入団以来、毎年のようにキャンプに参加していた海は、2月にある華耶の誕生日を直接祝うということが今までできずに居た。
晴留が20日、琉美と諒斗が6日。そして華耶が18日――。子供たちの誕生日をどうしてもスケジュール的に祝えずに居ることが多かった海だったが、キャンプに参加しているうちはシーズン中とは違って完全に大阪から長期間離れてしまっているため、華耶の誕生日を落ち着いて迎えられたのは今年が初めてだった。
皮肉にも怪我のせいで華耶の誕生日を直接祝うことができたわけだが、相変わらず右手のギプスはついたままだった。
「ごめんね、せっかくの誕生日もろくに祝えなくて」
「いいよ、別に。あたしだってもうこんな歳になったら誕生日なんてそんな……ね」
朝、子供たちが学校へ行ってからすぐに、華耶は海を連れてドライブへと連れ出した。少しでも気が紛れたら――という思いもあったし、かといって観光地などに直接下りるようなことをしたら、療養中に何をしてるんだと週刊誌などで言われるだろうから、琵琶湖のあたりまでを車で軽く走らせ、そこからまたぐるっと戻ってくるようなルートを通った。
相変わらず、海の表情はどこか硬いだけではなく、どこか気の抜けたような感じと、焦りとが交互に入れ替わるようなそんな表情を交互に繰り返していて、スクリーンセーバーのようだった。
「来月の今頃は、直人も東京に引っ越すんだもんな」
ぽつりとそんなことを海はつぶやき、月日の流れに対して考えにふけているような表情を浮かべた。
高速から見える企業看板の移り変わり。
道を往く車も、自分が若手だった頃新車だった車が今やネオクラシックカー扱いされている時代だ。これほどたくさんの子供に恵まれることがなければ買っていたであろう車やスポーツカーなんかが、無理やり塗装しなおして新車のようにしながらもどこか下品なエンジン音を上げていったり、ところどころ錆びたボディだとか、ボディの傷や凹みがうっすら目立った状態だとか――そんな車の群れが時々無駄にスピードを上げながら乱暴に追い越していく。
エンジンや下回りがダメになり次第あちこち取替え、テールランプが古臭いと言われたならばそれをも取替え――まるで、今日まで現役にしがみついてきた自分のようにしている。自分はまだ終わっていない――自分はまだ戦える――そう訴えるかのように、街で鳴らすにはやや迷惑な音を立てて次々と阪神高速を駆けていく、真っ赤なボディにいわゆる痛車ステッカーを大きくデコレートし、社外品のエアロで纏め上げたかつての名車がその先頭を目指して後ろから大きく追い上げていく。
それを追いかけるようにして続いていく新旧スポーツカーの群れを見て、海はひときわ寂しそうに目を細めながら、助手席で黙り込んでしまっていた。
時折ラジオから流れる各年代ごとの名曲なんかも、どれほどその年のヒットソングだといわれても海はピンとこなかった。これまで、流行の歌に耳をゆっくり傾ける暇などなかったし、人気ドラマだの人気アニメの主題歌だった、と言われても、馴染みのない世界だから海には全くピンとこなかった。
自分から野球をくりぬいた部分にはなにもなくて、子供の流行だとかそういうのはそれなりに注意して見てきたつもりではいるものの、それも一時的な知識なものだから、全部覚えてるかといわれたら、そうでもない。
子供たちが欲しがった上に、一緒にプレーして欲しいとせがんだので必死で覚えた人気モンスター育成ゲームの最新作に出てきたモンスターや、その攻略法だとかもところどころ抜けているし、いかんせん日本版と海外版とでは名前が違うことから、今でも海はついついフィンランドに住んでいた頃プレーしていた海外版の名前でモンスターの名前を言ってしまう。
その時代を生きてきた証、というものが、海から野球を取り上げたら何もない。
何もない、というよりは、実際のところはそこに音楽という概念こそあるのだが、その音楽だって、マルコとニコのリストライネン兄弟がいたからたまたまできたことだ。ギターくらいが自分に残された最後の趣味とはいえ、いざ二人が居なくなってしまったら、指や喉を腐らせたわけではないものの、新たに何か曲を作ってみようというエネルギーが沸いてくるわけでもなかった。
華耶は必死で
「このドラマ流行ったよね」
だとか
「このドラマの主演取っただれだれがスキャンダルで……」
だとか、たくさん話題を供給してはくれたのだが、深く反応できるものではないものだからそのたびに海は華耶に対して悪いなと思った。思ったからといって、自分が失った30年近くのドラマだとかエンタメだとかの知識が自分に降ってくる訳でもないから、それ以上何もできなかった。
華耶の誕生日だからということだとか、先日祝ってもらったばかりだからだとかいう理由で、夕方少し遅くに華耶と海が家に帰ると、直人が先頭に立って子供たちが誕生日のケーキを作ってくれていた。
直人は最近お菓子作りにはまったようで、それに釣られるようにして琉美と諒斗もお菓子作りに興味を持つようになった。この日は午前で授業が終わったようで、ケーキだけでなく料理にも挑んでいた直人は、どこか今までよりも生き生きとしていた。活発、というには程遠いのだが、直人なりに生き方を少しずつ見出し始めているような感じがした。
それからほどなくして、直人は中学校を卒業した。
卒業式には一応球団に連絡を取った上で海も学校を訪れ、直人の卒業式をしっかり見届けた。卒業式の数日前にやっと手首のギプスが外れ、本格的にリハビリが始まっていた海。一ヶ月半近くギプスで固定されていた右の手首はまだどこか自分の手ではないような気がして、違和感が抜けなかった。
リハビリの様子をオルガは真剣な表情で撮影し、ちょっかいは出さずにおいていた。ギプスが外れたのだから早く練習したいという気持ちと、バットをもう一度握るのが怖いという気持ちとが海の中で交錯し、結局卒業式の日まではバットを持たずにいた。
卒業式の後は直人の引越しのための荷造りだとかもあったのだが、海は重たいものを持ったりすることを少し恐れるようになったし、階段の上り下りなんかも変に手をつきたくないからか、極力エレベーターを使うようになってしまった。
オープン戦も終盤に差し掛かっている中、さすがにただただ体作りだけしているわけにもいかないと思った海は、どうせ収録するならばと、オルガにキャッチボールの相手を頼んだ。オルガは仕方がないので三脚でカメラを固定し、ボールを投げる海だけしっかり映るような画角でその相手を受けてやることにした。
《悪いね。手首の不安要素って考えたときに、そういえば俺、あんまりボール投げるの得意じゃなかったこと思い出してさ。俺もあんまり、キャッチボール、上手くないんだよ》
海はややゆるい軌道を描いてボールを投げた。オルガが捕りやすいように、という狙いもあったが、手首の返しがどうにも違和感があるので、徐々に感覚を慣らしていかないと薫のコントロールミスを笑えないほどに自分も暴投しそうだった。
《キャッチボールが下手な野球選手なんているの?》
《だから、今ここにいるだろ。俺、近くにボール投げるのあんまり得意じゃないんだよ》
《どーして》
オルガが投げ返した球は、想像以上にまっすぐ、きれいな軌道で帰ってきた。
《……うまいね、お前》
《これでもヨッシの試合の動画とか色々たくさん見たからね。どう投げればいいかくらいは、多少勉強したよ》
《それだけで投げられるなら、苦労ないよ。こういうのは、センスの問題だから》
海は笑いながら、オルガにボールを再び返した。オルガの送球が少し海にとっては羨ましかった。自分も思い切りそんなまっすぐの球を投げられたなら、若い頃の苦労はあれほどしなかっただろう。
《……高校の頃さ、チームメイトが試合中に俺に向かって投げたボールが逸れたんだよ。それがきっかけで、俺たちの最後の夏は終わった。いざ、俺が同じポジションを守って、それで同じようにして遠くにボールを投げようと思ったとき――なんだか、その逸れたボールが俺と重なるような気がしちゃってさ。俺のひとつのミスで試合を落としたら、アイツのことを笑えないな……って思ってからはさ、しばらくダメだった。しばらくっていうか、今もあんまりよくないけどね》
海はオルガの少し逸れたボールを軽く腕を伸ばしてしっかりキャッチし、再び投げ返した。オルガは驚きを隠さずに
《でもさ、やっぱプロってすごいわ。今みたいなのとっさに捕っちゃうんだもん》
と関心したが、海はフッと笑いながら――
《捕って褒めてくれるのはあんまり野球を知らない素人だけだよ。ちょっと目が肥えたら、今みたいなのも褒めてくれなくなるし、野球って、そもそも捕って当たり前のスポーツだからね。打つほうは3割、4割打てば褒めてくれるのに、捕るほうは9割どころか最低でも95%くらいは捕らないと、死ぬほど怒られる。いいや、95%でもダメだね。1回のミスだけで言いたい放題だ。だから、打つほうは気楽でいいよ。3打席に1回打つだけでいいんだから、楽な仕事だ》
《でも3打席に1回打つだけじゃもうヨッシは物足りなくなってるわけじゃん》
《まあ、ね。若いうちからそう思い続けてたんだけどさ。若い頃は、守ったことのない一塁以外で95%守備がこなせるかどうか不安だった。だから、4割でも打って守備の分をカバーしようと思った。でも、試しに4割打ってみたら、4割だけじゃ試合には勝てなかった。95%の守備だって、とうとう褒められなかった。……難しいスポーツだよ、野球は》
自虐的な笑みを浮かべながら、海はオルガにボールを返し続けた。
《投げただけじゃ手首なんか折れはしないとは分かってるんだけどさ。怖いね、やっぱり。一回は折れてしまった、っていう経験がさ、思ってたよりも俺を臆病にさせてる。この歳でのこういう怪我が何を意味するかも分かってるから、なおさらだ》
海はオルガからのボールを先ほどまでよりは少し勢いをつけて返した。やはり思っていたコースよりは少しだけずれてそのボールは吸い込まれていく。自分はどうあっても投手にはなれないだろう。
《次折れたら?》
《……やめてくれよ、縁起でもない》
《でも生きてるうちはどっか骨折るくらいのことは、あるでしょ》
《それが治ったばっかりの人間にかける言葉かよ》
《だからこそ聞きたいんだよなー、私は。たまたま軽症で済んでこれでしょ。次大きい怪我しちゃったら、どーするつもりでいるの》
オルガから帰ってきた球を海はしばらく返さずに、黙って立ち尽くして、少し考え込んだ。考え込んだ、というよりは、考えたくなかったから、少し間を置いて頭をリセットしたかった、というほうが近いだろう。
そうして深いため息をついてから、海は再びボールを返し――
《……その時は素直に辞めるよ。こんな怪我ですら俺はこうだから、大きい怪我なんかしたら這い上がってこれる自信がない。大怪我から復帰した選手なんか、よくいるよね。サッカーなんかもよく膝やったりする選手いるだろ。あれさ、すごいことだと思うよ。俺が同じ立場だったら、心が折れたまま帰ってこれないと思う》
そう言って、一旦グローブを外した海は右の手首をさすった。痛んではいないはずなのに、どこか痛むような気がして、気になって仕方がなかった。
練習、と言えるほどの練習だったのだろうか。バットも握らずに何が練習だろうか――海はそんなことを思いながら、海はオルガと別れて家に帰った。
オープン戦も終盤に差しかかろうというのに、いまだにバットを持てずにいる海。あと10日もしたらシーズンだって始まる。開幕一軍はまず無理だろう。
『だけど、バットをもう一度握る前からさ、もう自分はダメだみたいな前提でいないでよ。バット握りました、今までみたいに振れません、なんとか自分なりにもう一度頑張ってみました、それでもやっぱダメでした、くらいやってよ。……海くんが……海くんがずっと周りに対して思ってたことだよ?どうして自分から終わってもない試合を終わったような顔してるんだって――』
バットも握らずに、もうダメだと思うのはよくないことも分かっている。華耶にだってそう言われた。ただ、今年自分は一軍で戦える見積もりを誰だって立ててはいないだろう。
この歳で一軍に呼ばれる見積もりがないということは、それは大概、キャリアの終わりをも意味する。
海はいてもたってもいられず、地下のトレーニングルームへと移った。大きなサンドバッグに向かってバットをぎりぎりと握り締め、重心を回転させ、バットを送り出す――ことができなかった。
「……」
サンドバッグの手前でぴたり、と止まったバットは、あの時ボールを避けようとして、一瞬バットを引いたときのように、前ではなく後ろを向いていた。
手首だけでなく、全身を駆け巡ったあの嫌な稲妻。サンドバッグをバットで叩いたくらいで、よほど自分の骨が貧弱でもない限り手首など折れるわけがない――そんなことは分かってはいるのだが、腕を主導させ、そして手首を返していくのが、怖かった。
手や腕の恐怖心が拭えないのならば、せめて腰の回転を強く意識し、腰の回転だけで上手く打てたら――などと余計なことすら海は考えるようになった。
「――分からなくなった?」
海の状態を取材するために大阪にやってきた木村は、海のティー打撃に付き添っていた。
とにかく、軽くだけでもボールを打たないと変わらない――そう思った海だったが、これまでの、凡打ですらも思わず見とれてしまうような綺麗なフォームが崩れていることは木村から見ても明らかだった。
この30年近く、海の中で積み重ね、研磨され続けてきた技術や経験がそこには微塵も感じられなかった。どれほど調子が悪いときですら、そのフォームの基礎だけは必ずそこにあって、無意識に実践し続けられるほど身体に定着していたはずのそのフォームすら、今の海にはない。うっすら、表面上のガワだけが海のフォームを保っているだけで、下半身の粘りも、華麗なフォロースルーも――何もかもが醜く、形になっていなかった。
木村は内心、見ていられない気持ちで海に取材をし続けていた。
「今までどうやって打ってたかが分からなくなったんだよ。見てのとおりだ。お前だって、薄々気づいてるんだろ。今の俺のフォームがなんだかおかしいって」
「それは――」
「いいんだよ。思ってるなら、思ってるって言ってもらったほうがいい。今は、変に気を遣われるほうが辛い」
言葉を淀ませた木村に海は力ない笑顔を向けた。木村もまた、小さくだけ頷いて、言葉には出さなかったが、海の言葉をうっすらとだけ肯定した。
「理論でも理屈でも分かっている。今までの打ち方が俺にとって一番ベストだ、って。でも、それを実践できるほど俺は野球マシンじゃない。俺は、俺が思っているよりも普通の人間だった。思っている以上に……軟弱者だった。怪我したくらいでなんだ、って這い上がれるほどの心が俺にはもう……残ってないみたいだ」
なかなかティーから放たれていく球がいい角度で上がっていかず、打球の鋭さすら鈍っているのは木村の目にも明らかだった。
ネットに当たる白球の音、バットから響く乾ききった嬌声が今までほどの音を奏でてないことを確認し――海はいったんバットを置いた。
「薫のこと、なんか聞いてるか」
「……いいえ」
木村は海の前で明確な嘘をついた。自分の意思を告げることはあっても、海に向かってありもしない嘘をついたのはたぶん、これが初めてだ。
薫もまたボールを投げられずに、思うように行かない日々を繰り返していることを木村は記者仲間から聞いていた。
もちろん、薫の情報については、実家に実害が及んでいることもあって各種メディアがすすんで取り上げないように紳士協定が結ばれていたし、薫が小田原に避難しているということを知っている人間も、その近況も、ごく一部の限られた人間しか知りえないものだった。
「アイツだけでも、現場復帰してくれればいいんだけどね。投げられない、って言ってるんだろ、アイツ」
「……」
「俺、周りを不幸にさせる存在だと思うんだよ。清兵衛は無茶しすぎて腰をやった。田中は肩をやった。断れたはずだったのにその肩を無理やり治して、また肩をやった。新だって、一度しかない青春時代を歪ませてしまった。そのせいで晴留たちにも怖い思いをさせてしまった。家のことだって華耶に任せっきりだったし、華耶のお母さんや叔母さんたちにも迷惑を何度もかけた。そして今度は、俺に憧れて野球を続けてきたはずの薫の心を――」
「――ダメですよ、それ以上は。……それでも、先輩がいたからみんな頑張ってこれたんです。自分をそんな風に傷つけないで下さい」
海の言葉をそれ以上は言わせないようにして、木村は海の言葉を遮った。
「……俺もそう。ジェネルさんだってそう。みんな……みんな先輩がいたから頑張ってきたんです、これまで。こんなことくらいでって言っちゃ、先輩にぶっ飛ばされそうですけど……こんなことで、自分の存在まで全否定しないでくださいよ。そうやって全部自分のせいにして、そうして罪を背負った気になって、周りを理解したような気になって、己に浸りたいだけの先輩なんて、先輩じゃないと思います。俺は……俺は、そんなみっともない男を追うためにこれまでどんな目で見られても――同僚から俺のプライベートすら否定されながらも、それでもここまで記者やってきたわけじゃありません」
木村はそう言って海のバットを握り、かつての海のフォームを極力真似て、力任せにティーの白球を叩いた。
「俺の知ってる先輩は、ティーなんかも全力で叩いてました。もう自分がダメだって分かってるんでしょう。次怪我したらどうしようって思ってるけど、でも、今年でたぶん終わりだとも思ってるんでしょう。だったら、もう一回全力でバットを振って、もう一回折ればいいじゃないですか、骨。もう一回、今度は自分から折ってやる気でバット振ればいいじゃないですか。たたずまいだけでも、僕らの前では元の佳井海として戻ってきてくださいよ。仮にお情けで試合に出られたとしても、ファンは今みたいな先輩を見たくはないはずです。少なくとも……俺はそうです」
木村はそう言って海へバットを渡した。海はそのバットを手にしたが――
「……簡単に言ってくれるよな」
と、左腕でバットを杖にしながら、右手首をさすった。