海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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213・ビターエンド

泥にまみれたユニフォームのまま病院に搬送された海は、その痛みが肉離れによるものだという診断を受けた。ざっと見積もって、全治1ヶ月あまり――といったところらしい。

是が非でもホームまで突っ込んで得点をもぎ取りたかった海は、皮肉にも自分の勇猛果敢さで怪我をすることになってしまった。

 

「これじゃ、ジェネルを笑えないな。どうして無茶したんだって、アイツの顔見て言えないよ」

試合を見に来ていた華耶や晴留たちが、ベッドで治療を受けている海を心配そうに見つめている。入院が必要なほどの負傷というわけではないが、一旦治療をしてから帰るようにと言われていたものだから、華耶と晴留を付き添わせていた。

真結と広乃の二人は、子供たちの面倒を見るために先に一旦江坂の自宅へと戻っていたものの、その重たい空気と視線が今は少しばかり海にとっては騒がしかった。

 

「試合、どうなった?」

「……」

華耶は一瞬はっとした表情を浮かべた後、気まずそうに微笑んだ。

「ああ、分かった。それ以上言わなくていいよ。明るい返事が返ってこないってことは、そういうことなんだろ」

海は嘲るような笑みを浮かべ、ヘッと歪んだ笑い声を挙げた。

 

「人の散り際なんて、そんなものだよな。そんなもの、これまでたくさん見てきたはずなのに、自分だけはそうあって欲しくないと思ってしまう。でも、胡散臭いほど華々しくて、最後までこの世界の主役は俺ですみたいな顔しながら、最初から用意されたようなドラマの中で去っていける奴がいるからこそ、自分だってそうあって欲しいって思っちゃうんだ。自分の人生にケリをつけるなら、誰だって綺麗に去りたいからね」

「……」

「ああいうやつに限って努力は裏切らないとか言っちゃうんだもんな。恵まれた環境に、暴れるわけでもないファン。世の中、裏切る努力ばかりだし、一人が努力したくらいでどうにかならないものばかりなのに、まるで自分ひとりが世界の中心みたいだ。俺だって、最後くらいはそんな風にイキり散らしたかったよ。そうでもして強がって、俺のこれまでの道のりは無駄じゃないと、俺自身がそう思いたかったのにな。俺一人がみっともなく怪我して終わりだなんて無様な引き際、まるで俺らしいよ――」

「海さん!」

バタバタと足音を立てて、治療室へジェネルが飛び込んできた。

 

「……なんで呼んだんだよ」

海が華耶と晴留とを交互に見つめる。

 

別に、ジェネルを呼んだのが華耶だろうと晴留だろうと、どちらでもよかった。自分のこうした情けない姿は、華耶にはともかく、他人には見せたくないものだ。本来、子供たちにだって見せたくない。病に倒れたならまだしも、自分のミスで怪我した様子など――絶対に見せたくなかった。手首の骨が折れたときですらジェネルを呼ばなかったくらいなのだから、なおさらだ。

 

おまけに、オルガと行動を共にしている取材班が、治療室からいくらか距離を置いたところでこちらにカメラを向け続けている。気分は最悪だ。

すぐにでも立ち上がって、こんなものを撮るんじゃないと言ってやりたい気分だったが、折れてもいないのに足が痛みで思うように動かないというのは、より一層気分を鬱屈させ、海の言葉をいちいち毒のあるものへと変えた。

 

「ちょうど、お前の話をしてたんだよ。俺はお前のこと、もうバカにできないねって。お前、随分無茶して、しょうもないことで怪我したらしいじゃないか」

「……」

 

ジェネルはただでさえ秋物の厚着をしているとはいえ、普段よりもボディラインを隠すようなジャケットに身を包んでいた。肋骨はもうすぐ完治してもいい頃だが、どうやらジェネル自身、怪我した場所をまだ少し気にしているようで、少し手であばらのあたりをさすってみせた。

大丈夫、もう折れてはいないし治ったはずなんだ――そんな自分に言い聞かせるような表情でジェネルは一度首を下に下げた後、海へと再び強い眼差しを向けた。

責めるわけでも咎めるわけでもなければ、ただ、まっすぐに、心配しているはずなのだが、表情の圧が強くて、海は鬱陶しい気分になった。

 

「俺が居ない間、無茶したくなるのは分かるよ。あんなチームのことだ。きっと、俺が居ない間他に守ってくれるやつが居なくて大変だっただろうからね」

「……」

「でも、お前の人生はこれからなんだから、あんなチームの中で、自分を犠牲にするような無茶までしちゃいけない――お前に会ったら口うるさくそう言おうと思ってた。実際、ついさっきまで俺だってそう思ってた。でも……本当はずっと前から、俺とお前は同じだったのかもしれないね。ひょっとしたら、俺が思ってる以上に、お前からしてみたら、俺にはお前がこんな風に見えていたのかもしれない。お前だけじゃない。華耶や晴留からしても、きっと……俺がこう見えてたのかもしれない」

晴留は一瞬背中を向けた。華耶がポケットからハンカチを取り出すのが見えた。涙はどうしても見せたくなかったのだろうけれど、そこまで気を遣われるのも、今の海には辛いものがあった。

せめて泣いてでもいいから、罵られるか、歯が解けるほどの勢いで甘やかしてほしいかどちらかにしてほしかった。

 

「……そうだよ。あの場面、俺はどうしても自分の力で、勝利を勝ち取りたかった。これが最後の試合になるからかもしれないっていう気持ちもあったし、どうあがいても俺に次の甲子園はやってこないっていう気持ちがね、余計にそうさせたんだよ。普段から、捨てていい試合なんてひとつもないと思ってたけど……自分の力で勝利をもぎ取って、自分のプレーで……誰か一人でもいい。真悟でもいい。きっとテレビで試合を見ているお前でもいい。あるいは、まだここに居ない、未来のチーターズの新人でもいい。誰でもいいから、プレーで気持ちを呼び起こしたかった。俺のやってきたことは、無駄じゃない、ってね。……それがこのザマだよ。……きっとお前も、似たような思いをこめて打球に飛びついちゃったんじゃないのか?」

ジェネルは黙ってうつむいた。変に言葉を出すと、感情が溢れ出して壊れてしまいそうだったから、ジェネルは言葉を出さなかった。

 

ただ海が無事ならそれでよかったのに――海の顔を見て安心したかっただけなのに――。

 

海から突きつけられた言葉だけでなく、きっと海がこの試合を最後に一軍には二度と戻ってこられないことをふと感じ取った――いや、感じ取ったというよりは、分かってはいたのに理解せずにいようとしていたことを理解してしまった、と言うべきだろうか――。ジェネルは、そんな海の言葉に、ギリギリのところで食いとどめていた涙の壁を決壊させそうになってしまった。

 

「田中が最初に引退を決意した日もきっと、こんな気持ちで、このブツブツした柄の防音天井を見てたんだろうね」

海は天井の柄を指差し、笑った。

 

「全治が一ヶ月後じゃ、ファン感謝祭だって、ギリギリだろうね。きっと球団は、俺をファン感に呼んでそこでセレモニーをしようと思ってただろうから。治ったのが一ヶ月後だとして、俺がこの後ちゃんと普通に歩けるようになってる補償だってないのにさ。さすがに、そんなことはないだろうけどさ。あいつら、俺のことなんかより心配してるのは興行だからな」

海は乾いた笑い声を上げながら、呟いた。

 

「折れてなかっただけでも、幸せだよ。一年に二度も骨折なんてしちゃいられないからね。なんなら、アキレス腱とかじゃなくてよかった。別に、もう俺はバットを握ることもないだろうからいいんだけどさ。でも、足なんかは、一生使うもんだろ。足に後遺症が残りそうな怪我なんかしたら……俺は神様とやらを死ぬまで恨み続けてたと思うよ。そこまで俺が憎たらしいか、ってさ」

海はそう呟きながら、ジェネルと華耶とを交互に見つめた。

 

「このまま帰れっても言えない空気だろ。この後もうすぐしたら帰れるしさ。夜も遅いし、お前、うちに泊まってけよ。泊まって、朝まで泣き散らしたらいい。うちには防音室だってあるからね。飲み明かしたかったら、華耶も晴留も付き合ってやれると思う。俺も、今日はこのまま素直に寝ろって言われても、多分、寝られないと思う。ちょっとくらい、嫌な気持ちを吹き飛ばすような酒を飲みたい気分だからね。今は、すぐにでも一人になりたいのに、一人になるとすぐ寂しいと思ってしまうくらいには、今の俺は不安定だ。ワガママな奴だよな。お前のことを気を遣ってるような言い方で、結局、自分が寂しいから家に泊まって欲しいなんて言い出すなんてさ」

華耶もジェネルも晴留も、笑みを浮かべたがそれ以上は何も言わなかった。何か不用意な言葉を言ったら、場のバランスが崩れそうだった。海だってこうして自分を保つことで精一杯だから、三人はそれからしばらく沈黙して、突然時が止まったかのように次の言葉を誰も発しなかった。

通訳以外はここまで海が何を言っていたのかはあまり分からなかったが、なんとなく場の空気が穏やかなはずなのにピリついていて、それをさらに上塗りするように重たい悲壮感が漂っていることを感じ取っていた取材班たちもまた、黙り込んでしまった。

 

「……」

階段を上がれないため、急遽1階の客間で寝ていた海は、寝返りを打った際に脚の痛みで早朝を迎えた。

携帯を開くと、4時をもうまもなく回るかどうかといったところだ。特に用もない一日を迎えようとしているのに、朝食には少し早過ぎる。

すぐ近くから聞こえる寝息のリズムや、ふとした香りが普段と違うことに海は気がついた。香りが違うなんてことは、自室以外のところで寝ているのだから当たり前なのだが、寝息のリズムが自分の知っているものとは少し違うことに海は違和感を覚えた。

 

晴留だろうか――。

 

海はふと、自分の背中のあたりで寝息を立てている姿を見ようと、痛む左脚をあまり力まないようにして寝返りを打った。

 

「……なんでお前が隣に寝てるんだよ、バカかよ」

 

めったに見ない、髪をアップにして束ねているジェネルの姿がそこにあった。

結局、家に戻ったのが午前1時過ぎ。そこから軽く飲み始めたものの、自分から飲みたいと思っていたはずなのに、いざ全員で通夜でもしているかのように酒を飲んでいるのが申し訳なくなった海は、華耶たちに気を遣って先に客間で寝ることにしていた。

あっという間に寝つけてしまっていた海は、自分の隣にジェネルが入り込んできたことも、そもそも部屋に自分以外の誰かが入ってきたことも気づかぬまま熟睡してしまっていた。

 

自分の負の気持ちをぶつけるために飲んだ酒は、決してうまいものではなかった。とにかく、寝てしまって、朝起きたら何事もなかったかのように今年の春季キャンプの頃まで時間が戻ってくれないだろうか――そんなことを考えたりしていたが、そうそう甘い話があるわけがなかった。

 

自分が脚を引きずりながら客間に入った後、華耶たちがどれほど飲んでいたのかは分からないし、そもそも何故ジェネルが隣で寝るに至ったのかも海には分からないが、寝返りを打って目の前にジェネルの寝顔がすぐ隣にあるというのは、あまり今の海にとっていい状況ではなかった。

海は痛む左脚をもう一度こらえながら逆に寝返りを打ち、もう一度眠ることにした。

 

引退会見のときに海が口にした、もしジェネルが本当に15年早く生まれてきたならばという話をふと海は自分で思い出し――ひょっとしたら、こんな寝顔を見ていた日々があったのかもしれない、と思うと、とても今、こんな間近でジェネルの存在を感じたくはなかった。

振り返れば苦労しかなかった人生だとはいえ、それでも、華耶の居る日々だけ切り取れば今は十分幸せなはずなのに、本当に自分は華耶を幸せにできたのだろうかだとか、一人これから置いていかれるジェネルのことを考えると、本当に自分の野球人生はこれでよかったのだろうかだとか――自分のありとあらゆる人生の一コマ一コマを否定してしまいそうだった。

 

女としてのジェネルが隣に横たわっている。今、ジェネルを揺り起こして自分が一時の感情をジェネルにぶつけたとしても、ジェネルは否定はしないだろう。華耶だって今の今までずっと口酸っぱく『抱いてしまえ』と言っていた――だとしてもだ。自分の一方的なセンチメンタルを身体で表現するのは、やはりフェアではないのだ。意識してしまった以上、鼻をくすぐる、嗅ぎ慣れない香水や石鹸の香りが悩ましい。

 

海は強引に瞼を瞑って、朝が来るのを待った。こんなときの夜は、随分長い気がした。普段は朝が来るのが早く、徐々に薄れていく暗闇が怖かった日々が続いていた。これからの日々はそんな陽の光に怯えなくていいのだ。だというのに、そう思えばそう思うほど、朝が遠く感じられ、自分のこれまでの日々が闇に混じって自分の心の奥を握りつぶすような感覚に陥った。

 

うっすらとした耳鳴り。やけに神経をつつく、時折吹く風と雨の音。目を開けば、単なる暗闇というわけではなく、多少周りが判断できる程度の薄暗さ。

 

「……ああ、もう」

 

海はもう一度寝返りを打ち、外の薄暗さなんてどうでもよくなるような方を向いてもう一度瞼を閉じた。

 

〈――では早速呼んでみましょう。いけずやで井出さーん?〉

〈コラァーっ!!朝からなんちゅう格好させとんねんコラァー!!!!〉

〈はい今朝もよー声が出てます井出さん〉

 

相変わらず朝からハイテンションな情報番組がテレビには映されていた。華耶は今日は珍しく取材があるということで、酒も抜け切っていないままタクシーで待ち合わせ場所へと移動していた。キッチンでは華耶のエプロンを借りたジェネルが冷蔵庫にあったソーセージと卵を炒めている。

炊飯器には華耶があらかじめセットしておいたジャンバラヤが炊けていて、ジェネルは炒め物と一緒に自分の分と海の分とをよそって運んできた。

 

「この番組さ」

「はい?」

ジェネルがふとテレビの向こうを見つめた。

 

「ああ、面白いですよねー」

「面白いかどうかはさておいてもさ。たまに思うんだよ。サッカー元日本代表なんかもレギュラーで居るだろ、この番組。俺もいつかああいう枠なんかになったら嫌だなって思って。よくサッカー選手は呼ばれてるらしいだろ?現役や引退後関係なく、野球選手なんかもそろそろ呼ばれるんじゃないかなって思うんだよ」

「大丈夫ですよー。朝の顔って感じじゃないですよー、海さんは。もっとこう……それこそ、私みたいな」

「バカ言え」

海はジェネルに一瞥くれてやりながらも、確かに実力やテレビ受けのことを考えると今のジェネルがいてもおかしくはないことに気づいたが――ふとそんなジェネルを見とれるような目線になりそうだった海はテレビに再び視線をやった。

 

「でもあのサッカー選手だって、朝見るには濃い顔だろ。世間はあんなに面白い奴だとは思ってなかったみたいだし。5年後あのビリビリ椅子に座らされてるのは俺かもしれないって考えると、なんだかな。別に、オファー受けなきゃいいだけの話なんだけどさ」

「実際、引退した後どうするつもりなんですか?テレビとかの楽曲使用料だって、結構バカにならないっては聞きましたけど」

「おかげさまでね。テレビ局がまあまあ使ってくれるし、カラオケなんかでもね。なんか、モノマネ芸人が俺の歌い方真似てるのが流行ってるみたいでさ。俺がもう自分の曲をほとんど歌わないもんだから」

「モノマネ番組なんかには……そりゃ、出ないですよね」

「出ないよ。歌いたきゃ歌えばいいし、マネしたきゃ、勝手に真似してくれって感じ。芸人たちも勝手に真似してるし、俺のもとに曲を使わせてくれって直接連絡きたわけでもないしさ。それで使用料がどんどん入ってくるから別にそれでいいし。きっと、もう俺は自分がボーカルで何か歌を作るってことはないと思うし。マルコもニコももういないからね」

海がコーチにも監督にもなる気がないことをジェネルは知っているからこそ、その話題を出そうとはしなかった。

 

〈それでは井出さんビリビリ椅子でーす〉

〈オアアアアアアアッ!!!!加減しろ、加減をーっ!!!!〉

 

「この番組も、早いうち終わるもんだと思ってたんだけどね。なんだかんだで、俺が引退するまで持ちやがった。朝からうまい飯食って、ビリビリ椅子やるくらいのことしかしてないのにさ」

「海さんみたいに朝から"しょーもないニュース"を見たくない人が一定数いるからですよ。ニュース、今日なんかは特に見たくないですよね?」

「……まあね」

ワイドショーが自分の怪我の話をどこかしらでしないわけがないことを知っているから、海はチャンネルをそれでも変えようとしなかった。まして、客観的に自分が怪我をした瞬間なんて、見たら卒倒してしまいそうだった。

 

「……でも、ある意味俺は幸せなのかもしれないよ」

「それ昨日も言ってたじゃないですか」

「それだけじゃないよ。俺が今怪我したら、都合のいいやつがいるだろ」

「……?」

ジェネルは不思議そうに首をかしげ、しばらくしてから海が考えていたことを察し、表情をはっとさせた。

 

「……もしかして……」

「……ああ。俺の最後の日は、ファン感謝祭には間に合わないかもしれない。ってことは、そこに居なきゃいけない奴をしばらくの間待てる口実が生まれたってことだろ」

海はそう言いながら、ジャンバラヤを一口頬張った。

 

「熱いうちにソーセージの炒め物も食べて欲しいんですけど」

「急かすなよ」

ジェネルは今か今かという表情で海を見ているものだから、海はそれを鬱陶しがった。

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