ここのところ、試合を中断するほどのものではないが、関西方面は雨が続いていた。昨日の試合も8回から突然振り出した雨によって中継ぎの制球が乱れ、試合を一気に決められてしまうという事態が起きた。
何でも雨のせいにしておけば丸く収まるというのもまた滑稽なものではあるが、すっきりしない天気というものはプレーにも影響を及ぼすものだ。ちょっとした風のピリつき、指に馴染まない球、頬を打つ雨――。そんなものに集中力を乱されていてはプロの試合などできない、と言われればそうなのだが、天候に左右されないドーム球場というものがこうした天気のたびにジェネルは羨ましく思った。
もっとも、ドーム球場になったらそれはそれで、外の景色が見えないだとか、まぶしくないし天気に左右されないかわりに場外弾というロマンあふれる一文字が紙面を飾ることもなければ、風という概念を使った作戦や読み合いがなくなるのだから、それはそれで少し試合の無機質さに退屈を覚えそうなのだが――。
試合前の練習を終え、ミーティングが行われている間に雨脚が強まったことで試合開始が30分ほど遅れそうだという報告を受けたチーターズ一同。いっそ試合を中止にしてしまってはどうかなどといった冗談が飛び交う中、ジェネルは一旦ロッカールームにしまってあった携帯を取り出した。
天気予報を念のため確認するつもりで開いたはずの携帯には、ここ最近、自分の中でもあえて断っていたその男の名前がBINEの通知に並んでいた。
周りに気づかれないようにしながら、ジェネルはなるべく平静を装ってBINEの画面を開いた。
ジェネル自身、そのメッセージの内容をなんとなく察していた。次に自分に連絡を送ってくるときは、大体、よほどいい報せか、よほど悪い報せかのどちらかだと思っていたからだ。
〈 試合の後、会えるか
〈 悪いね、試合前に
そう、淡々と打たれたメッセージがそこにはあった。たった10文字に満たないその二つの文章に、ジェネルはその真意をうっすらと感じ取った。
まもなく雨はやむでしょう、と書かれた天気予報の文面に、ジェネルはこんな皮肉があるものだろうか――と思いながら、黙って携帯を閉じた。
ふと、奥で相変わらずなんとなく浮かない顔のままの真悟が気になったジェネル。あの様子では、真悟にはまだ連絡はしていないだろう。いや、そもそも海が真悟に何か連絡を取ること自体、ジェネルにはとても想像がつかない――。
ふと、そんな真悟のことを考えていたジェネルは、海に返事を送っていないことに気づいた。いっそ、返さないほうがいいのではないか――返事を送ったら、今夜自分は、自分自身の敗北を認めることになる――そんなことも考えた。
しばらく画面を見つめ、どうするか考えた後――意を決して、ジェネルは返事を送った。
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毎年ゴールデンウィークの見所となっている前期混合戦も終わり、ワイドショーでは今年はいつになく気温が上がりづらく、夏は例年より涼しくなるのではないかという話題だとか、人気女優が三度目の浮気報道で今度こそ芸能界引退かという話題だとか、8月にノルウェーで行われる世界陸上の候補者の近況だとか、高校野球強豪校の不祥事だとか、その処分が厳しすぎるのではないかだとか――海にとっては正直言ってどうでもいいような話題でザワついていた。
この日はひとつも四球すら選べず、二つの三振を喫した海。それまで海は自分は内角の球を上手く捌けないことにこだわり続けてきたが、このところ、外角の球を腕を思い切り伸ばして振るという動作に違和感を感じるようになった。流れに逆らわず、きれいに手首を返して外の球を捌くことも、自分の腕の力で引っ張って打つことも、手首を気にするあまり内角の球を打つこと以上に今までのような打撃が出来ないことに悩んでいた。
内角の球が打てないならば外の球を選べばいい――そう考えた海に突きつけられた現実は海の現実を皮肉にもさらに曇らせることとなった。
海はまもなく16時になろうかどうかという時計を見て、携帯を取り出した。何かを決心したような表情で少しだけ携帯をいじり、そしてすぐにポケットへとしまった。
しばらくして、華耶が仕事を少し早めに切り上げたのかリビングへと戻ってきた。冷蔵庫からお茶を取り出してコップに注ぎ、朝作っておいたババロアを取り出してテーブルへと持ってきた。
海の分のババロアを黙って置いて、もうひとつ持ってきたコップに華耶は黙ってお茶を注いだ。
「……ねえ、華耶」
「んー?」
次の一言を搾り出すのになかなか勇気が要った。一度は華耶を見つめていた海だったが、一旦視界を逸らすようにしてテレビを見つめ、ふと飾られている家族写真を見つめた。
過ぎ去った日々の残酷さが肩にのしかかって、海はそこからも逃げるようにして再び華耶を見つめた。
「……今まで――ありがとう」
そうして、ようやく振り絞るようにして弱弱しい声でつぶやいた海。
その言葉に華耶はコップに注いでいた両手をぴたりと止め――海の表情をじっと見つめた。その言葉が一体何を意味するか華耶は分かっていたから、なるべく笑顔でい続けようとした。少しでも意識してないと、すぐに表情を曇らせてしまいそうだった。
「……ごめんね。華耶の願いがどうとか以前に、最後の一年がこんなことになって」
海もまた、なるべく笑顔でいようとしたのか、硬い表情をなんとかしようと必死で表情を作っている様子が見えたが、どこか自虐気味な笑みのこもった、力なく寂しい笑顔があった。
「……ううん。いいんだよ、そんなの。必死で戦ってきた結果だもん。無様でもなんでもないよ。むしろ……この二ヶ月くらい、よく頑張ったよ。……あたしが無理やり頑張らせたようなもんだけどさ。それでも……海くんは逃げなかった。ファンからの応援からも、それでもなんとかして自分を取り戻そうとすることも、全部今の海くんなりにやれることを……やるだけやった。……ようやった。ようやったよ、海くんは」
華耶はそう言って、一瞬海への距離を詰めようとした。そのまま抱きしめてやれたなら、どれほどよかっただろう。それでも、華耶は海に必要以上に距離を詰めなかった。
海がひとつの決意を固めたのは事実だ。ただ、決意を固めた事実だけがそこにあって、海の戦いがこの瞬間、完全に終わったわけではない。10月、そのシーズンが本当に幕を閉じるときまで――いや、海が公に対してその決意を表明するまで、華耶はそのときではないと思った。
本当ならば今すぐにでも壊れるくらい抱きしめてやって、頭を撫でてやりながら、夜が明けるまで愛の言葉を囁いて身体中に自分の痕跡をつけてやりたい――そんな一時の感情で自分が、今ギリギリのところで自分を保っている海にトドメをさすべきではないのだ――。
「褒めてももう俺からは何も出ないよ」
「もう十分出したよ」
「どこ見て言ってんだよ」
海の冗談に華耶はふざけたようにして目線を落とした。海はもう何度、ジェネルや華耶とこのやり取りをしただろうか――と思いながら、足を組みなおした。
「……今夜、ちょっと出かけるから。なるべく、帰るようにはするから」
「あー、別に気を遣わなくていいよ。みんなの海くんだから。夕飯はどうする?」
「軽くだけもらおうかな。確か、冷蔵庫にあまったものがあるだろ。あれを適当につまんでいくから」
「うん」
極力普段どおりの会話を二人は交わした。これからも二人の人生は続くし、海の中のひとつの区切りを、二人の関係にとっての区切りにもしたくなかったから、海も華耶も、できるだけ普段どおりを装った。それがどこかぎこちなさを生み、海は空のグラスを持って空になったコップから茶を飲もうとしたし、華耶はポットの口を閉ざした状態で何度も自分のグラスに茶を注ごうとした。
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試合後、ジェネルは自宅近くの隠れ家的な居酒屋に予約を取り、海を呼んでいた。
この日は猛打賞、そしてダメ押しとなる2ランホームラン。ここのところ調子を上げてきたジェネルは、海からの連絡に動じることなく――むしろ、海からの連絡に応えるようにして、打ちまくった。
かつて、円陣の声が小さかったとき、海は「勝つ気があるのか!」と円陣の声に大きく不満を漏らしたことがあった。あの頃、声を出していたのは清兵衛と自分くらいだった。海はそれでも、自分がいるからこそ、あまり声を張るタイプでもないのに必死で声を張った。
今、自分は円陣に返ってくる声がどれほど小さくても、「声が小さい!」と言って何度も円陣を繰り返す身になった。未だにその声は小さく、むしろ、声をわざと小さく出すのがお約束というような、悪い風習さえ根付きつつある。
自分のやっていることを茶化されるというのは、気分が悪いものだ。円陣が終わってから、出たがりな中堅や丸毛らがわざとらしく自分の言った言葉を真似てみせることさえあった。
ジェネルはそれでも円陣で声を張ることをやめなかった。かつて海が誰か一人でも自分についてくるならば声を張ったように、自分も、声を張り続けることをやめなければそのうち何か変わるはずだ――望みがどれだけ薄くても、そう思いたかった。この陰湿で無関心で、そしてどこまでも自分本位な空気に屈したくなかった。
ベンチで打順を待っているときは率先してハイタッチにだって今まで以上に出て行った。出たがりな中堅や若手がどれほど自分より前に出て行こうとも、ジェネルは自分のスタンスを崩さずに居た。
海がそうだったように。
海が居なくても自分は自分で居られることを証明するために――。
「……悪いね。待たせたかな」
「いえ。今来たところですから」
ジェネルはなんとかして海に笑顔を作って、深めの帽子とグラスをかけた海を出迎えた。店は夜22時過ぎに貸切にしてもらった。貸切にするかわりにたくさん飲食するから、と店主に理由をつけて、なんとか店を開けてもらったのだ。
久々に会った海は少しだけよそよそしい感じがしたし、きっとそれは、海から見た自分もそう見えていただろう――ジェネルはそう思うと、自分の口角が下がってはいまいかと少し大げさににんまりとした笑顔を作ってみせた。それが少し場違いな笑顔だったとしても、自分まで神妙な面持ちで海と接触したくなかった。きっとそう思っていてもあと30分もしないうちに自分は表情を沈ませてしまうのだろうけれど――。
「俺さ、やっぱり……やっぱりって言い方もよくないな。俺が想像していたよりもずっと、俺はダメだった。お前もたぶん、最近の俺のことはいくらか耳にしてると思うけどさ」
「……まったく聞いてないって言ったら、嘘になりますね」
「だろ」
海はジェネルの返した言葉にフッと笑い、頼んだばかりの白ワインを一口含んだ。とても乾杯という気分になれなかったのだろう。海はジェネルの分の酒が届くより先に酒を口にすることをやめなかった。
ジェネルはそんな海を見て、本来、こんな形で一つの区切りをつけたくはなかったのだろうという思いを新たにした。海はぐっとワインを飲み干し――グラスを静かに置いた。
「思えば俺は、お前にも依存してばかりだったね」
「そんなことないです。私は……私も、海さんが居ないと、何もできませんでしたから。きょうの試合だって、きのうの試合だってそうです。海さんが居てくれたらなってばっかり思ってました。いつまでもそうは言ってられないのに、円陣組むたびに、海さん、毎日こんな思いしてたんだな、っても思いますし。共依存ってことにしといてください」
「そっか。……悪いね。俺がお前や清兵衛を移籍できない理由にしてしまったように――」
「……田中さんのこと忘れてませんか」
ジェネルなりの空気を変えたかった言葉だったのだろうけれど、海にはあまり効果がなかった。分かりきってはいたことなのだが、普段の海ならここで少しくらい、文句を言うか、睨みつけてくれるものだろうと思っていた。海は特に睨むでもなく、言葉を続けた。
「……お前も、俺のせいで移籍できなくなってしまったね」
ジェネルは首を振りながら海の言葉を否定した。
「……別に、海さんのせいじゃないです。海さんがもし他の球団に移籍したなら、きっと私は、いつか追いかける形で移籍したと思います。私は……別に、大阪の街が嫌いなわけじゃありませんけど、私の高みを目指すなら、そこに海さんを常に置いておきたかったので。伊達に海さんを憧れにしてたわけじゃありませんし、リップサービスで海さんを振り向かせたいなんて言ってたわけじゃありませんから」
「そっか」
海はそう言いながら、ジェネルのもとに届いたカクテルを見つめた。イチゴが浮かんだ、ピンク色のカクテルだ。
「裏メニューなんです。私をイメージしたカクテル」
「ああそう」
「実は海さんをイメージしたやつもあるんですよ」
「じゃあなんでそれ最初に言ってくれなかったんだよ。もう一杯飲んじゃったじゃないか」
海は少し不機嫌そうにしながら、ワインを再び注いだ。ジェネルは乾杯しようとしなかったし、海も、乾杯はしようとしなかった。
「この後、どうするんです?」
「お前そういう話ばっかりだな」
「あ、いや、そういうのじゃなくて、何日か後の話してます。……やだなあ。意識してるのは、海さんのほうじゃないですか」
てっきりジェネルがどさくさに紛れてホテルへと自分を連れ込もうとしてるのではないかと海は疑ったが、ジェネルが気になっていたのはそちらではなかったようで、海は髪をかきむしった。
長年の付き合いだからこその間違いだったのだが、心のどこかでジェネルが自分に対してそうした話題を振って場を和ませようとしてくれているものだと思っていたから、海はそんな自分に嫌気がさしてため息をついた。まして、ジェネルから指摘されたように、むしろ本当のところは、ジェネルを意識しているのは自分のほうなのではないか――そんなことを考えると、顔が赤くなる思いだった。
「……取材班にも話をつけて、今週中には会見を開くつもりでいるよ。さすがに明日突然、とかだと、フィンランドの連中にも悪いだろ。あいつら、今年の俺を密着してるっていうのに、俺が辞める決意をした部分の撮れ高がないと顔を潰されるようなもんだし。……まあ、リップサービスだよ。本来こういう場面を撮ったほうがいいんだろうけど、こんな場面だって見られたくないし、そもそも、公の電波にだって乗せたくないしね。……密着取材なんて、いいことなんか何もないよ。琉美と諒斗が生まれたときのあの……なんだっけ。ドキュメンタリー番組なんかも、面倒だったしね。お前はあんな番組、受けるんじゃないぞ」
海は自分でそんなことを言いながら、そういう過去もあったなと振り返り、鼻で笑ってみせた。
「さすがに、こんな状態でこのまま一軍にだって呼ばれることはないだろうしね。向こうから言われる前に、俺の口から言ってしまったほうがいいだろ、こういうのは。これ以上ファンにだって、今の俺が本気で一軍にもう一回上がれるもんだと思い続けてる姿を見せたくないし、これ以上、変に佳井海という幻想なんか抱かせたくない」
「……」
ジェネルはそんな海の言葉を聞いて、改めて本当に覚悟を決めたつもりでいることを受け止め、瞳にあふれそうになる涙をこらえていた。その言葉を直接聞くまでは――と思っていたものの、これまでの月日の重さが涙に重力を与えてやまなかった。
「お前にも、悪いことをしたと思うよ。こんな、ろくでもない男に青春を捧げて、俺ありきでここまで走り続けてきてさ。俺は……お前なんかに見合う男じゃなかったね。お前は、俺が思ってたよりずっと立派になったよ」
「そんなことないです――」
ジェネルは海の言葉に少しかぶせ気味にして言葉を遮った。
「むしろ、私が海さんの隣に見合う女じゃなかったと思うんです。華耶さんという存在がいながら、私を長いこと隣に置いてくれました。私にもっと、海さんくらいの力があればって思い続ける日々の繰り返しでしたよ、ほんとに。これからも……これからも、華耶さんの次くらいに私がいても、いいんですよね?……私、これからも海さんを一方的に追い続けてもいいんですよね……?」
「……何度も言うけど、追いかける人物を間違ってる気がするけどね、お前は。お前がそれでも俺を追いかけたいなら、止めないけどさ。どうせ、言ったって、止まらないんだろ」
「それは、まあ……」
にへへ、と子供っぽい笑みを浮かべたジェネル。自然に出た笑みだったはずだが、そこで心が緩んだのか、ジェネルは瞳から大粒の涙をこぼし始めた。
「……ごめんなさい。こんなときに私、もっと頑張らないといけないの分かってるんですけど……。明日からどうやって頑張り続けたらいいか、まだ踏ん切りつかないんですよ。あのBINE見たときに、ああ、やっぱそういうことなんだな、って覚悟してはいたんですけど……やっぱ、事実として突きつけられると、きっついですよ。私……まだ、海さんに何の恩返しだって出来てすらないのに」
「シーズン終わってからにしろよ、そんなの」
「だって……だって……っ」
そう言ってジェネルは泣きじゃくってしまった。店員が気まずそうな表情を浮かべながらサラダの盛り合わせやジェネルがあらかじめ頼んでおいていた食事を運んできたので、海は申し訳なさそうに店員に頭を下げた。