海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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211・去る者にしか見えない世界

「ああ――」

自分のスイングだけは確かにそこにあるのに、あと0.5歩――ちょっとした手元の狂いが直せない。

かつて何度も言っていたように、一日に打席が4つあれば、今ならば綺麗に捌ける球がひとつくらいは生まれるはずなのに――そう思いながら、海は昨日と同じように、打ち返した外角の球を今まさに打ち取られようとしていた。

 

昨日のような外に逃げるタイプの球とは違い、今日のボールは、ストライクゾーン外から外角いっぱいに食い込んでくる、キレのいいスライダーだった。

自分のイメージではしっかりとその見え透いた球を捉えているのだけれど、ほんのわずかなイメージと自分とのズレとが、その弾道をライナー性ではなく、内野を埋め尽くす甲子園の黒っぽい土一直線に向かうゴロ性の当たりにしてしまった。

一塁にその足が届くまでもなく、ショートが一塁に向かって安定感のある送球をする。アウトだ。

 

自分のアウトで試合が終了し、海はベンチへと引き上げた。観客からはそれでも大きな声が上がり、海は内心渋々手を振って応えた。

負けた試合で観客から励ましの声が起きるようではいけないのだが、バトルシップスはとっくの昔に優勝を決めてしまっているし、今、観客が球場に足を運んでいる理由の多くを占めるのが自分の最後の勇姿を見届けるためだという自覚もあるから、海は悔しさをこらえながらベンチに入るまではなるべく硬めの笑顔でいた。

 

なんとなく、自分が相変わらず変に気を遣われたり、鬱陶しいと思われているのは分かっている。ただ、海としては『今の自分ですら試合に出なければいけないような状況を作っているのはお前ら一人一人の責任だろう』というつもりでいた。

少し遅れてベンチに引き上げて着替えながら、ヒソヒソとどこか陰口を叩いている中堅たちを無視するようにして海はじっと黙っていた。

 

「凡打なんかで拍手なんかもらっちゃって、高給取りの引き際は最後まで高給取りでいいよなぁー」

「やめろよ、聞こえたらどうするんだよ」

「いっけね、ハハハ」

 

そんな聞き捨てならない言葉を誰かをわざと誰かが背中から漏らした。

血走ったような目で真悟はその声の主を探そうとしたのだが、すぐさま海が真悟の腕をつかみ首を振った。真悟は舌打ちをしながら海の腕を振りほどき、首をひねりながら再び着替えに戻ろうとするが――よほど腹が立ったのか、自身のロッカーの壁を一度

 

ダンッッ!!

 

と、思い切り殴りつけ――次に同じようなことをしたらこの威力で殴ってやる、と言わんばかりにロッカーを浅くへこませ、蛇でも身体に飼っているような呼吸音をあげてみせた。

関わってはいけない――そう思った中堅たちや携帯でダラダラとゲームをしていたベテランたちは忌避するようにして次々と退室していき、室内は一気に静けさが漂い始めた。

 

6対3。九回二死、ランナーなしでこの日打席に向かわされた海。

豪快な大声を持つかつての先発投手もまた、この日はリリーフで登板して2失点を許してしまったこともあってか、バツが悪そうな表情を浮かべながら他の投手を数名連れて出て行ってしまった。

一瞬海と目が遭うと、何か気の利いた言葉でもかけようと思ったのだろうけれど、特に言葉が思い浮かばずに回りの投手に押されるかたちで部屋から出て行ってしまった。海もまた、何か声をかけるべきなのか迷い、そしてとうとう声をかけられないままその背中を見送ることしかできなかった。

 

恐らく、この後は後輩たちと豪快に酒でも飲みながら反省会をするのだろう。自分がこれまで清兵衛に連れられたように。

ひょっとしたら、この投手もまた、今の空気感に自分と同じようなものを感じていたのかもしれない。ならば、一度くらい自分も誘ってくれてもいいじゃないか――とは思ったりもしたのだが、投手と野手のちょっとした隔たりだとか、自分が海とは違って移籍組で、普段引き連れている投手たちもまた移籍組たちだから、そうしたことで気を遣って話しかけられずにいるのだろう。

海が彼らに積極的に声をかけるほどの会話の材料がないように、向こうもまた、こちらに話しかけるきっかけがないと、案外こういうものなのだろうか――海は改めて、自分の置かれている複雑な環境に口角をひん曲げた。

 

そんな海を横目に、丸毛をはじめとした中堅たちの集団が、同じくパっとしないままの中堅や若手たちを引き連れて、ぞろぞろと部屋から出て行く。

「じゃーお疲れっす、ベテランの皆さん」

 

やけにベテランというところを強調して出て行った丸毛。ロッカールームに残っているのは、自分以外にも何人かベテランが居たが、いずれも自分から積極的に口を開くタイプの人間ではないから、嫌そうな顔をしながら――自分に対して言われたわけではなく、海に対して言った言葉なのだろう。自分には関係ない――そんな様子で、皆海に対して一瞬顔を向け――哀れむような表情を浮かべながら、海を避けるようにして次々と部屋から出て行った。きっと、自分がベテランであるということを認めたくないという部分もあるのだろう。

 

「お前も行けばよかったのに。アレでも、お前のプラスになるもんがあるかもしれないよ」

「ありませんよ」

最終的に、部屋に残ったのは真悟と海の二人だけになった。真悟は多分、自分を待っていてくれたのだろう。暇そうに携帯をいじりながら、眉間にしわを寄せている。

「だとしても、投手の移籍組にはついていってもよかったんじゃないのか。お前、一応リードとかの都合で投手とはかかわりがあるんだから。お前だって、移籍組だろ」

「投手は投手で、野手の文句を言いたいんですよ。だからあの取り巻きには野手がいないんです。前いたチームがそうでしたから」

「ああ、そう」

海はふと、真悟がもともとどこのチームから移籍してきたのかを思い出そうとして――思い出せなかった。

思い出せなかったのはきっと、真悟への興味が薄いから、というよりは、真悟が放った『前のチームがそうだった』という言葉が生んだ失望のせいだろう。

 

「今日もスレで言われたい放題です。俺についてのレスがまあ多い多い」

「スレ?」

「知らないなら、知らなくていいと思います」

「じゃあ別にいいよ」

「まとめ動画とか見たりします?」

「知らないなら知らないでいいって言ったのは、お前だろ」

海は真悟のどこか構ってほしさを鼻で笑いながら、その答えを保留した。もしこんなやり取りを投手としていたのならば、前のチームで投手から誘われなくてもそれほど不自然ではないだろう――なんてことを思うと、真悟の青さは確かに、真悟が言うように新の青さと似ている部分はあるような気がした。

 

「で、知ってるんですか。知らないんですか。俺はそこを聞いてるんですけど」

「なんとなく分からないでもないけど」

「あの動画ってのがいわゆるスレの……」

「もうちょっと俺に分かるように言ってくれよ。レスだのスレだの」

「ネット掲示板ですよ。何です?そんなことも知らないんですか?」

「最初からそう言えばいいじゃないか。自分が知ってるものが常に他人と共有できてると思うなよ、お前。……大体、なんで見るんだよ。ジェネルのときもそうだったけどさ」

ふと、ジェネルがかつて新が激しい誹謗中傷に晒されていたのを目撃したときのことを思い出した。自分からはあまり見ることのない世界だったから、あのときの脳や背筋、そして胸のあたりの骨を不ぞろいな毛で撫で回すような、ザラつく不快な清涼感だけはよく覚えている。

球場ですら自分たちは罵詈雑言の中にいるというのに、なぜ自分から、もっと容赦のない言葉であふれているその不快感の爆心地に自分から足を突っ込みに行こうとするのか、海には不思議でならなかった。

 

「こいつら絶対見返してやるって気になるじゃないですか。こいつら絶対いつか殺してやるってつもりで俺は見てますね」

「でもお前、怒ってばっかりで、全然見返せてないじゃないか。こないだも替え歌がどうとか言ってただろ。なんで自分から見に行くんだよ。裁判起こしたいとかならまだしもさ」

 

 ヒョロヒョロうんち~~んターズ、うんち 

 

 【きょうの遺影】 大平、今日も盛大に逝く

 

「やめろよ、そんな動画流すなよ。新のことだってまだ全部解決してないっていうのに、俺に警察と弁護士と裁判官の世話をこれ以上増やすな」

海は真悟の携帯から流れ出した、妙に軽快な音楽と共にあふれ出す罵詈雑言に満ちた機械音声を強引にミュートさせた。

 

「んなもん見てるからお前、打てるもんも打てないんだよ。お前にとって何かプラスになるのかよ、この動画は」

「気になるじゃないですか、自分の評価くらい」

「世の中の人間がたやすく他人を褒めてくれるなんて思うなよ。皆、自分が自分の人生に納得できないから、他人に自分の人生の分まで責任背負わせたいんだ。それで、芸能人だとか、俺たちみたいな奴に運命なんか託しちゃったり、勝手に幻想を抱いたり依存したりして、ギャーギャーと口うるさくありもしないこととか無責任なこと言ってくるんだよ。それだけの数の心の貧しい人間が俺たちに勝手に人生を重ねてるんだよ、正直言って。そういう、自分の人生がうまくいかない分の責任転嫁を誰かに無理矢理押し付けようとしてる人間が、俺たちみたいな仕事してる人間を褒めると思うか?ないだろそんなもん。4割打って、年間MVP獲ってなお骨の髄まで罵られる世界だぞ。こんな世界の一般人ごときに幻想なんか抱くだけ、無駄に心を疲弊させるだけだ。あれだけ長い間キャンペーンやっても、何も変わらないんだからな、こいつら。県警や府警とコラボした誹謗中傷撲滅ポスターすら笑いのネタにされるような世の中だぞ」

海はそう言いながら、壁に背中を預け、足を組んだ。不機嫌そうにしながら腕を組み――真悟が殴りつけたロッカーを一度見て、自分だって殴って気がすむなら殴りたいものだ――と思いながら、真悟を睨んだ。

 

「……こんなつまらない説教できるのだって、あってあと2、3週間あるかどうかなんだぞ。お前、分かってるのか?」

 

大きいため息をついて、なかなか納得しようとしない真悟を放っておくようなそぶりで

「飯行くからな、俺。お前が行きたくないなら別だけど」

そう言って部屋から出て行った。

 

真悟は慌しくベンチから立ち上がり、海の後をついていった。

「……黙ってついてきたら奢ってくれるもんだと思ってるだろ、お前」

「奢ってくれる流れじゃないんですか、これ」

「……お前もいずれ誰かに奢るんだぞ」

「それはそのうちですよ。このチームじゃないかもしれませんけど」

本当にこいつは誰かに奢る日が来るんだろうか――と海は思ったが、きっと同じくらいの歳のころの自分は同じようなことを清兵衛に思われていたのではないかと海は思った。

 

それからしばらく、海の出番は遠ざかっていた。シーズン終盤ということもあって休養日が多くとられるようになり、一旦名古屋への遠征をした後、再び甲子園に戻り、そのまま2カード続けてホームでの試合となった。

 

夏場のように6連戦、なんてことが続くことも特になく、三日続けて試合があったら二日続けて休み――という変則的な日程だ。そんな日程がシーズン終盤に帳尻あわせのように行われるのであれば、なぜ故障者や体調不良者を続出させる夏場に同じような余裕のあるスケジュールが組まれないのだろうかと海は心底思った。

興業という側面からそうもいかないのだろうけれど、選手の体調だけでなく観客の体調だってもう少し考えられてもいいのではないだろうか――そんな思いが海にはあった。大体、この国のサッカーは2月から12月くらいまで長々とリーグ戦が行われるのだから――。

運動量の面だとか、観客席のこと、まして北海道での試合の都合などを考えると簡単なことではないのは分かるが、海はもうじき自分はこの業界から居なくなるというのに、そんなことを考えてやまなかった。

 

ビジターでの試合でも自分の姿が試合前の練習に出てくるとワァッと声が沸いたり大量にシャッターが切られるのだから、こうして甲子園での試合に戻ってくると、より一層自分へ向けられる注目だとか視線が一試合ごとにヒートアップしているように感じた。

スカイクロウズとの試合の前に組まれていたレッドフィッシュ戦なんかも、試合に出ていないのに試合終盤になるとどこかしらから自分のコールが始まったりして、海は相変わらずやりづらさを覚えた。

 

どうせもうAクラス入りは厳しいのだから、スタメンで使ってやればいいのに――そんなことをファンやスポーツ誌はこぞって書いたりしたが、頼むからそういうことは思っていたとしても口にしないでほしいと海は思った。

結局、ベンチの中の空気だとか、自分の置かれている立場を考えていないし、このチームの内情をそこまで詳しく知らないから外からそんなことを言えるのであって、ファンから出番を待望されていながらなかなか出番がない選手というのは、そうした温度差の激しさに肩身の狭い思いをするものだ。

 

出番が欲しくてたまらない中堅や若手だっているのだから、自分だけが――それも、自分ではスイングを取り戻したつもりでいるのに結果で示せない自分だけが試合に出してもらえるなんてことはあってはならない。

気持ちの中ではスタメンで使ってさえもらえばというところはないわけでもないが、自分の意思だけ汲み取ってもらうわけにもいかない。

 

昨日なんかは3点差で勝利していたとはいえ、だからといって自分を途中から使う――なんてことはまずないし、自分だって、勝ったと確信している試合で情けやリップサービスで出してもらうなんてことをしてもらっても嬉しくはない。

 

少し雨のパラつきはじめた甲子園の空で、海はそうした複雑な思いを胸に寄せながら、真悟とキャッチボールをしていた。真悟もまた、最近はキャッチボールをする相手がいなくて困っているらしい。

自分が居なくなる来年以降こいつはどうするつもりなんだろう――と海は思ったが、それに関してはジェネルだって同じことだ。

 

毎日、そうして真悟やジェネルの来年以降のことばかり考えてしまう。これまで球界を去っていく選手もこうだったのだろうか――。

自分たちのチームはともかく、よく、最後感極まって去っていく選手たちなんかは、よほどそのチームで上手くいっていたということなのだろう。自分ひとりのことだけで感極まれることが海には理解できなかった。

ひょっとしたら、本当に自分ひとりの足跡のことだけ振り返って感極まれるおめでたい人間だっているのかもしれないけれど、自分は多分、そうはならない。振り返って感極まれるほど誇れる過去なんかもないから、きっと自分には分からない世界だろう。

 

「またコントロールちょっと乱れましたよ、佳井さん」

真悟の声で海は我に返った。真悟の頭より少し高い位置にそのボールはあった。真悟の背が高いからなんとかなっただけであって、普通の人間ならひょっとしたら捕れてなかったかもしれない。

「悪いね」

海は真悟から返されたボールをしっかりと受け取った。

 

「雨、止むんですかね」

「止まないとちょっと困るかな。変に滑ったら嫌だ」

「滑るほどの雨でもないでしょう」

「でも、今年はなんだか強い雨が多いだろ」

「まあ、そうですけど」

海は足腰をひねりながら、真悟から再びボールが返ってくるのを待った。

 

「珍しいですね、腰とか足を気にするなんて」

「辞めるってもう思ってるからなのかな。今まで、現役を続けるんだっていう暗示っていうかな……心理的な麻酔が多分効いてたんだよ。もうすぐ本当に最後だし、それを頭が理解したらね、今まで感じなかった足腰の痛みがね、突然ブワっと来てるんだよ、最近。こういうのが、ハイになってるってことなのかな、きっと。ひょっとしたら、ストレス的なもので痛んでるだけかもしれないけど」

海はそうして腰を大きく左右にひねりながら、腰をさすった。

 

「なんだかんだ俺も40代半ば……いや、40代後半に差し掛かったからね。世の中の40代後半なんてテレビつけてたら皆、身体の具合が悪いだとか、そんなしょうもない話ばっかりだ。俺にはそんなことはないって思ってたけど、もうすぐ普通の人間に戻るせいかな……。きっとこうして俺もすぐに、そんな一般人になっちゃうんだと思うよ」

「何バカなこと言ってるんですか。まだシーズンは7試合残ってるんですよ。カレンダーで見てもまだ2週間くらいシーズン残ってるってのに、何自分から一抜けしようとしてるんですか」

「二抜けだろ。先にジェネルが休んでる」

「じゃあなおさらです。今、佳井さんが休んだら、あからさまですもん。二人そろって戦列を離れてナニしてるんだかってなりますよ」

「バカ言え」

海は意図的に強いボールを真悟目掛けて投げた。真悟はあわててそのボールを取りながら、グローブをはめた左手を痛そうにした。

 

「だって、そう言われてもやっぱ皆気にするじゃないですか。佳井さんは戦列離れちゃ駄目ですからね」

海は真悟の言葉を鼻で笑いながら――

「人間、いつ誰がどこで怪我するかなんて、分からないだろ。お前だって、それを目の当たりにしたはずだ」

「一年に二度も折られちゃ困りますよ」

真悟は気まずそうな笑みを浮かべながら、海のボールを受け取った。

 

「降ったり止んだり、忙しい雨ですね」

「ほんとにね」

なかなか定まらない天気が真悟は気になるようで、その長い黒髪をかきむしった。

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