海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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206・それが単なる友情だったならば

8月からお盆期間をまたぐ形で行われる後期混合戦を前に、一軍も二軍も一旦休養日が設けられていた。今年のチーターズは後期混合戦をホームで行うことから、地方球場めぐりのスケジュールとなっていた。

 

今年は福島から北上する形で青森までの東北六県全てを回る、地方を飛び飛びで移動しなければならなかった年に比べたら比較的落ち着いたスケジュールだ。

これは東北を応援してくれるならばとコンドルスが協力してくれたことで実現したもので、チーターズ対ブルーバイソンズの試合ではコンドルスの本拠地である宮城客縁スタジアムを使わせてもらえることになった。特別仕様のユニフォームだけでなく、球場演出までコンドルスの協力を得て準備されるほどにしっかりと力を入れている。

 

一方、リーグ戦の行方はまだ8月に入ったばかりだというのにAクラス争いどころか順位そのものすら膠着状態にあり、シーズンはもう決着したような空気を漂わせていた。

首位を走るバトルシップスは優勝マジックを30まで減らし、追うレッドフィッシュを14ゲーム差で完全に突き放している。ここまで差がつくと人々はもはやリーグ戦の行方なんかよりもいつバトルシップスが優勝するのか、くらいしか興味を示さなくなるもので、スポーツニュースなんかも野球コーナーより、順位争いの白熱したサッカーや、突然湧いて出てきたように活躍しはじめたテニス界の新星、そしてタイトル争いでお互いに一歩も譲らない若き囲碁界のスター同士の勝負のほうを取り上げがちだった。

一方のチーターズはというと、ここまで43勝53敗6引き分け。3位のドルフィンズとは12.5ゲーム差をつけられ、残すところあと42試合の中でAクラスに浮上するためにはもうほとんど負けが許されていないほどの絶望的な状況に陥っていた。

 

もう負けが許されていない――

 

そんなことを本気で考えているチームメイトがいったいどれほど居るのだろうか。自分の知っている中で、いついかなる状況でも、ゲーム差だとかそんなものも関係なしにバットを振り続けていた人間を、ジェネルはただ一人しか知らない。

 

最近は雨続きで、ひたすら休養日に一人で練習していてもすぐに天気に振り回されてしまう。

雷を伴う雨雲が球場に流れ込んできて、ジェネルは一旦ベンチへと退避した。けたたましい音を立てながら、雨はあっという間に鳴尾浜の土をうっすらと濡らしていく。

こんな時に大体いつも隣で練習していた男の姿は今日もない。よほど強い雷でも鳴りさえしなければ、この状況、雨に打たれながらでもスイングをし続けていたであろう男の姿は、きっと、明日も、そしてこれからもないだろう。

いい加減、この空間に慣れなければいけないのだ――そう思いながらも、ジェネルはふと、ベンチでバットをじっと見つめた。

 

『何してるんですか……何してるんですか!!!!!』

 

清兵衛が去った年、海はポストシーズンで清兵衛に勝利を届けられなかったことに思わずバットを握り締め、自らの額めがけてそのバットをぶつけようとした。

あの時、海がいったいどれほどの悔しさだとか、無力感に襲われていたか、今の自分には少しだけ、理解できた気がする――とジェネルは感じた。

理解する、というのは、海の心を悔しさを汲み取るというよりは、自分の今感じている無力さがきっと、当時海が感じていた感情に近しいものなのだろうというものだ。

日に日に自分の責任や、自分が果たせなかった思いが降り積もって重なるたびに、自分はその大きな胸の中に、海の心が重なっていく気がした。

どれほど自分が分かった気になったつもりでいても、きっと海ほどの悲しみや絶望感なんかは自分が今感じているものとは比べ物にならないものだろうし、間違ってもそんな知ったようなことを海に言ってはならないこともジェネルは分かっている。それでも、何かひとつでも自分を海に重ねないと、やっていられなかった。

 

どこにもぶつけようがない感情だけが、自己主張のようなその無駄に大きな胸に詰まっていく。

話し相手が仮に居たとしても、話したところで自分と同じ次元や目線で生きている人間がいなければ、その悲しみを受け止められるほどの器を持つ人間がいない――だから、海は時折、言葉にならないうめき声を発して自分の胸にめがけて泣きついたことがあった。きっと、華耶に対しても、野球の面で胸に秘めていることの全ては海はあまり言ってこなかったのかもしれない。

ジェネルは今まで、それを海なりの思いやりだと思っていた。いや――おそらく、それは確かに思いやりではあるのだろう。

思いやりがそこにある一方で、きっと誰も、言葉にしたところで自分のそういった悔しさだとか無念さだとかを本当に理解できる人間なんていないのだときっと海は思っているのだ。

華耶という大きな大きな器がありながらも――そして、自分という、常に海と同じ目線で生きてきたつもりの人間がそこにいたとしても、それでも海は胸に抱えた言葉を吐き出そうとはしなかったときもあった。

 

今、ジェネルには海のそうした行動の理由が分かる。

 

誰にも、どこにも、ぶつけようがないのだ。

 

海にぶつけようにも、今、きっと自分なんかよりもずっと思い悩んでいる海にそんなことをぶつけたって、海にはどうしようもない。

他の誰にも、こんなことを言ってもどうしようもない。

八つ当たりをするほどのものだって自分にはないし、自分をよく知らない人に当たったところでどうにもならない――。

 

結局、自分の問題は、自分で解決するしかないのだ。

 

海は自分を含め、華耶や清兵衛らを信用していなかったわけではないと思う。信頼もしていたはずだ。

にもかかわらず、海から漂っていた孤独感が強かったり、自分たち以外のあまり多くの人間と接してこなかったのは、本当のところ、単に海が口下手だからどうこうではなく、ドラフト1位という身分だとか、自分が打たないと状況が動かないことへの責任感だとか――常に海に付きまとう国籍の問題だとか――誰にも相談できない悩みの数がそうさせたのだろう。

だからこそ、海は常に自分の悩みを自分で解決しなければならなかった。

 

華耶がいるからこそ、華耶に対して言えないことだってきっとあったはずだ。もちろん、そんなことだって今までも、ジェネルの中で海という存在を理解するにあたって、分かっていたつもりだ。

だからこそ、華耶には言えないようなことを自分が受け皿になってやろうとも思っていたし、華耶もそれを分かっていたから、二人で飲んでいたときなんかも海との関係については咎めようともしなければ、むしろ好ましく思ってくれていた――。

 

しかし、結局自分には華耶ほど海の心を受け止め切れなかったから――

そして、海の信頼を勝ち取るまでに時間がかかりすぎてしまったから、海は壊れてしまったのだ――。

自分が15年という隙間をもっと埋めて、もっと早く海の信頼を得ていたならば――。

自分にもっと状況を覆すほどの力があったならば――。

 

日々、考えないようにしていたことが雨音の数に便乗して溢れ出てきてしまう。ベンチの屋根から零れ落ちてくる雨音のようにして、ぼろぼろと流れ落ちてきてしまう涙が、鬱陶しかった。涙を流した自分の無力さに、自分が浸っているような気すらしたからだ。

 

自身を持て――

 

今はバットで示さなければいけないんだ――

 

それしか今は海にできることはないじゃないか――

 

そう心に強く言い聞かせるジェネルだったが、目の前のバットが霞んで、ピントの合わない夜景のようになってしまう。

 

「……だめだなあ、私。最近、泣いて……ばっかりで……っ」

 

身体を動かしていないと、どうにかなってしまいそうなほどジェネルの精神は不安定だった。

いっそ自分にもう少し歯止めのきかない精神さえ持ち合わせていれば、車で海の自宅に行ってやろうかとも考えたし、逆に、海を呼びつけてしまおうかとも考えてしまった。

自分が海の心を受け止めてやるつもりでいたのに、結局そうして自分が海に優しくされて、それできっと優しくしてくれる海の、言葉以上に広い心の海に溺れていたいだけなんじゃないかと考えてしまうと、また自己嫌悪に陥る――そんな悪循環を繰り返して繰り返して、どうにもならなかった。こんな時に、一人の女であることを捨てられない自分が卑しく、そして、自分の本当の意味の限界を突きつけられたようで、ジェネルは思わず嗚咽した。

 

なかなか降り止まず、徐々に強くなった雨に打たれながら、ジェネルは咆哮に似た叫び声をあげ続けながら素振りをした。

怪我をしようが、どれほどこの練習が意味がなかろうが、どうでもよかった。雨の日の試合の対策だとかいう理由なんかもない。とにかく、この煩悩や悪い感情を、身体を少しでも動かして振り払いたかった。

雨に濡れ、ビタビタに張り付くユニフォームから透ける自らの性が、今だけはこれ以上なく憎たらしく感じてやまなかった。

 

~~~

 

「今更、こんなの支給されたってな」

海は球団から一応渡された、今年の後期混合戦の特別仕様ユニフォームを見て複雑な表情を浮かべた。

 

東北の自然と山々を表した濃いめの緑に、東北の海を表した濃いめのマリンブルー。力強い荒波と山々を模したやや派手めなデザインが施されている。

「二軍【こっち】じゃ着ないんだろ?これ」

「いやー、でも、佳井さんが一軍に呼ばれないって決まったわけでもないので……」

球団広報がユニフォームを海に渡し、上着の上から軽く羽織らせた。

呼ばれないと決まったわけじゃない、という言葉に海は球団広報なりの優しさを感じた一方で、放っておいてほしいという怒りも同時に感じたが、なるべく表情を崩さないようにしながらしぶしぶ袖を通した。

夏場ということもあって、通気性のいい素材を使っているのがよく分かる。毎年何かと素材に関しては研究をされていることは海も分かっていたが、今までのユニフォームよりもかなり夏場を意識した着心地のよさを感じた。

本来、もう少し暑くなりさえすればこのユニフォームももう少しありがたがられるところだっただろう。8月に入ってようやく平年並みの気温に戻りつつある日が増えてきたが、それでも今年の夏はこのままどこか『らしくない』まま終わってしまうような気がしてならなかった。

 

「大体、アレじゃないか。このデザインっていうか色使い、俺見たことあるよ。アレだろ、サッカーの……なんだっけ……アズマックス……」

「大丈夫です、完全にオリジナルです」

アズマローソという名前がどうしても定着できずに居た海は相変わらずその名前を間違えながら、うろ覚えのその名前を出した。

球団広報も心のどこかで、使っているカラーといい、デザインといい、どこかサッカー1部リーグのアズマローソ相模を連想させることは分かってはいたので、やや食い気味に海の言葉を遮った。

 

「でも、いいよな。毎年イベントもののユニフォームなんかも大体白と黄色と黒ばっかりのユニフォームだったし。たまにこうやって、全然チームと関係のない色使いのもの着るのも、悪くない。来年からチーター柄だとか、そういうの、やめてみたらいいんじゃないかな」

海はそう言うと、広報は苦笑いしながら首を横に振った。

 

「気に入っちゃってるんですよ。上が。上っていうか、社会が。大阪のおばちゃんはヒョウ柄着るもんだって、本当のところはそこまで着てないのに、みんな先入観でそう思っちゃってるので、あの色使いから抜け出せないんですよ」

「……まあ、来年はこのユニフォーム着てないんだけどね、俺は」

海はそう笑うと、広報は寂しそうな顔をした。何か言えばいいのか迷ったような顔をしていたが、海は続けた。

 

「で?また、懸賞だとかなんだとかでこれ、サインしなきゃいけないんだろ。何着分サインすればいい?……今更俺のサインなんて欲しいやつなんて、いるかな」

「……居ますよ。あまり自分を卑下しないでください」

球団広報は少しムッとした表情で海を嗜めた。怪我さえしていなければ本来一軍帯同はしていただろう海がどこか他人事のような気でいることに、不快感を覚えないわけがなかった。

自分だって本来、海を影ながら支えてきたというプライドがそこにはあった。最期まで佳井海は佳井海でいてほしい――そんな思いが広報にはあった。

 

「みんな今年、このユニフォームを着て球場で佳井さんと会えるもんだと思ってたんですから。今年はたくさんサインしてもらいますよ。これ、幻の一着なんて言わせませんから。本来出るはずだった144試合分……144着なんてどうでしょう」

「俺を安売りするなよ」

広報の冗談に海は思わず広報の肩を小突いた。

 

「でも甲子園に来た球児たち、遠征から帰る前だとかなんだとか、今でも佳井さんのレプリカユニフォームとかグッズ買ってく人多いらしいですよ。甲子園10割男っていう、ゆるぎない事実がありますから、佳井さんのサインが入った必勝祈願のお守りなんかも今でも売れてるみたいで」

「皮肉なもんだよな。俺に負けの理由を押し付けておきながら、俺の必勝祈願のお守りは買っていくんだ」

「諦めない姿勢をみんな評価してるんですよ。……いつまでノイジーマイノリティを引きずってるんですか」

球団広報の苦言に海はそれ以上は言葉を発さずにおいた。

 

「……今年でグッズも最後になるかもしれないからか、今年は特に売れ行きがすごいんですよ。全体的に増産体制なんですが、なかなか追いつきません」

居なくなると分かってからグッズを買い漁る姿に、閉店セールに駆け込む人々のニュースのような姿を海は連想して思わず悪態のひとつでもつきたくなったが、黙ってポケットに手を突っ込んだ。

 

「上の思惑だけじゃなくて、僕らとしてもやっぱり佳井さんって、うちらの顔なわけじゃないですか。だから、辞めるなら辞めるで仕方ないとして、佳井さんにはこれからもコーチでなんとか居てもらって、あわよくば監督になって――」

「……ならないよ」

海は広報の言葉を遮りながら否定し、笑った。

 

「勝てなくてもグッズが売れるから居て欲しいなんて理由なら、なおさらごめんだよ。そんな理由でチームなんか率いたら、選手にもファンにも失礼だ。……144着分サインするのは、別に構わないよ。でも、サインするなら……そのサインを本当に欲しがってもらえるように、やっぱ一軍にもう一回上がらないといけないね。……頑張らないとな」

 

途中から、その言葉はまるで独り言のようにして海はボソボソと、自分に言い聞かせるように呟いた。広報はそんな海の、先ほどの不快感が前のめりになった表情ではなく、ただただしんみりした表情に、かける言葉が見つからないまま、立ち尽くしていた。

 

「……写真、撮るつもりなんだろ?俺なんかの。一軍戦の試合のユニフォームなんだから、一軍の選手に着せろよってきっと中堅の連中に言われるぞ。まあ、別にいいけどさ。とっとと撮っちまってくれよ。こんなのずっと着てたら、悔しさで心がねじ切れそうだ。これ以上心を怪我したくないんでね」

海は必死で笑顔を作りながら広報を煽り、カメラの前に立ってうっすらポーズを撮った。早く撮れ、というサインだ。広報はそれにつられるようにして撮影を始めた。

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