最近流行りだといういやにキラキラしたカラーコンタクトをつけ、目元はナチュラルなつけまつげと、ほんのり目元の血色をよくしたアイメイクが施された長身の女性。
もとから薄い栗色だったまっすぐ伸びた髪をさらに透明感のあるアッシュ系――いわゆるグレージュカラーに染め上げ、マッシュヘアーに軽くパーマをかけたその女性が浅井薫だと言われても、きっと彼女を知る人間ですらも、彼女のビフォーアフターを並べたら、すぐには信じられないだろう。
小田原で美容師スタッフをしている薫の弟・慧雄【さとゆき】に頼み込み、閉店後の店内でそれが薫だと言われても信じないような姿にスタイリングしてもらい、しばらくはこの姿とこのメイクで生きることにした薫。
小田原にいる間は名前も沙織と偽り、仮に病院に通わなければいけなくなった場合も、保険証は仕方ないとして、番号札で呼ぶタイプの病院はどこかを入念に調べるなどして、弟の借家で同居する形をとっていた。
近くの民家はまばらで、住んでいるのも大体は老夫婦ばかり。市街地から車で15分ほどののどかな農村地帯に住む慧雄は普段コンパクトカーと大型バイクの二台で普段職場などとの行き来をしているが、薫にしばらく車を貸す形で生活をしていた。
買い物を済ませ、ゆったりとした時間が古民家風の借家に流れはじめる。時刻は11時半を少し過ぎたところだ。
大阪に居る間は、地元メディアだとかも少し自分のことを面白がって『日本一美しい打撃投手』だとかもてはやしてくれたものだから、少し野球をかじったことのある者だとか、テレビだとかを見ている者からは「薫ちゃんや」と直接声をかけられたりすることも少なくなかった。
海はそうした街からのプライベートへの侵食を嫌がり、頻繁に外には出歩きたがらなかったし、一人での外出なんかは特に嫌っていた。薫はさほど声をかけられること自体には悪い気はしなかったし、もともと明るい性格だったこともあり、そんな生活を苦に思ったことはなかった。
それに、自分は野球選手ではなくあくまでも打撃投手だ、という身分上の問題から、どれほど自分の名前が売れようとも、自分をたまたまチーターズに所属しているだけの『浅井薫』という認識でしか関わってこない一般人は多かったし、その知名度があるからこそ商店街だとかで買い物をすると懇意にもしてもらえたこともあって、むしろそういった街からの評判を嬉しく思ったものだった。
それが今、自分の名前が世間に知られているということがこれほどの恐怖と自らの命の危険を産んでいる――。自分の日々がこんなことになるとは薫は思っていなかったし、まさか身を守るために一旦大阪を離れなければならなくなるとも思っていなかった。実家で父親と母親、そして従兄が営んでいる洋食屋『ばたふらい』に関しては近くに警備体制が敷かれてなんとか店の営業は行われているらしいが、面白がって店に来て茶化す客となじみの客同士の喧嘩も度々起きているようで、事態の沈静化にはまだまだ時間がかかりそうだった。
木々に覆われた広い庭は、空き地や担い手が居なくなって所在不明となっている畑なんかも隣接していて、事実上、近くは使い放題になっていた。
週末はサーフィンだとかフットサルだとか草野球だとかゴルフだとか――やりたいと思ったことを中途半端に色々手を出している慧雄。その広大な庭にはサッカーのゴールだとか、投球練習用の的、それに防球ネットやバスケットのゴールなんかも置いてあり、好き勝手趣味に時間を使えるようにしてあった。
久々に若い者が引っ越してきたということもあるからなのか、慧雄の社交性がなせる技なのか――それでいて近隣住民との仲も良好なようで、そうして慧雄が好きに土地を使っても誰も文句を言わなかったし、慧雄自体も別に多くの友人を集めて庭でバカ騒ぎをするというようなタイプではなかったから、互いにいい関係を築けているようだった。
薫はそんな庭を眺めながら、倉庫に置いてあったグローブを左手にはめ、ボールを手にとってしばらくそれをじっと見つめた。
しばらく、春の訪れを告げるような、強い――強い風が吹いたが、それもぴたりとやんだ。あたりには自分以外の気配もなく、時折遠くから聞こえる軽トラと原付のエンジン音くらいしか耳には届かなかった。
静けさがかえって不気味すぎて、薫はラジオをつけた。もう一度ボールと向き合うのが、それくらい今の薫には怖かった。
〈――さて今年の7月の単独ライブツアー終了をもって一旦活動を休止することが先日伝えられましたシンガーソングライターのNaOtomoさんですが、同時にかねてから交際が報道されていました、元プロ野球・チーターズ所属の田中楓斗選手との入籍が発表されました――〉
薫の耳にはかつてのチームメイトの話題など、届いてはいなかった。ボールをぐっと握り、大きくワインドアップをしてグローブを掲げる。
呼吸が浅く、乱れる。
遠くにある投球練習用の的が遠く、ひどく歪んだ。
大きく上げ、そして後ろへと引いた左肩の行方は自分には分からず、そこから自分がどう動作するべきなのか――ただ、ひねったままの宙ぶらりんの腰だけがそこにあって、薫の中の常識は、そこで途切れた。
「……うっ……!!」
指先からボールが滑り、そして剥がれていくようにして、ボールが必要以上に外を向いていってしまうイメージだけが何度も視界に蘇り、薫はその場にうずくまり、吐いた。
吐きどまりのような感覚が体に巡ったかと思って立ち上がれば、視界はぐにゃりとゆがんで強烈をめまいを起こし、そして胃は思い出したようにして薫の身体を思い切り持ち上げるようにしてこみ上げ、そして吐いて――そんな壊れかけのゼンマイ仕掛けのような動作を薫は繰り返した。
海を必要以上に心配させないためにも、自分も一日でも早くグラウンドに帰らないといけない――。そう心に強く誓っていても、それでも、薫はたったあの一球、自分の言うことを聞いてくれなかったボールのイメージから抜け出せずにいた。
よりにもよって憧れの存在でもあり、心の支えだった海。そんな男に自分がキャリアに大きな大きな傷をつけてしまったことが薫に重くのしかかり、なんとか発作のように繰り返した嘔吐が落ち着いてからもう一度投げやりに放った球は、やはり自分の左手から外に向くような球にしかなってくれなかった。もはや、自分が今までどうやって投げていたかすら、今の薫には分からなかった。
『投げることが、私にできる自己表現だと思ってるから。だから、ずっとこの仕事続けていられたらいいな、っても思ってるよ』
「……何がだよ……私、全然じゃん……」
かつて、将来を悩んでいた直人に向けて放った言葉が、よくもまあそんなことを言えたものだと思い、薫は自嘲気味に笑った。
せめて真ん中だけでも狙おうと、少し勢いを殺したようなボールを放ってみたが、真ん中を意識すればするほど、ボールはそっぽを向くようにして大きく内へと反れていってしまい、おまけに上ずり――いわゆる『宇宙開発』と揶揄されるような軌道を描いてネットへとぶつかり、ぽとり――と弱弱しく転がった。
コントロールだけは絶対の自信があった。
癖球だって、変にシュート回転するのを防ぐために、その回転を修正していくとともに、ついにはツーシームやシュートとして投げ分けられるようにもなった。
自分の持ち味はそうしたコントロールや、指先の感覚ひとつで直球も自在に投げ分けられる器用さや、緩急の使い分け、そして、投げられる変化球の多さのはずだった。
そんな自分が、コンプレックスだった球速を上げて海の役にもっと立ちたい――そうした自惚れが自分の個性を殺したのだ。そうして140km/h台を安定して投げられるようにすらなれば、打撃投手としてだけでなく、本当に緊急で選手登録をしてもらえるかもしれないとも思っていた。海の役に立ちたいという思いは同時に、海と同じ舞台で戦いたいという思いをも生んでしまい、海とともに野球をするうえでどうしても拭い去れない欲として隣り合ってしまった。
――いや、欲だけではない。嫉妬だ。
海の隣には常にジェネルがいた。自分は海にずっと憧れて野球をしてきたはずだった。必死で練習を積んでいればきっと海と同じ舞台で戦えると思っていた。人一倍努力もしてきたつもりだった。努力しただけではプロになることはできないとは分かってはいたが、自分なりに個性を徹底的に磨き上げることで、自分にはどうしても足りなかった球速という点を補えるはずだった。
高校最後の夏に足首を怪我してなお、それでもプロを諦めなかったのは、それでも自分のコントロールや器用さは怪我の後遺症や自分の球速の遅さをカバーできるものだと信じていたからだ。
その間にジェネルという存在がテレビで明かされ、練習の様子などでジェネルが海と一緒にキャッチボールをしている様子なんかを見ていて、薫は嫉妬を抱かずにはいられなかった。激しい憎悪がそこに生まれたわけではなかったが、ジェネルがたびたび『自分が15年早く生まれて来ていれば』と言っているのを見て、同じ事を自分だって思っていたのに――という思いが常に胸の奥深くにあった。
ジェネルは海の後ろではなく隣を歩くために練習を死に物狂いで頑張っていたし、そのジェネルの放つ打球の鋭さや、守備の動きだとかを目の当たりにしたときに感じた薫の敗北感は、凄まじいものだった。
薫がジェネルという存在をテレビで知った頃はまだ粗さの目立っていた守備が、自分が思うような大学野球生活を過ごせていない間にめきめきと上達し――ついには清兵衛の後任としてセンターを任されるようにまでなっていたこともリアルタイムで追っていた。
テレビ越しに見る野球センスの違いは薫の大学生活に嫉妬心だけでなく激しい闘争心をも生んだが、ついに大学生活の間、自分はその才能をもう一度開かせることはできなかった。
そうして打撃投手として直接ジェネルを目の当たりにしたとき、薫は自分は人一倍どころか、百倍は自分を磨かないとプロどころかジェネルの足元にすらたどり着けないと思っていた。
役に立ちたかったという思いと隣り合っていたのは、そうしたジェネルへの激しい対抗意識だったのだ。
「……ストレートじゃないんだもんね、動機が。それじゃあ、直球だって言うこと聞いてくれないよね。ひん曲がってるんだもん、心が。……私、みんなが思ってるほどまっすぐじゃないんだよ。過大評価もいいとこ」
『薫ちゃんはまっすぐな子やなあ――』
『薫はまっすぐだから――』
『薫ちゃんほんとまっすぐだよね――』
街を往く人、海やジェネル、メディア、かつての同級生――様々な人、モノに自分はまっすぐだ、と言われてきていた。皮肉なものに、自分はそのまっすぐさと、そしてまっすぐ投げたつもりの球二つによって首を絞められている――。
どこまでも灰色で、ペンキで乱暴に塗りたくったような灰色の空。雨でも降ってくれれば少しは自分のセンチメンタルさに天気を重ねて打ちひしがれてやれるのに――と薫は思った。涙すら流せず、ただ自分の無力さと悔しさとがついさっき吐いた乾く様子のない吐瀉物と一緒にそこにあって、それが余計に自分の惨めさを表しているようだった。
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「あの件から、内角に投げることを打撃投手が嫌っちゃったんですよ。仕方ないとは思うんですけど」
ジェネルは向けられたカメラに向かって話していた。通訳のスタッフが言いづらそうな表情を浮かべながら、ジェネルと取材班とを交互に見ながら仕方なさそうな表情で通訳していた。
球団としてもあまり伝えたいような話ではないようで、ジェネルにあまりそういう話はしないように――という表情を浮かべたが、ジェネルはこれまで今野と何度か対立をしてきたように、こういったときに都合のいい嘘をつけるようなタイプではなかった。
フリー打撃は気持ちよく飛距離を出すような球を投げるのが基本だ。当然、そうしてモチベーションを保つための練習でもあるのだから、ジェネルはそうした部分は否定はしなかった。
ただ、海の言う『練習でできないことが試合でできるわけがない』ということをジェネルもまた意識していたので、可能ならばギリギリを突いて欲しい――ダメもとで他の打撃投手に薫が投げたような実践的なコースへの配球を頼んでみたものの、ついこの間そうして怪我が発生してしまったこともあり、打撃投手も捕手もコーチ陣もあまりいい反応はしてもらえず、少しだけ真ん中からずらした程度のボールを投げるにとどまった。
ジェネルもそれは仕方がないものだとは思ってるが、それでも自分のキャリアアップのためには練習からもっと厳しい球を投げてもらえないと――と思わずにはいられなかった。
海が負傷離脱してしまったことで、現地に残ったフィンランド組のスタッフは『海と仲のよかったメンバーのその後』を撮ることに徹底した。スタッフたちは海があまり多くのチームメイトと交友関係を持っていたわけではなかったことにやや困惑し、結局その取材のほとんどをジェネルと真悟にばかり割いていた。
その真悟だってつい数年前に移籍してやってきたばかりということもあり、そうなると昔からの海を知っている者としてジェネルの密着取材のような形になることは仕方がないところがあった。
ジェネルはそうして海のことを聞かれればいくらでも答えたのだが、そのたびにどうしても当時のチーム状況についての話になることから、ジェネルも言葉こそ選びはしたが、通訳のスタッフはそのたびに通訳の仕方に迷った。
もちろん、意図的に通訳の仕方を変えて伝えればいずれそのことを批難されかねないから、通訳も渋々ジェネルの言葉を極力ありのままに伝えはしたものの――
『もちろん監督との衝突なんかもありましたよ』
週刊誌やスポーツ誌ですら直接的にそんな言葉をなるべく載せないようにしていたのだから、スタッフは伝え方に困った。言ったとおりの言葉をそのまま映像にされるのは困ったし、かといって意図的にカットするよう伝えるのもどうかとは思った。
このドキュメンタリーがいったいどういう形でフィンランドに伝えられるのかは分からないが、頼むからチームの印象を悪くするようなことが変にピックアップされて報道されることだけは控えて欲しい――と祈るしかなかった。
ジェネルは作り笑いを浮かべるようになった。海の復帰に時間がかかりそうなことは薄々感づいていたし、それが一体何を意味するかを分かっていたから、ここのところジェネルは神経質になっていた。
自分がしっかりやらなければ――その思いがジェネルをただただ空回りさせた。声を出すように周囲に大きな声で掛け合ったり、今まで以上に声を出しても、想像していたよりもずっと誰もついてこない。こんなことを長年キャプテンを務めた海はずっと感じていたのか――とジェネルは思った。
海が本当に戦ってきたのは3番打者という重圧、自分が試合を決めなければという重圧、そして、どれだけ頑張っても、結果で示しても誰もついてこないこの冷え切った環境なのかとジェネルは感じながら、やや不機嫌にフリー打撃への打席へと向かった。
若手や中堅の多くは相変わらず、どこかひねくれているか、自分にはどうせ……という顔をしたり、根拠のない自信を口にしながらダラダラと、ただただ流すような練習ばかりしている。
なんなら、カメラやコーチ陣が見ているときだけちょっと力を入れて練習している風をなびかせて、そうでないときはあからさまに手を抜いたりするのだからタチが悪い。
選手たちだけでなく、監督やコーチ陣が長年そうした環境を変えようとしなかったからということもあるのだろう。まして小室すらも欠いたチームは、なかなか空気が変わらなかった。長年こうした空気が続いているからか、二軍スタッフやヘッドコーチらは入閣後長続きしなかったし、小室や今野の後任がしばらく決まらなかったのも、もはや球界OBからすらもこのチームはまずい――と思われるようになってしまっているのかもしれない。
ジェネルはふと、飛距離にこだわってこのキャンプの間少し調子を落としている真悟を見つめた。ベンチで首をひねりながら、不思議そうな顔を浮かべている。海が居ないことで、その真悟の打撃に口を出したり、アドバイスする者もいない。生駒らコーチや、プレースタイルの似ている他のチームメイトも放任主義だったり個人主義なところがあるから、海を失った真悟は自分と同じように少しだけ浮いていた。
「お願いしまーす!!」
ジェネルは少し大げさに打撃投手に挨拶し、周囲を驚かせてみせた。ベンチに居た者や、取材班はびくっとしたような表情でジェネルを見つめた。ジェネルが思っていた以上にベンチに残っているメンバーは少なかった。
フリー打撃を終えて一旦席を外している者の多さ――。
ジェネルは悔し涙を流しそうになりながら、その真ん中にゆるく放り込まれた白球を、乱暴にかち割るようにして叩いた。
爽快な打撃音と、スタンド目指してぐんぐん伸びていく白球が、どこか孤独だった。