腰まで届いていた髪を肩の辺りまで梳き、髪をさらに明るめのグレージュカラーへと染め上げた薫は、年が明けた頃に大阪に戻っていた。
かつての部屋も引き払い、今はジェネルの住まいに居候させてもらう形で街からその存在を消していた薫。球団としても社会的義務として今の薫を野放しにするわけにもいかず、その役職を一旦広報の事務方に移すかたちでチーターズに復帰していたが、その事は薫もジェネルも海には黙っていたし、厳戒令を敷く形で球団は薫の身分を守っていた。
一方、海の肉離れは後遺症もなくすんなりと治っており、正月には久々にジェネルを連れてオーストラリアに家族旅行に行ったのだが、その際にも薫は家で留守番をし、決して海の前にその姿を見せようとはしなかった。
海もまた、薫のその後は気になりつつも、ジェネルには普段も、旅行中もあえて薫のことについては話題に触れようとしなかった。ジェネルもまた薫のことは話さなかったから、しばらく海の中で薫という存在は少しだけ薄れていた。
常に薫が安全に過ごせているかどうかを案じ、時折広報を通じて球団から連絡があったときには毎回『薫のことはちゃんと大丈夫なんだろうな』と話し、その身元の確認を行っていた。
過ぎた日々の中で、秋季キャンプはもちろん、ファン感謝祭にも海の姿はなかった。これからはそんな日々がずっと続く。30年近くに渡ってチーターズの顔としてそこにあった背番号25はもう帰ってこない。
ジェネルも、真悟も――球場に詰め寄るファンも、世間も、それを必死で理解しようとしていた。それでも、常によぎるのは三塁ベースの手前で右脚だけでステップを踏み、力尽きるようにして三塁へと必死に滑り込む海の姿だった。
情けない野球をしてはいけない――ファンはこれまで以上に、応援に熱をこめ、その熱は時に暴走した。相変わらず、ネット上なんかでは言葉のきついファンがそのたびに摘発され、街の居酒屋ではファン同士の意見のぶつかり合いから事件に発展したなんてことも度々起きた。
ひとつの時代があっけなく終わった中で、早く日本一の称号を、と求めるファンの熱は再び、度々過度な熱を帯びて大阪中を駆け巡った。
肩身の狭いバイソンズファンはそうして、チーターズの本拠地は兵庫なのだからもう少し遠慮してほしい――などとバラエティ番組で取り上げられたりもしたが、それでも『大阪というとチーターズ』という固定概念は相変わらず崩せずにいた。
海の怪我は皮肉にもチームの中やフロントに対して向けられるようになり、徐々に薫という存在も去年の春ほどではないが忘れられていき、いつしか話題は春季キャンプの話へと移りはじめつつあった。
海の怪我自体は年内に回復しきったのだが、予定していたテレビ出演などはおおむねキャンセルとなり、なんとなくテレビなどのメディアに露出するタイミングも逃していた。
一応、けじめくらいはつけたほうがいいのではないかとも思っていた海だったが、高校時代以来ぶりに落ち着いた年末年始や冬を過ごせたことが大きかったのか、そもそも自分は引退したら父親としての日々をやり直したかったのだから、別にもういいじゃないか――そう海は思うようになり、怪我以来公の場に出ることはほとんどないまま季節だけが過ぎていった。
春季キャンプの視察にくらい来たらどうか――球団広報からはそうした話もあったが、自分が来たところでチームはどうにもならないのだからと、海はそれも断った。27年所属して何も変わろうとしなかったチームが、自分がコーチになったところで何も変わるわけがないのだから。
ただひとつ決まっていたのは、4月1日――今年の本拠地開幕戦の試合前に引退セレモニーが改めて行われることになった、ということだった。
ちょうど本拠地開幕戦が土日にかぶってデイゲームで行われるということもあり、セレモニーは随分派手に、盛大に行われる予定なのだとかいうことも広報から伝えられた。
たった一人の"何も成し遂げられなかった男"が球界を去っただけのことだというのに、よくもまあ……と海は思ったが、球団としては『そのくらいしないと次の選手が入ってこない』という思惑もあるのだと広報は言っていた。
最後の最後まで自分が道化として立ち回らなければいけないことに海は時々ため息をつき、このまま自分の最後の日なんてものが社会からうっかり忘れられて、セレモニーが中止になればいいのに――なんてことも思うようになった。
引退してからは野球に真摯に向き合わなくていい――そう思った海は、しばらく家の中でギターをかき鳴らしたり、突然思い立ってアートなんかをしたくなり、なんとなく琉美の絵の具セットを借り、絵の具を塗りたくった筆を紙に向かってぐちゃぐちゃと暴れさせてみたりした。
別に、アートでこれから飯を食おうとしてるわけではない。なんとなく、自分を表現するような、それでいて、自分がろくに体験したことがないものが今は欲しかったのだ。
「……さっむ」
特に何も考えずに、青を基調にした色使いでべったりした塗り方でまさに塗り散らした一枚を目の前にし、海は薄ら笑みを浮かべた。
こんなものに適当に題材をつけて、佳井海が描きました、と言うだけできっとこれはアートなのだ。
「……うん。やめよう」
海はそんなことへのくだらなさに、画用紙を取り外した。こんなものがアートならば、世の中はアートであふれているのだ。誰が描いたかのほうが重要ならば、そこに芸術という価値などないのだ――。
《えー、捨てるの?》
引退したからといって、引退セレモニーを行ったわけではない以上その密着取材を終了するわけにはいかないオルガら取材班はまだ大阪に残っていた。オルガはそんな海の様子を延々撮り続けながら黙っていたが、海がすっぱりその絵を捨てようとしたのでオルガは慌ててそれを止めた。
《こんなんが芸術って言われたら、芸術に失礼だよ》
《えー、でもさあ――》
《こじつけようとすれば、何でもこじつけるんだろ、俺が描いたってだけで。この青の線の波打ち方だとか、かすれ方がどうだとかが、全部意味があるんだろ、こじつける奴らからしてみれば。下らないね。俺は、なんとなく暇だから絵の具を撒き散らしてただけなのに、それをいちいち心理的なものがどうとか、あとで俺以外の人間から勝手に付加価値を付けられるのは、正直言って不愉快だ》
《じゃあ、ちょうだいよ。ヨッシが要らないなら、せめて、母親にプレゼントしたい》
《こんなゴミ同然のもの渡したって、どうにもならないだろ》
《こじつける人からしてみたら、なんだって宝物にもなるんだよ。ウルスラ、きっと喜ぶだろうからさ。だから、サインくらいはしてやってよ。左下のあたりにさ。大丈夫、転売なんかしないから》
オルガに言われ、海は渋々筆でサインを入れた。
《紙なんかよりデータにしたほうがよくないか》
《データにもあとでするけどさ。額縁に飾ってやるんだ》
《馬鹿馬鹿しい。お前の家はゴミを飾ってるのか?って言われるぞ》
《そのゴミを描いたのがヨッシってだけでも喜ぶんだよ》
《じゃあ、二度と絵なんて描かないよ、俺は》
海は鼻で笑いながら室内へと戻った。
《日本に長いこと居すぎたね。お前は平気そうだけど、俺はこのくらいの寒さでも長時間外で絵なんて描いてたら寒いって思うようになってしまった。これが年末年始とかならまだ分かるけどさ。もう2月にもなるってところをだぞ。現役を続けてたら、キャンプに向けて体をいくらか作ってないといけない時期だってのにさ。このくらいのことで寒いなんて思ってたら、俺はたぶん、ここから1年しないうちにただの一般人に成り下がってしまうな》
《別にいいじゃん。"郷に従って郷に倣え"でしょ。あれ?なんか違うな?》
《……"郷に入っては郷に従え"な。なんなら意味もそんなに合ってないし》
海はそう言いながら、リビングへと映り、冷蔵庫からシマを取り出してオルガと自分の分とを持ってきた。
《ザリガニなんかもさ、昔ほど食べなくなったよ》
《まー、日本じゃ通販でもしなきゃあんまり手に入らないしねー》
《ああ。大体、エビなんかがもっと食べやすくてその辺に売ってるからね。ソーセージだって、最初の頃は日本のは随分小さいなって思ってたけど、弁当なんかじゃこの辺で売ってるもののほうが入れやすいし、料理の応用だって利きやすい。相変わらず納豆は食えないけど、別に隣で食べててもそんなに匂いが嫌だと思わなくなった。ひょっとしたら、食べようと思えばもう食べられるのかもしれない》
納豆を……!?という表情でオルガは目をカッと見開きながら海を見つめたが、海はなんとも思わぬ表情でそのまま話し続けた。
《シマだって、なんとなく、あの頃飲んでた味に浸りたいから作ってはいるけどさ。その辺にもっと手軽でおいしい炭酸飲料だってあちこちにある。自分がもとはフィンランド人だったっていうことを忘れたくないから、なんとなく最後の砦として俺がとっておいてあるだけなのかもしれない》
《大丈夫だよ。ヨッシが忘れそうになっても、こっちがずっとフィンランドに戻ってからも贈り物し続けるから》
《それはどうも》
海はオルガの言葉に鼻で笑いながら、ソファに座った。
しばらくして、お手製の買い物袋を下げた華耶がリビングに戻ってきた。
「随分買い物に時間かかってたんじゃないの?」
「うん。ちょっとね」
ゆっくりと買い物袋を置き、冷蔵庫に手早く中身を詰め込んでいく。海は手伝おうとするが、華耶に「いいから」と言われてソファへと戻った。
オルガは一人の戦士が一人の男として戻った姿をしっかりと撮影しながら、二人がソファに向かってくると同時にオルガもまたソファに腰掛けた。
《何をお前、当たり前なようにくつろぎながら撮ってるんだよ》
《そー言われてもこれが私の仕事だからさー》
《せめてもう少し遠慮しろよ》
海がオルガに睨みを利かせていると、華耶は嬉しそうな表情をしながら海に擦り寄り、膝のあたりを軽くぺちぺちと叩いてみせた。
「海くん。今日、カメラが回ってるって聞いたからこそ、あたし、ちょっと時間かけたんだよ」
「どういうこと?夕飯、何か手の込んだもの作るってこと?」
華耶はフッと笑みを浮かべた。分かってないなあ、と首を振りながら意地悪そうな笑みを浮かべ、海を見つめた。
「昔さ、海くんの引退がどうなってたらいいな、みたいな話したの、覚えてる?」
「あー……」
『引退試合なんか、家族みんなで胴上げするの。普通の人なら、大きくなった子が一人か二人いるかどうかかもしれないやつをさ、うちは……家族で9人くらい一気にダーッ!ってなだれ込んで引退試合を祝ってあげるくらいのことができたら、素敵だなって』
「……なんか、家族みんなで胴上げしてやるみたいな話してたよね、確か」
海はふと、華耶が直人を妊娠したときのことを思い出し、苦笑してみせた。
あれから本当に合わせて8人もの子供に恵まれるとは思っていなかったから、海はお互い、随分と長い夜を幾度も越えてきたたものだなと思ったし、華耶がどれほど自分を受け止め、そして、どれほどの痛みに耐えてきたかを思うと、ただ、苦笑以上のことができなかった。
自分の下手な言葉で労ったりすると、かえって失礼な気さえした。
「ごめんね。あたし、その胴上げには加われない可能性があるんだ」
「……どういうことだよ」
海は華耶を真剣な眼差しで見つめた。何か悪いものでも見つかったのか――そんなことを考えていたが、華耶は噴出すようにして笑ったものだから、海はそんな華耶をむっとした表情で睨んだ。
「病気のことを心配してるのをなんだよ。お互い、変な病気なんかもらっててもおかしくない歳なんだぞ。何かあるなら、もったいぶらないで言ったらいいものをさ」
「いや。家族みんなで胴上げのところは覚えてるのにさ、相変わらず、鈍感だなーって」
「鈍感って言われてもね」
華耶の軽口に対して不満を漏らす海をよそに、華耶は笑みを浮かべながら、すっ、とエプロンから何かを取り出した。手帳ケースだ。
海ははっとした表情で目を丸くさせ――華耶を見つめた。オルガもまた何かを察したようで、その二人の様子をしっかりカメラに収めていた。
「……あの頃はさ、こんな歳まで海くんが現役続けてるなんて、思わなかった。本当に、こんなにたくさんの子供たちができて、まさか上の子が大学卒業して就職までしてるなんて思わなかった。そんで――まさか、あっさり神様が、もう一回父親になりたいっていう海くんの願いを叶えてくれるなんて思わなかった」
もう一度父親をやり直したい――海はそう何度も口にしていた。華耶もまた、海のその思いを受け止めていた。もう一度海と、共に夫婦として足並みをそろえた生活をしたいと思っていた。
それでも、二人とも見た目は若いままでも、出会ってから長い年月を経ている事実には抗えないし、今はまだ40代半ばでも、次に生まれてくる子供が成人を迎える頃には自分たちは一般的には定年退職を迎えるくらいの歳となっている。
最後に柊理を産んでから既に10年以上経っていることだってあるし、華耶の負担を考えるならば、1、2年で駄目ならば諦めよう――そんな話をしながらオーストラリア旅行を過ごしたばかりだった。
「……え……じゃあ何、あの時の奴?それとも、その前?いや、その後か?」
「多分、海くんが一番真っ先に連想したほうの"あの時の奴"だよ。……相変わらず、海くんは細胞まで頑張り屋さんだね」
「……医者は何って言ってた?」
「まあ、体力も十分くらいあるし、問題ないでしょうってさ。東京に引っ越すこと伝えたら、向こうの病院の紹介状まで準備してくれた」
「そうか」
医者が大丈夫というなら、大丈夫だろう――海は安心した様子で華耶をじっと見つめた。少し不安な表情のままだ。
あれほどつい少し前まで、ジェネルと15年の差を埋められれば――などと悔やんでいたというのに、いざ野球から離れた自分は、そんなことよりも華耶のことを考えたらもっと引退は早くするべきだったのだろうか――などと無責任なことを考えたりもした。
いつも、耐えるのは華耶のほうだ。自分が父親をやりなおしたいという思いはあっても、その思いに応え、痛み悩めるのはいつも華耶だ。その申し訳なさが海から次の言葉を奪い、表情をこわばらせた。
「……まあ、頑張るよ。海くんのためだけじゃなくて、これはあたしのためでもあるし。これまで8人産んできてるんだからさ、9人目だって、乗り越えてみせるよ。だから、海くんは心配なんかしなくていいの」
「……しかし、9人目なんてね……俺たち、よそから見たらどんな風に見えてるんだろうな。こんなに次から次へと。……もはやギャグマンガだろ、そんなの」
海の言葉に華耶はけらけらと笑ってみせた。
「変わらないねー、海くん。あたしが9人で胴上げしようってあたしが言ったときもさ、おんなじこと言ってたんだよ」
「そんなことないだろ」
「いーや。しっかり言ってたね。もはやギャグマンガだろ、そんなの。……って」
華耶のあまり似ていない物真似に海は不快感を示しながらも、オルガが笑いをこらえてカメラを回し続けていることに海はコップに半分くらい残っていたシマを飲み干し、感情を誤魔化そうとした。