海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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212・執念は白線を駆けて

「でも、アレですよね。明日の試合が終わったら今年の甲子園はもうないわけじゃないですか。シーズンの終わりはホームで迎えたかったですよね」

小雨が降っては止み、降っては止み――を繰り返している暗い空を見上げながら、真悟はぽつりと呟いた。

 

「そうか?不甲斐ないシーズンを終えてホームで終わりたいとは俺は思わないけどね」

「佳井さんが今年は身代わりになってくれるじゃないですか。最終戦が甲子園だったら、そのあと引退セレモニーとかになるでしょう。Aクラス入りできなかったのは事実ですし、俺たちだって叩かれて一年を終えたくはないですし」

「何バカなこと言ってるんだよ。身代わりになんて本人を目の前にして言うんじゃない」

海が真悟を小突いている横で、正捕手が大平となにやら打ち合わせのようなことをしているのが見えた。隣には、5年ほど前にワイルドベアーズから移籍してきた声の大きい投手が立っている。

 

直接的な接点が何度もあったわけではないが、先発として活躍していた頃は、登板日にチームに合流しているときは数少なく自分の円陣に大きな声を出した選手だった。とりわけ、前所属チームのワイルドベアーズにはどうしても勝ちたいと闘志を燃やし、BBLシリーズを落としたときはその悔しさをカメラの前で惜しげもなく出していた投手だ。

何度も頭を下げ、大平も頷きながら両選手の肩を何度か叩いている。

 

なんとなく、海にはその会話の内容が察知できた。

 

「どうかしたんですか?」

「ああ、いや……特に」

仮に海の考えていることが本当ならば――真悟にはかけなければならない言葉がある。ただ、確信だって得られるわけでもなければ、本人にずけずけと何を話していたのか聞きに行くことだってはばかられるものだから、海は黙っていた。

真悟は全く別の部分に着眼点を置いていたようで――

「あーほら、あいつ。試合前の走りこみだとかダッシュなんかは適当にやってるくせに、観客の前じゃああやって全力で走ってみせて。あんな奴が怪我したらいいんですよ」

「よせよ。そういう言い方は」

観客が入場し始めてからまじめにダッシュをしてみせたりしている丸毛らを真悟は睨みつけ、汚物を見るような目で蔑んだ。海はこういうときにも一般客らがカメラを向けていることだってあるのだから、と真悟をなだめて一度大げさに帽子で顔を隠した。

 

「観客だって薄々感づいているんでしょう。アイツがただの目立ちたがりだってこと。ほら、観客の反応だってまばらですよ。満足してるのはアイツだけです。やんなっちゃいますよね、ああいうのがなんか頑張ってるみたいな感じで見られてるの」

「じゃお前だってああいうことをなんかやればいいだろって何回言えばいいんだよ。実力で勝てないなら、せめてファンサービスで勝てよ。ファンサービスで勝てないなら、せめて実力だけでもアイツに勝てよ。正直言って、お前、せ――」

正捕手になるかもしれないんだぞ、来年から――という言葉を海は慌てて飲み込んだ。うっかりまだ発表されてなければ、海の中できっとそういうことなのだろうと思っているだけのことをポロっと出そうになり、海は不思議そうな表情浮かべてる真悟に果たしてどう誤魔化すべきかを考えた。

 

「せ……?せってなんですか?……あー、分かりましたよ。分かりました。はいはい、どうせそうですよ。どうせ、背でしかアイツに勝ててないですもんね」

真悟は勝手な勘違いをしてくれたようで海は少しだけ安心した。

 

4回には雨による30分の試合中断を挟んだ後、小康状態になった雨の中試合は続けられた。シーズン終盤ということもありここで試合を中止するわけにもいかず、予報ではこのあと雨が激しくなることはないということもあってのことだった。

 

やや劣勢だった試合展開は雨の影響もあってか、両軍試合再開からはヒットの数が目に見えて増え始めた。

とはいえ、雨で集中力が乱れたり、普段と違う守備感覚に襲われるのはチーターズとしても同じことで、スカイクロウズ相手に7回には3点のリードを許し、7、8回にはホームランでなんとか同点に追いつくものの、ランナーを得点圏に進めてからのもう1点が遠い――そんな展開を何度も繰り返していた。

 

そうした場面で幾度となくランナーを返してきた海としては、相変わらずの『ホームラン一本さえ出れば点差はひっくり返せる』というチームカラーに、こういった試合の競り弱さを感じていた。

 

自分が怪我もせずに、スタメンでこんな試合に立っていたならば、きっとこんな試合展開にはさせなかっただろうに――そんなことばかり思っても仕方ないのだが、やきもきせずにはいられなかった。

まどろっこしくてたまらない――海は改めてベンチで座っていることしかできない歯がゆさも相まって、感情が爆発しそうだった。

 

9回には一死満塁のピンチを迎え、万事休すかと思われたところを乗り切ったかと思えば散発に終わり――10回にも無死ランナー一・二塁というチャンスを迎えながら三人続けて凡退。うち二つは空振り三振だった。自分の調子が万全だったならば、確実にヒットでサヨナラを決めていただろうに――そう思い唇を噛んだりもした。

 

「こんなんじゃ、一生勝てないよ」

ぽつりと海は呟いた。

「ジェネルさんがいませんもんね」

「違うよ」

海は真悟の言葉をぴしゃりと遮った。まっすぐな視線をグラウンドにしっかりと向けて、睨むようにして、イニング間の誰もいなくなったバッターボックスを見つめていた。

 

「そのジェネルがあと何年バリバリ戦えるか分からないんだぞ。アイツだって永遠に若くいられるわけじゃないからね。そのとき、アイツと一緒にバリバリ動ける奴は誰が居る?お前か?お前と誰だ?あのちゃらんぽらんな中堅か?それでどうしても勝ちたいからってFA戦線で大金叩いたって、そんなの、一時的にちょっと穴を埋められるだけだよ。そんな一時的な補強は、長続きしない。おまけに、そんな一時的な補強のせいで中堅たちは生え抜きは評価してもらえないと思って、次々出て行くもんだから負の連鎖は終わらない。俺が若手だったときもそう――このチームは今まで、ずっと――ずっと、その繰り返しだった。俺は……俺は本当に、いい背中を見せられてきたのか、不安になる」

「今更またその話ですか。佳井さんも諦めが悪――」

「でも、今は俺のことなんかどうでもいい。お前はジェネルをこれから一人で戦わせるのかって話をしているんだよ。お前、アイツと一緒に足並みそろえてこれからも戦えるか?戦えると誓えるか?……なぁ。悔しくないのかよ、情けなくないのかよ、こんなチンタラした試合をダラダラと夜遅くまで続けて。子供だって見に来てるっていうのに。もう夜10時半だぞ」

海の言葉に真悟は言葉を詰まらせた。

確かにこの試合、大きなチャンスで四球を選んだものの、本当ならば一発大きいものを打つべきだった。その『打つべきだった』をずっと出来ないままここまでずるずると来ている。

来年、再来年とその悪い循環から自分が抜け出せる自信は――ない。だからといって、そんな自信はないとこの場で海に言ったら、きっと顔をズタズタにされるまで殴られるだろう。真悟はただただ、反論できない不甲斐なさにうつむくことしかできなかった。

 

「ジェネルには――双羽には、俺みたいになってほしくない。アイツがFA権を使ったときは好きにさせてほしいし、俺みたいにこんなフロントも球団もチームメイトも腐ってるような、おまけにファンが荒っぽいようなところで意地を張って欲しくない。……アイツには、俺みたいな最後を迎えて欲しくないんだよ。最後の日、プロ生活を振り返って、心の底からこれでよかったんだと思える日々であってほしい。そのためには、アイツ一人じゃ駄目なんだよ。どいつもこいつも、自分のことばっかりでさ。俺は今本当に……俺が15年遅く生まれてくればよかったのにと思ってるよ。華耶や子供たちには悪いけど、仕事仲間が……戦友たちが何も成し遂げられないまま朽ちていくのを、俺はこれ以上見たくない。きっとこういう職業をやってるとそんなことの繰り返しなんだろうけど……。……もちろん、優勝が全てじゃないとは思うよ。でも……せめて、せめてその最後を誇れる日々であってほしい。歩んできた日々の道のりが間違ってたと思えないようであってほしい」

「……佳井さんは……佳井さんは、自分が歩んできた道が間違ってたっていうんですか」

「……間違ってはなかったかもしれない。でも、正しくはなかったと思う」

 

海はそう言いながら、バットを準備しはじめた。11回裏、打順は8番からだ。延長戦で投手に打順が回ってくるということは、間違いなく代打が送られるだろう。

「この試合が俺にとって最後になるかどうか分からないけど、少なくともこの試合が俺の現役最後の甲子園になる。俺は――この試合だけは落としたくない。こんな試合が、俺の最後の一年の最後でたまるか」

 

コーチから正式に代打で使うことを告げられた海は、ネクストバッターサークルへと足を運んだ。たったそれだけで大きな声が挙がる。

観客の中には本当に今日で見納めの者だって少なくないだろうし、年内最後の甲子園ということもあって会場のボルテージは一気に高まった。

 

〈バッターは――佳井――バッターは――佳井――背番号――25――〉

 

 ――侍の魂 燃やせ――♪

  ――唯一の高みを目指し

     羽ばたけ佳井

      海の彼方へ――♪

 

代打専用の応援歌ではなく、長年歌われてきた応援歌が割れんばかりの地響きを伴って球場をビリビリと埋め尽くした。打席に入ってすぐ、海はその圧倒的な音圧にプレッシャーすら感じた。自分がなんとしてもこの試合を動かす――そう思っていたものの、この球場の空気の中で自分は自分でいられるだろうか――そんなことをふと考えた。

 

雨は再び強くなって、ヘルメットだけでなく肩や頬を雨が伝った。今更試合など止められないものだから、海は掲げたバットを大きく揺さぶり、早く投げるように急かすようにした。

相手投手はやりづらそうにしながら、内角高めを狙ったスライダーを投げてきた。球場からは激しいブーイングが鳴り響く。内角高めギリギリいっぱいといったところだろうか、ストライクが宣言された。少しだけストライクゾーンからは外れたようにも見えたが、海は黙った。

 

『正々堂々勝負せんかコラァ!!』

 

『オイ!!ここでぶつけたらどうなるか分かっとるんかァ!!!!ワレェ!!!!』

 

内野席からは怒号が飛んでくるが、海としては確かにこんな状況ではまともな勝負など出来ないだろうと思っていたから、観客席のしょうもない怒号が早く止んで欲しいと思った。

続けてゆるいカーブが放り込まれるが、これもまた内角を狙った低めのボールだ。海は球筋を見てすぐに打席から少し離れ、間違ってもこんな打席でボールをぶつけられないようにした。ボールが告げられる。

 

 勝負しろ――

 

続けざまにストレートが――再び内角高めだ。コースいっぱいを狙ったにしては少し離れたボールに、海は身体を仰け反らせた。これもボールだ。

 

 勝負しろ――

 

もう一球、続けてストレートが――同じようなところへ投げられる。多分、あわよくばこの挑発に乗って振ってくれたらというつもりでいるのだろう。無理して打つほどのコースでもないから、海はもう一度打席から離れた。

 

観客席からは大きなブーイングと怒号が応援歌と同じような音量で飛び交う。この状況で己を貫ける投手もまた随分な度胸なのだろうけれど、今の海にはそんなことを考えている余裕はなかった。

 

「俺と!!戦え――!!!!」

 

海の声はきっと、誰にも聞こえていなかっただろう。鳴り止まない佳井コール、もはや絶叫にも近い応援歌の歌声、音が割れているようにすら聞こえるラッパ、球場を揺るがすほどの太鼓の音、そして相手投手へのブーイングと罵詈雑言。

 

それらが聞こえていたとしてもきっと意に介さなかっただろう相手投手は、再び同じようなところへストレートを放り込み、審判がフォアボールを告げる。それよりいくらか早く海は落胆し、失望しながら、怒りに満ちた表情で相手投手を睨み、ゆっくりと一塁へ歩きながら係員にバットを手渡した。

投手もまた、少し不満そうにしながらマウンドを均した。キャッチャーからのサインだったのか、相手の監督の意思だったのか――本当は自分だってこんなボールを投げたくはなかった――そんなピリついた視線がしばらく海と投手との間に生まれ、なんとも言えない緊張感が球場を包んだ。

 

チャンスがあればとにかく積極的に飛び出し、せめてまっすぐ走るだけなら今でもまだなんとかなる足だけでも――そう思って海は居たのだが、続く打者はレフト前のヒット。さらに続く打者はスリーバント失敗――。今日、何度見たか分からない得点圏での精彩を欠く凡退だ。

どうやっても一点が欲しい場面なのはよく分かるが、スクイズならまだしも、雨が内野の土をぬかるみにさせているというわけでもないのにどうしてこんな状況で一死ランナー一・二塁でバントなのか――。

海は思わずベンチで構える大平を見つめた。相変わらずボケたような表情でどっしりと座っている大平のことは、よく知らない。一軍への合流が遅れてしまったからよく知る暇だってなかったし、きっとこれからも深く知ることもないだろう。

 

正捕手が続けて打席に入った。並々ならぬ気迫を持って打席に立っている。海の考えが正しければきっと、今日このあと引退を表明するに違いない。ここまできて負けや引き分けで引退表明など出来ないだろう。なんとしてもこの打席、自分の力でサヨナラ打を打ちたいという気持ちが二塁でリードを取っている海にまでビリビリと伝わってくる感じがした。

 

海は投手が全く警戒していないのを見て、少しリードを大きくとった。内野を抜け次第ホームに突っ込む覚悟でいたのだ。内野はやや後ろに下がって確実にゴロアウトを取ろうとし、外野はまた、そうした抜けたヒットでランナーを返さないために少し前進していた。

もともとパワーヒッターだから、長打を打たれてしまったら仕方ない――采配ミスでこれがサヨナラの一打になっても仕方がない、そんな覚悟が見て取れた。チーターズベンチにはない、そうした監督と選手たちとの信頼や覚悟の差がそこにはあったが、もはや海にはそんなことはどうでもよかった。

 

初球、正捕手はゆるいカーブを見送った。ストライクだ。さっきはそのコースがストライクだったようにも思えるし、審判のストライクゾーンがやや気まぐれなように海には思えた。そうした審判は少なくないが、打者もまた首をかしげたようなそぶりを見せ、もう一度打席に立ちなおした。

 

しばらく間を置いて、二球目――ストレートだ。やや外角低め――打ちごろと言えば打ちごろだ。海は思い切ってスタートを切り、三塁目掛けて一目散に走り始めた。

打者もまた、力でねじ伏せるようなスイングでボールを叩いたが――ややバットの下だったのか、球場からは歓声とは程遠いため息のような落胆の声が大きく鳴り響いた。

 

ただ、海はそのプレーの結末を諦めていなかった。

 

「うおおおおおっ――!!」

 

プロの世界では滅多にないとは言え、かつて自分が高校球児だったころ、あとアウトひとつという場面で送球が反れたことがサヨナラにつながったプレーだってある。脚をこれでもかと踏ん張り、目前に迫った三塁ベース目掛け、雨を含んだ重たい土を蹴飛ばしながらさらに加速した――その時だった。

 

「――うっ……!!」

 

左脚に走る、これまで感じたことのないズキンとした激痛。今ここでバランスを崩して変に転んではまた自分は骨を折ってしまうだろう――海はそう思いながら、やや水っぽいままの内野の土を右足だけでなんとか三度大きく蹴り出し、三塁へヘッドスライディングをするような形で倒れこんだ。

全てがスローモーションで流れていく。

しっかりと滑り込ませた腕は三塁ベースを撫で、そして覆うようにして海の身体は三塁へと進んでいたが、そこから立ち上がることはできなかった。

 

一塁がどうなったかを確認することは、痛みでできなかった。ただ、一塁がセーフにさえなっていてくれれば――そう思いながら、痛みで言うことを聞かない、動かせないままでいる左足が恐らく骨折によるものでもなければ、アキレス腱が切れたというわけでもなさそうなことに海は少しだけ安心していた。

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