海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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201・その男が遺したもの(前)

徳島のあたりから富山のあたりまでを縦断するようにして、一日中分厚い雲が雨を降らせていた。風も強く、降り方は時折乱暴で、ゲリラ豪雨なんて言葉がある中で、一日の中で何度もゲリラ豪雨と言えるような強い雨がこの日一日中、関西方面を襲った。

 

「隣、ええですか」

「ああ、構わんよ」

予報ではこのあたりも降るのではないか、と言われていた和歌山の東側は、結局朝方雨がパラついただけにとどまっていた。

長い髪をオールバックにして結び、伸びた髭を蓄えたその男は、まるで東洋史に登場する歴戦の猛者のようだった。

堤防のあたりで携帯電話でテレビ番組を流しながら、クーラーボックスにたくわえた数匹のアオリイカや、大きめのクロダイやスズキを満足そうに眺めた男は、干したスルメイカを割いたものを取り出して噛みはじめた。ランタンの明かりを少しだけ緩め、再びロッドをしならせながら、独特なリズムを足で刻み、時折一本足でバランスを取ったりしている。

 

遅れてやってきた若い釣り人――まだ20代後半くらいだろうか。釣り人は男をじろじろ眺めているのも悪いと思い、クーラーボックスをちらりと眺め――少し羨ましそうにしながらロッドを振った。

「釣れてますか」

「あぁ、まぁまぁってとこだな。今年はイカが妙に多い気がする」

「チヌはどうですか」

「まぁまぁだな」

「はぁ」

それでまあまあなのか……と釣り人はその男の満足そうな顔を見て、敗北感に包まれた。まだアタックすらしてないというのに、今日、この男ほどの釣果をあげられる気がしなかった。

 

「すまねぇ、ちょっとテレビの音上げるからな」

何かを思い出したようにして男は釣り人に断りを入れて、テレビの音量を少し上げた。

「お構いなく」

ラジオではなくテレビを聞きながら釣りをする、というのも珍しいものだ――と釣り人は思った。

 

〈――本日は足元の悪い中、わざわざ僕のために集まっていただき、ありがとうございます。早速本題に入らせていただきますが――今シーズンをもって私、佳井海は引退します――〉

 

「ああ、佳井選手ってまだ現役やったんでしたっけ」

「あぁ」

「僕、高校出てからすぐに就職して、それからしばらく仕事が忙しくて、野球なんか見てる暇なかったんですけど、そうですか。今年引退でしたか。数字の割に、頼りない選手やった印象がありますわ」

「あぁ、確かに、頼りなかったやつだったな」

男は再びアオリイカを引き上げた。

「腹が減ったな。せっかくだから、お前さんも食わねぇか」

「ほんまですか。お願いします」

 

男はナイフで釣ったばかりのイカを捌き始め、持ってきていた鍋やコンロ、バーナーなんかを手際よく準備し始めた。

 

〈――入団してすぐの頃、当時の監督に『お前の打撃は勝利に繋がらない』と言われてからは、一度も自分の打撃に納得できたことがありませんでした。個人の数字以上に、プロの世界では何よりも勝利が大事な世界です。一試合も落とすつもりで挑んだわけではありませんし、どんな試合であれ、自分の力で勝利に繋がる打撃を常に心がけてきたつもりです。……それでも、落としてはいけないような特に大事な試合を自分のせいで落とした場面は数知れません。あの場面で自分が打っていれば、自分が塁に出ていれば――そんなことを常日頃から、思い悩んだまま、こんな歳まで現役を続けてしまいました――〉

 

「なかなか釣れへんもんですねぇ」

「まあ、そういう時もあるさ」

「おっちゃんは釣れへん時、素直に場所変えますか」

「特にそういうことはしねぇよ。釣りでメシ食ってるわけじゃねぇからな」

「さいですか」

 

〈――そういうことを清兵衛によく『一人前でもないのに思い上がるな』と叱られてました。しかし、年齢が進むにつれ、あと一歩が遠くて落とした試合や、あと一歩でシリーズ進出だとか、シリーズ制覇が届かなかった場面が増えていきました。あの場面で自分が打てていたら勝敗が変わっていたかもしれない――そんな場面は、月日の経過とともにどうしても増えていってしまいます。黙っていても次の日の試合はやってくるわけですが、だからといって一つ一つの試合を落としたくらいで悔しがるなと言われても、無理があります。負けて悔しくない試合なんて、それで家族を養っている以上、あるわけがありませんから〉

 

「僕もねぇ、まあよく上司に言われてきましたよ。一人前でもないのに分かったような顔をするな。って。どこもみんなやっぱ、同じもんなんですね」

「……」

ヘラヘラとしながら釣り人は、やっと一匹かかったスズキが思いのほか小さかったのか、舌打ちをしながらすぐにリリースした。

 

「一人前、一人前って。難しいですよね。どっからどこまでが一人前じゃなくて、どっからが一人前なのかなんて、その人のさじ加減ひとつやないですか。こんなん、言うほうも言うほうですよ」

そうしてもう一度釣り人は竿を海に向かって投げ、アタックを待った。

 

男は黙ってイカを調理し続け、あたりには鼻をくすぐる磯の香りと、熱の通った醤油のが漂い始めてきた。

釣りでメシを食うわけではない、と言っていた男。調理している間は当然釣りはできないのだが、そんなことはどうでもいいようで、調理に夢中なようで満足げな顔をしながら手際よく調理を進めている。

 

釣り人にしてみたら、てっきり刺身がぽんと出てくるものだとばかり思っていたから、つい後ろを振り返りたくもなったが、それで魚への反応が遅れるのも嫌だったから、そこまでのことはしなかった。

 

〈――たぶん最後まで清兵衛から見たら自分は一人前ではなかったでしょうね。僕だって、打ったホームランの数や二塁打なんかより、自分が打つべきだった打席で凡退した場面のほうがよっぽど記憶に残っています。皆さんよく通算打点がどうとか通算安打とかがどうって言ってくれましたけど、それだけ多くの数、僕は凡退してきましたからね。そりゃあ、どれだけ打っても6割くらいは凡退してるんですから、そっちのほうが記憶に残ってるに決まってるじゃないですか。清兵衛はよく『勝った試合くらい喜べ』とか『自分のホームランくらい喜べ』とか言ってましたが……こういう勝利にだけ執着することに対しての……神なんて表現を使うと陳腐ですからね。誰かしら、何かしらからの僕に対しての罰なんだと、正直言って思っています〉

 

〈――原因となったスランプはやはりあの怪我によるものですか?〉

 

薫はビールを開けながら、その会見を見続けていた。時計はまだそう遅い時間を指しているわけではないというのに、もう7本目だ。8本目の缶は慧雄が奪い、蓋を開けた。

薫はふと慧雄を見上げた。首を振って、もうやめたほうがいい――そう訴えかけた。薫は涙をこぼしながら、弟を拒絶するようにして、ビールに口をつけた。

 

〈……正直言って、あれは無理に打とうとしなければ打たなくてもいい球だったし、避けようと思えば避けられる球でした。シーズンが始まればもっと厳しいコースの球だって投げてくる投手もいるし、これは皆さんに対して何度も言ってきたことではありますが……そうしたシチュエーションでの打席の立ち方を指導するにあたって、内角にガンガン投げるよう要求したのは僕です。もう、何年も前からアイツ……浅井薫にはあのコースを要求し続けてましたし、薫はその要求にしっかり応えられるほどの絶対的な制球力がありました。シーズンが始まる前、薫の実家に嫌がらせが及んでいることを止めるためにも、何度も僕はカメラの前でも、マイクの前でもあの怪我についての真相を話し続けてきました。繰り返し言いますが、あれは薫が思いつきで投げたものではありません。普段からあのコースを僕の要求で投げてきているものです――〉

 

もう何度も訴え続けてきたことを再び会見でも海は訴えた。薫は海の必死の訴えに涙をこぼしながら、7本目の空になったビール缶を握りつぶした。

慧雄は薫からビール缶を取り上げ、テーブルから空き缶を回収してゴミ箱へとそそくさとしまった。

 

〈――これも繰り返し話してきたことですが、あのコースの球の感覚が僕の中で鈍っただけのことで、投げた薫は何も悪くないんです。あんな感じの球だって、今までも危ないと思ったら避けてきましたし、そういった球を実戦で投げられたときに避ける練習でもあったんです。ああいう球を投げられることはシーズン中だって少なくないですし、なんとしても僕を抑えるために必ずああいった球を投げてくる投手だってこれまでもいましたし。……自分も今年はレギュラー再昇格を狙っていた部分がありますし、とにかく1打席でも多く立って、もう一度優勝やシリーズ制覇を目指して――勝利に繋がる打撃というものを今度こそ極めたかったんです。下がった打率の全てを取り戻せはしないかもしれませんが、それでも、一試合の中で勝負どころさえ見極めれば、絶対に自分がすべき打撃を取り戻せるはずだって思ってたんです。……功を焦ったんですよ、僕は。この歳にして。そんな打者が一人前なわけありますか。ないでしょう、正直言って。きっと、清兵衛が近くにいたら、僕は何度でも殴られていると思います〉

 

「……それでも、佳井さんのせいなんかじゃない……。あれは、私が――」

「姉貴。必要以上に自分を責めるのはやめなよ」

首を振りながら、海の言葉を否定する薫。慧雄は薫の膝に手を置き、出来るだけ優しい言葉をかけたつもりだったが、薫はそれでも首を振り続け、なかなか顔を上げようとはしなかった。

 

「でも、あの怪我さえなかったら佳井さんは今頃……」

「……そんなこと考えたって、仕方ないよ。姉貴。佳井選手だって、同じこと思っててあの場所にいるはずなんだから。当てたくて当てたわけじゃなければ、ぶつかりたくてぶつかったわけじゃない。誰のせいでもないんだよ。いつまでも気にしてろ、罪を背負えなんて佳井選手は思ってない」

「でも、世間は……」

「……」

 

世間はそれでも自分を許さないだろう、という言葉に、何か気の利いた言葉を慧雄は言えずにいた。

名前を変え、姿を変え、それでもいつかは大阪に戻って再び仕事に復帰しようと思っている薫だったが、壊れたのは海の身体だけではない。どれほどの数の逮捕者が出たとしても、それでも、社会は自分を許してはくれないだろう。現場に戻ろうが、自分に浅井薫という名前がそこにあり続ける限り、きっと自分は"あの"浅井薫というレッテルを背負って生きなければならない――。

 

〈――職人に頼んで作ってもらったバットを、自分のミスで自分に合わなくなるような怪我したんですから、バットだって言う事きかなくなります。手首の事だって気にしますし、前は出来てたことが出来なくなった、っていう思いがあるもんですから、たとえば下半身の使い方とか腰の使い方とかでなんとかできないか、とか、色々そのときそのときで考えてはみるんですよ。でも、今までと同じような打ち方をし続けるからこそ、バットは今までどおりの弾道を描いてくれるんです。……僕は、怪我を理由に長年使い続けたバットの感覚まで手放してしまったんです。感覚が戻らない、戻らない、って言ってるうちに、僕は、自分のフォームも、手に伝わってくるバットの感触さえも失ってしまいました。僕が今心配しているのは、薫までもがそうして、自分のフォームを失ってしまっているのではないかということです。薫が現場に戻ろうとしているのかどうかも、薫が今どんな状態でいるのかも、僕は詳しいことまではまだ誰からも聞いていません。皆さんもどうか、薫に対して変に詮索することはやめてほしいと思っています。……そして、薫が現場に戻ってきたときは――そのときは、温かく、薫をまた迎えてほしいと思っています〉

 

薫が深刻なイップスであることは、海も詳しくは知らずにいた。変に薫のことを知った上で現場にいたら、海はそのことをうっかり口走りそうになるからこそ、薫の近況はあえて詳しくは知らずにいた。全てが終わってからでなければ、薫に会ってはいけない気がしていた。

一方で薫もまた、海には自分から海に連絡を取ることも控えていた。自分という存在が海をこれ以上苦しめるのが嫌だったし、変に慰められることで自分だけが満足しようとしている――そんな自分と向き合いたくなかったから、薫は未だに海に直接の連絡を取ることを控えていた。

 

現場に復帰できるかどうかは、自分にもわからない。時代が自分を待ち続けてくれるかどうかもわからないし、自分が社会に許されるかどうかも分からない。

まっすぐボールをまともに投げられないほどの状態になってしまった自分が、もう一度現場に戻れるかどうかだって、不透明だ。

ただ、海のメッセージは、確かにそこにあって――強く、薫をこれ以上悪者として扱わないようにと海は訴え続けていた。自分の引退会見だというのに、海は薫の話をなかなかやめなかった。

 

「姉貴。佳井選手もああ言っている。もう本当に投げられないなら、それでいいと思うし、投げたくないなら、それでいいと思う。だから、そうやって酒に溺れるのはやめようよ。佳井選手、きっと悲しむよ、今の姉貴を見たら」

「……」

 

最近は酒に訴えることでしか、薫の感情を癒せるものはなかった。慧雄は必死でサッカーやキャッチボールや、昔薫と遊んだゲームを再びやり直したり――寄り添える時間は常に薫に寄り添ってやっていた。

それでも、24時間常に隣にいてやれるわけでもない。たまたま弟は3年付き合った彼女と別れたばかりだったからまだこうして姉に寄り添えるものの、自分だっていつまた、その心のよりどころを別に見つけるかだって分からない。だからこそ、薫にはもう一度自分の足で立ち直るきっかけを作ってほしかった。

薫が自分の部屋でも酒を飲んでいることは慧雄も知っていたから、さっきまで飲んでいたビールを没収したのだ。どうせまた、この後部屋でも飲むのだから――。

 

「それでもね……飲まずにいられないんだよ。どうせ私はもう、元には戻れないんだから。佳井さんだって、結局、もとには戻れなかった」

「だからこそだろ。何甘ったれてるんだよ。それで酒に溺れて、感傷に浸ってみせて、それでいっそのこと死んで、同情でも誘おうってのかよ。佳井選手がそれで喜ぶのかよ、それで!」

「……」

 

右腕に引かれた、分かりやすく不自然な傷跡を弟は指差した。

 

「……なあ、姉貴。こんなもん、左腕にはつけなかったあたり、本当は悔しいんだろ。……全部右腕につけてるってことは、本当は"その気"だってないんだろ。やめろよ、そういうの。傷の数が姉貴の免罪符になんか、ならないんだから」

「……」

慧雄は喉の奥を涙で潤わせたようにして、時折ひっくり返した声を出しながら、まぶたを拭った。

テレビの向こう側の海の姿はまだ平静を装っている中で、二人は共に別々の理由で涙を流していた。

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