「……」
もう何分になるだろうか、海はずっと風呂の天井ばかり見つめて、そのまま呆然と見上げ続けていた。
風呂場中に漂った湯気が、海の思考回路のモヤモヤとダブるようで、海は湯気にすら鬱陶しさを感じた。
バシャバシャと浴槽の水を顔にかけ、思考をリセットさせようとする。
天井ばかり見ると湯気が気になるものだから、そのまましばらくうつむいていると、浴槽で波打ちながらもはっきりとシルエットが捉えられる自らのシンボルが視界に入り、海は首を振った。
天井も浴槽も見ると落ち着かず、そのまましばらく、うつろな感じでずっと正面を見ていた。
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〈海くん、誕生日おめでとうー!今日もしっかりヒット打ててよかったね!えらいぞー〉
「……試合には負けちゃったけどね」
〈いいのいいの。今、まだ広島?〉
「まぁ、うん。今の三連戦が終わったら大阪に戻る」
〈じゃあ、戻ってきたらお祝いしないとね――あ、ごめん海くん。ちょっとなんか急に具合悪くなってきたから、いったん切るね〉
「何だよ。突然自分で電話かけてきて、突然具合悪いって。大丈夫なの?」
〈ちょっとおやつのパンケーキ食べ過ぎちゃったかな……?それじゃあ、家で待ってるからね!〉
「……なんだよ。慌しい奴」
6月22日は毎年こうして試合のあとに華耶が祝ってくれた。
今年も決して無事ではないのだが、なんとかこうして6月22日を迎えることができた――ということに海は幸せを感じていたが、相変わらず試合でヒットを打っても、海はなんとなく物足りなさや、一種の罪悪感を感じ続けていた。
華耶は何かとすぐに褒めてくれるが、この生活があと何年続くのだろう。このままずるずると20代をこんな生活を続け――そのまま大して打者として成果を挙げられないままでいいのだろうか。
いいや、そんなものは華耶は望んでいないはずだ。それでもきっと華耶は自分に対して、よくやったと褒め続けるだろう。果たしてそれは華耶にとっても、自分にとっても幸せなのだろうか……?
そんなことを海は自問自答し続けては答えを出せないまま時間ばかりを浪費し続けていた。
『佳井の打撃は勝利につながらない』
前野は海のヒットをそう言い続けた。実際、自分の出塁から得点につながったパターンが果たしてどのくらいあっただろうか。海はそう思い返すと、確かに自分がヒットを打ったくらいで試合の流れが変わっていないことについ納得してしまっていた。
木製バットのクセや、それをどう扱えば自分は高校時代のようなヒットを量産できるかはあと少しのところにきているように海には感じられていた。
だからといって、そう思っているのは自分だけであって、自分が確実に3割を残し続けるような打者になる日はいつになるだろうか――。
狙ってしっかり球に当てられもしない人間が、長打を狙って三振ばかり築いていては本末転倒だ。海のその姿勢は変わらない。レギュラーさえつかめればきっと今にでも勝利につながらないというその一方的な評を覆せる自信は正直、海にはあった。
一日のうちに一打席しか与えてもらえないというのは、想像以上にプレッシャーにかかる仕事だ。
どれほど次が打てそうでも、次の打席は回ってこないし、どれほど先発が崩れていても、そのタイミングで自分に打席は回ってこない。
試合の頭から出させてもらえたならば、きっと自分なら打てたであろうシチュエーションだって、何度かあった。
自分がそう思っているだけで、実際打席に立ったら結局今と大して変わらないのだろうけれど、レギュラーさえ握らせてもらえれば――という自信だけは常に持つようにしていた。
でなければ、海もまた、心がどうにかなってしまいそうだった。
今はこうしてほぼ毎試合代打で出させてもらっているからいいが、そのうち代打としての立場さえ崩されて、そのままずるずると控えの控えのような生活がやってきたとき、果たしてその限られた打席で自分が信頼を勝ち取れるかどうかといったら――今の自分にはなかなかできそうになかった。
『勝利につながらない』
たった一打席の結果で勝利が呼び込めるなら、どれほど楽なものだろう。大体いつもランナーなしの場面で突然代打として呼ばれるものだから、仮にそんな試合を動かせるような場面で起用してもらえたら、どれほど気持ちも楽だろう――。
世の中のありとあらゆる準レギュラーが一体どのような心持ちで打席やベンチで構えているかは分からないが、弱冠プロ4年目だというのに海は自分の将来を考えたとき、この状況を打破できるほどの材料を用意できそうにはなかった。
だからこそ、最近は華耶が『激しい』と漏らしたように、つい華耶に頼ってしまう。華耶もまた、そうして海の腕に巻かれることを好んでいたから、世の中からしてみればwin-winというやつなのだろうけれど、そうしてなんだか華耶を都合よく抱いてしまう自分にも海は嫌気がさしていた。
はじめてのときだってそうだったし、あれから自分は何一つ変わっていない。華耶は常によりよい自分のために毎日進歩しているというのに――。
「それじゃ海くん。改めて、お誕生日おめでとうー!きょうのヒットも技ありだったねー」
「あれがもうちょっとライトとセンターの間を抜くような当たりだったら二塁まで進めただろうし、次の打者ももうちょっと楽だったんだろうけどね」
「ヒットはヒットだよ。OPSがどうだのなんだの、アヘ単がなんだのって言うけどさ。ヒットはヒットなんだよ。アウトよりはよっぽどいいんだよ。打てたことを喜ばないと」
「それも、そうだね」
華耶の言うことももっともだ。勝利につながらないヒットだとどれほど罵られようが、ヒットはヒットだし、アウトよりはよっぽどマシなのだ。
時折、ヒットの形にこだわって、海すらもそれを忘れそうになる。3割を打てとコーチに言われたことだって、忘れそうになる。自分はまだ恵まれているほうなのだ。
ある程度は狙ってヒットを打てているし、外野の頭を越さないとはいえ、外野の手前に落ちるヒットや、内野の間を抜く打球を自然に打てている――ヒットの積み重ねが次のヒットを産むということすら、華耶が居ないと忘れそうになってしまう。
「とりあえずさ、今日はケーキもあるし、海くんが好き……だとたぶんあたしが思ってるちょっといいお肉使ったステーキだって用意したからさ。まずは食べてよ、ほらほら」
そう催促されて海は食事を始める。シャンパンもいくらかグラスに注ぎ、まるで宴会だ。
「あれ?華耶は飲まないの」
「えへへ。ちょっとね」
「ちょっとって?こないだのやつってまさか病気?」
「えへへ……驚かないで聞いてね。海くん。実はね、あたし――」
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「海くん。海くんってばー。勝手に入っちゃうからね?」
完全に意識を別世界に連れてしまっていた海は、そうして突然風呂場に入ってきた華耶に慌てて姿勢を崩しそうになる。
「駄目じゃない。お酒だって入ってるのにそんな長風呂しちゃ」
「……ごめん」
「やっぱり、考え事してたんだ?」
「……まぁ、うん」
とたんに窮屈になった浴槽で、華耶が向き合って海を見つめる。
「そんなにパパになること、不安?」
にこやかに話しかけてくる華耶の表情が、海には痛かった。どうして華耶がこれほど余裕でいられるのか、海には分からなかった。まして、産むのは華耶のほうなのだ。どれほどこれから辛い日々が来るかだって分かってるだろうに、なぜ笑顔で居られるというのだ――。
「……当たり前だろ。どこで育てたらいいのかとかさ。俺がこんな仕事してるせいで子供に迷惑かけないかとかさ。そもそも、俺がいつまでこの仕事続けられるのかとかさ。華耶だってまだ新卒だろ?せっかく仕事楽しいって言ってるのに、来年の春にはいったん休暇とらないといけないわけだろ?」
「……あのねー、海くん。これはね、海くんの本当に悪い癖だと思うんだけどさ?そんなに自分の毎日が完璧じゃないと駄目なの?そんなに失敗が怖い?」
「当たり前だろ」
「あたしがいても?」
「……華耶を巻き込んでるから、なおさらなんだよ」
海はそう言うと、まっすぐ見つめる華耶から逃げるように、目線を逸らした。
「あたしは海くんに巻き込まれたつもりなんてないよ。あたしは産みたいと思ってるし――海くんの分まで、あたしは頑張る。海くんだって毎日頑張ってるわけでしょ?なんなら、あたしから見たら海くんは頑張りすぎっていうか……思いつめすぎだもん」
「そんなことない」
「あるよ。あるある。……あたしのために、あたしのために、って海くん、いつも考え込んでるけどさ、何度も言うけどあたし、今のままの海くんでいいよ。それで十分すぎるくらいあたしは幸せ。海くんは、幸せが怖いって言ってたけどさ……幸せなんて、いくらあってもいいんだよ」
「……俺はその幸せが怖いんだよ」
海が目を逸らすようにしてそう言うと、華耶はふふっと笑い声をあげた。笑顔のまま、海をじっと見つめていて、逸らしたはずの視線を華耶に完全に捉えられてしまっていた。
「怖すぎるくらい幸せで何が悪いの?海くんはこれまでずっと辛い思いしてきたんだからさ――もっと、もーっと幸せでいいんだよ。いいパパかどうかなんて、あたしがあとでいくらでも評価してあげるからさ。海くんなら、きっと大丈夫だから」
「……その根拠は?」
「あー。そういうところなんだなー、海くんは。そーゆーところよ、ほんと。あのさー、根拠なんて、どうでもいいじゃない。裁判してるわけじゃないんだからさ。海くんがパパになるの怖いのは……それは、分かるよ。海くんのお父さんみたいにはなりたくない、って思ってるんだと思う。でもさ……それはあたしがカバーしてあげるから。自分が男だからもっと頑張らないと、とか考えすぎないでよ。海くんがたくさんあたしを愛してくれたからできたんだよ、子供。あたしを愛せたように――きっと、子供だって愛せるはず。だって、あたしと海くんが愛し合った結果だもん。そうでしょ?」
「……」
「どこで育てたらいいかとかさ、あたしの仕事どうするかとかなんてさ――それはあとで考えたらいいの。今はもう少し――喜んでくれると、嬉しいな。考えすぎなのを今すぐやめろなんて……言わないからさ」
華耶の言葉に海はしばらく言葉を出せずにいたが、ひねり出すようにして一言「……わかった」と、ぼそりとつぶやいた。
「分かればよろしい」
満面の笑みを浮かべながら華耶は海へとにじりよって、顔を自分のもとへと引き寄せた。長風呂で随分とヨレヨレになってしまった長い髪をぽんぽんと叩きながら――「でもなんか、ここが自分だけの場所じゃなくなるってことにちょっとだけ嫉妬しそうだよね、海くん」などと軽口を叩くものだから海もまた「引き寄せたのは自分のくせに」と軽口を叩いた。
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「それで本当に3割打つとは思わなかったな」
生駒は素直に感心したような表情で練習中の海に声をかけた。
「でも、これでもまだ足りないんでしょう。勝利につながらない打撃だの、なんだの。次は4割でも打てばいいんですか」
「そのコンタクト力をもう少し長打に生かせないかっていう話をしてるんだよ」
「監督【アレ】が塁に出なきゃ出ないで、それはそれで文句言うのをやめたら考えますよ」
「それは……お前なあ」
生駒が海をなんとか制そうとしたが、言葉を浮かばせる前に海に食って掛かられてしまった。
「足の速い選手だっている。俺が周りの機動力を生かす打撃じゃ、不満ですか。今年残した3割とちょっとの打率――前にランナーが居たなら返せたはずのヒットだって、たくさんあったはずです」
「……でもお前、今年は得点圏で調子が悪かったじゃないか」
「代打で何打席あったか分かりませんよ、そんな得点圏なんて。大体、投手の代打って時点で滅多に得点圏なんてないんですから。一年使い続けてもらえたらどうだったか、って話してるんです」
海からしてみたら、あくまでサンプル数が少ないから得点圏で打てない打者だと判断されるのはオカルトじみていて説得力に欠ける――と言いたかったのだが、生駒はあくまでも今年のデータがそう示していることは事実だろうというつもりで居るようで、互いの主張はぶつかり合った。
「……お前もなかなか面倒くさいやつだね、前にランナー居たら打てたって言うから得点圏の話しだしたら、あくまで打席数が少なかっただけだ、って。大体、その信頼を勝ち取れないのはお前だろ。3割が続くようなら、監督だって少しは考えを改めるかもしれない。もっとも――」
生駒が深刻な表情をしながら、うつむいた。
「……今のレギュラーに監督が納得してたらの話だが」
「補強の予定があるってことですか」
「動きがあってもおかしくないだろ。今の勝ちきれない打線に監督が不満を上に口にして、それでFAなんかで片っ端からゴリラみたいな大砲寄せ集めてきたら、どうなるか分からない。お前一応、ショート守れるように練習してるって聞いてるから、そうなったら消去法でお前がショートになるかもしれない未来はあるかもしれない」
「そんな都合のいい未来が――」
「だから言ってるんだよ。腐るな、って。お前がお前のスタンスを貫きたいなら、それはそれでいい。いつか何かのきっかけで誰かが分かってくれるはずだからな。お前が何も考えずにダラダラと野球やってるわけじゃないってのは大体の奴は分かってるはずだからな。だから今のお前はただただ、腐ったら負けっていうことだ。お前がどうせあの監督じゃあ、みたいな態度でふてくされてるのが悟られた瞬間、お前は球界から居場所をなくする」
「俺が腐るように見えるってことですか」
「自分にこだわり続けたまま腐ってくやつが他に居るから言ってるんだよ」
生駒は少しだけ不満そうにしながら、海の前を去った。