「お支払いは」
「B-payでお願いします」
「かしこまりました。では、こちらに携帯のほうお願いします」
「ええと――はい、どうぞ」
「……はい、OKです。どうも、ありがとうございました」
「いえいえ。こちらこそありがとうございました」
お台場の高級ホテルまで客を送り出した四宮は、そのまま海浜公園のあたりまで車をゆっくりと進め、車を停めた。こんな場所に車を停めていても客など寄ってこないのだが、四宮にとっては今そんなことはどうでもよく、先ほどからずっと続いている記者会見の内容をゆっくり見ることのほうが大事だった。
もちろん、こんなこともあろうかと前もって記者会見が行われると報道されていたこともあって録画予約はしてきたのだが、今この瞬間を四宮は見逃したくはなかった。
車内の小さなテレビに、かつて何度も乗せたその男の姿はあった。いつしか白髪の増えた自分とは違って、出会った頃の肌艶、毛艶――毛髪量のままの、いつまでも若々しい姿がそこにはあった。
〈――去年からは代打専用応援歌だって作ってもらったし、この怪我から戻ってきてくれるときっと応援団の皆さんも観客の皆さんも、ファンの皆さんも思ってたと思います。そういう皆さんの期待を最後まで裏切り続けてきて、申し訳ないと思っています。最後までずっと一人前になれなかった僕を応援してくださった皆さん、今まで本当にありがとうございました。自分の判断ミスという不本意な形で負った怪我がきっかけで皆さんの前を去ることになってしまいましたが、僕が居なくなってもチーターズはずっとそこにあり続けます。皆さんの熱い思いを、後輩たちにまたぶつけ続けて――皆さんの力でチーターズを導いてくれたらと思います――〉
車内に飾られた、6年前にチーターズの優勝がかかっていた際に販売された優勝祈願のお守り。ナンバープレートに刻まれた25の番号。白い車体に横に引かれた、黄色と黒のボーダー。
激しい自己主張をしているようなデザインでこそないものの、そのタクシーは四宮が仕事に支障のない程度にチーターズを連想させるものに寄せたものだった。
個人タクシーに切り替えてからそれなりに月日が流れたが、自分が仕事を辞めると決めていた年にまさか、自分が何度も乗せた男が引退するとは――。四宮は感極まり、めったに流さない涙を浮かべてハンカチで顔を拭った。
『私ね、あんま大きな声じゃ言えないんですけど、うちは一家総出でチーター党なんですよ。明日は1日オフなんでしょう?なんで蒲田なんかに?』
『5万やるんで、誰にも言わないって約束してもらえますか』
『何言ってんですか。チームのファンがマスコミに情報売るようなことしません。そんなの、ファン失格ですよ。お金も受け取れません。お金なんかより、サインをいただけたらそれで十分です』
『だけど、あんたを信用する材料が俺にはあんまりないんですよ』
『そこの後ろの座席のポケットに私の名刺があります。このご時勢、車の中には監視カメラだって搭載されています。この空間でしか知りえない会話が外に漏れたなら、うちの会社を訴えてくださって構いません。話せないくらいのことなら、私もそれ以上は詮索しませんから』
初めて海を載せたときは、海はまだ20代だった。自分の記憶が正しければ、その頃からすでに子供は二人いたはずだ。その子供のうち長男が今、欧州のサッカーで活躍しているということは四宮もよく知っていた。長男がサッカー界で活躍しているということは、その先に生まれた長女ももう社会人になっているはずだ。
その間、ずっと海は前線でバットを振り続けてきた。どれほどヒットを打とうと未完の大器と言われ、どれほど長打を増やそうと落とした試合の戦犯にされ、その度に勝負弱いと言われ続け――熱狂的なチーターズファンという皮だけを都合よくかぶった、ごく一部の中途半端なチーター党には『佳井がいたからチーターズは優勝できなかった』だの『とうとうシリーズを制覇できなかったのは佳井という重度のガンがいたせい』だのと言われ続け、今日まできた。
自分がこれからもぶつけ続けるほどの熱意、そして、その自分の熱意を受け止められるほどの器が、今のチーターズにどれほど残っているのだろう。決して最初から勝てるわけがないと思って応援しているわけではないが、次の時代がどれほど来ても、次の佳井海はきっと――それこそ、ジェネルが退いたらきっとしばらく現れないだろう、と四宮は思っていた。
別に、海の引退とともにファンをやめるわけではないし、シーズンだってまだあと5ヶ月ほど残っているのだから、これからも戦いの日々は続くというのに、どこか、自分の中には大きい穴が開いてしまったような気が四宮にはしていた。海の引退に闘志を燃やして優勝を目指す――なんてことをするような者が今、ジェネル以外にチームにいるようにはとても思えなかったからということもあるだろう。
チーターズにとってそんな都合のいいシナリオなどないことだって、清兵衛の最後、田中の最後を遠くから見てきた四宮にはよく分かる。誰かが引退するから優勝する、なんてことが仮にあるならば、12球団等しく毎年誰かが引退しているのだから、そんな都合よく誰かのために勝って、皆が拍手で送り出せるような世界など、そこに勝負がある限りないということも、長年野球を追い続けているからよく知っているつもりだ。
それでも――最後くらいは海を笑顔で送り出せる世界があるなら――四宮はそう思わずにいられなかった。自分だってそう思っているくらいなのだから、きっと、海の妻だってそう思ってるに違いない――。
四宮は記者会見の内容がだんだん頭に入らなくなっていた。録画予約をしておいて本当によかったと思わずにはいられなかった。
:
:
〈――去年は兼任コーチとして一年を戦いましたが、今後、どうでしょう。監督やコーチとしてチーターズを支えるということに関して、現時点ではどう考えているのでしょうか?〉
〈……チームも今、大事な時期です。自分がこうしたい、ああしたい、と口を挟める段階にはまだないと思っています。本来、監督らからしてみれば今年も僕は動けるというつもりで計算していたはずですから、そういった迷惑を考えると今はまだ僕からコメントできる状態ではないでしょう。コーチの役職についても、これまで野球選手としての側面としか父親の姿を子供たちに見せてやれなかったところもあります。決していい父親とは言えなかったと思います。だからこそ、今後のことは妻とよく相談して決めたいと思っています。ですから、僕のこれからなんかよりも、まずは今季のチーターズを見守ってくださいとしか正直言って今は言えません〉
〈引退セレモニーについてはどうでしょう?〉
〈それも今、僕からどうこう言える状況じゃないと思っています。さっきも言いましたけど、本来、今年僕は動けるつもりで監督やコーチなんかも考えてたでしょうから、こんなちっぽけな怪我で調子が戻らない男のために、Aクラス争いでそれどころじゃない今、僕一人のためにチームがどうこうというのは、都合がよすぎると思います。現時点では、僕の口からそういったことはコメントすべきではないと思います――〉
「……楓斗。結局、君も引退試合はやってないんだったか」
結った長い髪をなびかせながら、長く切れ上がった大きい瞳を田中に向ける男。犬塚だ。海と犬塚に関しては、同じ人間だというのにどうしてこうも老けずにいられるのだろうと田中は思った。
「……聞いているのかい、楓斗」
しばらく呆けているようなそぶりで返事のなかった田中に、犬塚はもう一度声をかけた。少しだけ強い語気に田中は思わず肩を上下させて横を向いた。
「あ、うん……引退試合はしてないよ。あの時は、肩の治療中だったから。セレモニーだって、ファン感のときは入院中だったし」
肩の治療が終わった後、田中は都内に少年野球チームを設立した犬塚に呼ばれる形で、指導者として犬塚と共に仕事をしていた。白地に爽やかなライトブルーとややオレンジがかった黄色の装飾を施した少し派手なユニフォームは、田中の薄い表情と反比例してよりいっそう派手に見せたし、田中をさらに地味な顔つきに見せていた。
「エンペラーズとチーターズとのオープン戦で、両方のユニフォームを着させてもらって引退試合とセレモニーをさせてもらった私は、幸せ者なのかもしれないね」
「大きい怪我していなくなったとかじゃないからね、シノは」
「でも、引退試合なんてのは難しいものだね。彼も言ってたけど、大事な時期になればなるほど試合なんてやりづらくなるし、一年間通して、野球なんてのは、大事じゃない時期なんてない。だから、もう決着がついてしまったシーズン終盤だとか、私みたいになんとなくでオープン戦に追いやられてしまって、なんてこともある。でもオープン戦のために選手登録をするというのも、あれもあれで、なかなか契約面から面倒なものだからね」
田中はベンチに座りながら、テレビを見つめた。
「彼は、指導者にはならないのだろうね」
「だろうね」
「しかし、それではあまりに勿体無い気もするのだけど」
「佳井さんは父親に戻りたがってるんだよ。稼ぐだけ稼いでしまったから、しばらくは父親としての時間が欲しいと思ってるんだ」
「でも、子供たちだってあと何年かで家を出て行く歳になるだろう。父親はいつまでも保護者でいられるわけではない」
「……そうなったらきっと、奥さんとの時間を取り戻すんじゃないかな。一年のうち半年くらいを家空けてることに、ずいぶん罪悪感を感じてたみたいだから」
「……奥さんとの時間、か。なるほど、そうきたか。……私も最近、妻を愛してやってないな。……楓斗。君は、どうなんだ。式の予定は。12月だっただろう、確か」
「一応、順調だよ。いまさら逃げられるなんてことは……ないと思ってるけど」
「そうか」
犬塚はうっすらとだけ笑いながら、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、田中へと渡した。
〈――未来を担う野球少年たちに何か伝えたいこととかはありますか?〉
〈少年たち……ですか。僕は……何度かメディアの前で話したことがあるんですけど、正直言って、あんまり野球が好きではなかったんです。ことの成り行きで野球をやるようになったから、野球を好きになるまでは時間がかかりました。今だって、野球が本当に好きかどうかと言われたら、ちょっと怪しいです。野球というものに出会わなかった人生があったなら、きっとこれほど迷わずに生きられたと思います。……でも、皮肉にも、その本当に好きなのかどうかが分からないスポーツに、これまで僕は生かされてきました。今となっては、自分を表現できるものが、今、野球くらいしかありません。いやまあ……ギターなんかも確かにあるんですけど、ギター一本で表現できる世界だって、あれは、後ろにリズム隊だとか、他に支えてくれるものがいるから――他に張り合ってくれる人がいるから表現できるものです。……野球だって、一人じゃできないスポーツですよね。そういうことです〉
「……そういえば、彼のバンドはどうなったんだっけね。確か、君のフィアンセと一緒に音楽をしてるのは、彼のバンドを担当してた者だろう?」
ぴたり、とスポーツドリンクを飲む手を止め、犬塚は田中を見つめた。
「そうだよ。名前は忘れちゃったけどね。なんとかネンって人たち」
「再結成は、あるのだろうかね」
「どうだろう」
田中はあいまいな返事をした。音楽の話なんて、ナオとすらもしてこなかったのだから、海のバンドの話なんて、自分からその実態をちゃんと聞いたことだって、考えてみたらほとんどなかったように思えた。
自分は海のことを大体知っているつもりでいたが、実は、そんなに海のことを知らないまま、自分のことばかり押し付けてきてしまったのかもしれない――田中はそう思った。
〈……たまに、全員から三振取って、自分で決勝打打てば野球なんて自己完結できる、みたいな強がりしてみせる投手なんかいたりしますけど、あれを真に受けちゃ駄目ですからね。三振を取るためには相手の打者が必要です。ボールを受けてくれるキャッチャーだって必要です。皆が思ってるほど……いや、それ以上に、野球って一人じゃ何もできません。一人前じゃないと、ああだこうだと周りから文句言われ続けますし、そこから抜け出そうとして、必死で練習して、それで周りから頭ひとつ抜けるほどの力をつければ、今度はそれはそれで、アイツの住んでる世界は違う、って、誰もついてこれなくなる――〉
海はそう言って、しばらくまぶたを閉じた。振り返る辛く苦しい日々がまぶたにしばらく重力をかけて、そこから動き出すことを拒んだ。
田中も犬塚も、海の次の言葉をじっと見守っていた。きっと、テレビを見ている日本中の視聴者が同じような気持ちだっただろう――。
〈……僕は、あまり周りと打ち解けられるタイプじゃありませんでしたから、余計、苦労しました。……プロの世界って、結局のところ自分さえよければ、みたいなところあるじゃないですか。だから……そういう、もがいてる人だとか、必死で何かを変えようとしている人を、信じてやって欲しいんです。その人の言葉を、聞いてやって欲しいんです。今、プロ野球選手を目指してる皆さんも、自分は最初からプロを目指してるから周りと接しなくていい、みたいな考え、やめましょう。誰かの孤独って、その人が孤独だからじゃなくて……周りもね、作ってるところ、あると思うんです。他人の孤独っていうものを。……僕はそれでも、構ってくれる変わり者が周りに運よく何人もいました。その人たちがいたから、ここまで走ってこれました――だから、チームプレーだとか、一丸になってだとか、一致団結だとか、そんな言葉をもし、これからインタビューなんかで一度でも口にするつもりなら……周りを……全部とは言いませんが、その一部だけでも、分かってあげてください。誰か一人のことを理解するだけでも、世界はずいぶん違って見えるはずですから――〉
「これって、ジェネルのことなのかな」
「ジェネル、か。彼女は今……どんな表情でこの会見を見ているのだろうね」
田中は犬塚の問いに何も言えなかった。犬塚も、今ジェネルが置かれている立場がどんなものか分かっているからこその言葉だったのだろうし、犬塚も聞くだけ聞いておいて、それ以上は何も言わなかった。
きっと海がこだわっていた、チーターズでてっぺんを取るということに、ジェネルはこれからも引き継ぐ形でこだわり続けるだろう。
ジェネルのような明るく周囲に声をかけるタイプでさえも、孤独は襲ってくるし、きっと今のチーム状況のままなら、ジェネルがそうして奮起すればするほど、ジェネルの孤独はより色濃くなるだろう。
改めて田中は、自分がもう少し若ければ――そんな気持ちが湧いてきて、胸が苦しくなった。
「……よく、佳井さんは15年遅い、って言ってたよ。今、改めて思う。俺たちが今、15歳若返って、ジェネルと一緒に野球ができたなら……って」
田中の言葉に、犬塚はあまり深追いをしなかった。たった2年しか田中たちと野球ができなかった自分に、何か気の利いた言葉をかけられる気がしなかった。きっとこれは、長年戦ってきたからこその言葉なのだろうから――。
:
:
〈――ごめんなさい、一回休憩にしませんか。会見、1時間超えちゃいましたし。僕もちょっとトイレに行きたくなってきてしまって〉
海のその言葉で、急遽記者会見は10分の休憩を挟むことになった。
「……あれから1時間ちょい経ったっていうのに、どうも釣れないですね。おっちゃん、どうですか」
「魚が欲しいなら、くれてやるよ」
「ほんまですか」
「構わんよ。お前さん、魚を釣りたいっていうよりは、魚が欲しいんだろう」
キャスターつきのクーラーボックスを引きずりながら、男は釣り人のもとへとやってきた。釣果は散々だったようで、釣り人はクーラーボックスから大き目のチヌやアオリイカを次々と入れていった。
先ほどあれだけ料理で魚を食べたというのに、これほど釣れていたとは――と釣り人は恨めしく思った。
「おっちゃん、帰るつもりなんですか」
「あぁ。今日はもう、どうでもよくなった」
「どうでもって――さいですか」
「あぁ。釣り、頑張れよ」
ぽん、とやや激しめに肩を叩いてすれ違っていく男。
釣り人は一度振り返り、男を呼び止めた。頭のどこかで、どうにもその背中に見覚えがあるのに、引っかかって、取れない。
「……おっちゃん、昔、テレビかなんかに出てませんでした?」
男は背中を見せたまま手を振り、否定も肯定もしようとしなかった。結った長い髪をなびかせ、次第にそのシルエットだけが遠ざかっていく。
「えっ、あっ――」
走って追いかけようとしたが、大物を感じさせる食い込みが竿から伝わってくる。竿がしなり、引っ張られそうだ。とてもじゃないが、追いかけられるような状態ではない。
「こンのォッ……!!」
負けるか――そう思いながら引き上げた魚。チヌだ。ずいぶんと大きい。
「大きい――"ロクマル"か……?!」
ゆっくりと海から引き上げ、最後の最後で逃げられないように手繰り寄せて針をはずす。いざ陸に引き上げてみると、"ロクマル"――60cmどころか、50cmにやっと届いてるほどのサイズだが、それでも今まで自分が釣った魚の中ではだいぶ大きい。
「おっちゃん――」
その姿はすでになく、男は自力で引き上げたその魚をクーラーボックスへと入れ、立ち尽くした。
「絶対どっかで見たことあるねんな、あの姿……」