「ただいま」
「おかえりー。デーゲーム終わってすぐ移動で疲れたでしょ。ご飯できてるけど、すぐ食べる?」
「あぁ。そうするよ」
試合後、帰る家がある――。
「最近さー、仕事の合間に栄養学の本なんか読んじゃったりしてさ。読んだからって栄養士になれるわけでもないのにね。あれは学校に通わないと取れない資格だから」
「仕事大変なんじゃないの?」
「大変っちゃ大変だけど、あたしは野球が好きだから、今の仕事の忙しさなんて別になんてことないよ。今はまだオンライン研修してる間だけど、結構手ごたえ感じてるんだー、これでも」
「へぇ」
「海くんがCリーグにいないのだけが残念だよ」
「俺がCリーグなんかに行ったら、私情まみれになるじゃないか。絶対行かないからな、Cリーグになんて」
「えー。いいじゃん、来なよ~」
「大体仮に俺がCリーグに来たらお前、きっと事務側とかに回されると思うよ。損得関係があるとまずいんだろ、仕事って」
「夢がないなあ」
試合後、直接話せる相手がいる――。
海にとって、こんな当たり前の生活が続いていることが、これほど楽しく、充実したものだとは思わなかった。
家を開ければ料理の香りが漂ってくる。階段を上がれば、徐々に料理だけでなく、嗅ぎ慣れた柔軟剤の香りや華耶の香りだって漂ってくる――。
今までと違い、静かな家で、静かに一人で料理をし――一人で奏でるギターの音くらいしか響かなかった家とは違う。
寮に帰ってもずっと野球のことばかりで、寮の中でもずっとレギュラー争いがどう、監督がどう、順位がどう、ベテラン勢はいつまでチームに居座っているのかだの――話してどうにかなるものでもないことで飯を食ってみたり、それで焦ってトレーニングルームにこもって機材の取り合いになってみたり、起用をめぐっての諍いになってみたり――。
海自身がそうした直接的なトラブルに巻き込まれたわけではなかったが、それを見聞きしたりしてたものだから、寮の中ではとりわけそうした空気を避けるようにして食事の時間を少しずらすなどして目立たないようにしていた。
そんな日々が肩から抜け落ちるようで、海は公私ともにリラックスしていた。
これほどに幸せで穏やかな日々でいいのだろうか――そんなことさえ思うようになった。
「かっこよかったよ、きょうのツーベース」
「……いつもああならいいんだけどね」
海は素直にありがとうとは言わずに、ため息をついた。
ヒット一本で喜べないほどの環境下でプレーしていることの重大さを華耶は改めて、こうして海から感じ取っていたが、あまり自分まで悲壮感は出さないように明るく振舞っていた。
「監督、褒めてくれた?」
「あそこでランナー返せてたら今日の試合落としてなかったのにな、ってキレられたよ。いつものことだ。何かにつけて難癖つけようとするんだ、アイツ」
「そっか。じゃあ、あたしが褒めてあげる」
「いいよ、別にそんなの」
「いいからいいから。ヒット打ったのに褒めてもくれなかったら、やさぐれちゃうでしょ」
今までとは違い、少し大きいベッドに横たわっていた海は、隣で寝ていた華耶に引き寄せられた。
「これじゃ俺が子供みたいじゃないか」
「家の中くらい、寝るときくらい、子供でいていいよ。ずっとカメラ回ってて、ずっと監督もコーチもぴりぴりしてて、自分がどうだったのかなんて分からなくなりそうになるでしょ?」
「じゃあ、華耶はどうなんだよ。華耶は……自分に帰る場所がないだろ」
「あたしはずっとあたしだもん。それに、あたしが海くんを守ってあげるって決めたんだからさ。海くんは黙ってあたしに守られて、甘やかされていればいいのだよ」
胸元に海の頭を引き寄せながらぽんぽんと頭を撫でる華耶。顔を見上げずとも、どんな表情を浮かべているかが海にはよく分かる。ニッと白い歯を見せながら、優しく微笑んでいるのが分かる――。
「……俺、いいのかな、こんなんで」
そんな幸せな日々が、海は怖かった。突然この幸せが外的要因で壊されるのではないかという恐怖と、母親が今どんな暮らしをしているか分からないというのに、自分だけが幸せでいいのかという罪悪感とが、海を時折震えさせた。
「いいんだって。あたしはあたしで海くんから元気もらってるから」
「……そっか」
何よりも、今までよりも夜が長く感じられるようになったのが一番の生活の変化だと海は思った。
「荒屋……じゃなかったな。佳井」
「……まだ慣れませんか。俺の新しい苗字は」
「滅多にいないんだよ、途中で苗字変わるやつなんて」
「でしょうけど」
練習前、打撃コーチの生駒に呼び止められた海。またしょうもない話か……と海は少し嫌そうな顔をしながらその手を止め、コーチの前に出てきた。
慣れない、というのは苗字が変わったことだけではない。監督の前野に選手を名前で呼ぶことに裏でこっぴどく苦言を呈された生駒は、窮屈そうに選手を苗字で呼んでいた。
「式、混合戦のあとの休養日にひっそりとやるんだってな」
「ええ。なんだかんだ、タイミングがなくて休養日に無理やりねじ込む形になってしまいました。小さい式場でちゃちゃっとやって、終わりですけどね。結婚式が俺たちのスタートだとは、俺も華耶も思ってないので」
「そのお前んとこの奥さん、新卒なんだって?卒業間近だったとはいえ、在学中に籍入れるなんて、びっくりしたぞ」
「ええ、まぁ」
「実際、どうなんだ。子供どうするとかは考えてるのか?奥さん、新社会人だからそうもいかないか」
面倒くさいことを聞いてくれる――と海は思った。
今時そういうことをズケズケと聞くと、"ナントカハラスメント"になるのだぞ――と言ってやりたかったが、肝心のその"ナントカ"が思い出せず、海はやきもきした。
「……でも、たくさん欲しいとは言っていました」
「そうか。奥さんと、借りた家に住んでるんだってな。子供ができたらどうするつもりだ」
「……どうでしょうね。俺は……実家のある長野で育てたほうがいいんじゃないかって思っていますけど」
「どうして」
「親の都合で転勤を繰り返して、せっかくできた友達なんかと離れ離れになることを繰り返してしまっていいのかな、って。この仕事してると、いつどう突然引っ越すことになるかなんて分からないでしょう。俺がいつどこにどうトレードされたりするか、分からないんですから」
「そんなこと考えてるのか、お前」
「そんなことって言いますけど、俺にとっては大きい問題ですよ。まして、こんなチームで」
少しだけ声を張り、前のめりに一歩踏み出す海。生駒も予想外の海の凄みに、思わず後ずさりをした。
「本当は俺がたくさん稼いで、華耶に楽させるべきなんでしょうけど、華耶には華耶の人生がある。華耶は今の仕事が楽しいって言ってます。俺の都合でその仕事まで奪ってしまったら、華耶の人生はいったいなんだったんだろうって話になってくるじゃないですか」
「でも、向こうは子供は産みたいって言ってるんだろ」
「ええ」
「お前が考えすぎなんじゃないか。まだ新婚だってのに、そんなことばっかり考えて。お前、自分の置かれてる状況、分かってるのか」
「だったら、とっとと関東のあたりにトレードにでも出してくださいよ。ヒット打っても嫌味ばかりの監督のもとで野球なんかしたって、一生俺はこのままです。残り11球団もこんなチームだっていうなら諦めますけど、こんな空気で、どいつもこいつも自分だけよければいいやって顔しながら監督の機嫌伺って野球やってるの、うちだけでしょう」
「やめとけ。聞こえるぞ――」
生駒が海の口元に手を出し、口を塞ぐようにして言葉を止めさせた。
「幸せすぎてね、怖いんですよ、俺は。ある日突然俺が野球やめるって言っても受け入れてくれそうなやつが、家で俺の帰りを待ってくれてるんです。俺には帰る場所なんてなかったから、こんな環境で生きてていいのかなって思ってしまうんですよ。だからこそ、俺はこのままじゃいけない……」
そんな海の言葉を馬鹿にするようにして、生駒は肩の後ろで腕を組んだ。
「あーあ、若くていいね。俺なんか、最近は帰っても声もかけてもらえないってのに」
「馬鹿にしにきたんですか」
海は生駒の無意識な嫌味ったらしい言葉に機嫌を悪くした。愛や幸せなんて、若いかどうかが重要なのではない。お前となんか一緒にするな――と海は思いながら生駒を睨んだ。
「いいや。何か、最近やけに練習に熱が入ってるようだから、よっぽど奥さんにお熱なのかと思っただけだ。お前なりに何か考えてるなら、それはそれでよかった。ホームランよりも子供の数のほうが多くなっちゃ困るからな」
《腐れ中年が。黙ってろよ》
海はフィンランド語で暴言を吐くと、多少力任せにティーの上の球を叩きつけた。腕の振りがだけが突っ走った、下品な打球がスタンドに向かって飛んでいく。
こんな気持ちで打球を飛ばしたって、打球には感情が出る。
力んでも、それを狙って遠くまで飛ばせるなら、それに越したことはない。とにかく、打席には冷静に立って、自然体でスイングする――そのためには、生駒程度の人間の言葉に動じないくらいの集中力やメンタルの強化は大事だと海は思った。
華耶がいる間は、少なくとも今までのように思いつめることはないだろうと思っていたが、いざ華耶を迎えてみると、どうしても余計なことを考えてしまう。
華耶がいるから頑張れているという部分がある一方で、華耶の愛に自分が応えられているのか――そうしたところをついつい考えてしまう癖が海にはあった。
幸せに慣れていない――それが海にとっての最大のネックだった。
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「最近、ちょっと激しいよね、海くん」
解いた髪を巻きクリップで留めながら、華耶が突然そう切り出した。二人の熱気だけでなく、まだまだ5月の末に差しかかろうかといったところだいうのに、ところによっては真夏日を記録しただのなんだのと、今年もエアコンに頼る日々がやってきた。
湿っぽい熱気をエアコンの冷気が程よく奪っていく。設定温度を少し下げてちょうどいいくらいだ。
「そうかな」
「うん」
「……あ……痛かったなら、ごめん。背の違いだってあるから、加減できてなかったら――」
「あ、いや、そういうわけじゃないんだけどさ。全力で求めてくれるから、嬉しいっちゃ嬉しいし。だた、なんか、結構ガツガツくるなあ、って。何かあった?」
「……何か、ってわけじゃあないけど」
素直に自分の気持ちを華耶にぶつけるのは華耶に余計な心配をかけてしまいそうだから、海はその言葉を濁した。
一方、華耶は監督との確執だとか、そういったことを想像していたようで――
「じゃあ、慣れってことかな?なんか、ここに来てから、海くんやっぱ表情柔らかくなったと思うし。外じゃともかく、うちではさ」
と言いながら、海の腕に巻きついて再び体を密着させた。時折伝う汗が冷たかった。
「そういうこと……なのかな。でもさ……なんだろう、幸せっていうものに慣れてきたっていうのかな……それでもまだ、俺はなんかこう……まだ夢の中にいるような気分だよ。朝起きても、寝るときも、一週間の半分くらいは隣に華耶がいるだろ。怖いくらい幸せでさ」
思わず、海は自分の言葉を言うまいと思っていたのに、無意識に気持ちを吐露していたことに気がついた。華耶は気にしていないようだったが、海は自分の口のゆるさを恨んだ。
「そっか……共同生活以前に、こういう……フツー、って言っちゃ悪いんだけど……フツーの幸せに慣れてないんだもんね、海くんは」
「……一人でいることに慣れちゃってたからね」
「でもさ、海くん。これから、ずっと、ずーっと幸せになっていくんだよ。そのうち、怖くなんかなくなるよ。きっと」
「……だといいけど。子供だって、俺……いい父親になれるかなんて」
「いーの、そういうのは。あたしが子供にたくさん言い聞かせるから。うちのお父さんは世界で一番かっこいいお父さんだって」
「そんなの、親の洗脳じゃないか」
「かっこ悪いお父さんって言われて育つよりはいいでしょ?」
「そりゃあ、まあ」
「ところでさ――」
ふと、心配そうに華耶は海を見つめた。
「お母さん、どうしても連絡つかないんだ?」
「つかないね。結局は家を捨てて出て行ったわけだから、連絡なんてしづらいだろ」
「まあ、そうだけどさ。今、どこにいるんだっけ?」
「どこだろう。スウェーデンのどこかじゃないかな。帰れるとしてもフィンランドには帰らないと思う、って言ってた記憶があるから。居なくなったのだって、ある日突然だったからよくは分からないんだよ。ひょっとしたら本当に日本に居続けてるかもしれないけど――でもそうだったらわざわざ面倒なやり方で振込みなんかしないかな。……多分、北欧には帰ってるはずだよ」
「そっか。残念だね」
「まぁ、無理して呼んでも仕方ないよ。今は……華耶がいるからね」
こんなことを言いながら笑みを浮かべられるようになったことに、海は自分自身気づいていなかった。
華耶はそんな海の表情を見て、前から抱きつきながらじゃれついた。
――それでも、幸せだとか、結婚だとかを期に仕事が劇的に変わるわけではない、というのが、"普通の"人生と、ドラマとの大きな違いである――。
今年は3割を狙えるのではないか――そんな勢いで海は代打で結果を出し、レギュラー再昇格への時を待った。
時折怪我による繰り上がりなどでスタメンに呼ばれてはマルチ安打を記録したりしたのだが、それでも前野の評価を覆すことはできなかった。
家庭を持った以上、今年からはスタメン争いの材料に加われるようにと守備コーチである小室の策でショートの守備にも挑戦し、相変わらずスローイングは不安定だったが、球の捌き具合はなんとか一軍の試合に耐えうるものまでなった。
それでも、何かと理由をつけて監督は海を信用しなかった。
自分の命令に従わない選手は起用しない――そういう態度で監督はいたものだから、長打を増やさない海はとりわけその槍玉に挙げられた。自分に逆らうものはこうなるのだぞ――と他のメンバーに見せつけるように海を扱った。
どれだけスタメンでヒットを打とうが、結局は代打にまた戻っていく姿から、ファンからは『20時前のシンデレラ』なんて言われ、その出番のタイミングを揶揄されるようになった。
淡々と代打で登場し、時折華麗なヒットを打ってはベンチへ下がっていく――そうした姿はファンに印象付けられるようになったし、関西ローカルでもプロ4年目だというのに、そうした渋い仕事のこなしがかえって評価されてコーナーが作られたりするようにもなった。
守備につかせてもらうでもなく、そうして一年の半分、ずっとベンチで出番を待ち続け、たった一打席で結果を出せなければ文句を言われ、ヒットを打ったら打ったで外野の頭を越していればタイムリーだったのにだとか何かと文句を言われ続ける日々を海は繰り返していた。
鬱憤もたまってはいたし、周囲の評価ほどは結果を出せてない自分への憤りはあった中で、何があってもいいようにと試合の後は残ってコーチの小室らと内野の全ポジションの立ち回りを一時間ほど復習する――そんな日々の繰り返しを、『家に帰れば華耶がいるから』という気持ちだけで海はなんとか乗り切れていた。
……こんな生活がずっと続いていい訳がない、と思いながら。