海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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204・夏の行方

辞める、と決めてしまってからの日々は、良くも悪くも海の肩の力を抜いた。適度に肩の力が抜けたのならばよかったのだが、海からバットを握るほどの力や、ふとした守備の集中力すら海から奪ってしまった。

もう戦わなくていいのだ――そう思ってしまった海は、しばらく腑抜けた日々を送った。心がどこにもないような、無くなってしまったような――そもそも、どうして今までこれほど全力で走り続けてきてしまったのだろう――そんな気持ちにすらなった。

 

自分でもこのままではいけないということくらい分かっているのだが、一度消えてしまった火をもう一度灯すというのはなかなか難しいものだ。春季キャンプの事故以来、一度消えかかった火をなんとか絶やさぬように燃やし続けてきたものの、どうやっても自分の調子は戻らないし、身体だって元に戻らないし、それを理由に今期で辞める――そう決めてしまってからどうにもよくない。

 

状態もいいわけではないから若手に出番を譲ってやってくれ――と二軍監督に直訴はしてみたものの、自分が二軍に来てからの日々は、わずか500人しか収容できない二軍球場の席が常に取り合いで、結果的に外野席を毎回開放しなければいけないほどには客が詰め掛けてくる。

時折甲子園で二軍の試合が行われようものなら、二軍戦とは思えないほどの客がバックネット席や内野席を奪い合う――そうしたことから、海の要望は通らなかった。

 

要は、搾りカスになったこの自分の去り際ですら、どうしても金にしたいのだ。

 

もちろん、それほど多くの人間がもう一度上で自分の姿を見たいということだって海は理解しているし、なんとかして、このうだつのあがらない今の自分に文句のひとつでも言ってハッパをかけたいということも、分かっている。

分かってはいるのだが、正直言って、もう放っておいて欲しい、という気持ちだってまったくないわけではなかった。

祈ったところで自分の調子は戻らないのだ。そんなに都合のいい神がいたならば、今まで自分にいったいどれほどの栄光と名誉が与えられただろうか――とさえ海は思った。

 

それでも観客は自分のタオルを掲げることをやめなかった。『もう一度頂点を』なんて横断幕を掲げる者だって居た。時には二軍戦にもかかわらず応援団が駆けつける試合すらあった。

 

もういい、やめてくれ――

 

どうせもう、俺は無理なんだ――

 

二軍のボールにすらまともにかすらなくなった海の姿に、時代の終わりを感じた者は多かっただろう。それまでの罵声に近い檄は、徐々に頑張れという同情の声に変わっていった。

もう頑張れないのに、まして頑張っていないわけではないのに頑張れと声をかけてくる人間の無責任さにも腹が立ったし、そんな声に奮起して傍から見たら頑張れずにいる自分にも腹が立った。

しかし、その腹が立ったことを吐く相手がもう自分には居ない。きっとジェネルだって、同じように本来自分が隣に居たら吐きたい愚痴だって言えずに、それでも自分に連絡も入れずに一人で戦っているのだ。自分一人だけが文句を押し付けるわけにはいかない。

無理だと分かってながらも、それでも上に昇格することを諦めたわけではないし、もうどうでもよくなってしまったんですなんて誰かに向かって言えるわけがない。

 

本当に最後の最後まで、華耶に弱音を吐くことはよそう――海はそう思っていたし、華耶だってあえてそんな自分に極端に優しくするというわけでもなかった。もちろん、必要以上に優しくされたいわけでもなかったし、華耶だって今自分に変に優しくすると、シーズン最後まで走り抜けられなくなることを案じてか、引退会見以来、変に距離感を極端に詰めてくることはしなかった。

 

7月も終盤に差し掛かってもなお、ここ数年どころか、日本に来てからの記憶ではたぶん一番なのではないかというくらい、今年の夏は気温があまり上がらなかった。

最高気温が30度に達しない日々が続き、涼しいといえば涼しいのだが、これほど気温が上がらなければそれはそれで野菜が育たないだとか米が育たないだとかで、連日ニュースでは野菜が今年も高騰しているだのなんだのと騒ぎ立てていた。

 

「言ってしまえば、毎年何かしら大体高くなるだろ。騒ぐだけの側は、楽でいいな」

オフだったこの日、オルガに連れられてランチに神戸牛を食べていた。待っている間、ふと携帯でテレビを見ていた海はニュースの内容にぼやきながら、テレビをオフにした。

 

《何て?》

《ああ、気にしないで。こっちの話》

騒ぐだけの側の人間が目の前に居る中でもう一度、オルガが分かる言葉で説明するのは気が引けたので海は何を言ったのかをうやむやにした。

 

《まー私も別にそんな興味ないからいいけどさ。あんま、私が知りたいような内容じゃないんでしょ》

《まあ、お前に言ってもそんなに面白い話じゃないよ》

《じゃー別にいいや》

オルガはそう言いながら、日本に来てから一番気に入った食べ物だという神戸牛のステーキを早速食べ始めた。

 

《日本食とかさ、もっと別の食べ物に興味とかわかないの?》

《シンプルな食べ物が一番うまいんだよ。結局。肉に塩かけただけのさ。日本にはブランド牛っていうのが他にもたくさんあるんでしょ?ヨッシが最近なかなか撮れ高ないからさ、できるもんなら、しばらくヨッシなんかほっといて日本を回って他の肉を食べに漁りたいよね》

《じゃ、行けばいいだろ。俺なんか構わずに》

オルガの遠慮のない言葉に、口のすぐ近くまで運んでいた肉を止めて海はオルガを睨んだ。うだつが上がらないことは自覚はしていたが、いざ自分に面と向かって撮れ高がないと言われると、あまりいい気分はしなかった。

 

《それでも一応密着取材ってことになってるからさー。毎日は追わないにしても》

《撮れ高のない男をか。ご苦労なことだよ》

海は少しうんざりしたような表情を浮かべながら皮肉を口にし、同時に肉を乱暴に頬張った。

 

強いて言うならば、最近、文句をストレートに言う相手というものはオルガになっていた。オルガもまた、仕事柄だけでなく、純粋にストレートな言葉で海に突っかかってくるものだから、海もストレートな言葉を突きつけがちになった。

《もう俺が無理だってお前も薄々感づいてるんだろ。俺だって、なんとかしたいよ。でも、どうにもできない。お前、仮に頭なんかヤったりしたら、今なんかそうやっているけどね、思ってる以上に自分を保つの、難しいからね。お前にはまだ見当なんかつかない世界だろうけど》

海はそう言いながら、次々と肉を頬張っていった。せっかくの高い肉だというのに、オルガの不用意な言葉で肉の味なんか、どうでもよくなっていた。

 

《ごめんねー。一応さー、こっちも追う側の人間だからさー。気を悪くしたなら謝るけど、あんまり今のままで居られるとこっちもちょっと困るっていうか》

《だから――》

海はコップを少し乱雑に置きながら、オルガを睨みつけた。分かってるなら、とっとと黙ってくれと思わずにはいられなかった。

 

《俺だってこのままじゃ嫌なんだよ。嫌だけど、もうどうにもならないんだよ。気持ちでもうどうにかなるもんじゃないんだよ。今までの自分がもういないんだから》

海は右の手首を押さえながらオルガを再び睨みつけた。とっとと黙って欲しい、そう思っているはずなのにこんなことを口走っているのは思う壺だとは分かっているのに、文句のひとつでも言わなければ気がすまなかった。

 

《でもぶっちゃけ気持ちの問題じゃん。たかがちょっと手の骨が折れたくらいでさ。腰とか足とかやったなら分かるけどさ。辛いのは分かるし、何かに当たりたくなるのも分かるけど、あんま一人でやさぐれてもらっちゃ、こっちも困るってゆーか》

押さえた手首を見つめながら、オルガは海をまっすぐな瞳で見つめた。馬鹿にするでもなく、意図を持って煽るでもしなければ、純粋にそう思っているようで、海は頭が痛くなる思いだった。

 

《じゃあお前が代わりに打ってみろよ。いっぺん怪我して、自分の感覚とズレが起きるような歳になった上でさ。それで打席に立って、何もなかったかのように打てたら褒めてやるよ。でもきっと、出来ないだろ。そりゃそうだ、お前は別に野球やったことがあるわけじゃないしね》

《そりゃそーだよ。無茶言わないでよ》

《じゃあ、知ったような口で気持ちの問題だとかなんとか言うなよ。それでどうにもならないからこの数ヶ月、ずっとこんな感じなんだよ。お前、俺にだからこんなこと言っていいとか思ってるかもしれないけど、同じ状況にいる他の選手なんかに同じ質問なんかするんじゃないぞ。誰もが感情を抑えて会話ができるわけじゃあないんだ》

《ヨッシも既に感情抑えられてないけどね。らしくないよ》

《誰かさんのせいでね》

海は不機嫌そうにして残りの肉を平らげ、追加でもう一皿注文をした。

もう一度気持ちをリセットして食べなければ、とてもじゃないが味の記憶などまったく脳に定着できる自信がなかった。華耶たちと一緒にもう一度来ればいいだけの話なのだが、来年の今頃はきっと大阪になんて居ないだろうから、海は今のうちにこの味を覚えておきたかったのだ。

 

《でもさー、前にも話したかもしれないけどさ。私の母親がさ、病気なんだよ。それでもヨッシの活躍を待ってるんだよ。なんとかさー、もう一回だけでも意地を見せてほしいなーって思ってるんだよねー私は》

《なんでお前の親のために頑張らないといけないんだよ。俺は誰が俺のファンだろうが、どんなファンも平等に見ている。お前の親一人だけのために頑張れないよ》

《でもさー、こないだのメッセージあるでしょ?あれさあ、めっちゃ嬉しがってさ。またメッセージ欲しがってるんだよ》

《でももクソもあるかよ。職権濫用もいいところじゃないか、お前のそれは。次は金を取るからな》

追加でやってきた皿の肉を海は頬張ったが、やはり突然味が変わるわけではない。ああ、次は一人か家族で来よう――と海は激しく後悔した。

 

《一応さー、私も、申し訳ないとは思ってるんだよ。私らが密着取材なんてしなかったらこんなことにはならなかったのかな、とか思わないわけでもないよ。変にプレッシャーかけたのもあると思うし。でもさー、密着してる以上さ、なんとかしたいと思ってるんだよ。ヨッシ、会見でも全然私らのせいにはしなかったじゃん。誰のせいにもしないってさ、あーゆー場面じゃなかなか出来るもんじゃないよ。やろうと思えばいくらでも人のせいにできる場面でさー》

《その気持ちがあるなら、どうして遠慮なくそうズケズケと人の心の畑をスコップで荒れ散らかすようなマネをするんだよ。この仕事の素人ってわけでもないんだろ?やめてくれよ、そういうの》

《……ごめん》

珍しくオルガは海に対して謝った。大体のこうした冗談も、一種のプロレスとしてやり取りしてもらえていたものだと思っていたオルガにとって、海が本気でオルガに対して不満を口にしたことは意外だったし、想像以上に自分が海にとってストレスを与えていたことを少しだけ反省した。

 

《別にさ、取材やめろって言ってるわけじゃないんだよ。知ったような口で俺の現状に口出ししないでくれよ。俺から弱音を穿り出したいのかどうか分からないけどさ。触れて欲しくないところっていうのあるんだよ、人には。もう8月だろ。シーズンだってもう半分以上終わってる。未だに上から声もかからないし、そもそも声がかからないような状態でもなければ、呼ばれる成績してないことだって自分だって分かってるんだよ。分かってるからこそほっといてほしいんだよ、そういうの。カメラの前じゃそりゃ、多少は強がってられるけどさ。四六時中俺も皆が思ってるような佳井海ではいられないんだよ》

《分かったよ。分かった。ごめん、謝るからさ。機嫌直してよ。ちょっとは加減するからさ――》

 

《――いつもそうだ。おふくろは、謝るからさだとかさ、機嫌直してよだとか言って、同じことばっかり繰り返すじゃないか。どうしてわざわざ色物とそうじゃないものを分けて洗濯しようとしてたところを、まとめて洗っちゃうかな。高かったんだぞ、これ》

海は白と黒のストライプが入った、普段着で着ていたサッカーのオーセンティックユニフォームを指差した。買ったばかりのジーンズなどを一緒に洗濯したものだから、うっすらとその色が移ってしまっている。

 

《ごめん。ごめんってば。謝るからさ。同じもの、どうにかして買ってくるから――》

そう謝りながら、癖の少し強い金髪を必死で振り回して頭を下げる海の母親。

海はそんな母親に、不満を続けた。

《どうせ買ってきたやつもまた一緒に洗濯するんだろ。マジでさ、そういうのやめてくれよ。だから俺、自分のものは自分で洗濯するっつってんのにさ――》

《分かったからさ、機嫌直してよ。もうさすがに同じことはしないからさ》

《それが今回で何回目なんだよ、おふくろのそれは!》

必死でニッとした笑顔を浮かべた母親に、ふと海は苛立った。持っていたシャツを床に叩きつけ、顔を真っ赤にして海は洗濯籠を蹴り飛ばした――

 

《……できればさ、その謝り方もやめてくれるかな。なんだか、昔の知り合いみたいで、不快だ》

《え?》

眉間に深いしわを寄せた海は、両手で表情を覆いながらオルガにそう伝えた。ひどく冷たい声が出たように思ったのは海だけではなかったようで、オルガもまた、先ほどまでの単なる不快感だけではなく、いやによく通った声だったものだから、ふと自分がどんな言い方をしていたか思い出したのだが――何が海の心をそこまで揺さぶったのか分からなかったものだから、ただ一言

 

《……ごめん》

 

としか言えず、しばらく黙って食事をするにとどまった。

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