海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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203・その男が遺したもの(後)

〈――あと23本で通算4500本安打、あと38打点で通算2000打点、二塁打13本で通算750二塁打となっていたところでした。こうした記録を意識したことは?〉

〈ないですね。ずっと、勝てなければ意味がないと監督に言われ続けてきましたし、今はだいぶそういうのなくなりましたけど……選手に対して罵声のような野次だとか、単なる誹謗中傷をするような声かけをするのをやめてくださいって声明を出す前なんかは、ヒットを打っても罵声、打たなくても罵声みたいなの、甲子園じゃ珍しくありませんでした。ヒット一本という結果で示しても駄目なら、勝たなきゃ監督も観客も納得させられないわけでしょう。これまでもたくさん、ベストナインとかなんだとかで、トロフィーとか盾とか頂いてきましたけど、あくまでタイトルや通算記録というものは僕にとって、通過点でしかありませんでした。なんとかして勝利に結びつけるヒットを――あるいは、僕自身が試合を決められるようなヒットを打つことしか考えてませんでしたから。ある程度率が数字になってきた時点で、僕も気持ちを切り替えてホームランバッターにでも鞍替えすればよかったのかもしれませんけども……それでも僕は、自分の理想とする打撃を追求したかったんです。一発に固執して大事なときに一発狙いしか選択肢がなくなるような状況は僕には似合いませんし、一本のヒットが持つ奇跡というものを……奇跡なんて言ったら陳腐かもしれませんけど、信じたかったんです〉

 

ジェネルは重く、沈んだ表情でその記者会見をずっと見つめていた。時折自分のことを指しているような言葉が出るたびに、嬉しさもある一方で、とうとう自分は海と一緒に頂点を獲ることができなかった――その悔しさに涙を流した。

今年のシーズンはまだ終わってないのだから、今から悲観してもいられないが、きっとシーズンが終わる頃も、海は一軍にはいないだろう。海だって大事な時期であればあるほど一軍昇格を拒むだろうから、きっとこのまま海の野球人生は終わっていくのだろう。

うさぎ型のクッションに顔をうずめるようにして、ジェネルはそれを締め上げて千切れるほどに両腕できつく抱いた。

 

〈――ちょうど今、逆のことでジェネルは悩んでますよね。ホームランを打つのが自分の役目だと思いながらも、それでもヒットだって打たなければいけない。ある程度率を残せるようなバッターにならなければ、狙ってホームランにできる球だって増やせない。だから彼女は率も残そうとして、時々自分の打撃が分からなくなる。……そういうもんなんですよ、バッターって。だから、直接試合見に来てるお客さんなんかは、結果を出せないと文句のひとつでもつけたくなると思うんですけど、できれば、家に帰ってから、ネットとかみたいに選手に直接届くような形じゃなくて、直接家の中で、独り言とか、友達とかと話してやってください。皆さんが思っている以上に、選手も一人の人間なんです。何も考えずに打席に立って、それで漠然と帰ってくるほど、選手もバカではありませんから〉

 

今年こそ50本の大台を――そんなことを周囲から言われ続けていたジェネル。まずは海が記録した46本塁打という記録に追いつかないと――と思い続けながらもなかなかあと数本が届かずに、2年前記録した42本塁打が自己ベストにとどまっていた。

 

海の後を継ぐ者――そのプレッシャーもあり、ジェネルは3番打者を任せられるようになってから、とりわけ好調不調の乱高下を繰り返すようになった。観客もそうしたジェネルの調子に振り回されるようになってからは、チャンスで凡退しようものなら、耳に届くほどの落胆の声が時折球場に響き渡るようにもなった。期待の現れでもあるのだろうけれど、海はそれをよしとしなかった。

ジェネルはそんな海の言葉に、改めて自分があと15年早く生まれてきて、一緒に引退することができたならば――と思わずにはいられなかった。

 

〈――生まれ変わっても、野球選手になりたいですか?〉

〈……ご存知のとおり、僕は複雑な生い立ちがあります。名を捨てたとはいえ、フィンランドのことだって、引け目があって帰りづらく思っているだけで、できれば生まれ変わったなら、フィンランドでゆっくりとした生活をしたいという思いも、正直言ってあります。こうして日本人として、日本人らしく生活をしていますし、皆さんだって僕を日本人として受け入れてくれています。それでもやっぱり……自分以外の都合で祖国を突然捨てなければならなくなったというものは、辛いものです。ですから、次に日本で生まれたなら日本人として生きたいですし、フィンランドで生まれたならば、フィンランド人としてそのまま生きたい――それが僕の本心です〉

テレビの向こうの海はそう言い切ってから、一度首をかしげて収まりの悪そうな表情を浮かべた。

どこかパっとしないような様子で、しばらくその違和感の正体を探り――その正体に気づいたようで、海は苦笑いを浮かべた。

 

〈……ごめんなさい、そんな話じゃありませんでしたね。野球の話でしたよね〉

やりづらそうな笑みを浮かべた海に対して取材陣は一度笑い声をうっすらと上げ、海は額に一度指を当てたのち、もう一度マイクを握り締めた。

 

〈さっきも言いましたけど、野球のことが本当に好きかと言われたら、そうではありません。でも――仮に生まれ変わったとしたなら……ジェネルが言うように、アイツが15年早く生まれてきて、それで清兵衛が逆に10年遅く生まれてきて――ジェネルと、清兵衛と、そして……田中と僕の4人が同じタイミングで入団した世界があったなら、もう一度、4人で日本一を目指したいと僕は思います。でも……15年早くジェネルが生まれてきたら、きっと、妻とジェネルは今以上に、バチバチに僕を取り合うでしょうね。……不謹慎な話かもしれませんが、もし生まれ変わった僕に、両親との問題という点がなかったなら、妻とジェネルどちらを選ぶかと言われたら、僕はそのどちらかを選べなかったかもしれません。……すみませんね、こんな大事なときに。それでも、今のジェネルは、入団当初彼女が感じていた15年の差というものを、一人の野球人としてここ数年、しっかり詰めてきたんです。僕が思っていた以上に野球にひたむきな彼女がもし、妻と出会った頃と同じくらいの時期にいたならば、今と同じ運命にはならなかったかもしれない――一人の男として、今の彼女に対してそう思います。……それでもやっぱり僕は、妻のほうを取るとは思いますが。アイツ、すぐ調子に乗るので〉

 

思わぬ言葉にジェネルはふと顔を見上げた。冗談やリップサービスのつもりならやめてほしいとも思った。それでも、海の表情はいたって真剣だった。

海は冗談を真剣な表情で言えるほど、ウィットに富んでいないし、そんな軟派な人間ではない。だからこそジェネルは、海がカメラに向けて放った言葉が本音であるということを感じ取った。

感じ取ったところで、埋めようのない15年の差は縮まらないのだから、結局虚しくなるのだが――。

 

〈――ジェネルは――大爺双羽は、それほど真摯に、僕に対して挑み続け、そして、僕の打撃の全てを吸収しようとしました。単なる色仕掛けなんかではなく、一人の野球人として、僕の全てを学び、そして、それをもって僕を振り向かせようとした。……よくね、僕と双羽との関係を、双羽が僕をたぶらかしているとか面白半分に報道してるメディアなんかがありましたよね。でも、カメラの回ってないところで双羽がどれほど思い悩み、苦労し、練習してきたかまではきっと、ちゃんとは知らないでしょう。僕は、あくまで一人の野球人として僕に全力でぶつかってきて、そして――僕に追いつくことに全力を注いできた大爺双羽に、心から敬意を表したいと思っています。誘惑なんてしようとしたらいくらでも僕を落とせたチャンスだって何度もあったはずなのに、それでも双羽はあくまでも、僕にフェアなやり方で――一人の女性であること以上に、一人の野球人として接することをやめなかった。それだけは履き違えないでいただきたいですね。だからこそ……15年早く生まれてきたジェネルがもしいたならば――そんな話をしたわけです。……こんなこと言ったら、妻が今日は僕を寝させてはくれないかもしれませんけどもね〉

 

会場はもう一度笑いがこぼれていたが、海は最後の言葉を言った後、ようやく張っていた肩を少しだけ緩め、一瞬、ぎこちない笑顔を見せた。

そうしてすぐさま真剣なまなざしを取り戻した海は、相変わらず、がちがちに硬い表情へと戻った。極端に眉間にしわを寄せていたりなどしないのだが、いつもどおり、鋭い目つきで凍てついた表情がそこにはあった。海自身もきっと、こんなときだからこそいつも以上に表情を変えないようにしているのだろう――ジェネルはそう思った。

 

子供たちと食事を終えた華耶は、食事の間もつけっぱなしだったその記者会見を子供たちと眺めていた。

子供たちはさすがに2時間近くの記者会見に飽き始めてゲームをし始めているようだったが、華耶は一人、晴留から送られてきたビールを手にその記者会見をじっと見つめていた。

 

まさか、一番上の娘から酒をプレゼントされるような歳になったとは――と華耶は年月の経過を改めて感じた。壁にかけられていた家族の集合写真も、まだ皆幼い。

 

やれ新築だと言っていたはずのこの家も、掃除は行き届いているし、壁だって目立った日焼けをしているわけではないのだが、10年以上も暮らしているとドアノブやドアの端にちょっとした傷や使用感だとか、少し手を抜くと水周りの水垢がすぐさま目立ってきたりと、その生活感は少しずつ出てきてしまっていた。引っ越して最初に買ったカーテンだって日に焼けてしまい、一度取り替えた。

 

来年の春をめどに、この家は叔父一家が経営しているヨシイ・エンターテインメントのシェアハウス型社員寮として引き渡すことが決まっている。世田谷の新居に一家総出で引っ越すことは子供たちにも話してあるものの、いざここを去ると決めると、どこか寂しさがあった。

 

〈――先ほど、4人が揃っていたらもう一度日本一を目指したいとおっしゃっていましたが、生まれ変わってもチーターズで頂上を挑みたいですか〉

〈……そう言わないと大阪の土を二度と踏めないでしょう。……正直なところ、着れるものなら他のユニフォームだって着てみたいと思ってはいました。妻の実家のことや、子供たちのことなんかもありましたし……生まれ変われるなら、もっと移動が少ない関東圏で挑みたいですよね、やっぱり。別に関東圏のチームに強いこだわりがあるだとか、大阪が嫌だって話じゃないんです。移動が多かった分、子供たちにはたくさん寂しい思いをさせてしまいましたし、それによって子供たちに誤解を与えてしまったことだってあります。試合を終えて、夜遅くてでも家に戻って……朝起きて、子供たちを見送ってっていう……もうちょっと模範的な父親としての生活が関東圏だったならできたのかなって、思ってしまうんです。そんな甘い話じゃないとは思うんですけどね。……妻にも忙しい思いをさせてしまいましたし、寂しかったと思います。心細い思いをしたことだって、たくさんあったと思います。だからこそ、できれば目の届く範囲のところに居てやりたいなとは思います。……ずるい質問しますよね。時間だって押してるのに〉

 

海はそう言って苦笑いを浮かべた。江坂に引っ越すことを決めた時点で既に子供には恵まれていた華耶と海。思い切ってかなり多めに作った二階の子供部屋も、結局足りなくなって一階の洋室の一部を子供部屋に一時転用することにもなってしまった。

 

家を空けることが多いから、と、海は家のことに金をつぎ込むことを惜しまなかった。生まれ変わって、海が関東圏を選んだとしても、きっと今と同じように海は、家族のために金を惜しまないだろうし、家族の時間が増えた分のことをしてくれるだろう。

華耶は改めて、自分が海に結婚を申し出たときにもっと分かりやすい言葉で――もっと海にプレッシャーをかけるような言葉をかけずに海を受け止めてやれたなら――そう思わずにはいられなかった。

 

〈――最後に、奥さんに一言ありますか?〉

〈ベストナインの授賞式なんかでも言ってきましたけど、まあ、そういうのは家に帰ってからやるので……。……ただ、生まれのルーツが日本ではない僕を偏見なく受け入れてくれて、そして、僕に佳井という新たな命を吹き込んでくれたことを――この国で、これからは自分の意思で生き続けるんだということを許してくれた妻の両親に、改めて感謝の気持ちを伝えたいです。妻は出会ってすぐに僕のことをすぐ受け入れてくれましたし、何でも僕のことを受け入れて、そして、僕の全てを愛してくれました。でも、妻の両親までもが僕のことを受け入れてくれるとも最初は思ってもいなかったので。……僕に、佳井という姓を名乗ることを許してくれたからこそ、今日の……日本に来てからの、佳井海は存在すると思っているので〉

 

「……うん。うん。こっちもね、今見てたところ。華耶も長い間、お疲れ様。お父さん?ああ、元気元気。東京に来たら絶対すぐ会いに行くって言ってるよ」

竜匡が、電話をしている三葉に向かって手を振っている。仕事を退職してからは大阪と長野を行き来し子供の面倒を見ていた三葉だったが、竜匡が転倒して腕の骨を折ったのをきっかけに、子供も大きくなったことや、華耶も母親として慣れてきたことを理由に、長い間長野からは出ていなかった。

もともと白髪の多かった竜匡はすっかり髪が白くなり、最近は腰も痛めがちだが、それでも大病を患うということもなく今日まで過ごしてきた。

 

「お父さんったら気が早くてねー、晴留の子供を見たいもんだとか言いはじめててね。晴留だってまだ社会人になったばっかりだってのにねえ」

〈えー?あー……でも、あたしも社会人なったばっかりで晴留を産んでるから、そこはなんとも〉

「晴留より先に新のほうが子供作っちゃいそうな気がするけどねー私は。あんな男のいいやつ、イギリス美女が黙っちゃないと思うよ」

 

竜匡はリモコンでテレビの音量を少し上げ、三葉はそれを見て廊下のほうへと出た。

 

「帰ってきたら、変に何か気の利いたことなんて言わなくていいからね。まだ、終わってないんだから」

〈分かってるよ。あたし、その辺はしっかりしてるつもりだから〉

「ならよし。正月、どうする?」

〈気が早いなー。まだ半年も先のことなんて決められないよ。絶対海くん、枷が外れたもんだからオーストラリアの海にでも行きたいって言い出すと思うし〉

「ジェネルちゃんを連れて?枷が外れた男は狼だよー?気をつけな?」

〈大丈夫だよ。今更ここにきて大どんでん返しなんて……〉

ぴたり、と華耶の言葉が止まった。

「華耶?」

〈……さっきあんなこと言ってたしなあ。あたし、仮に三人でってなったら、火がついちゃうかも〉

「おアツいことで。まさか、今からもう一人なんてことはないよね?」

〈ふふっ……どうだか。海くん、たまってそうだからね、いろいろと〉

「それは華耶もお互い様でしょ」

〈まぁ……ね?〉

華耶の母はケラケラと笑いながら、声色が徐々に明るさを取り戻した華耶に安堵した。

 

「先輩」

会見を終え、しばらくしてから球団事務所の裏口から出てきた海に木村が声をかけた。

 

「わざと一時間くらいずらして会場から出てきたのに、お前、なかなかしぶといやつだね」

「お疲れ様でしたくらい、言わせてくださいよ」

「まだシーズンは終わっちゃないんだよ。半年早いよ」

「一区切りの挨拶ですよ。先輩がいなかったら僕はここまでこの仕事続けてなかったでしょうから」

木村は相変わらず青と緑の組み合わせのネクタイを輝かせながら、海に向かって右手を差し出した。

「……」

海はしぶしぶ右手を差し出し、握手を交わした。

 

「続けてなかっただろう、って。何だよ、お前、辞めるつもりでいたのか?」

近くに待たせてあったタクシーに向かって、海は歩き始めた。木村もそれについてきた。

「……先輩と会った頃、実は僕、仕事辞めようかどうか迷ってたんですよ。本当は、アズマローソの広報になりたかったんです」

「アズ……何?」

「『集まろうぞの声に合わせt――」

「分かった思い出した。お前のその……なんだ、好きなサッカーのチームだったな」

「そうですよ。別に、野球もサッカーも、どっちも地元のチームが嫌いなわけじゃありません。ドルフィンズの皆さんだって懇意にしてくれましたし、グランドルカだって別に、嫌いなわけじゃなかったですし。……グランドルカは知ってます?」

「グランドルカ名古屋だろ。サッカーの」

「なんでアズマローソだけ覚えてくれないんですか」

「めったに1部リーグに上がってこれないチームまで覚えてられないんだよ」

「なんだろう、その、事実陳列罪やめてくれませんか」

「俺、忙しいんだけどなこう見えて」

海はタクシーの目の前に来てまだ話が続いていることに少し苛立ちながら木村を見た。

 

「転職を考えてた頃、たまたま、先輩があの場、死にそうな顔で球場の外に居たんです。何か大きいネタでもつかめればひょっとしたら僕も仕事の価値観が変わるかもしれないって思って、張ってたんです。実は。あの日、ちょうどすれ違いのスタッフから先輩がまだ球場から出てないって聞こえたんで」

「……」

「……こう聞くと、ヤなやつでしょう。でも……球場から出てきた先輩が純粋にほっとけなかったんですよ。もっと、佳井海っていうのは、ギラギラして、前向きっていうか……オラついてるもんだと僕は思ってたんです。僕もこっち側の人間ですから、暴けるなら、もっとギラギラしてドス黒くて、みんなを注目できるようなものを書きたかったんですよ、どうせ物書きなら。でも……実際に先輩を見て、僕は……単純に先輩に興味がわいたんです。あれほど絶望に陥るほどの選手がいるものか、って。だから、先輩を追い続けてみようって思ったんです。追い続けてれば、きっとこの仕事に対する考えも変わるかもしれない、って思って」

「もうすぐ俺は辞めるわけだけど、アズマローソの広報に転職するつもりでいるのか」

「いいえ。俺にはまだ、追わないといけない背中がありますから」

「……ジェネルか」

「魂を継ぐ者ですからね」

「じゃなんでお前、大阪のほうに転職しなかったんだよ」

「大阪の地方紙独特のあのノリが苦手で」

「ああ……」

海はなんとなく思い当たるフシを感じながら、タクシーのドアを開けた。

 

「先輩――」

最後に木村が海にもう一度声をかけた。

「優勝はともかく……再昇格、僕は諦めてませんから」

「そんな都合のいいシナリオ、ないよ」

海は自虐気味に笑いながら、ドアを閉めた。

「江坂まで。なるべく急ぎで」

海はそう言ってタクシーの運転手へ声をかけ、遠ざかる木村の姿を一度だけ振り返った。

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