海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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210・そして蘇った65点

〈――バッターは――佳井――バッターは――佳井――背番号――25――〉

 

そんなウグイス嬢の声すらもかき消すほどの大きな大きな歓声が球場を埋め尽くす。腕、顔と、むき出しになった白い肌にいちいち突き刺さってバリバリと痺れを伴うほどの声量だ。最大収容人数4万7千余りの球場の中で、一体どれほどの数が一斉にこの歓声を響かせたものだろうか。

レフト側のバトルシップス応援団やファンはいったいこの空気にどれほどやりづらさを覚えたものだろう。いや、むしろこの歓声にはバトルシップス応援団からの声も混じっているのかもしれない。

恥ずかしいからやめてくれ――そんなことを思いながら海は打席に向かった。

 

5点差だぞ、分かってるのか――

 

手元にマイクがあるならばそうして観客たちに訴えたかった。自分ひとりの――しかも、ここまでボロボロになった自分が、今から自分のバットで5点差をひっくり返せたならば、とっくに自分は綺麗に引き際を見つけて辞められるタイミングを見定めていただろう。それが出来ないから、こうして夏の終わりにノコノコと情けない形で一軍昇格を果たしたというのに――。

 

審判に手のひらを突き出し、少し待ってくれとバッターボックス内を足払いしながら海はバットを構える準備を始める。相手捕手も投手も、しばらく海が動きを止めるまでの様子をじっと見ていた。声をかけるべきか迷っていた相手捕手は、自分の世界に入ってしまった海から放たれる『話しかけるな』というオーラに圧倒され、とうとう声を一切かけることができなかった。

 

 ――燃え尽きぬその瞳が

    栄光をつかむまで

     佳井海 佳井海

      夢乗せて飛ばせ――♪

 

打席に入る前どころか、ウグイス嬢のコールが終わりきる前。やや前倒し気味に応援歌の演奏は始まっていた。

 

代打のときだけ使われている応援歌だが、せっかく作ってもらえたのであれば、もっとたくさん使ってもらえるように試合に出続けたかったものだ。

これが最後の試合というわけではないかもしれないし、本当に今日この打席をもって最後になるかもしれないというあいまいな状況だということを考えると、海は複雑な気分になった。

次がないかもしれないのだ。応援団のことを考えると、カウントを追い込まれるまではバットを振らずにおこうかとも思ったし、しばらくの間球をカットをしてやろうかとも考えたが、きっとそんなことをファンは望んでいないだろう。

海はうつむきながら、しばらくバッターボックスにどっしりと体重をかけていたバットを眺めていたが――覚悟を決めたようにしてバットを振り上げ、普段どおり構えた。

 

バッテリーが始めに何を投げるかはこの間に既に決めていたようで、インコース高めにその第一球が向かってくる。

このコースに投げれば佳井海という打者は抑えられるものだ、ともう皆思ってしまっているのだろう。二軍戦ですらそのまま浮き上がれば顔面に向かってくるような内角高めの球を度々投げられてしまっているのだから、きっとこれから先も、自分のバットから快音が響くまではどこと戦ってもきっとこのコースと勝負しないといけないだろう。

どうせ、内角を突いてくるのだろう――ある程度コースをイメージしていた海はその速球を思い切り引っ張って打ったが、異様な空気を放つこの球場にさすがに少し力みすぎたのか、バットの先がイメージよりも早く出てしまった。

 

オオオッ――!!と、大きく上がった打球に観客は一度は大きく湧くが、一塁ベースを超えたあたりでファールゾーンへとぐんぐん巻きながらその白球は逃げるようにしていくと、その歓声は徐々に感嘆へと変わっていった。

そしてすぐさま、わざとそのコースに投げているのか――と球場には大きなブーイングと怒号が飛び交った。

 

これでは一方的に自分たちが悪者ではないか――とやりづらそうな表情を浮かべる内野手。多少こうなることを予測していながらも、表情ひとつ変えずに海のたたずまいをバトルシップス側のベンチからじっと見守っている小室。そしてそんなバトルシップス側ベンチ上の内野席から飛び交う、投手への罵詈雑言――。

今の海には全くそれらの表情は見えていなかったし、その声ももはや届いていなかった。ただただ、自分の今のスイングに対して、少し欲が出てしまったな――と自分の世界だけがそこにあって、いかに平常心で次のスイングをするかということのみに集中しようとしていた。

 

頬を伝う汗。たった一つの打席仕事をすればいいだけのことなのに、いやに高鳴る鼓動。

今まで、打席に立っているときに自分の脈など滅多に気にしたことなどなかったはずが、もうじき終わりを迎えるという区切りが自分の中にあるからなのか――妙な高揚感が自分の中に湧き上がり始めていた。

いつもなら見えていたであろう守備のシフトの穴も、今の海に見えている世界からは隔絶されていて、ただただ自分のスイングを取り戻すことだけがゴールになっていた。

 

首を横に振り、やっと二球目を投げた投手。投げるまでのたった十数秒が、海にはとてつもなく長い時間に思えた。バッテリーがじれったいのではない。それほどに、今の海が自分自身を取り戻せていないのだ。平常心を装っている海だったが、間の読み合いにこれ以上時間を割かれてしまっては、自分の武者震いで失神してしまいそうだった。

 

プレートは自分から見てかなり左に立っていて、よほど内角に角度のあるまっすぐを投げたいか、外いっぱいを投げようとした際に内角狙いの球と角度を偽装するためか――そんな風に海には見えた。

しゅるしゅる――と内ではなく外に向かって角度をつけた白球が向かってくる。外の低めに少し甘く入ったボールは、おそらく引っ掛けてゴロを打たせたいという思惑があるのだろう――

 

『あれで何点だ』

『65点』

『ガハハ。相変わらず厳しいねェ。陶芸家か彫刻家のそれだ』

『コースが読めてたんだから、あれを力まずにあのくらい飛ばせるようじゃないといけない。意識しすぎてスイングが変に力んだのもよくなかった。よくて65点だけど、なんなら、30点でもいいくらいだ』

『おお、職人様だね』

『もう少しコースが厳しかったらスタンドまで届いてなかったかもしれないだろ』

『打球なんていつもそんなもんだ。お前さん、何度も言うが難しく考えすぎなんだよ。あの辺だぞ、打球が飛んだのは』

 

海の脳裏によぎったのは、まだ清兵衛が居た頃、同じ甲子園、そしてバトルシップス相手に外角のボールをホームランにしたときの光景だった。

あの日あの時、自分がどんな球を打ったかだとか、どういった状況で打ったかなど、通算1万5千にもうじき届こうとしていた打席数の中でそんな瞬間的なことまではいちいち覚えてはいなかったが、外に逃げる球を流れに逆らわずに打ち返して、バトルシップス応援団が構えるネイビーブルーのうねりへと向かってその鋭い白球を差し込んだ――そんな光景と、その後清兵衛に放った言葉が、いやに鮮明に蘇ってきた。

きっと、これから自分が迎える節目や最後というものはこうしていちいち、瞬間的に記憶を呼び覚ますのだろう。

 

センター返し――?

 

バカ言え――

 

「うおおっ――」

 

自分でも無意識に声を唸らせ、しっかりとボールを見極めながら打ち上げるようにしてバットを大きく――それでも、ボールの勢いに逆らわず、むしろその勢いを生かすように、かつてのしなやかなフォームで海はバットを思い切り振った。

 

振った感じは、間違いなく自分の本来のスイングだった。そこにボールを弾き返すことへの恐怖感はなく、しっかりとボールを捉えた手の痺れがそこにあった。

 

感覚だけは、確かにこれまで経験してきたハッキリと球を捉えたという手ごたえだった。

 

ワアッ――と大きな歓声こそ上がったが、見上げた打球の行方を見て海は首を振りながら一塁へ走り出した。……伸びない。レフトが前進してこそくるが、サードが手を上げながら自分が捕る――とアピールしている。

うまいところに落ちてくれればとも思ったが、風で少し押し戻された白球はしっかりとサードのグラブに収まり、アウトを告げられた。

 

海は首を振りながらベンチへゆっくりと戻っていく。おびただしいほどの拍手が球場一体を包み、海は不満足ながらもヘルメットを脱いで手を振り、応えた。

 

「……なんか、完全に思い出したようなスイングじゃありませんでしたか、今の?」

真悟が興奮したような表情で海を出迎える。

海はそんな真悟にあまり関心を向けないまま、額から溢れた汗を拭いながらゆっくりとベンチに座り込んだ。

「65点だよ」

「65点?」

真悟は海の返事に思わず驚いた。どれほどスイングが海らしくても、その当たりをヒットに出来なかったのだ。スイングだけがどれほどよくてもどうしようもない、などと普段どおりの小言を言うものだと思っていたものだから、呆気にとられた。

 

「……随分、評価高くないですか。てっきり、もっとスパルタなもんだと思ってたんですけど」

「……お前、自分で俺を褒めたばっかりだろ。俺もね……なんとなく、思い出したよ。自分のスイングみたいなのを。試合が始まる前、俺はセンター返しで"軽く"弾き返してヒットにできればいいかな……くらいにしか思っていなかった。……違うよな。皆が俺に求めてる"軽く"ってのを……俺は忘れてしまっていたんだなって思う」

「……」

真悟には海の打撃理論はなかなか理解できず、ただ海の言葉を黙って「そうなんですね」と言わんばかりに黙って肯定し、頷くことしかできなかった

 

「……そりゃあ、ヒットになってたほうがよかったよ。でも……打てなかったにしてもね、自分がもともと出来てたスイングを最後に取り戻せたのは、よかったと思う。あとは……次があるなら、せめて一本だけでもヒットが打てればな。俺の最後の仕事として」

 

海はそう言いながら、冷蔵庫から取り出したスポーツドリンクを口にした。真悟はそんな海の表情や言葉を見聞きしながら、本当にこのまま引退なんかするのは勿体無いだろう――そんなことを考えた。

 

試合が残すところあとアウトカウント二つだということなど観客にとってはどうでもよくなっているのか、応援の声はボリュームが下がらないまま、その熱気を保ち続けていた。

 

試合後、海はオルガに捕まり、あらかじめ予約を取っていた近くのステーキハウスに連れられていた。

 

《やばいじゃん、何アレさっきの?ちゃんと懲りずに毎試合取材班入れててよかったよ。おかげでいいもの撮れちゃったよねー》

注文を待っている間、オルガは試合の様子を携帯でもう一度眺めていた。うんうんと頷きながら、満足そうにしている。

 

《打席の様子なんかもさ、私がよく知ってるヨッシだわ。ほんと、この半年追ってた人間がまるで別人みたいなくらい。ってか、この半年返してよ。なんだったの?この半年。ってくらいな感じ。やっぱヨッシはこうでなくちゃだわ》

《よせよ。本人を前にあんまり変に褒められても気持ちが悪い》

海は興奮した様子のオルガとは対照的に、また普段どおり冷めた様子で水を飲んでいた。

 

《行こうと思えば近くにフィンランド料理屋だってあるのに》

《フィンランドの料理をわざわざ日本で食べる理由なんてないでしょ。大体、ああいうのって日本にあわせた味になってるんだから。向こうに帰れば日本料理っていうのが日本料理の模倣にすぎないように、私は日本で日本の料理を食べたいんだわ》

オルガは先に運ばれてきた赤ワインを雑に味わいながら、グラスを置いた。ワインなんかよりビールを飲んでたほうがいいのではないかと海は思ったが、好きにさせておいた。

 

《でもお前、ステーキばっかりじゃないか。"粉もん"とか食べたりしないのかよ。いつまでも日本にいるわけじゃないんだろ。たこ焼き食べ放題の店とかそういうの探したりしないのか》

《だってコナモン……?って言うの?全部似たような味じゃん。結局全部ソース塗るし》

《お前、そんなこと街で言ったら、国には生きては帰れないぞ》

《いやーだってさー、ヤキソバなんてのもタコヤキなんてのも大体結局あの味じゃん。別にソース自体が嫌いな味じゃないからいいんだけどさ。で、街歩いてたらなんか知らない食べ物があったと思って買ってみたのね。そしたら結局お好み焼きをなんか巻いた奴みたいなのだしさー》

《じゃああれだ。うなぎの頭だけ切って焼いてるやつはどうだ。あれはこの辺でしか食べられないものだぞ》

《やだよそんな野蛮な食い物。スターゲイジーパイじゃないんだからさ》

《……じゃあ京都にでも行けばいいじゃないか。お前のイメージする日本食が食べたいなら》

《キョートは知らない顔を見たら刀で着られる街だって聞いてるから。大体あそこ、今外国人が立ち寄ったら生きて帰れないんでしょ?》

《どこ情報だよ。そんなものお前……仮にもメディアを取り扱う人間がそんな情報に振り回されてさ》

海はオルガの言葉を鼻で笑いながら、馬鹿馬鹿しそうな表情を浮かべてコップの水を飲み干した。

 

《でも、知らない国でしばらく生活して、そこからさらに旅するのって思ってる以上に物怖じするものだと思うよー、私は。結構私もさ、どこにでもズケズケ行くタイプではあるけどさー、だとしてもトラブルはやっぱ避けたいわけよ》

それはお前の性格上無理な話ではないだろうか……と海は思ったが、黙っておいた。指摘して素直に受け入れる性格なら、自分に対しての取材だってもう少し遠慮してくれるだろうから、無駄に思えた。

 

《いくら日本がグローバル化しましたっつっても、そこらじゅうにちゃんとした英語が転がってるわけじゃないし。英語で話しかけてちゃんと英語で返してくれる人だって、結局そんなにいないでしょ。おまけに私がたどたどしい日本語で話しても、私の日本語力なんてたかがしてれるからなかなか通じないし。ヨッシはそーゆーの抵抗なく生活できてたの?割と何でもできちゃってたわけ?》

オルガは相変わらず雑にワインを飲みながら、海にもグラスを渡して勝手にワインを注ぎ始めた。海はしぶしぶワインを手にしてうっすら乾杯しながら、オルガの問いに答えた。

 

《俺はそんなことを考えていられる状況じゃなかったからね。祖国に戻りたくてももう戻れないし、日本で一人で生活できるように馴染まないと、いつまでも家から出られないからね。親父が、どうしようもない奴だったから。だから、抵抗があるだとかなんだとかあんまり考えないようにしたよ。家にいるよりは、親父の顔見るよりはマシだったし。おふくろが家を出て行ってからは、なおさらだ》

《へーえ》

お前が聞いてきたたことだろうが――と海は興味がなさそうな顔をしはじめたオルガを睨んだ。

 

《で?あんま詮索したってどーしようもない話だけどさ。実際、どーなの。明日以降、また試合じゃ使ってくれそうなの?》

《そんなの、俺じゃなくてあのカバ顔の監督に聞けよ》

《違うんだよなー、私が聞きたいのは監督に事実を聞きたいとかじゃなくて、ヨッシ的に、次はありそうなのかどうか聞いてんの》

運ばれてきた肉を早速頬張りながら、オルガはフォークを海に突きつけるように――マイク代わりにしながら海を見つめた。

 

《正直言うと、あると思ってる》

《へえ。根拠は》

海は行儀が悪いぞとフォークをどけるように手振りをしながら、オルガから突きつけられたフォークから顔を逸らして少し間を置いた。

ヒットも打てなかったのに自信を口にするのは少し気恥ずかしかったので、海は頭を少しだけかいた。

《……俺の中で、打てないなりに何か感覚が戻ったんだよ。自分のすべきスイングみたいなのを。でも――》

《……?でも?》

自信とは裏腹に言葉を濁した海をオルガは見逃さなかった。

 

《それで大きい当たりを求めるなら、真悟がいる。今相手にして嫌な打者は俺よりも真悟だ。俺は、自分では感覚が戻ったと思ってるだけで、今日みたいなカス当たりに対して、俺は自分の本来のスイングを取り戻したと満足してしまってる。でも、勝負の世界はそれだけじゃ使ってもらえない。もう一回使ってもらえる可能性があるとしても、それは、今日みたいな、リップサービスで使ってもらえるような場面じゃないと厳しいだろうね。本当に感覚を取り戻したつもりなら、あの場面ではやっぱり、レフトの頭上を越えるくらいの打球じゃないといけない。監督にも、がっかりされてしまったと思うよ》

 

あの瞬間自分では満足していた自分のスイングを客観視した海は、あれで満足だと思ってしまった自分は、もう限界なのだ――という気持ちにつつまれ、眉間に深いしわを寄せた。

常に自分はもっとやれると思ってきたからこそ、自分は現役を続けてきたのだ。あと何試合出番があるかどうかも分からないのに、何を自分は満足した気になってるんだ――。

冷静になればなるほど、明日からも自分はもう一度上を目指さなければと思った。

最後の日は、今日ではないのだから――。

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