「……調子があまりよくない中で上げてもらった分、恥ずかしくないようなコンディションで出番を待とうと思います。よろしくお願いします」
練習前の挨拶で海は手短にそう話した。中堅や若手が内心、あまりよくない感情でこちらを見ているのは海も分かっていた。
海自身、自分がこのタイミングで呼ばれた理由にさまざまな意図があることは分かってはいたが、まさか『引退試合に向けて頑張ります』なんて言えるはずがない。
海はあくまでも、一人の選手として、ひとつのシーズンの中での昇格という立ち位置で挨拶をした。どうやっても野球に対して抱いている感覚の異なる若手や中堅には、勝手にさせておけばいいのだ。結局、清兵衛が球界を去ってから、自分の感じるものと同じ世界で戦えた後輩というものは、とうとうジェネルしかいなかったのだから――。
改めて、自分にはまともに話せる知り合いというものがこの5年くらいは田中とジェネルくらいしかいなかったということを海は思い知った。こうしたことを考えるたびに、よそのチームに所属できたならば――というよくない感情が浮かぶため、海は相手ベンチの様子から背を向け、しばらく目を閉じた。
逆に、あの明るいジェネルですらこの環境においてその交友関係がなかなか明るみに出てこないあたり、ジェネルがこの環境で普段何を感じ、何を糧にプレーしているかを考えると、海は自分の不甲斐なさを悔しく思ったし、誰一人として自分たちの後ろをついてこられる選手がおらず、そしてそうした選手を獲ってこられなかったチーム運営にも腹が立って仕方がなかった。
せめて、毎試合は出られないにしても、ベンチくらいには座っていられるほどの状態で開幕から一軍にさえ居られたならば――あるいは、コーチ兼任を断らずに、せめてコーチという身分を利用してでもベンチに居て、ジェネルだけでも支えてやれていたならば――そんなことを海は悔やんだ。
もちろん、今の海に全く勝機がないわけではない。
昨日の二軍戦では久々に自分の思い描くようなタイムリーを打つことが出来た。今更大きく振って外野の頭を越すようなヒットを狙っても仕方がない。であれば、流れに逆らわずに、自分がバットに当てることだけを最優先しつづけてきたように、基本に忠実にセンター前やセンター返しを狙う――それが昨日は二度もイメージどおりに出来た。
二軍の投手相手にたった二つのヒットを打っただけで調子を取り戻した気になってもどうしようもないのだが、少なくとも一番悪い時期からは抜け出せそうになっているはずだ――海はそう自分の調子を確信していた。少しくらいそうして虚勢を張って思い込みでもしていなければ、すぐに現実が自分の心の骨を折ってしまいそうだった。
フロントだってこのタイミングで自分を呼んだのであれば、きっと昨日のヒットを見た上で呼んでくれているものだと海は思いたかった。自分がもはや客寄せパンダとしてしか呼ばれていないのは分かってはいるし、今の自分はどうしてもそういう役割以上にはなれないことも理解している。
それでも、単なる客引きのためだけに呼ばれたものではないと思いたかった。それほどに、昨日のヒットは海の中では手ごたえを感じるものだった。
昨日のヒットのイメージを保ったまま打席に入れたならば、今の自分に求められている最低限の働きはできるはずだ――平静を保ってはいるものの、海はそうした焦り交じりの高揚感の中でグラウンドに居た。
本来、今日もまたこの場で試合に出ているはずだったジェネルのためにもやってやらなければ――そんな気持ちが海の気持ちを必要以上に高ぶらせたし、真悟から浴びせられた言葉だって少しは海の気持ちを揺さぶっていた。
若手や中堅が自分のことを鼻で笑うならば、それはそれで仕方がない。客のために、そして、ジェネルのために、そして――これまでずっと自分に寄り添い続けてきた華耶や子供たちのために――。
ここから優勝も下克上もできないだろうし、何もドラマなど起こせないだろう。それでも、海はこの最後のチャンスを――自分の最後の散り際というものを、なんとしても結果で示したかった。
「ひどいもんだな。これじゃ、足で稼ぐような打者だ」
「足で稼ぐような打者は佳井さんほど鋭い打球を打てませんよ」
意図的にセンター前や、センターの真横――ショートやセカンドが反応できないようなラインの鋭く、やや低い弾道の打球を海はしばらく打った後、ベンチへと戻ってきた。
イメージほど打球が上がっていかないから、こうした低めの打球に頼らざるを得ない。にもかかわらず、フリー打撃ですら、思っていたほどの手ごたえを感じられない。よくて30点くらいの出来だろう。
それでも、傍から見れば低い弾道のままだがぐんと勢いが死なずに伸びていくその打球を見て、真悟は素直に関心しながら海へ話しかけた。
「俺はダメダメです。これはもう、センスの問題です。佳井さんがいなかったからかもしれませんけど、最近どうにもうまくないんですよ。なんか、誰とも話が合わなくて」
素振りを繰り返していた真悟はスポーツドリンクを手にしながら、ドカっと座りなおした。大柄な男だから、余計に威圧感を感じる。
「話が合わないって……お前、別に俺とも話が合ってるわけでもないだろ」
「ち、違うんですよ。ってか、そんな言い方ないじゃないですか」
「でも、事実だろ」
「それはそうかもしれませんけど……なんか、このチーム、全体的に妙にムスっとしてるじゃないですか。佳井さんのムスっとした感じとは違う、なんか、こう」
「その辺にしとけよ。あんまり試合前に周りのことをゴチャゴチャ言うもんじゃない。大体、ムスっとしてるのはお前も人のこと言えないよ。俺も大概だけどね」
海はそう言いながら、少し少なめにスポーツドリンクを口にした。
「俺たちが大きいからなんですかね。周りの男より、見えてる世界が10cm、20cmくらいは違うじゃないですか。そういうとこなんですかね?なんか、変に向こうが警戒心抱いてみたり、妙に若手や中堅がこっちをからかってみたりするの」
「じゃ、俺たちは背骨でも削って、人並みの背になってみたらいいのか?」
海は冗談を言いながら、鼻で笑ってみせた。
背の高さ。
あまり今まで気にしたこともなかったし、今まで自分に近しかった人間は、背のことなんて何も気にせず接してきたからなんとも思わなかった。確かに日本に引っ越してきた頃、自分は海外とのハーフということや背の高さだとか、そういったところが自分のアイデンティティだと思っていた。
自分は背の高さの割には細いから、さほど威圧感なんてないものだと思っていたが――背の高さくらいで近づきづらい印象を作ってるのだとしたら、皮肉なものだなと海は思った。
「背が低かったら低かったでバカにされて、高かったら高かったでイジられて。おかしな世の中ですよ。自分と違うものが、そんなに面白いですかね?」
真悟は不満そうにしながら、バットを床にどんと何度も打ちつけた。
「やめろよ。バットに当たったって、世の中が変わらない。バットは魔法の杖じゃないんだ」
「ですけど」
真悟は唇を曲げながら、舌打ちをした。
「……お前、俺が居ない間もそうだったのか?俺がいるからそうやってみせてるだけか?」
「……」
「もう24、25にもなるってのにさ。来年から俺は居ないんだから。間違ってもジェネルにそんな八つ当たりするなよ、お前」
「しませんよ」
真悟は変わらず機嫌がよくないまま、吐き捨てるようにして呟いた。
「大体、佳井さんだって、人のこと言えないでしょう」
「ああ。だから誰もついてこなかったんだよ」
「……」
そうしてぽつりと吐き捨てた真悟の悪態を、海はありのままに受け流した。
誰もついてこなかった――その言葉にはきっと、自分も入っているのだろう。いかんせん、自分ではその後ろに周りの選手よりはついていけてるつもりでいたから、真悟は返された刃を心臓で受け止め、胸を痛めた。
自分だって、もう少しだけでも海とジェネルとの関係のように、海の世界に入っていけたならば――と真悟は思っていたのだが、改めて自分の未熟さを痛感した。
夕方5時前くらいになると、球場には客が大勢押し寄せた。チームの調子は下降線をたどり続けているというのに、まるで優勝が決まったチームかのような客の入りだ。
――燃え尽きぬその瞳が
栄光をつかむまで
佳井海 佳井海
夢乗せて飛ばせ――♪
「……俺一人でどうにかなるわけでもないっていうのにな」
応援団が待ち切れなさそうにして海のヒットコールと代打用の応援歌を大声で歌い始める。それを海は恥ずかしそうにしながら、一方で、少しだけ嫌な顔をしながら笑ってみせた。
「今このチームは、他にすがるものがないんですよ。ジェネルさんが居ないから」
真悟は皮肉を漏らした。海だってそんなことは分かっている。分かっているからこそ、あえて反論はせずに真悟の言葉をそのまま受け取った。
「……結局俺は、一人の野球人として、どうだったんだろうな。俺が居たから、優勝できなかったのか。俺が居たから、最下位からは抜け出せたのか――。俺は、暗黒の象徴なのか。それとも、俺は、暗黒の救世主だったのか――。ファンや客ってのは、都合よく手のひらを返すからね。俺は結局、客には――大阪の人間には、どう映ってたんだろうね。そんな俺がとうとう辞めるし、お前の言うようにジェネルすら欠場してすがるものがないから俺なんかに応援してくれてるのか、それとも――」
「……この期に及んで何バカなこと言ってるんですか。応援を額面どおり受け取れない人間は、嫌われますよ」
物思いにふけながら、後ろ向きな言葉を発した海に呆れるようにして――少し苛立ちながら真悟はその言葉を遮った。
「本気でファンが佳井さんを暗黒の象徴だとか何だとか思ってたなら、ここまで大きな応援なんて来ないでしょう。Aクラス入りだってもうありえないのに、この人の入りようです。皆、佳井さんを見に来てるんですよ。面白いもの見たさとかじゃなくて、本当に佳井さんの最後の姿を見るために来てるんです。ノイジーマイノリティにいちいち佳井さんは振り回されすぎなんですよ。俺なんか、ノイジーマジョリティですよ。今年から応援歌変わったんですけど、知ってます?俺の応援歌の替え歌」
唐突に自分の応援歌の話をしはじめた真悟に海は少し戸惑ったが、すぐにその応援歌の歌詞を歌ってみせた。
「『一番星目指して その闘志を燃やせ 気迫のフルスイングで 速球を砕け――』だったか」
すんなりと海が自分の応援歌を歌えたことに真悟は本当に一軍に戻ってくるつもりだったんだな――と感心しながらも、表情を暗くして――
「知ってます?ネットなんかじゃ俺の応援歌、『一割にも満たない 外スラは空振り リードも二流の真悟 速球も空振り――』ってネタにされてるんですよ」
「ひどいな」
海は思わず噴出して笑いそうになったが、真悟本人を目の前にして笑うわけにもいかないから必死でこらえ、二度三度ほど咳払いをして誤魔化した。
「……で、何の話だっけ?」
海はそうして無理矢理本題に戻そうとした。真悟も不満そうな表情のまま、続けた。
「……俺の打率が2割にすら届かないのは事実です。率を意識すれば変な当たりにしかならないし、大きく振ってとにかくパワーで運ぶことだけ考えてると、外のボールなんかはもう全然ダメです。でも、そうして外のボールばかり頭にあると、佳井さんの言ってたように内角の球を打ち損じる――皆分かってるから、俺が打席に立っても期待なんかされないんですよ」
真悟はそう言って、落としていた視線をもう一度上げて海をじっと見つめ、首を振った。
「……でも佳井さんは違うでしょう。打つ打たない関係なしに、今まで積み重ねてきた物だってありますし、皆、佳井さんならなんとかしてくれるはずって期待してます。声援って、アレなんですよ。結局、信頼と期待の形なんですよ」
「じゃあ、俺の声援なんてもんは過去の遺産を食いつないでるだけじゃないか」
「でも、俺にはその食いつなぐ遺産すらないんです。信頼してもらえる地盤がないんですよ。だから期待だってされない。俺、ハッキリ言って今の佳井さんが心底羨ましいです。昨日の二軍でのヒットもそうですし、さっきの練習のヒットだってそうですよ。佳井さん、なんかやりそうですもん。やってくれそうですもん。皆そう思ってるから、こんなに試合前から声を枯らして応援してるんです。それを……なんですか。暗黒の象徴がなんだとか。不愉快ですよ、マジで。密着取材にもそんなことなんか言って、スタッフ困らせたりなんかしてないでしょうね」
《それでも一応密着取材ってことになってるからさ。毎日は追わないにしても》
《撮れ高のない男をか。ご苦労なことだよ》
真悟の言葉に、海はオルガとの会話で思い当たる節がふと蘇ったものだから、罰が悪そうな顔を浮かべた。
「……え、マジでなんかやらかしたんですか?嘘ですよね?」
「……まあ、いいだろ。そんなことは」
海は真悟の追及を鬱陶しがって拒絶した。試合の前にわざわざ振り返って、もう一度自分の記憶に定着させたいような回想ではなかったからだ。
「いや、ちょっとそれは俺気になりますね」
「勝手に気にしてればいいじゃないか。人の記憶にズケズケと土足で踏み込むもんじゃない」
こうなるとなかなか離れてくれない真悟を心底面倒くさそうにしながら海は無視し続けた。
9月の空は自分の記憶よりも暮れが早く、試合前にはだいぶ陽が沈んでいた。日が沈みかかった球場に、夏の残り香だけが湿気っぽく漂っていることに、改めて、自分がもう一度この場に戻ってくるまで要した月日の長さを思い知った。
これから陽の長さはもっと短くなっていく。それまでに一体あと何度甲子園の土を踏むことが出来るだろうか。なんなら、ひょっとしたら次に巡ってくる打席が最後の打席になるかもしれない――そう思うと、海は刻一刻と迫る試合開始の時間が少し怖くなったし、いっそこのまま試合なんて始まらなければいいのにとさえ思った。
早くシーズンが終わってくれればなんて思っていたのに、いざこうして試合を前にすると試合に怯える――そんな自分の都合のよさに、海はそうして自虐的に笑みを浮かべ、帽子でその表情を隠した。
スコアボードの電光掲示板には、とっくに観客に馴染んでしまった人気バンド・オーバーハンズの楽曲と、人気漫画家・エルキャンプの手がけた映像が延々と流れ始めている。
つい数年前までは長い現役生活の中でその半分どころか三分の二以上、自分の楽曲が流れていた試合前のスタメン発表。その光景だって、そのうち人々は忘れていく。
引退後は静かに生きたいのだから、早く自分のことなど忘れられてしまいたいはずなのに、そうして自分がここに居た証が身近な世界から一つ一つ消えていくことの虚しさもまた胸の中にある。
人間というのはワガママで、ずるい生き物なものだ――うっすらと引きつった笑みを浮かべ続けたままの海は、帽子で隠した表情をしばらく表には出せずにいた。