〈――さて、今年の夏はひとつの区切りを迎える方々が多いような気がしてなりません。ヴァリエ大阪所属時代は二度の得点王に輝き、イタリアサッカーの名門ロッソネリへと移籍してからは5年連続2桁得点を記録。怪我やアクシデントなど、度重なるブランクを経て現在は日本サッカー1部リーグ所属、テルミナーレ大宮でプレーしていた鳥居和幸選手が、今シーズンをもって引退することを表明しました〉
〈2大会前のデンマークワールドカップではグループリーグ突破を決定付けたあの伝説の50mダイレクトボレーなんかもありましたね。彼に大きく影響を受けた選手として佐倉選手、そして佳井選手なんかが居ますが、鳥居選手のように伝説的なゴールをたくさん築いていってほしいですね――〉
三日前に新横浜国際総合運動大競技場――通称、新横アリーナでファイナルツアーの最終日を迎えたNaOtomoもまた、ひとつの区切りを迎えたばかりだった。ツアーの最後には二週間前に妊娠が発覚したことも明かし、『一旦、一人の女として休ませてください』『そしていつかまた、この場に戻ってきます』と力強く語ったことが週刊誌を賑わせていた。
Na0tomoが活動を休止するということで、マルコとニコの二人もまた同時に、ひとつの区切りを迎えていた。
まるで他人事のようにマルコとニコは鳥居のニュースを眺めていた。
「……分かってると思うけど、お前たちが呼んだんだぞ」
「分かってますよ、カイ。まあ、お構いなくどうぞ」
「お構いなくってお前たちが言う状況じゃないだろ」
「ハハハ。カイ、俺たちと離れてる間に、ツッコミうまくなりましたと思います」
「俺たちは結構、頑張ってみたんですけど、やっぱり難しいです、日本語」
かれこれ、海のもとを離れてから10年と少しが流れたリストライネン兄弟。マルコとはほぼ同い年だし、ニコともそれほど歳が離れていない海だが、改めて見るとマルコもニコも、かつての好青年のまま、年齢の経過を思わせる円熟味を見せている。老けた、というよりは、好中年になった、と言うべきだろうか――。
わざとというには少し独特な二人の日本語は、確かに自分の記憶よりはいくらかスムーズに話せてはいるのだけれど、マルコが日本語は難しいと言ったように、どちらかというとニコのほうが日本語にやや馴染んだように見えた。
極端な違和感だってそこにはなかったはずなのだが、マルコもニコも、自分の日本語力にはまだまだ満足していないようで、日本語検定1級を取得することに随分こだわっているようだった。6月の試験はライブツアーで忙しかったから、11月の第二回試験に的を絞っている、という話を二人はした。
少し時代を感じる、ホルモンで有名な少し小さな居酒屋。大阪の中でもマルコとニコのお気に入りらしく、無理を言って貸しきってもらったらしく、普段は客が詰め掛ける空間で、自分たちの声だけが店内を響かせていた。
長い間大阪に住んでいたが、そのほとんどを吹田の自宅付近で過ごしていたものだから、夜にこうして少し自宅から離れたところで飲食をすることなんて、海にとっては非常に貴重な体験だった。
「俺、もっと普段からこういうとこ、来るべきだったのかなって思うよ。お前ら、普段からこういうとこで飲み食いしてたんだろ」
「でもそれは、カイほど俺たちは顔が知られてないからだと思います」
「もし俺たちがカイの立場だったら、あまり少し、こういうところでお酒飲んだり食べたりっていうのは、ちょっと怖い」
「……立場の問題、か。俺、何年くらいで社会から忘れてもらえるかな。……5年もあれば、忘れてもらえるもんかな」
「無理だと思います。カイ、とても活躍しましたから、テレビで絶対映像使われます」
「歌だって結構ヒットしましたから、そのときの映像なんかも出ると思います」
「髪切ったり染めりゃいいもんかな……なんかそれはそれで……必死っぽくて嫌だな」
海は自虐的に笑いながら、運ばれてきたホルモン入りの焼きそばに手をつけた。
「うまいね。ホルモンだとか、粉もんだとかはやっぱり、家で食べるよりはちゃんと鉄板があるとこで食べるもんだね」
海は関心したようにうなずきながら、ビールをかきこんだ。気に入ってもらえたことが嬉しかったようで、ニコもマルコも笑顔を見せた。
「ところでカイ。久々に会ったのは、もうひとつ、大事な話がありますから」
マルコがぐっとビールのジョッキを空にしたのち、海をじっと見つめた。嬉しそうな表情と、どこか後ろめたいような表情とが交互に入れ替わって、落ち着かない。
「本当は、カイが引退して、ナオが音楽休みたい、って言ったら、『The X』をもう一回やろうとしてました。だけど、ちょっと、そうはいかなくなりましただから」
「……?」
どういうことかいまいち理解のできない海に、ニコが脇から割り込んできた。
「DOE'zは知ってますよね、カイは」
「ドーズ?……ドーズって、あのDOE'zか?ロックバンド……バンドっていうか、あのほら、二人組の。なんだっけ、『ねじくれた白い流星』とか、なんだっけ……あの水泳とかのやつだろ」
海は思わず歌を口ずさみそうになったが、目の前でせっせとマルコやニコが頼んだ料理やホルモン刺しを作っているのでやめておいた。
「そうです。そのDOE'z」
「そのDOE'zがどうかしたのか?」
まさかな、と思いながら、海は飲みかけていたジョッキを下ろして腕を組んだ。
「実は、前々から、ナオが活動休止するってことは告知してたこともあって、ナオのツアーが終わったら、今度は、DOE'zのバックで演奏しないか、って誘われてるんです。ギターの坂本さんとも、こないだ直接会って、話をしましたから」
「ボーカルの真中さんも俺たちを気に入ってくれてるみたいで、多分、カイとすぐまた音楽っていうのは、しばらく難しいかもしれないです。ごめんなさい、何の相談もしないで、カイがもし俺たちを待ってくれてたなら、悪いことをしましたからって思ってます」
「ああ、いいんだよ。別にそんなこと」
マルコとニコは二人とも申し訳なさそうに、うつむきながら上目遣いで海を見つめた。海はそんな二人に少し大げさに手を左右に払った。
「……やりづらいからさ。顔上げてくれよ。いいじゃないか。DOE'zのバックで演奏するってことは、今まで以上に世界でツアーできるかもしれないんだろ。夢があっていいじゃないか」
海は感心したように、時折表情を緩ませながらうなずいてもう一度その事実をかみ締めるようにしながら話し始めた。
「でも、俺たちはやっぱり、三人でいつかまた音楽がしたいと思っていましたから」
「でも、それとは別に俺たちにも生活があるし、もっと色んなところで演奏もしてみたいと思いました」
「だろ。じゃあ、それでいいんだよ。俺に気を遣わなくてもさ。俺だって、あれから長い間、まともに音楽だってやってないしさ。また再結成して、あの時みたいに歌ったり演奏できるかって言ったら、やっぱり、ちょっと怖いところもあるしさ。いいよ。お前たち二人で、俺の分まで心行くまで演奏してくれよ。The Xはできなくなったかもしれないけど、お前たちは音楽で世界にその名前を刻めるわけだよ。それ以上の栄誉があるかよ。DOE'zだろ。DOE'z。とんでもないことだよ」
海はこの10年の間、二人と離れていたことをふと振り返った。すすんでNaOtomoの曲を片っ端から聴いたというわけではなかったが、二人がプロデュースしたり編曲を加えた曲の数々やその演奏は時折テレビで目にするたびに、自分とバンドをしていたときよりもさらに磨きがかかっていた。
黒子に徹するべきときは徹していたし、派手に動いていいときは派手に動き――その演奏の幅は間違いなく、自分と一緒に演奏していたときの比ではない。ひょっとしたら、もう自分と組みなおしても、むしろ自分のギターがかえって二人の足を引っ張る可能性だってあるかもしれない。
それほどこの10年、二人が音楽に真剣に取り組み続けて、そして結果を残してきた証が今日この日なのだと海は思った。
マルコもニコも、あえて海の引退については深く触れようとしなかった。しばらくそうして飲み食いを続けたが、どちらかというと日本の生活で不便に思ったことだとか、ちょっとした日常の対応で自分が何か間違ったのだろうかといった文化の違いの話だとか、そうした話で盛り上がって、海もあえて二人が野球の話をしたがらなかったことに何の違和感もなく数時間そうして飲み食いを続けた。
だいぶ酔いつぶれてしまったマルコとニコは、タクシーでホテルまで戻った。海はまた反対方向へタクシーを走らせ、江坂の自宅へ戻っていった。
時刻は24時を少し回ったくらいだろうか。土曜日の夜、これまでなら直人がリビングのテレビで録画した番組を見ている姿がよく見られたが、その直人も世田谷の新居へと引っ越した。高校に入学してからは特に学校を休むでもなく勉強に励んでいるようで、成績も上のところで推移しているらしい。
夏休みの間は長野にある華耶の実家で生活し、華耶の叔父の企業でちょっとしたアルバイトをして小遣いを稼いでいるのだという。
子供たちも自分の手を離れ、マルコもニコも、次々と自分たちの未来へ旅立っていく。素直に二人がDOE'zのバックメンバーに選ばれたのは祝福したものの、確かに、心のどこかではまた二人と音楽が出来たなら――と思ったことはないでもない。
ただ、ニコが言ったように二人にも生活がかかっている。夢だけで生きられるほどこの世界は甘くはないし、優しくもない。必死で稼がないといけないし、必死で仕事を見つけないといけない。自分はそれをもうしなくていいほどの金額を稼いでしまったから、そういった感覚が麻痺しているだけなのだ。
今から何かをするには、少し歳をとりすぎたな――海はそんなことをふと考えた。
新が世話になった鳥居という選手は、今年35歳になろうかどうかというところらしい。
サッカーで35歳というのは、確かに前線の選手として一級線で戦うには厳しい年齢かもしれないが、最近は40歳近くまでプレーを続ける選手も少なくないから、まだまだやれるだろう。それでも、18歳から常にピッチの上で駆けずり回り、若いうちから得点王争いだとかなんだとか活躍し続けてきたのであれば、十分すぎるくらいやりきったはずだ。
鳥居は、引退後は大学に通って教員を目指したいらしい。単なる指導者という枠ではなく、教員という立場に立った上で指導者になりたいのだ――とテレビで報道されていた。
自分にはそんな気力はないし、指導者になってくれと世界中が頼んだとしても自分は断るだろう。野球にここまで生かされ続けてきたとはいえ、やっともうすぐ手に入る安息の日々を捨ててまで再び叩かれる側で生活するのは、もうごめんだ。それを社会が許さなかったとしても、海は指導者にはなりたくなかった。
球団からもいきなり監督は荷が重いだろうからとまずはコーチに再び戻って球団幹部にならないかとは声をかけられているが、海はこれを後ろ向きに保留した。今から5年コーチを続けていたら、次に自由になるのはもう50歳だ。いかに人生100年社会と言われていても、自分が100まで生きれるとは限らない。仮に自分が100まで生きたとして、華耶だって、100まで生きてくれるとは限らない。
今は、一分一秒が惜しかった。とにかく、晴れて自由の身になったら、失った分の時間を10年、20年かけてでも、全部取り戻さなければ――海はそんなことをふと考えた。
その一方で、薫は果たして薫自身を取り戻せるだろうか――海はそんなことが心配になった。
随分、自分も無責任になったものだ。自分はそうして全てから開放されるかもしれないが、まだ若い薫にはまだ人生がある。
そんな薫の面倒をそもそも自分は見なくてもいいのか――?いや、面倒なんかを見るなんて言ったら、余計に薫の尊厳を傷つけるのではないか――考えれば考えるほど、海は自分が嫌になった。
華耶は海に向かって『もっと自分にワガママに生きていい』のだと何度も言ってきたが、自分にワガママに生きてきた結果が、薫やジェネル――皆を不幸にした。
いつもそんなことを考えてがんじがらめになってばかりなのも、そうして全部自分のせいだと思い込むからこうして長い間薬に頼らなければいけない日々が続いているということも分かってはいたが、つい海は負のスパイラルにこうして陥ってしまいがちだった。
〈――メインブースターがイカれただと!?〉
〈――クソッ、動かんッッ!〉
部屋でゲームをしながら帰りを待っていた華耶は、部屋に入るなり無言で突然抱きついてきた海に驚いた。
「ちょっ……海くん、ごめん。今ちょーっといいところだからさ、あと2分くらい待って欲しいなーって……」
コントローラを必死で握りながら、華耶は海をなんとか引き剥がそうとした。
「……ごめん。今がいい」
海がなかなか抱きつきながら表情を上げようとしないときは、なかなか言うことを聞いてくれない証だ。華耶はまた始まったな……と思いながら
「いわゆるメンボロってやつ?」
そう尋ねると、海は黙りこんだ。海が黙り込むときは大体、よほどその先を言いたくない場合――特に、その言葉を自分で認めたくないときだ。
「……分かったよ。でもさ、とりあえずさ、シャツはいっそ脱いで欲しいかな。それにちょっと、お酒臭くてさ」
華耶は仕方ないな、といった表情でコントローラを床に置いた。
「ロボットアクション系のゲームなんかよりもっと操作難しいやつが目の前にいるんだもんなぁー」
華耶は海の背中をぽんぽんと叩きながら、苦笑した。