海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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215・焼け焦げてなお炭は輝き

ぐっ、ぐっ……と、傍から見たら不自然なタメで大きく後ろに腕を引き、3段階のリズムでゆっくりとボールを放り込む薫の姿が、キャンプで出払っていて誰も居なくなった甲子園の室内練習場の中にあった。

そのボールを受けているのは――田中だ。キャッチャー用のプロテクターに身を包んだその男の姿が田中だとは、誰も思うまい。

田中は立った状態で薫のボールを極力いい音を立てるようにしながら受け取り、投げ返した。引退してから少しだけ伸ばしてみせた白髪交じりのアッシュカラーが、冴えない表情と浮いていて、相変わらず似合っていない。

 

薫のフォームは、元から身体をうねらせ、大きくひねりながらギリギリまで手首が出てこない、変則的で出所の分かりづらいものだった。

大して速くもない速球を、かなり一塁側に足を置いて角度をつけるなどして、躍動感と勢いでごまかしながら、目が覚めるほど大きくは曲がらないものの、コースいっぱいに変化球を投げ込みながら緩急で打者を翻弄するクレバーな投手――それが浅井薫だった。

 

もともとが変則フォームだった薫は、とうとう自分のピッチングというものを思い出せずにいた。上からボールを投げようとしても、横からボールを投げようとしても、動作の一つ一つ――特に、その繋ぎの部分がぎこちないままだった。

自分でもともとどう投げていたかも分からないまま、漠然と自信がない状態で投げ続けて日々ばかり過ぎてしまっても仕方がないので、田中は

 

「いっそぎこちない動きを今の自分と受け入れて投げてはどうかな――」

 

そんなアイデアを薫に提案した。

 

かつて田中は、思い切り足を振り上げ、腕を振っていく速球派の投手だった。高校時代、練習中に上級生にボールをぶつけてしまってからしばらくスランプに陥った田中は、コントロールをつけるために犬塚とキャッチボールを繰り返す上で、勢いをつけるために行っていた動作を一つ一つ削り、丁寧に投げるようにしてみた。

その結果が、足をほとんど上げず、身体のちょっとした回転と、下半身の粘りを頼りに、力感をリリースの瞬間までセーブした脱力感のあるフォームだった。

 

薫に同じような発想をさせようとしても、ここまで重度のスランプなのであれば"普通"を取り戻すことに時間がかかりすぎるだろう。

そう思った田中は、腕や間接の動き一つ一つがガコン、ガコン――とぎこちなく動くそのフォームをあえて矯正はせず、とにかくリリースから安定させる――そうしてたどり着いたのが、今の薫の投げ方だった。

 

それでボールを投げられるなら、もうそれでいいのだ。今の薫が投げやすいようなフォームを見つける――それが田中に出来る精一杯の指導だった。

第一、今の薫は打撃投手ではなくあくまでも球団広報なのだ。おそらく、今のままでは打撃投手にはまだまだ戻れないだろう。ならば、海の最後の日に向けて今の薫が一番いいボールを投げられる道筋を作る――それが田中なりの海への手向けでもあった。

 

「……しょうもない話だけどね、俺も昔、フォームをいじくり回したことがあるんだ。高校の頃、先輩にボールをぶつけちゃって」

「……そんなことがあったんですか」

「……それまでは、俺の中ではワインドアップで思い切り投げることが一番いいと思ってたよ。でも、もっとゆったり、確実に投げて、二度とあんなぶつけ方をしないようにって模索しているうちに、ほとんど足なんかも上げずにひょいひょいって、今みたいに投げるようになっていったんだ。あのフォームのせいで、ファンからはやる気がないとかなんとか言われたけど……あの投げ方があったから、俺はあの歳までボールを投げ続けられたんだと思ってる」

 

田中は現役の頃よりかはいくらかボソボソと話す癖が良化したようなそぶりで薫にボールを返し続けた。

薫のボールは今、100km/h出ているかどうかだろう。本人がまだ手加減して投げているところもあるのかもしれないが、むしろ、マウンドから打席までボールがしっかり届いたり、構えたところから腕を伸ばせば届くようなボールが増えてきただけでも田中は内心ほっとしていた。

かれこれ一週間近くこうして練習をしているが、最初の頃は至近距離にボールを投げることすら薫は苦労していたのだから――。

 

田中は薫の姿に、高校の頃の自分を何度も重ねていた。

自分はここまでひどいイップスにはかかったわけではなかったが、大事なチームメイト――それも、よりによって最後の夏がかかっている上級生にボールを当ててしまった、というのは、相手の選手にぶつけてしまったことよりもよっぽどショックを受けてしまうものである。

 

もちろん、相手の選手にぶつけるのは当然申し訳ないと思うし、相手の選手にぶつけたときは当然すぐに帽子を脱いで謝り、試合後なんかはすぐに謝罪にも行く。

しかし、チームメイトに当ててしまうということは、ぶつけた相手のことをよりよく知っているからこそ、自分のせいで――と考えることが増えてしまうものだ。

 

それまでは自分の直球には自信があったし、直球はそれなりに荒れるタイプではあったが、それでも誰かにぶつけるということはなかった田中は、自分の直球の威力を分かっているからこそ落ち込んだ。

幸い、大きな怪我にはならなかったが、それはたまたま運がよかっただけで、ひょっとしたら自分の一球が相手の人生を大きく狂わせる時がいつか来てしまうのかもしれない――。

 

それ以来、田中はしばらくスランプになった。あれほど自信のあったストレートに頼るのが怖くなったし、それまでストレートとのコンビネーションで投げていたスライダーが指からすっぽ抜けるイメージが付きまとった。

それまでは大きくキレよく曲がるスライダーを相手の体に向ける形で投げることも、相手へ向けた球をストライクゾーン側に捻じ曲げることも怖いと思ったことがなかったのに、とたんに怖くなってしまった。

当時、同じ高校だった犬塚と共にしばらくフォームを模索し、そして実力で再び這い上がってきた田中だったが、今の薫にはその相手が居ない。

 

海の最後の日に向けて、薫をもう一度マウンドに立たせるつもりだ、ということを田中は球団広報から伝えられたとき、なぜ海ではなく自分にその話が来たのかをすぐに理解した。

海だっておそらく、自分の引退試合に薫を呼んで欲しいとは思っているだろうけれど、まさかもう薫が一度マウンドに立って、自分の最後の打席を受け持つことまでは想像していないだろう――。

だからこそ、田中は身重のナオに断りを入れて、旅行もかねてナオと大阪へと二人でやってきて、ホテルに泊り込んで薫の練習に付き合っていた。当然、海とは連絡を取っていないし、こうして練習をしていることだって黙っている。

 

海はどうせ一打席くらい打席に立たされるのだろうと思っているから、自宅の室内練習場で一人バットを握っているらしい――というのはジェネルらから聞いた話だったが、何かの間違いで甲子園や鳴尾浜に来られたら……もちろん、現役を退いた海がわざわざ未練がましくそうして甲子園や鳴尾浜に来ることなど絶対ないとは田中は思っているのだが、内心冷や冷やしていた。こんな特訓がバレてしまったら、引退セレモニーの企画が台無しだ。

 

もちろん、この様子を撮影している取材班にもこのことは海には絶対黙っておくよう伝えられているし、オルガたちもまた――もちろん、日本のメディアも、『海の野球人生を終わらせてしまった者が再び立ち上がるまで』というところは絶対に撮影しないといけないと思っているから、田中と薫との特訓を真剣なまなざしで撮影していた。

 

当然、そうしたカメラを意識したら薫の気持ちに邪魔をしてしまうから、薫が知らないところで撮影するようにしてもらっている。

もっとも、いずれは薫だってもう一度マウンドに立つときには多くの取材班たちが自分にもカメラを向けられることについても改めて覚悟を決めないといけない時が来るのだけど――。

 

「……田中さん。一回、座ってもらえますか。ちょっと、ちゃんと投げてみたいです」

「分かった」

田中は腕を広げながらゆっくり構えて、キャッチャーミットを鳴らした。

「……いきます」

 

声が小さい――とは田中は言わなかった。自分の意思で、ミット目掛けて投げてみたいと言い出したのは薫のほうだ。田中はその薫の勢いを殺したくはなかったから、しっかりと真ん中に構えてそのボールを待った。

 

ぐっ、ぐっ――と、一つ一つの動作がぎこちなく、極端な動きで――それでも、その出所が最後まで出てこない薫らしさだけはそこにあった。

すっ、と遅れてやってきた手首から放たれた白球は、構えたところよりも田中から見てはるかに左上――右打者なら間違いなく危険球になっていただろうコースへと飛び込んだ。ストレートが上ずる癖が、あの日から抜けていない。

田中は慌てて立ち上がってボールを捕ろうとしたが、間に合わなかった。ガシャン!と金属の混雑した音がネットから響き、ボールは転がってくる。

 

「……すみません」

「大丈夫。ゆっくり修正していこう。春までまだ時間があるんだから」

「……でも、キャンプから戻ってきたらあっという間ですよ、開幕まで。その間だって、どこで練習したらいいのか……」

弱気な薫の表情。田中はそんな薫の表情を見たくはなかった。あれほど明るかった薫の顔色は血色が悪く、ずっと沈んだままだ。

 

「最初から失敗するつもりでマウンド立つ奴なんて、いないよ。きっと、今の浅井さんを見てたら、佳井さんだって同じことを言うと思う」

田中はぴしゃりと薫の歯切れの悪い言葉を遮って、ミットをぱんぱん、と鳴らした。

 

「……マウンドに戻りたいっていうのは、浅井さんの意思なんでしょう。断ろうと思えば、断れたんだよね。だったら、失敗する前提で立っちゃいけないと思う」

 

薫は反論したそうな表情を浮かべたが――何も言わなかった。そんな子供たちを田中はよく見てきた。よく見てきたからこそ、今なら言える。きっと、現役の頃の自分は、海から見たらこんな感じだったのだろう――と。

自分だって、失敗したらどうしようという気持ちでずっとマウンドに立っていたし、なかなかそうした気持ちというものは、拭いたくても拭えないものだ。だからこそ、人の支えがあるかどうかで人は生きていけるのだ――田中は現役の日々を振り返ってそう思った。

 

「……本当はね、俺だって佳井さんの引退セレモニーがあるなら、マウンドに立ちたかったんだよ。佳井さんの最後は、俺でありたかった。……いいや、それだけじゃない。俺の最後を、佳井さんに立ち会ってほしかった。俺、ちゃんと引退試合はしてないからね。……でも、今、その役目を果たすべきは俺じゃない。浅井さんなんだよ。浅井さんがあの場にもう一度戻ってこなきゃいけないんだ。浅井さんがもし、自分の意思でもう一度……打撃投手として現場に戻りたいと思っているなら、なおさら」

 

田中は内心、それでも薫が打撃投手としてもう一度立ち直ることは今のままでは出来ないだろうとは思っていた。

思ってはいたが、到底、言えるわけがなかった。

まだ若い薫には、これからまだまだたくさんの日々が待っている。このまま球団広報として生き続ける日々だってあるだろうし、ひょっとしたら、全く違う業種に突然転職することだってあるかもしれない。努力に努力を重ねて、もう一度打撃投手として返り咲くことだって、薫自身がそれを諦めなければあるかもしれない。だからこそ、薫にはいつまでもウジウジしていてほしくなかった。海だってそういう気持ちで薫のことを案じているに違いないだろうから――。

 

「……実際、どうなんです。浅井さんのその後は」

「まあ……元気ないです。私が言えたことじゃないと思いますけど」

オフだったこの日、木村の勤める新聞社の取材用バンに乗り込み、木村と後部座席で世間話をし合っているジェネル。

肋骨の調子はすっかりよくなり、キャンプでは相変わらず元気な声を出してはいるが、相変わらず本当の意味で声を出しているのはジェネルくらいで、若手や中堅はそれを、かつて海が声を出していた頃のように影で笑ったり茶化したりをしていた。

ジェネルももはや意地で続けているような状態で、まだ自分のことばかりで余裕のない真悟を無理矢理巻き込む形で声を出し続けていた。

他に自分についてこられるような若手や外様は一向に入ってこないし、長年続くチームの低迷になかなかその年の有望株は相変わらず交渉権をつかめずにいたり表立ってチーターズ以外11球団OKなんてことを公にする者も相変わらず散見されていた。

そんな状況を自分のせいだと思っていないものだから、丸毛のような者はすぐに新人を言いくるめて軍団にしてしまうから、そうした選手や風潮に対し正面から不快感を表す真悟くらいしかもはや巻き込める選手は残っていなかった。

ジェネルと真悟が孤立する――そんな形で今のチーターズはいびつな連携をなしていた。

 

そうして練習が終わり、本当のプライベートな一面になるとジェネルは今まで以上に疲労を顔に出すようになった。薫を家にかくまっているのは、薫のためでもあると同時に、そうでもして、自分の空間に他の人間がいないと自分が本当にダメになってしまうかもしれないという気持ちもあった。

そして何より――いつまでもなんとなくぼんやりしたままの薫に、内心少しだけ腹が立っていたというところもあった。

 

「春には間に合いそうなんですか」

ごく限られた者だけが知っている、薫がマウンドに戻ってくるという事実。木村もまた、その一人だった。

ジェネルに小声でそう呟くと、ジェネルはため息をついた。

 

「……私、怒ったんですよ。実は去年のうちから、ファン感謝祭で薫ちゃんをもっかいマウンドに立たせるっていう案はあったらしいんです。それが駄目ならせめて、ファン感謝祭で花束を渡すのは薫ちゃんに、っていう話も動いてたらしいんです。でも、薫ちゃん、どうしても出たくない、って。仕事だってこのまま辞めて、小田原で姿も名前も変えて、静かに暮らすんだー、って。……でも、それじゃ薫ちゃん、よくないじゃないですか。自分が海さんにとどめを刺してしまいました、ごめんなさいとは思ってるけど、申し訳がないから最後まで会いません、なんなら今後一生、二度と会いませんー、なんて。……それって、海さんのことめっちゃ考えてるようで、薫ちゃんが自分の人生から逃げてるだけじゃないですか。現実と向き合いたくないから、向き合ってないだけじゃないですか。そりゃあ、人間、無理して何もかも全てに向き合って一つ一つ問題を解決していくなんてキャパ的に無理ですから、逃げるのだって大事ですよ。最終的には自分の人生を守るのが大事ですから。でも……」

言葉を濁したジェネルは、自嘲気味に笑ってみせた。

 

「……まあ、そんな薫ちゃんを見ててちょっとムカついたのは事実ですよ。薫ちゃんがあんなボール投げてさえなければ、って……よくないけど、思っちゃいます。木村さんだって、そうでしょう」

「俺に同意を求めないで下さいよ。そういうの、卑怯ですよ」

木村はムッとした表情でジェネルを睨んだ。悔しいか悔しくないかで言ったら、当然悔しいのだ。悔しいけれど、それを口にしたら海の最後の一年を侮辱する形になってしまう――だからこそ、木村は言葉を拒んだ。

今同意して、一時的にジェネルの気持ちに寄り添うのは、メディアの人間としては間違っている――木村なりの矜持がそこにあった。

 

「……ま、木村さんが何も言いたくないなら、別にいいですけど。……でも、海さんは最後まで薫ちゃんのことを守ろうとして、記者会見でもいっぱいフォローしてくれました。それをいいことに、薫ちゃんが最後まで海さんに何もしないっていうのは……やっぱ変じゃないですか。はいこの問題もう終わりね、じゃあちょっと……よくないじゃないですか。薫ちゃんだって、あんなことがなければ本当は今頃、私たちにまたあんなギリギリのボールをたくさん投げてくれたはずなのに」

「……」

ジェネルは前髪をかきあげ、そして一度深いため息をついた。なるべく考えたくない『もし、なら』だということは分かっていてもつい、歴史にIfを求めてしまう。

佳井海という存在を欠いたジェネルがそうしてこのまま空虚になり、いつしか海のように勝利を求める野球マシンになってしまうのではないか――そんな余計な不安すら木村を襲った。

 

本来いるべきだったはずの男がここにいない――そこに気持ちが揺らいでいるのは、自分もそうなのだ。木村は余計な思いを語ってしまわないように、ただただ黙ってジェネルの言葉を聞き続けた。

 

「だからこそ……一回、薫ちゃんも、本当に駄目そうなら駄目で、ケジメつけなきゃいけないと思うんですよ。なんとなく、もう投げたくないから球団広報させてもらってまーす、って風にしか私には見えなくて。私がそうして一方的に薫ちゃんを悪く見ちゃうフィルターがもう出来ちゃってるのかもしれないですけど。……だからって別に、ご飯作ってあげないとかそういうのはないですよ。二人でよくゲームなんかもしますし、お酒も飲んだりしますし。戦友ですから、憎むなんてことはしません。薫ちゃんがいたから、ここ数年、私のバッティングはメッキメキに磨きがかかったわけですし」

そう言って、ジェネルは携帯のロック画面の、海とジェネルと華耶、そして薫の水着姿での集合写真を見せびらかした。

 

「……戻れるなら、この頃に戻りたいです。何事もなかったかのように。……無理ならせめてでも、薫ちゃんには、笑顔を取り戻して欲しいんですよ。何年かかってでもいいから。今のままじゃ、私まで笑顔奪われそうで。……奪われそうで、っていうか、もうだいぶ奪われてるんですけどね」

自虐気味にそう笑いながら、ジェネルは足を組んだ。つやのある肌を少し無防備にしながらも、木村には"そういった趣味がない"ことを分かっているから、ジェネルは気軽に楽な姿勢をすることができた。

 

「……でも、信じてますよ。半ば私が強引に説得して引退セレモニーに立つように仕向けたんですけど。きっと今頃、必死で、薫ちゃんなりに練習してるはずなんです。薫ちゃんだって、今のままの自分で居続けたくないって思ってるはずです。毎晩そうして泣いてますから。……私もだいぶ泣かされましたし」

「じゃあ、大丈夫そうって思ってるんですね」

「さすがにメディアの前でダメかもしれないなんて、言えないですよ。選手っていうのは、メディアの前ではいつも強がってるもんですから。……海さんがそうだったように」

「……」

期待がこめられた木村の言葉に対して、ジェネルは久々に笑顔を向けた。木村はそんなジェネルの笑顔をしっかりと目に焼き付けながら、メモを取り始めた。

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