海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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198・夢の積載過多

気を遣われている――ということは海もよく分かっていた。

 

二軍とはいえ、これから売り出していかなければならない若手や中堅に混じって自分がスタメンに軒を連ねてクリーンナップを任されているということは、それだけで若手や中堅を萎縮させかねない。

自分がこうして二軍の試合に出ていることによって試合に出られない若手や中堅だっているのだから、早く調子を整えて一軍に上がらないといけないことだって海は分かっていたが、とうとう3月27日――その一軍開幕に間に合うことなく、数日遅れて始まった二軍の開幕戦に海はその姿を現した。

 

怪我自体は軽症だったが、調子が思わしくないということだけが報じられ、その経過に関しては極力メディアは報道を控えていた。憶測だけがそこにあって、本当の海の調子はこの日の試合を見てみないと分からない――というのが多くの野球ファンの実情だった。

 

メディアも薄々察してはいたのだ。

これほどの期間を経てなお復調のうわさがどこからも出てこないということは、海の復帰はもうないかもしれない、ということを――。

 

球団とメディアは入念に打ち合わせた上で、海目当てに二軍戦に来る客だっているだろうから、海の近況についてはとにかく隠されていた。海もそうしたメディアからの雑音に調子を殺がれたくないだろうし、球団としても、薫という打撃投手をもう一度ここに呼び寄せるためには海の復帰なしにはありえないと判断していた。何より、海がなんとしてももう一度一軍に戻りたいという意思を理解していたからだ。

 

……ただ、その"理解"というのも、どちらかというと海自身の思いを理解している、というよりは、悲劇的な怪我から復帰した海の姿を見て観客を増やしたいだとか、グッズの売り上げを伸ばしたいだとか――白々しいやり方だが、そうしてチーム内部のなんとなくピリっとしない空気を引き締めたいだとか――そうした球団運営やチームの士気という点からなる視点ありきの、形だけの"理解"だった。

 

海はもはやそんな、自分が球団のプロパガンダとして使われることなどどうでもよくなっていた。とにかく、実戦で感覚を取り戻せればそれでいいし、ダメならもう、諦めるしかない――そうした思いだけで、二軍の本拠地である鳴尾浜の球場に立っていた。表情はいつもに増して険しく、修羅のようだった。

 

もとから内野スタンドにはあまり人数を収容できるタイプの球場ではなかったが、この日は二軍の試合だというのに、外野の芝生まで開放し、球場には多くの客が詰め掛けていた。自分を見たさにそれほど多くの客が来たことに、海は少しだけ恥ずかしさを覚えた。

 

もう皆が思ってる佳井海は死んだのに――。

 

そう思うと、逃げ出したくもなったし、思うような打撃ができないまま春を迎えてしまった自分が情けなく、涙が出そうにもなった。

 

内野席からは、ひときわ声の大きい男が一人で声を張って、海の名を呼んでいた。

 

「うるせえなあ」

「アイツ、アレだろ。ああやって二軍球場で一人で応援する動画配信者」

「んだよ。試合は別に一人でやってるわけじゃねーのにさ。さっきから同じコールしかしてねーじゃん、アイツ。萎えるわー。そうまでして再生数稼いで金にしてさ。みっともなくないかね」

 

若手が内野席を見上げ、鼻で笑うようなそぶりでその男を遠めに睨んだ。

男の応援は内野席を煽動するようにして波及し、チーム事情から二軍ではしばらく二塁を守ることになった海に向かって手拍子とコールが練習中の間も鳴り止まなかった。

海はそんな騒々しい内野席へ控えめに手を振り、一旦この騒ぎを収めようとした。試合が始まってからならともかく、練習中からこんなに騒がれてはかなわない――そう思ったが、そのコールはなかなかやまなかった。

 

最後に年間通して二塁を守ったのは、もう10年以上も前――まだ清兵衛が所属してた頃のことだ。さきのWBCSでも一応、二塁手や遊撃手としての練習はしたものの、昔から自分を見てきた者ならともかく、ここ10年の自分しか知らない若い野球ファンからしてみたら、自分が二塁を守ってるということはあまりに滑稽だろう。

 

若かった頃よりも、二塁と一塁との空間は広く感じられた。正直言って、まともに守れる気がしなかった。センターラインの守備から離れた10年の歳月をもう一度完全に取り戻すには不安材料があまりに多すぎた。

打撃にさえ専念させてくれればとも思ったし、若手に二塁守備の経験を積ませるべきなのでは――とも思ったが、変に波風を立てるような真似もしたくなかったから、海は黙って二軍監督からの起用を受け入れるしかなかった。

 

 ――燃え尽きぬその瞳が

    栄光をつかむまで

     佳井海 佳井海

      夢乗せて飛ばせ――♪

 

1打席目から、応援席にいる声の大きい男が全力で応援歌を歌っていた。代打専用応援歌をわざわざ歌うくらいだから、よほど歌詞にこめられたメッセージを伝えたかったのだろう。初回からそんなに声を張って喉がもつのか――そんなことを心配したくなるほどの声量がそこにはあった。

海は打席でバットを構え、本当にこれは二軍戦なのだろうかというほどの熱気をはらんだ空間の中、なんとかその感覚を取り戻そうとした。

 

無死、ランナーは一・三塁。

勝利を優先したいのであればスクイズでもいいのではないか――と海は思っていたが、二軍という本人の調子や実力を高め、そして一軍へ送り出して恥ずかしい思いをさせないようにする経験を積ませる場において、そうした海の考えは二軍監督の意にはそぐわなかった。

 

振れ――

 

これまで幾度となくこうした打席で結果を求められ、そして勝利につなぐための打撃を数え切れないほどしてきた海ではあったが、それでもいざ故障明け最初の打席がこれ以上ないチャンスで回ってくると、力まざるを得なかった。

 

見送った初球のストレートは、内角を突いてくる、やや意図的にコースを外したものだった。内角にさえ投げれば佳井海はもうあっけなく抑えられる――というイメージがついて回っているのだろう。海は悔しい気持ちになったが、それでも対抗心を燃やしてバットを出すことにはためらいがあった。

 

続けて再び内角――今度はフォークだ。これも外れるかと思ったが、想像以上に落ちなかったそのフォークはストライクを告げられた。

仮に振っていたとしても、今の自分では上手くすくい上げられる自信がなかった。イメージでは上手く腕を折りたたんで引っ張るということができているのだが、どうしても右の手首がそれを嫌がってしまう。

 

やはり内角は苦手――そう確信したのか、再び続けてコースからやや外した内角高めの直球が投げられた。ボールだ。

観客席からは「ちゃんと投げろ!」「勝負しろ!」と怒号が早くも飛び交っている。海もまた、バッテリーの作戦に対して不快感を覚えはしたのだが、今までのようにそれをバットでやり返せる自信がなかった。

 

もう一球、今度はやや甘めの内角高めに直球が放り込まれる。

 

なにくそ――

 

海は力任せにバットを繰り出した。戦列を離れている間、腰の回転を意識しすぎた海は、そのバットの先がイメージよりも2、3テンポ遅れてやってきていることに気づけなかった。

 

モ"ッ――

 

と、なんとも耳心地の悪い音がバットから響き渡り、イメージでは捉えていたはずの白球は、もう少し飛距離がいればセンターとセカンドとの交錯を生み出せるような高く上がったフライだったのかもしれないが――セカンドがゆっくりと手を挙げ、その打球は何のトラブルも生むことなくしっかりとキャッチした。

 

ああ――と落胆の声が球場に響き渡った。得点圏にはひときわ強いイメージを長年維持し続けていた海。調子のいいときは年間の得点圏打率5割を超えるほどの勝負強さを持っていた男が長い間駆け抜けてきた時代の終わりが見えたような感覚が球場を包んだ。

海もまた、たった1打席――たった開幕戦の1打席目でこそあるが、今のような『自分には分からないズレ』が続くようなら、もうダメだろうと確信してしまった。

 

それでも内野席の男は声を出すことをやめなかった。四球を選び出塁しただけでも声を張ってアカペラで出塁テーマを大声で歌ったし、手拍子を観客席に煽った。

そこまでされたら、落ち込んだままでもいられない――海はそう思って気持ちを奮い立たせようとしたのだが、とうとう9回にやってきた得点圏での打席でもやはり徹底的に内角を攻めたボールに対応できずに空振り三振に倒れ、この日は無安打に終わった。

男は最後の打席、燃え尽きることも辞さないようにしながら海専用のチャンステーマを大きく歌いながら腕を振り、ついには周囲の客を巻き込んで合唱を起こしてしまっていた。

 

試合が終わってからも男は内野席から

「佳井戻って来いよー!!!!信じてるぞー!!!!」

と声を張り上げ続けていた。海は結果を出せなかったことに情けなく思いながらも内野席に控えめに手を振り、球場を後にした。

誰もいなくなったロッカールームで海は一人、その歓声に応えられない自分が悔しくて壁を殴った。

 

「おかえり」

「……ただいま」

浮かない海の顔に、華耶はそれ以上何も言わず、黙って海に飛びつくようにして抱きついた。

 

「……やめなよ。真昼間から」

「でも今、誰もいないし」

「リモートワークを都合よく使ってると、バチがあたるよ」

「残念でした。こんなこともあろうかと午後から休み取ってたんだよね」

海の言葉に対して、意地悪そうに子供っぽい笑顔を向けた華耶はそう言って海の顔を見上げた。ニッ、と笑った屈託のない表情の奥には、母親としての顔と、女としての顔とが見え隠れしていた。

背中をやさしく叩く両手はまさしく母親が子供をあやすときのそれなのだが、熱っぽく、湿っぽい、炊き上がったばかりの炊飯器が体に密着しているような感覚もあった。

「……ああ、そう」

海は呆れたようにしてため息をつき、華耶に引かれるようにして部屋へと向かった。歩きながら解かれた華耶の髪が、いつになく心を揺さぶった。

 

~~~

 

「……」

悔しさを滲ませながら、他の選手がいなくなってからシャワー室を使い、誰もいなくなったロッカールームで着替え始めたジェネル。海がいない今、ボディラインが目立たないようにボーダーの入ったシャツと、海がプロデュースした少し大げさなサイズのジャケットを羽織って、伊達メガネをかけながら球場を後にする。

 

ここまで6試合で23打席5安打。2本のホームランを放ったものの、既に開幕から7つの三振を喫しているジェネル。チームは開幕から1勝5敗。きょうの負けで早くも4連敗だ。

相変わらず負けるときは目も当てられないほどの大敗を喫していたチーターズは、投手陣の打たれ具合にやる気をなくしてしまったかのように打撃も少し湿気てしまっていた。

自分が打てなかったことを愚痴ろうにも、泣きつこうにも、海はその場にいない。どうにかして教えを乞おうにも、その男の姿はない。海は何かあるたびすぐに、いつまでも自分がいると思うな――と言って来た。いつかその時が来るものだとジェネルは思っていたのだが、いざこうして突然いなくなられると、心細くて仕方がなかった。

試合を終えたあとに一緒に飲み食いできる相手だっていないし、きっと、海の代わりになるような者も、今のままでは自分と肩を並べるような後輩も、ここに所属し続ける限り出てこないだろう。

 

真悟を相手にするというのも、それはやはり違う。真悟はあくまで自分に用があるのではなく、海に用があるのだ。自分は真悟にとっての海にはなれないし、逆に、真悟はジェネルにとっての海にもなれない。

 

野球をするというのはこれほど苦しいものだったか――?

 

野球というものはこれほど個人主義だったか――?

 

野球というのはチームスポーツではなかったのか――?

 

野球というものは皆で勝利をつかむものではなかったのか――?

 

イニング間のイベントや、チアリーダーたちの企画だとか、ちょっとした合間にだけ目立ちたがる者がいて、球場を一瞬賑わせようとする。賑わせるだけ賑わせて、自分は役に立ってるでしょう?というような顔をして満足げに戻ってくる。

 

違う。

 

そういったのは、見せかけの賑やかしだ。

試合がイケイケムードになったときや、自分に波が来ているだけ声を張って、そうでないときは別にベンチで声を出したりするわけでもなく、知らん顔をしている。打席にこそ向かいはするが、代打で降ろされてベンチへ下がっていく投手を出迎えたり労うことなんかもしない。

そうしたときはだいたい決まってジェネル自らベンチの前に出て投手を労うようにしていたが、投手からしてみたらそうした出迎えなんかはあまり響いてないようだったし、そんなことくらいで勝負が変わるものか――と冷めた表情を浮かべる者も多い。そして、そんな時決まって目立ちたがりの選手は知らない顔をしている。

挙句、タイムリーを放って勝ち越したり、勝利を決定づけたりしたときだけ無駄に全速力で走って我先にと祝福したがるのだから、都合がいいものだ。それだって、試合に勝てそうだから動いているのではなく、カメラがそちらを向いているからのことだ。だから、自分にとってどうでもいいタイミングなんかではずっと素知らぬ顔をしている――。

 

そんなことに対して不平不満を吐く相手が、ジェネルにはもういない。

 

こんな状況が続くようでは、勝てるわけがない――。勝てるわけがないし、自分だって、戦い抜ける気がしない――。

ジェネルは携帯を取り出し、BINEの連絡先を見つめた。

 

 海さん

 

やり取りは1ヶ月以上前で止まっている。海がどれほど今苦しんでいるかは、ジェネルの耳にも届いていた。二軍での試合の様子を見たが、それが本当に海なのかどうかさえ疑わしかった。頼むから、海のモノマネ芸人がかわりに試合に出ていると言ってくれ――とさえ思った。

こんなとき、直接海に泣きつける図々しさがあれば――とジェネルは思ったが、普段の図々しさをとうとう出し切れなかった。

 

明日の移動に伴う休養日、いっそ海に直接会うかどうかも迷いながらジェネルはひとまず球場をあとにした。

こんなとき隣に海さえいればどこか食べ歩きにでも行くのだが、一人でどこかへ出かけるには気持ちが乗らなかった。これまで一人で出かけることなんて抵抗もなかったはずなのに、こんな心細さで広島の街を練り歩く勇気も気力もなかったし、それで他の野球ファンに話しかけられたりしたとき、いつもどおりの応対ができる気が今のジェネルにはなかった。

無力感が時折風に揺れて、頬を冷やす。

 

「……いつから私、こんなダメになっちゃったんだろうなー……」

 

部屋に戻ってからも、ジェネルは脱ぎっぱなしの服をたたみもしないまま、ベッドで縮こまるように――カブトムシの幼虫の真似でもしているようにしながらうずくまっていた。もう間もなく夕食の時間になるというのに、なんとなく脱ぎ散らかしてそのままにした服を着るでもなく、携帯の海の写真を見つめては閉じ、見つめては閉じを繰り返した。

気持ちを切り替えるためにも、いつまでもあの日のことばかり思い返しても仕方がないことだって分かっているが、脳がそれを拒む。

自分は海という男を追いかけて野球をし続けてきたのだ。まだ教わり足りないことだってあるし、自分は海を胴上げするという使命があるものだとジェネルは思っている。

 

佳井海という男を振り向かせるためにひたすら汗を流し続けてきたはずなのに、とうとう振り向かせることもできなければ、認めてももらえないまま、おまけに佳井海という男と共に栄光をつかむということさえできずにいる。

せめて、WBCSにさえ一緒に出ていればまた違ったのかもしれないが――。

 

「つらいなー。悲しいなー。誰のせいでもないのになー。薫ちゃんも、海さんも、私も、みーんなおかしくなっちゃったんだもんなー。神様ってば、サディズムにもほどがあるよなー」

自分の素肌を極限まで密着させながら、ジェネルは顔を体の中にうずくまらせた。

せめて、この状況を突破できる力さえ自分にあればよかったのだが、海ほどの圧倒的な力は自分にはない。今後、自分にそんな力が身につくかどうかさえ分からない。自分だってもう若手と言える歳でもない――。

まして、海ほどの力があってなお、日本一という壁は遠いのだ。野球は9人でやるものなのだから、一人だけが頑張っても仕方がないことを、ジェネルは誰よりも近い場所で見てきたからこそ、絶望に陥った。

 

「……こんなのさ……無理じゃん……」

 

蘇るベンチの空気。

ジェネルは冷静になればなるほど、自分の置かれている状況に嫌気が差した。海が何度も口にした、頑張れば頑張るほど誰もついてこないという言葉が、ジェネルの胸に突き刺さっていた。どうせ突き刺すなら、海に直接突き刺してもらって、負の感情を朝までぶつけ合いたかった。

せめて、薫さえ無事だったならば――とジェネルは声を殺しながら慟哭した。

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