の準備を始めていた。
一応、事が事だけに薫の身の安全を確保するために、弟の住んでいる小田原へと移動してしばらくほとぼりが冷めるのを待つ――ということも海は伝えられていた。ホテルで出待ちをする者も少なからずいるだろうから、キャンプ終了日とはずらして移動するらしい。
「僕の怪我は報道のとおり、それほど重症ではありません。ごく一部の報道では中にビスを打たなければいけない、などといったものもあったようですが、全治一ヶ月ほどの、手術まではいかない程度の怪我です――」
わざわざこんなことまで説明しなければいけないのか、という思いも海にはあったが、海は記者会見の挨拶で軽症をアピールした。あくまでも球団を通じて誹謗中傷をやめるよう呼びかけるのが大きな目的だったため、記者から海に対する質問はほとんど司会が受け流した。
海は半ば言わされるようにして――
「以前、僕の住居や新居へ嫌がらせをしたり家族にまで攻撃を加えようとする人がいたように、今回もまた、残念ながら僕たちの仲間に対してそういった危害を加えようとする人が多数現れてしまったのは正直言ってとても残念です。いったい僕の騒ぎから何を学んだんだ――と。あの時世間をにぎわせたニュースに、何も感じなかったのか――と。僕は怒りを感じてやみません。……彼女が僕の要求するコースにいい球を投げ続けてくれたから、僕の打撃はここ数年調子を整え続けられてきましたし、ジェネルも僕が求めたように、彼女のギリギリを攻めるボールを何度も求め、それを打ち続けることによって大きく成長しました。彼女に僕の怪我の理由全てをなすりつけ、ありもしない憶測や推測だけで彼女を中傷し、危害を加えることは今すぐやめてください。そしてこれまで彼女や彼女の実家に攻撃を加えた皆さんには、前回同様――一人残らず、法的な手段をもって制裁を受けていただきます。示談という生ぬるい対応をとる気は一切ありません。攻撃を加えてきたからには、一人残らず訴訟し――履歴書にも『前科あり』と記載してもらう覚悟でいます。……僕たちは日々全力です。全力でプレーしているから、どうしてもこうした怪我とは隣り合わせです。互いに全力を尽くし、そして僕の判断が一瞬遅れたことによる事故です。……もう一度言います。僕たちの仲間である浅井薫、そしてその家族への中傷や愚かな攻撃は今すぐ……今すぐやめてください――」
――と、それでも確かにそこには自分の意見を強くこめたメッセージを発信した。当然記者からは復帰のタイミングについての質問が飛び交ったが、それについても司会が再び抑止した。
球団事務所を出る頃には外は冷え切っていて、街のまぶしい明かりだけが目を突き刺すようだった。2月、大阪の夜の町並みに自分が居たことはこれまでほとんどなかったから、どこか、自分も世界から切り離されてしまったような気がしてならなかった。
間違いなく今この世界に自分は存在しているのだが、それまでの間、癒着するほどに、かさぶたのように自分とぴったりとくっついていた野球という世界から引き剥がされた自分。どこか心がヒリつく感じがしたし、球団事務所からたった一歩敷地の外に出ただけで自分はただの一般人になってしまった気がした。
そんなことを考えていると、もうすぐ自分はただの一般人になるわけだし、一般人になりたくてこれまで戦い続けてきたはずなのに――と、自分がいかに野球というものにわがままにしがみついてきたか、野球というものに身を任せて、なんとなくで生き続けてきたかを突きつけられているような気になった。
タクシーで家に戻ると、華耶が木の串に気持ち少し小さめにカットした具を刺して、おでんを煮てくれていた。
「これなら片手でも食べやすいからね」
「ちょうど暖かいものが食べたいと思っていたところだったんだよ。助かる」
年に何度か作るためだけにわざわざ自家用のおでん鍋を何個か買っていた華耶。こういうときの華耶の気の利き方に、海は改めて心底感心した。
鍋の空き具合を見ていると、既に子供たちは食事を終えた後のようで、華耶は続けて、一口大にしたおにぎりを海のもとへ差し出した。
「ここまで小さく丸いと一緒にたこ焼きなんかも欲しくなるね」
「焼こうか?たこ、まだちょっと余ってるし」
「いいよ。洗い物増やしたくないだろ。俺たち二人だけたこ焼き食べるってわけにもいかないよ」
冗談で言ったつもりの言葉を真に受けた華耶が棚からたこ焼き用プレートを取り出したので海は止めたが、華耶は「あたしがちょっと食べたくなった気分だから、ちょっとだけ焼こうか」なんて言ってそそくさと準備を始めた。
「で、さ。実際さ、どうなの」
「どうって」
「薫ちゃん」
「薫がどうしたって?」
「復帰できそうなの?」
「……どうかな」
どうかな、から先の言葉を出すことを海は戸惑った。本人がどれほど続けたいと思っていても、そうもいかない事態にもなりつつある。どれだけ先のことを明るく考えようと頭では思っていても、今の海にはそんなことはできなかった。
「……分かってると思うけど、今は……自分のことで精一杯だから。アイツの心配はもちろんしてるよ。避けられなかった俺のせいでアイツの人生ごと潰しそうになってるのは事実だ。分かってるよ。だけど……俺だってアイツのことばかり考えて生きてもいられない。人間、わがままだよな。結局は、自分のことしか考えないのが、都合がよくて生きやすいんだ。これまで頼るだけ頼っておいてさ」
「海くん……」
海は自虐気味に笑いながら、ウインナーの刺さった串を頬張った。
「いけるもんだな」
ウインナーなんておでんに入れてどうするんだ――と海はおでんのたびによく言っていたのだが、気を紛らわしたかったのか、あるいは本当に美味しかったのか――華耶にはそのどちらなのかは分からなかったが、海はひとまず表情を明るくさせ、気に入ったようにしてもう一本続けざまに頬張った。
華耶はそんな海を見て、あまり薫の話題を自分から海に対して言うのは控えておこうと思った。気にしていないわけがないのだ。気にしているけれど、気にしているだけであとはどうしようもないことくらい、華耶にだって分かっていた。それでももし、海の口から「薫は大丈夫のはずだ」なんて言葉が聞けたなら――と思ってしまった。
その大丈夫だという言葉も所詮、海の主観でしかないことも分かっていたし、仮に薫から直接そんな言葉を聞いたとしても、こんな状況で薫が大丈夫なんて言ったところで、それが強がりだとか、周りの気を遣ってることだって明白なのだ。
海がぽつりと言った『人間、わがままだよな』という言葉が、華耶には食べ終わった串が自分に向かって刺さってくるような感覚に陥り、串を駆け足気味にいったんゴミ箱へと追いやり、逃げるようにしてたこ焼きの準備を始めた。
「……」
食後、ベランダで海は夜風に当たっていた。自分たちの部屋だけでなく、もともと子供部屋だったほうへも1箇所設けていたベランダが、今はがらりとしている。
一人の時間は落ち着かない。落ち着かないが、華耶と二人で居ると、互いに気を遣ってしまう。海は華耶に気を遣わせたくないし、華耶だって海に気を遣わせたくない――。互いに怪我や野球の話以外をしたいが、テレビは相変わらず海にとってはあまり面白みのない食べ歩き番組だとか、ひな壇でやかましい芸人がなにやらしゃべり倒しているだけの番組だらけだ。
ゲームをするには手首を気にしてしまうし、そうして華耶に一人でゲームをさせながら脇でちょっかいを出す、ということをしてはいたのだが、華耶としてはやはり早く怪我を治してまた二人でゲームをしたい――という思いがあるようで、結局これもあまり続かなかった。
「父さん」
同じく、ベランダに出てきた直人が仕切り越しに海に話しかけた。
「なんだ、直人か。どうしてベランダに」
「風呂から上がったから、少し自然な風に当たりたくて」
「あまり体によくないぞ」
「分かってるよ」
直人はベランダのへりに肘を乗せて、遠くを見つめた。ややマッシュ型のクセのある髪が風で揺れている。
「僕、最近ちょっとだけ……これから自分が何を学ぶべきなのか分かった気がするんだ」
「まだ早いよ。自分の可能性はいつどう変化するかなんて、わからない」
「それでも――」
直人は何かを決心したような表情で、海を見つめた。
「漠然と高校の3年間を過ごすよりは、何を勉強したいか決めて過ごしてたほうがよっぽどいいと僕は思ってる。……今、そう思ってるだけだけどね。父さんが言うように、それが僕の人生の全てじゃないとも思ってるし、いざ高校に行ったら、また違う未来があるだろうとも思ってるけどさ。でも……ひとつ、これはちゃんと勉強しておこう、っていうものが明確にできたんだ。最近」
「そうか」
海はそんな直人の、少しだけ頼れるような顔つきになった表情を見て少しだけ笑った。
「で、何を勉強したいんだよ」
「それは……秘密……かな」
「……そこは今言ってしまったほうがよくないか?」
海は直人の言い渋った様子を見て拍子抜けした。来月には家を出て世田谷の新居に移るのだから、今のうちに言うものだとばかり思っていたものだから、海は膝から崩れ落ちそうになった。
「今言うとさ、陳腐になっちゃうんだよ」
「なんだよ、陳腐って」
「いつか……いつかさ、もし、僕がまた別の未来を選択したら、その時は言うよ。きっと……そのときには、笑い話になるだろうから」
「なんだよ、それ」
直人のあまり笑い慣れてなさそうな表情に海はふと自分が重なり、それがおかしくて笑った。
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《……で、あれから本当に連絡取ってないんだ。『白いサムライ』ってのは、立ち振る舞いがカタいからっていうのもあるのかな?》
《茶化すなよ》
記者会見に姿こそ現したが、療養中なかなか連絡をしてこない海に痺れをきらしたオルガは直接家に車を連れて海の下へ現れた。
身体のバランスを崩したくないからこそ無理してリハビリをするわけにもいかず、あまり海はすすんで甲子園には行きたがらなかったのだが、オルガは甲子園で自主練習をする画を撮りたいらしく、半ば強引に海を球場へと引き連れた。
仕方がないので持久力だけは衰えないようにとトレーニング室でサイクリングマシンやランニングマシンを使って軽めのトレーニングをし、オルガの気の済むように質問をさせてやっていた海。
相変わらずオルガは、突くところはズバズバと容赦なく突いてきた。沖縄に残したままのスタッフとのやり取りもしているようで――
《なんか、シンゴって子とジェネルって子がちょっと揉めたみたいでさー、昨日。それも何も聞いてないんだ》
《あれからジェネルとは連絡を取ってないって言っただろ。何?何があったんだよ》
海はオルガのほうを向かずに、ひたすらペダルを漕ぎ続けた。追い込んでいないペースではあるが、額からは玉のような汗がにじみ、小雨のようにこぼれだした。キャンプから離れている分、確かに普段ほど体力がもっていないのは明らかだった。焦って変にペースを変えるべきではないと海は思い、なるべく平静を装いながらオルガの言葉を待った。
《あんまり練習に身が入ってないシンゴに、そんなんじゃヨッシみたいになれないぞーってジェネルが言ったら、そういうあんただってヨッシやカオルがいなくなってからボケーっとしてるじゃないですかって言い返したみたいで。どっちも、二人が居なくなってからなんか調子もメンタルも崩してるみたいでさー》
《……聞かなきゃよかったよ。あいつら、まだ俺が居ないと独り立ちできないのかよ》
思わずピタリとその足を止め、サイクリングマシンをいったん止めてしまった海。吐き捨てるようにして笑って、頭を振った。
《黙って病人でも居させてくれない。俺だって好きで怪我してるわけじゃないのにさ。俺が居ないからこそ、踏ん張りどころだろうが、あいつら。バカかよ》
海はそう言ってスポーツドリンクを口に含み、部屋の中のベンチへと座った。一瞬床に座り込もうとしたが、怪我をしている右手をついてしまいそうだったので慌てておろしかけた腰を戻し、ベンチへと向かった。
《最近さ、自分のわがままさに嫌気が差すんだよ。怪我は自分のせいじゃないと思ってはいるけどさ、変に干渉されたくないし、必要以上に心配もされたくないから、ジェネルにも、慎吾にも連絡を取ってない。華耶ともだって、話してると時々気を遣って二人ともギクシャクする。……あの時怪我なんかしてなかったらこんなこと悩まずに済んだのになってばかり思って、焦る。こうして、サイクリングマシンだとかランニングマシンは数字が直接見えるだろ。やっぱりさ、休んでいる時間の分、普段の数字ほど出てないんだよ。怪我してなかったらなとも思うけど、それでも、怪我が変に軽いもんだから、こうして練習しに来ちゃうと身体を追い込みたくなるし、なんなら打とうと思えば片手でも打てそうな気さえするもんだから、バットを握りたくなる。でも……今はバットを握るのが怖い。手首をやったってことは、きっと、前みたいな打ち方ができないだろうからね。フォーム的な話じゃない。打球的な話だ。絶対、どこかでボロが出てくる。……そんな考えの繰り返しをこの何日かずっとループしてる》
海は深いため息をつきながら、オルガを見つめた。
《悪いね。せっかく、一年かけて俺を追ってくれるのにさ。来てすぐこんなことになっちまって。フィンランドの連中、みんな、こんな俺を見てがっかりするだろうな》
《だから這い上がらないといけないんじゃん、ヨッシは。言うだけなら楽な話だけどさー、こっちだって取れ高の事もあるからね》
《分かってるけどさ。……簡単に言ってくれるよな。俺、30代の頃だったならこんな怪我、なんとも思わなかったと思うよ。40代になるとさ、いや、40代っていうか、ここ最近のチーム事情のほうがよっぽど大きいんだけどさ。ただでさえ最近クビがかかってる以上さ……いや、そんなこと言ったら、30代のときはクビにならないっていう確固たる自信があったんだな、って思われちまうよな。……そういうところなんだよな、俺は。きっと》
海は髪をかきむしりながら、作り笑いを浮かべた。
《このままじゃ俺、顔がいいのだけがとりえになりそうだな》
《実際、顔で人気持ってるようなもんだからね、国内でも》
《そりゃ、どうも》
海のジョークにオルガが軽口で返すと海はフッと笑い、立ち上がった。