それは、本当に夏だったのだろうか――。
関西から西にかけて強い雨や台風が相次いだ今年の夏は、夏の甲子園大会も異例の4日間の雨天中止を挟んだ。
毎年のように議論される、甲子園に屋根をつけるべきだとか、バイソンズにも協力を要請してもらって、雨天時はバイソンズの本拠地であるケー電子ドームで試合を行えるように体制を作るべきだとか、そもそも夏の甲子園というものにそこまでこだわらなければならないのだとか、ワイドショーが議論するだけ議論して、結局何にもならない日々が続いた。
やがてそれも、夏の残渣が何かを思い出したかのように――やり忘れていた宿題を片付けるかのように、8月の下旬に入ってから突如例年通りの勢いを取り戻した暑さと、海外のセレブ芸能人のスキャンダルだとか、大手芸能事務所のスキャンダルだとか、大手飲食チェーン店の残業代不払い問題だとかががワイドショーを席巻しはじめ、10日もしないうちに忘れ去られていった。
そんな10日の間に再び厳しい夏の暑さは通り過ぎ、8月のカレンダーも剥がされた頃、Eリーグの首位を独走していたバトルシップスはマジックを1桁目前にまで減らしていた。
Cリーグ首位のダイヤモンドホーンズも独走状態に入り、ここから首位転落はよほどのことがない限りはまずないだろうということや、Cリーグもまた、Eリーグ同様にAクラスとBクラスとの間に大きな壁が聳え立つ一年だったこともあり、相変わらず世間の注目は首位争いをしている上位7チームがまだいずれも頭一つ抜けられずにせめぎあっているサッカー1部リーグの行方のほうに傾いていた。
まして、リーグ発足以来、長い間1部と2部リーグを行ったり来たりを繰り返していた山形ドライベルグと、一時はチーム解散の危機に陥っていた横浜フューサラーズがその首位争いに加わっているのだ。既に決着のつきつつあって、特段降格などがあるわけでもないプロ野球なんかよりも、ワイドショーはそうしたドラマを追うようになっていた。
こうした地域密着型のスポーツを追ってる方がメディアだって楽しいだろうし、まして上位を争っているチームに普段よりも大きめのドラマが動いているのだから、当然そちらを追いたくなるだろう。
こうして時折、ワイドショーなんかでは『プロ野球も独立リーグから球団を受け入れるなどして12球団という体質ににこだわらなくてもいいのでは』なんて無責任な言葉も飛び交ったりもした。
実際、日本は縦に広く、それなりに移動が大変な国なのだから、サッカーのようにもっと社会人リーグだの、各所に林立した独立リーグがどうだなんて言わずに新規球団がもっとあってリーグの再編なんかもいいのではないか――とも海は時折考えることもあったが、どうせ考えたところで今年で現役から退くのだから、それもだんだんどうでもよくなった。この後制度が変わったところで、自分の人生が変わるわけではないのだから。
ただ目の前にもうすぐやってくる"終わり"があって、その"終わり"を自分がちゃんと迎えられるのかどうか以外は海にとってどうでもよくなりつつあった。
ふがいない打棒。そして、自分では動けているつもりだったのだけれど、ちょっとした瞬発力や踏ん張りが以前よりはないものだから二塁を守っていても以前なら捕れていたゴロも捌けないこと――。
その二つが、海の幕引きを暗くさせようとしていて、何とか意地を見せたい海にとっては、自分のこと以外に構っていられる状態ではとてもなかった。
同じチームスポーツをしているのに、サッカーは今まさにドラマが起きようとしているというのに、自分はなんのドラマを起こすこともできない――その思いも海の心にヒビを入れていた。このままじゃいけない――そう思いながらも、何も出来ないまま、あの事故から季節は二つも過ぎている。
自分など、所詮、こんなものだったのだ――。
そう諦めたら少しはリラックスできるのではないかとも思ったけれど、結局、月日だけがむなしく過ぎていくだけで、どうにもならないまま、シーズンの終わりだけが目の前に迫ってくるだけだった。
「……」
相変わらず浮かない顔をして、海は地下の衣装室に掲げられていたチーターズのユニフォームを見つめた。
『工事現場か!』『工事せなあかんのはお前らのチーム状況じゃ!』とファンから不評につぐ不評を受け、わずか1年で交代となったユニフォーム。縦じまをあえてやめ、右に向かって斜めに太い黒い線で大きくストライプをとったもので、通称・規制線ユニフォームと言われたものだ。
その隣には、黄色と黒とを無限大をかたどったような形にして編みこんだラインで縦じまを作った、通称・無限大ユニフォーム。これも『間近で見たら集合体恐怖症持ちがゾワゾワする』と不評だった。
正直言って、それぞれのユニフォームに愛着があったかといわれるとそうではなかった。
大体、何かあるとビジターユニフォームやイベント用ユニフォームなんかはすぐにヒョウ柄や黄色と黒をギンギンに目立たせたようなデザインばかりだったし、自分が金髪ということもあり、全身黄色なのを馬鹿にされているような感じがしてあまり好みではなかったのだ。
それでも、ホームユニフォームの白と黒とを基調にしたデザインだけは嫌いではなかったし、時々ユニフォームが奇抜なデザインに変更される中で、不評を受けて縦じまのデザインに戻ったユニフォームが発表されるたびに、海は安心感を覚えた。
27年間もそうして同じユニフォームを着ていると、自宅の衣装室にはユニフォーム記念館のような一角ができてしまった。来年のユニフォームは、ここにはない。
眉間にしわを寄せながら、目を閉じて、空調のある天井を見上げて海はしばらく物思いに耽った。
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〈大変なんですよ、佳井さん――〉
突然の真悟からの電話に、海は驚きを隠せなかった。
真悟から連絡が来ることなんてほとんどなかったし、他人の心配をしていられるような状況でもないはずの真悟が突然自分に電話をかけてくるのだから、よほど何かあったに違いない――。
そう思っていた海の耳に飛び込んできた駆け足気味の声は、海の心を揺るがした。
〈ジェネルさん、今日の試合でダイビングキャッチしてからなんか様子がおかしくて〉
「あいつの様子がおかしいのはいつものことだろ」
〈そ、そんな言い方ないじゃないですか。本当にっ……大変なんですよ、本当に〉
そう言いながらもなかなか本題を話したがならない真悟に、海はもどかしさよりも嫌な予感を感じずにはいられなかった。
ダイビングキャッチ。怪我を誘発しがちなプレーのひとつだ。今のジェネルのことだから、張り切りすぎた結果最悪の結果を招くことになっても不思議ではない。
「……折れたのか」
〈……肋骨、ちょっとだけやっちゃったみたいです〉
「……そうか」
たかが肋骨くらいでやかましいやつだな――という気持ちよりも先に、手首や膝などを壊したわけでなくてよかった――という安堵が海を包み、肩の力を一気に抜いた。
緩んだ膝から崩れ落ちるようにしてソファに少し荒っぽく座った海は、高鳴ったままの脈を落ち着かせるようにしてテーブルに置いてある頓服薬を手に取り、コップに少し残った茶と一緒に飲み込んだ。
〈肋骨でうるさいやつだなとか思ったでしょう、今〉
「……別に」
〈いいんですよ。俺はオーバーなやつなんで〉
「何怒ってるんだよ」
この様子だとコーチか監督と何かあったな――と海は思いながらも、真悟の近況は聞いたところで耳から滑り落ちていくことが見えていたので、海は黙っていた。
〈で……ジェネルさん、別に深刻な折れ方をしたとかではないんですけど、シーズンももう終盤ですし、大事を取って今季はもう出さないみたいです〉
「まあ、頭を冷やせってことだろうね。アイツもずっとスタメンに使われて疲れてただろうし」
〈ジェネルさん、今季はとにかく飛び込みとか多くて、いつ怪我するか分からないようなプレーばっかりしてたんですけど……軽い怪我でよかったですよ。本当に今年のジェネルさん、見てられなかったですよ。守備に走塁に、肩や足から飛び込むプレーなんかもかなり多かったんです。さすがにコーチからも注意されてましたけど、それでもついついやっちゃうみたいで。無茶して肩やったり、アキレス腱やったり、膝とかやったらどうするんだって俺も心配してたんですよ。今ジェネルさんが大怪我でチームから抜けるなんてしたら――〉
「お前は他人の心配してられる状況なのかよ――」
〈佳井さんはなんとも思わないんですか〉
真悟の言葉を遮った海を、真悟はこれまでにない強い語気で遮り返した。
思ってもない反撃だったから、海は真悟のまっすぐな言葉に、喉にたまっていた空気を思わず飲み込んだ。
〈俺だってね、あんまり女の人の扱いを言えるほど遊んじゃいないですよ。でもね、佳井さん。ジェネルさんが今年どれほどの思いで佳井さんを待ってるか――どれほどの思いを佳井さんに対して蓄えてるかってことから、逃げ続けてるじゃないですか。そういうの、男として最低だと思いますよ。……多分、ジェネルさんが居ないとなると、客の入りなんかもあるでしょうし、なんか他にもメンバーの入れ替わりがあるみたいなんで、今日中にでも佳井さん、公示がでると思います〉
「公示があるのと俺が呼ばれるかどうかは別だろう」
〈どうせもうBクラスが決まったような状況ですし、絶対呼びますよ。ジェネルさんの怪我だってまだ公になってはないですけど、報道されるのも時間の問題だと思いますし〉
「お前なあ。……今の俺が一軍に耐えられるとでも思ってるのか?」
〈知りませんよ、そんなこと〉
真悟の不快そうな言葉がいやに海の耳をつついた。黙って呼ばれて、黙って打席に立て――ということなのだろう。自分がジェネルや真悟らに度々説いてきたことをそっくりそのまま突き返されたような形になり、海は言いよどんだ。
〈佳井さんがどれだけ自分のこと惨めだとか、もう頑張れないとか思ってても、佳井さんの最後の舞台はどうやってももうすぐやってきます。このチームはずっとそういうもんです。もう断れる状況じゃないんですよ、ってことは覚えといてください。これはジェネルさんが居ない間の穴すら埋められない男からの言葉です。それじゃあ〉
それは、真悟の逆切れでもあったのだろうけれど、真悟なりの本心だったのだろう。海はブツリと切れた通話音に対し文句を言うでもなく、メッセージを送りつけるでもなく、ただただしばらく携帯電話を見つめていた。
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「海くん!大変大変――」
「知ってる」
バタバタと足音を立てながら衣装室にやってきた華耶に海は背中で返事をした。
「知ってた……?」
「知ってた」
「……どっちも?」
「どっちも」
「……まあ、そりゃそっか。メディアより先に選手には情報来るよね」
華耶は落ち着きを取り戻したような声色で、大きくため息をついた。海はようやく振り返って、壁に背中を預けた。
「……ジェネル一人が休むことになったからって、俺にたくさんチャンスが回ってくるってことはないと思う。俺が外野手だったなら別だけどね。昔オープン戦で守ったことはあったにせよ、今更俺に外野を守れってことは、ないだろうし」
華耶は海が言いたいことをなんとなく理解したのか、真剣な眼差しで海を見つめた。なんとか真剣さを保っていないとすぐにでも表情が崩れて感情的になってしまいそうだったのを、必死でこらえているようにも見えた。
かつて、田中が再契約をする形でチームに戻ったとき、田中は晒し投げになると分かっていて完全燃焼をすると自分に誓ってみせた。
あの時田中は、ナオとか言っていた彼女にどんな誓いを交わしたのだろう――そんなことをふと海は一瞬考えた。今すぐにでも華耶に近づいて、両腕を肩に添えたい気分だったけれど、今華耶の優しさに甘えてしまったら自分は野球人として立ち上がることはできないだろうから、壁に背中を預けたまま華耶をじっと見つめた。
「……華耶。多分、これが最後の一軍昇格になると思う。上がってる間、何試合使ってもらえるかも分からない。明日昇格して、お情けで直後に試合に出してもらって、それっきりかもしれない。そのチャンスを生かせる保障だってない。俺が出たからってここから3位に浮上する未来だって、多分ない」
「わかるよ」
「……それでも……俺の無様な最後を、見届けてくれる?」
海は極力、声色も表情にも不安をにじませないようにしながら、淡々と話して華耶をじっと見つめた。二人とも、真剣な眼差しで見つめ合っている。少し膝を崩して目線を下げてやった海だが、それでもざっと20~30cmほどの身長の差がそこにはあった。
しかし、今この瞬間、二人にとってそんなことはどうでもよかった。背の差なんて、この30年近くずっと連れ添ってきたものだ。気を遣って抱いたことも、あるいは、気を遣って抱かれたことも、繋いだ手の腕の角度が違うことも――いつだってそんな背の差はあったが、今更二人にとって背の違いなんて、些細なものになっていた。
「……あたしは、海くんが思うようにならないときもずっとそばに寄り添ってきたつもりだよ。今更、海くんがどうしようもなくボロボロでも、そこから目を背けはしない。最後まで……最後まで、あたしは海くんの味方でいるつもりだから」
「そうか」
「……だからさ、頑張ってなんて、今更言わないよ。あたしが言わなくても頑張ってきたんだもん。だから……あたしは、海くんを黙って最後まで見届けるよ。それがあたしの……あたしの役目だから」
「分かった」
海はそう言って、背中を壁から離して歩き始めた。
「ありがとう」
そう言って華耶の一瞬頭を撫で、海は衣装室から出て行った。今抱きしめたらきっと二人とも駄目になってしまうだろうから、海も、華耶も、普段どおりを心がけ――そして部屋から出て行き、いったん二人は別々の空間を歩いた。
1階に戻り、外を眺めた海。ふと窓を開けると、夏が今年の冷夏を思い出したかのような風を吹かせていて、9月の中ごろだというのに夜風は少し冷たかった。
ふと、携帯を見つめると、BINEの新着メッセージが届いていることに海は気付いた。大体このタイミングなら、誰からのメッセージかは分かっている。海は少しそのメッセージを見るかどうかためらったのだが――意を決して、そのメッセージを開いた。
〈 ごめんなさい!ちょっと無茶しすぎました……。ちょっとだけヒビ入っただけなんですけど、肋骨が機嫌を損ねちゃったみたいです
〈 私が怪我したから一軍に上がれたんですから、お代は身体で払ってくださいねー?
22:16 既読
なるべく平静を装ったメッセージがそこにはあった。どんな顔をしてこんなメッセージを打ったのかを海はあまり考えたくなかった。きっと、一軍に上がるときは自分と一緒に一軍にいるものだと思って春から野球をしてきたのだから、悔しくないわけがないだろう。
春夏と季節が移り行く中で、徐々に海の一軍昇格がよほど何かが起きなければありえないという事実をジェネルはなるべく受け入れたくなかった。きっと、今日のアクシデントまでジェネルは、それでも海は一軍に実力で上がってくると信じていた――。
今度こそ夜通し抱かれる準備くらいしておけよ 〉
22:47
海はそんなジェネルの自尊心やこれまで積み重ねてきたものを壊さないように、海もまた平常運転のメッセージを送りつけた。
携帯を潰してしまうのではないかというほどにきつく握り、海は再び天井を仰いだ。