海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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199・Days gone by,Time goes by

《――これはさ、思いっきり私情なんだけど》

《ん?》

試合を終え、スタッフの運転する車に乗ったオルガと海は神戸へと向かっていた。撮影というわけでもなく単純にオルガが観光をしたかっただけらしいのだが、海はオルガに捕まってしまい、その観光に付き合わされることになってしまった。

 

たまにはスタッフにも休息を、という方針もあるが、スタッフらとの距離感を詰めたいという思惑もあったのだろう。海はスタッフからもたびたび質問を受けたが、あまり気のいい返事はできずにいた。これまで野球しかしてこなかったようなものだから、あまり日本の文化がどうとか、サムライがどうとかニンジャがどうとか言われても、欲しがっている返事はなかなか出せなかった。

 

そうして食事を終えて大阪へと戻る間、海はオルガから突然話を切り出された。普段からも私情にまみれたような俗っぽい質問ばかり受けているのだから、何をいまさら――と思ったのだが、オルガは少し気恥ずかしそうな感じで、鼻を指でこすった。

 

《私の母親がさ、ヨッシのファンなんだよねー。今ヨッシの追っかけ取材やってるって話したら、ファンだからなんとかしてちょっとした映像送ってもらえないかって》

《嫌だよ。そういうの、むやみに拡散されちゃ困るんだ。そういう公私混同みたいなの、本当に嫌なんだよな》

《本当に拡散とかしないから。したらもう、大使館に猛抗議していいから。国交断つよってけしかけてきていいから。……あんまこういうの言うと陳腐に聞こえるかもしれないけどさ、母親、最近体調思わしくないんだよ。ひょっとしたら、あんま長くないかもしれなくてさー》

《長くない長くない言ってるやつほど長生きするもんだよ。皮肉なもんでね》

海は手元のコーヒーをすすり、足を組んだ。オルガは不機嫌そうにしながら海を腕で突き

《茶化さないでよ》

と真剣な表情を浮かべた。

 

海はずっと睨みつけるようにしながら嘆願するオルガの視線が鬱陶しかったので、仕方なく――それでも「変なマネしたら本当に裁判起こしてやるかな」と釘を刺し、組んでいた腕を解いた。

《……名前、なんていうんだよ。名前くらい呼んでやったほうがいいだろ》

《そーだね、ごめん。ウルスラっていうんだ、うちの母親》

《ウルスラね。何?俺のこと、そんな前から知ってくれてたのか》

《みたい。きっかけは忘れちゃったみたいだけど》

《何だよ、それ。きっかけがないのに俺のファンやってるのか?本当に俺のファンなんだろうな》

《そこは本当だよ。なんとかしてグッズなんかも買ってるし。ファンなのは間違いない》

《じゃあ、ボケてるのか?お前の母親は》

 

オルガの言葉に苦笑を浮かべて咳払いをしながら、海はカメラに向かって作り笑いを浮かべた。

 

《……やあ、ウルスラ。佳井海です。病気で元気がないとオルガから聞いています。僕を見て元気が出たら幸いです。……これは私情なんですけど、ウルスラという響きに懐かしさを覚えています。何しろ、僕のおふくろと同じ名前なもので、勝手に親近感を覚えています。ウルスラが僕のことを息子のようだと思ってくれてるなら、僕はウルスラのことを母親みたいなもんだと思うようにします。お身体に気をつけて。オルガといつまでも仲良く暮らしてください。それでは、お元気で》

早くカットしてくれ、と目で訴えながら、海はオルガのカメラを見つめた。

 

《へー、うちの母親と同じ名前だったんだ》

《……リップサービスだよ。どこにも映像流出させないってお前、言っただろ。だったら、絶対に流出できないようなことしといたほうがいいなって思ったんだよ。次にお前がまた別の母親に向けてメッセージを、なんてことができないようにね》

《ふーん》

オルガはそんな海のやり方に感心したような、軽蔑したような、どっちともつかないような態度で映像を見直した。

 

《今、どこにいるんだっけ、ヨッシの母親は》

《知らないよ。家を出て行って……それっきりだ。若い頃はお金も振り込んでくれてたけど、それもピタリと止まってしまった。もう死んでるもんだと思ってるよ。……調べようと思えるなら、お前ら調べられるんだろ?こんなの。わざわざ俺に聞くなよ、そんなこと》

《人聞きが悪いなー。そういうのは本人の同意なしにはちゃんとは調べないよ。そこまでうちらも腐ってないし。で?母親に会いたいとかは?》

《ないよ。どこに住んでるかだって分からないし。生きてるかどうかさえ分からないんだから、死んだことにしておいたほうが心が楽だ。きっとおふくろはおふくろで、あの後自分の新しい人生を見つけたんだ。きっと名字だって変えてるだろうし。俺は俺で、新しい人生を見つけて今日まで生きてきた。今仮におふくろに会ってしまったら、互いに失った30年をどうにかして埋め合わせようと、変に気を遣ってしまうと思う。俺だけじゃない、おふくろだってそうだ。だから、俺は別にこのままでいい。仮に生きてたとしても、俺にとってはどうでもいい》

《そっか。なんか、徹底した現実主義みたいな感じだけど、結構ヨッシって、周囲に気を遣ってるよね》

《褒めてくれてるなら、どうも》

海はオルガに頬をつつかれ、鬱陶しそうにそれを振り払った。

 

4月の下旬に差し掛かっても、海の調子は一向に戻らなかった。何かを取り戻そうとすればするほど上手くいかず、自分の中で感覚的に行っていた動きをリプレイすることも、理論で分かっていた自分の動きをもう一度再実行することも、その両方ができずにいた。

 

やればやるほど深みにはまる――そんな、どうしようもならない日々が海は続いていた。

どうせ諦めるなら、やってから諦めろと言った華耶。海はその言葉通り、思わしくないなりに練習だけは打ちこんだ。若手が萎縮しているから猛練習は人目につかないところでやってほしいと二軍コーチらに言われたならば、試合後残って誰もがいなくなった球場でひたすらティー打撃をし続けた。時には取材しているオルガたちにすらトスをさせてトスバッティングに打ち込んだりもした。

 

そのオルガからしても、海が崩したもの、海が失ったものをもう一度取り戻すことがどれほど難しいか、目の前でもがき続ける男を見て察するものがあった。それなりには美しさを取り戻したフォームだって、どこかそのフォロースルーにはぎこちなさがあった。過去の映像を研究したオルガには、それでもまだ野球のルールを把握しきれない部分はあるにせよ、ほんの些細な見た目上の違いが、白球を叩いて奏でるバットの音に大きな違いを生んでいることもよくわかっていた。

 

オルガですら違和感に気づくくらいだから、実の家族にしてみたら海の調子の悪さは気が気ではなかった。

 

〈――いやー、かれこれ3回現地で試合見に行ってるんですけど、なかなかヒット出ないですね。佳井選手、これからも声出していくんでなんとかもう一回、一軍目指して頑張ってください!〉

 

「……辛いね」

youreTUNEで、以前二軍戦を観戦した際に海に向けてひたすら声を送っていた人気youreTUNERの動画を見ていた晴留。

海に向けてのコメントの9割がたは好意的なものにあふれているが、残りの1割は海の調子に対して厳しいコメントだったり、未だに新の件を蒸し返して『これで調子について文句を言ったらまた誰か逮捕されるんだろ』などといったコメントを残すようなものが混ざっていた。

 

関連動画には、海の直近のフォームをスローやコマ送りにして解析したものがあった。

フォームどうこう、フォロースルーどうこう――怪我をする前の海にあった一挙一動の美しさはそこにはない。ただ、晴留から見ると、怪我をした海から一番なくなってしまったものは、そうした専門的な観点なんかよりも、自信や覇気だと感じていた。

 

海はたびたび自分の打撃をダメだと言っていたし、自分の打撃に満足していたことは晴留の知る限り、ほとんどない。だから、傍からしてみれば海が自分のプレーに不満を持っているのはいつものことではないかと言われそうなのだが、そういう単純なものではない。

 

どんなボールが来ても外野を抜く長打を打てる――そんな理想を徐々にかなえていき、そしてそれをやがて、日本球界のシーズン二塁打記録を塗り替える形で表現した海。4割到達が単なるノルマとしか思われていなかった頃――輝いていた頃の海には、バットを振り抜いた瞬間に一瞬見せる、手ごたえを感じたような表情があった。向上心と責任感に苛まれながらも、それでも心の奥深くには自分の放つ打球に自信があったからこその表情だ。

相手の球を振らされているのではなく、常に自分の中の自信をもとに振りにいく海。打球そのものが不満なのではなく、イメージどおりにボールを叩けなかったから海はいつも落胆したり落ち込んでいるのであって、今の海にはその前提となる『どんなボールでも打てる』という部分――打席に立つ一人の野球人として、その根底の部分の自信がないのだ。

 

幸い、怪我はそこまで重くなかったとはいえ、きっと、自分の中では想像もできないくらい海の心の中で壊れてはいけないアキレス腱が壊れてしまったのだろう。今の海はただ、闘志だとか、意地だけでなんとかバットを振ろうとしているだけで、表面上で何とか燃やし続けている闘志を裏打ちさせるほどのものがない。

 

要するに、空元気なのだ。

 

そこには、かつて幼い頃自分が見ていた『自分にはもっといい打撃が出来るはずだが、それができない』という、前向きな打ちのめされ方はなかった。『どうしたらいいかがもう自分には分からない――』そんな、ただただ現実に打ちのめされただけの姿がそこにあった。

 

見ていられない、と言って、目を背ければきっと楽だろう。

 

だが、自分たちをここまで育ててきた父親の散り際をしっかりと見届けなければ、自分たちは都合よく父親のかっこよさだけを養分に生きてきたことにしかならない。"チーターズの顔"の娘として生まれてきた以上、最後までその姿を見届けるのもまた自分たちに託された役目なのであって、世界一に二度輝いた父親の落ちぶれた姿を見たくないから何もかも見ないでおくというのは不義理だ――晴留はそう思って、最近の海の様子をずっと見続けていた。

 

複雑な思いを抱いていたのは、何も晴留や、真結、広乃、そして直人たちに限った話ではない。去年新が副賞として獲得した超大型テレビの向こう側には、ヘビーガンFCの伝統である真紅のユニフォームに身を包んだ新の姿が映し出されていた。

 

〈――物足りないですね。物足りないというか、張り合い甲斐がないですね。日々を過ごす中で、僕が一番張り合っていきたいと思っていた父が、ずっと苦境の中から抜け出せずにいるというのは、思っている以上に張り合いがないものです〉

〈プレーで父親を元気付けよう、ということでしょうか〉

〈父の苦しみは僕のプレーくらいじゃ、きっとその全ては拭えません。これほど調子を崩したままの父というものを僕は見聞きしたことがありませんから、軽々しく僕のプレーで元気付けようなんてことは一人のスポーツマンとして言えません。……だからこそ、父が這い上がってくるまでは、今は僕だけでも調子を崩さずにいたいと思います。父が日本でその名を響かせてこそ、僕はそれよりもさらに輝いていたいと思えるので――〉

 

1月にイギリスに戻ってから、いくらかの調整を経て新はその日のスタメンの調子によってサイドハーフ、セカンドトップ、センターフォワードとを、試合の中でさえも幾度となく使い分けるいわゆる便利屋として起用されていた。

便利屋、というと聞こえが悪いかもしれないが、監督からしてみたら「どこで使っても機能するほどに一皮向けた」からこその判断であって、フォワード以外ではまるで機能しなかった新の動きに大きく幅が出たことでヘビーガンは優勝争いから頭をひとつ抜けようとしていた。

選手交代の際だけでなく、プレーの最中にすらも気がつけば相手のマークを外すようにしてポジションが入れ替わっている――新の変幻自在な起用法は相手の守備をかき乱していた。

この日も2ゴール1アシストを決めた新だったが、それでも表情は硬く、インタビューの際には自分から海のことを引き合いに出した。

 

新も華耶や晴留たちから海の近況について聞かされていた。

はじめ新は、海の怪我が軽傷であることから、いつものようにすぐ復調してくるものだと思っていた。もともと華耶たちもそう思っていたくらいだ。新もそれほど海の調子を不安視はしていなかった。

海は短期間のスランプにこそ陥ることが多いが、それでも何度もそうしてそのスランプを押しのけて這い上がり続けてきた。新だってそれを間近でも、遠くでも見続けてきたのだ。心配ではあるが、心配しすぎてもどうにもならない――そんな思いが家族中に伝播していた。

その海が、今度ばかりは本当にダメかもしれない――そんなことを晴留から聞いたとき、新は自分から積極的に海のことを話題に出すようになった。

 

海の不調がメンタルから来るものなのであれば、自分が遠くから自分なりのやり方で海を鼓舞してやろうと思った。今更海に変に親身に寄り添った言葉を吐いても海だって気色悪がるだろう。だからこそ、新は新のままの声で、海をもう一度呼び戻そうとした。

それでもなお海の調子がなかなか戻らないと聞いた新は、自分の無力さを誰もいないところで嘆いた。嘆くだけ嘆いて、それでもプレーや自分なりの言葉で海を呼び戻すことを諦めなかった。

 

佳井海がただで終わるわけなどないのだ――新はそう信じてボールを蹴り続けることしか出来なかった。

 

~~~

 

「とにかく、上から山なりに投げてみて。変に今までのフォームで投げないで」

「……」

薫は慧雄にそう言われながら、ぎこちなくキャッチボールを続けていた。変に振りかぶるのも、かといってセットポジションやクイックを意識するのもとにかく禁止させ、ゆるくでもいいからとボールを投げることを求めた。

 

慧雄としても、別に無理に薫にボールを投げさせたいわけではなかった。薫がボールを投げたがっていて、そのたびに激しい動悸に襲われたり、嘔吐を繰り返したりしている様子を見て、今本当にするべきことはボールを投げることなんかよりも心療内科を受診することなのではないかと思った。

それでも薫は病院には行きたがらなかった。自分である程度病院を調べておきながらも、自分からは病院に行こうとはしなかったし、慧雄からの受診の勧めもかたくなに断った。

結局のところ自分の問題なのだから、自分で壁を何とかしない限りこの問題は終わらない――薫はそう思っていた。

 

何より、病院に行くことで自分の状況を他人に知られてしまうリスクを薫は恐れていた。心の問題を他人に打ち明けることのリスク――まして自分の置かれている状況を考えると、とても自分からは病院に行こうとは思えなかったのだ。

しかし、薫の投げるボールはわずか10m先にも届こうともしなかった。きっとこのままでは、打撃投手としての復帰は難しいだろう。

 

慧雄も、すぐに薫が投げられるようになるとは思っていなかった。どちらかというと、薫はもう一度ボールを投げられるようになりたいというよりは、ボールを投げられないことを自分自身で認め、夢を諦めたいのかもしれない――慧雄は、ボールがすぐに地面に叩きつけられてしまうそんな薫のボールの軌道と、薫の力ない笑顔に、ふとそんなことを考えた。

 

高校最後の夏、足を怪我したとき、怪我を押してでも薫はもう一度マウンドに向かおうとした。夏はこれからも何度もめぐってくるだろうけれど、高校最後の夏はもう二度とやってこないんだ――そう言って聞かなかった。慧雄はそんな薫の様子を近くで見ていた。

そんな薫が、ボールを上手く投げられないまま、とうとう力ない笑顔まで浮かべるようになったのを見て、慧雄はひどく寂しく思った。

 

「……姉貴。サッカーやろうよ。気晴らしにさ。俺、蹴り方教えるよ」

薫は一瞬戸惑った表情を浮かべながら、ボールとグローブとを交互に見つめ――サッカーボールを持ってきた慧雄の表情を見つめた。

しばらく返事に困った薫だったが、慧雄の優しげな表情を見て薫もまた、力なくも少しだけ優しい笑みを浮かべ、無言でグローブを外した。

 

慧雄はせめて一言くらいは自分の意思で反抗してほしかった――そう思いながらも、薫を横に立たせて、軸足がどうだのとレクチャーをしはじめた。そんな話を聞いている薫の表情は、満面の笑みというわけではなかったが、険しさのない、どこかリラックスしたようなものだった。

 

やはり、無理に今の薫にボールを投げさせるべきではないし、しばらくは仮に薫のほうから投げたいと言い出しても、すぐにはOKを出さないようにしようと慧雄は思った。

それでもきっと、朝日が昇れば自分よりも早く起きて、薫はまた一人でにボールを持って投げようとしたがることだって想像はついたが――。

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