「……さて、と」
洗濯物を洗濯機に突っ込み、モップを改造してスポンジを取り付けたもので風呂の足場をあまり力まないように洗っていく。
洗面所に置いておいた携帯から無線式のイヤホンに音を飛ばし、ラジオを聴き流す。流行の曲なんかに乗せられるのは、時間帯的に学生が聞いている時間帯ではないせいか、リスナーからの人生相談なんかが多くなってきた。
局によっては、いきなりDJが上から目線でリスナーの言葉を否定に否定を重ねるものなんかもあって、海はそのたびにザッピングをした。
〈――続いてはこちら。東京都・20代男性、チーターズ大好きハルカちゃんさんです。名前がド直球ですねー。『仕事の休暇を使ってチーターズのキャンプに行ってきました。朝土選手の打ったファールボールがたまたま自分の見ていた場所に飛んできましたが、今季はなんかやってくれそうな気がします。自分も朝土選手のようなロングヘアーにイメチェンして応援しようと思います』だそうです。チーターズ、ロングヘアの系譜が続いてますよね。昨年まで在籍していた佳井選手なんかも綺麗な金髪ロングヘアでしたし、今の世の中、男性のロングヘアは不潔、みたいな概念は昔ほど言われなくなりましたよね――〉
ぴたり、と海はそのモップを止めた。真悟はあれからどうしているのだろう――と気にならないこともなかったが、自分から連絡を取るほどの仲でもなかったし、真悟だって別に自分に対して積極的に連絡を入れてくるような人間ではなかったから、海もまた必要以上に距離をつめることもしなかった。
大体、自分はもうチーターズの人間でもなければプロ野球選手でもないのだから、気にするだけ無駄といえば無駄なのだし――そう思っていても、時折こうして話題に出てくるとふと気になってしまう。
言ってしまえば、自分が居なくなった後仮にチーターズが物凄く勝つようになったとしても、その場には既に自分も田中も清兵衛も居ない。一応、まだジェネルが残っている以上、チーターズそのものが勝ってくれること自体はもちろん嬉しいのだけど、そうして過去の人として人々から忘れられた状態でやれ優勝だなんだと言われても――という気持ちは海の心の中に少なからず存在した。
だからこそ自分は早く野球のことなんか忘れてしまいたいし、現場には戻りたくなかった。きっと自分の無念はジェネルが晴らしてくれるだろうという気持ちはあるのだけれど――そうしてジェネルに気持ちを託してしまうことだって、あの劣悪なチーム環境を考えるとよくないことだとも分かってはいる。
野球のニュースなんかをそうして海は取り込まないようにしていたからこそ、海はふと入ってきた野球の情報に手を止めてしまった。
どうやっても4月の引退セレモニーには行かないといけないから、近況くらいは知っておいたほうがいいのだろうけれど――とは思いつつも、自分の居なくなったチーム状況をたまたまこうして耳にしてしまった海は、イヤホンから流れ出すオーバーハンズの新曲――今季のスタメン発表時に使われる曲らしいそれをついついしっかりと聞き入ってしまった。
軽快でさわやかなクリーンギターが奏でるコードがぴたりと止まると、一気に重厚なひずみがやってくる。なんとなく、どういった感じでスタメン発表の画面が流れるのか海にはその光景が浮かんできた。
……そこにはもう自分の名前はないというのに。
風呂掃除と洗濯を済ませた海は、なんとなく昼食に何か作るという気分になれず、出前をとることにした。ピザが評判のイタリア料理店から、海と華耶はピザとパスタを注文し、リビングでその到着を待った。
〈――スタジオの神原さん、お味はどうですか?〉
〈――うーん、うますぎて、馬になっちゃう!〉
「下らないな。こいつ本当にお笑い芸人なのか?」
「辛辣ー」
海は昼間の情報番組を見ながら思わず毒を吐いた。スタジオ客の笑い声なのか、編集で付け足しているのか分からないけれど、とてもじゃないが笑いが起きるような言葉に海は思わなかったので画面を睨みつけた。華耶はそれを思わず笑いながらつっこみ、ケラケラと笑った。
〈――では続いて鳥居さーん?お味はどうですか?〉
「鳥居……?」
海はその聞き覚えのある名前に、思わず画面を注視した。
〈あ~、すっご~くね、甘いですね~、ンッフッフ……クリームがそーれでいてしつこ~くなくて食~べやすいんです。あ~これね……ちょ~っと僕ね、ンッフッフ……マ~ジで好きな奴かもし~れないです〉
〈だそ~です――〉
〈――来月開催される春の高校野球選手権に向け、ここ数年問題視されている応援の激化に対するガイドラインの会議が今日午前行われ――〉
独特の微妙に気持ち悪いリズムに海は眉間を引きつらせながら、続けざまに司会の神原がその言い方を茶化したのを見て、思わずリモコンに手を伸ばした。
「あー、ニュース見るくらいならあたし、BSでドラマ見たいかも」
「じゃ、好きにどうぞ」
海は華耶にリモコンを手渡し、既に半分くらい話が進んでしまっているドラマを華耶は見始めた。
「さっきの鳥居って人さ、確かあれだよな。新にサッカーを色々叩き込んだって奴」
「そうだよ。新の部屋整理してたらさ、やっぱ相当影響受けてたみたいでさ。ポスターとかも押入れからたくさん出てきたけど、サインとか、サインつきのボールとかまで置いてあったよ。トレカなんかも、今とは全然違う、もっと荒々しい顔つきのやつがまあ出てくる出てくる。よっぽど会えたのが嬉しかったんだろうね、子供の頃」
「そもそも、なんで新は鳥居に会った事があるんだっけ?」
「ヴァリエ大阪の試合、学校からチケットもらって見に行ったことがあるから。なんなら、その時に確か一緒に入場もして手も繋いでもらってる」
「ああ……そうだよな、ヴァリエに所属してたんだもんな。そりゃあ、そういうことがあってもおかしくないな。そりゃあアイツ、大宮で張り切ってたわけだよ。……大変だよな。プロ引退してすぐにあんな情報番組に借り出されて、面白くもない司会者にグイグイと迫られて、おまけに言い方までいじられて。それでロケなんかもたくさんやらされて」
「海くんも街ブラ系のロケとかやったことあったじゃない」
「あんなの、二度とごめんだね。ちやほやされたくてロケしたいわけじゃないからね、俺は。出された食べ物だって、出された以上は全部食べたいと思うじゃないか。でも、あいつらすぐに次、次、って仕切りたがるから。出来るだけ食べきるようにしてるけど、そうやって一日に何件も回らないといけないとかで、急かされた結果食べきれない奴とかやっぱあるんだよ。俺、そういうの嫌でさ」
海はそう言いながら、鳴った腹をさすった。
「現役辞めたら、前ほど食べられなくもなる。まあ、別にもともと大食いだったわけでもないから、こないだまでスポーツやってたんだからいっぱいご飯だって食べられるんでしょ、とかスタッフとか共演者にいじられるのだって嫌だしさ。大食い番組のオファーなんか来ても、絶対断るつもりだからね、俺」
真結たちを通して、親子でテレビ出演をしてくれないかどうかという依頼は度々あったが、海はこれらのほとんどを断っていた。
強いて言うならばスポーツ番組のインタビューだとか、スポーツ系の番組であれば、すぐに出るとは返事をしなかったものの、バラエティ番組よりは態度を柔らかくさせていた。
野球解説ならばどうだ、というオファーもないわけではなかったのだけれど、海はあまり乗り気がしなかった。中立的な立場で自分が野球というものを解説できる気がしなかったからだ。
大リーグの解説ならば――とも思ったけれど、大リーグの解説をするのであれば当然アメリカの野球選手に通じていないといけない。自分は別に大リーグの選手一人ひとりを網羅しているわけではないから、引き受けるのであればもっと真剣に大リーグそのものと向き合わなければならない。生半可な気持ちで引き受けたくないからこそ、海はこれも断った。
テレビ出演はともかく、野球ゲームの解説者役ならば――と近々新シリーズが発売される予定の人気野球ゲーム『プロ野球スペリオル』の解説者役を海は引き受けることにしていた。
直接、選手たちと何か話をしたりするわけでもなければ、別に他の解説者を引き受けた者と直接同じ現場で掛け合いをするわけではない――ということもあってのことだった。直接向き合ってアドリブで言い合ったりなんてことをしたら、自分には気の利いた返しが出来る気がしなかったからだ。
収録は既に終えていて、あとは3月末の発売を待つだけだ。自分が解説として登場するということは発売までサプライズとしてとっておくらしく、公式サイトでも発表されていない。
「あと何週間かしたらここから撤収しないといけないんだよね、本当に」
「まあね。荷物、まとめてあるんだよね?」
「物置に大体のものはもうまとめてあるし、ある程度はもう世田谷に送ったりもしてるよ。要らなくなったものなんかもリサイクルショップに大体引き払ってもらったし。二階の使ってない子供部屋なんか、もうすぐにでも客間にできちゃうくらい。来客用の布団だとかなんだとかも、東京の家に前々から送っておいてあるから、思ってるよりもだいぶ荷物ってないんだよ。家が広いだけでさ」
「なんかそれはそれで寂しいけどね」
海は足を組んで、一息ついた。
「地下室のやつは?」
「あー……うん。色々処分しておいた。持って行くくらいなら、買いなおすしね」
「だよな」
到底子供たちには見せられない類のものについて、海は今のうちに話題に出しておこうと華耶に聞いてみたが、華耶はやはりそのあたりしっかりしていたようだった。華耶は気まずい笑顔を見せ、頭をかいた。
「でもさー、リアルな話、次はあたしたちじゃなくて晴留とかが使うかもしれないんだよ。生々しい話。いや、別に誰が使おうったっていいんだけどさ。いつまでもあたしたちの秘密の部屋ってわけにもいかないでしょ?」
「だから離れにもう一個、倉庫代わりの家を建てたんじゃないか。わざわざ離れに晴留たちが用もなくやってくる理由もないからって」
「そりゃ、まあ……そうだね……えへへ」
「顔赤くするなよ、そんなことで」
海は華耶を軽く小突き、苦笑した。
「でも、晴留が生まれたのは俺が23、4の頃だもんな。晴留や新にそんな話があっても、まるでおかしくない。今孫が生まれたら、孫と一番下の子が同世代になるのか。……俺たち、なかなかイカれてるな」
「イカれてるよ。……イカれてるから、ここまでやってこれたんだよ、あたしたちは。普通のカップルだったら、きっと、絶対ぶっ壊れてるよ。こんな人生歩んでたら」
海も華耶もそう言って笑った。なかなかやってこない宅配のことなどもう忘れていて、テレビでは犯人と刑事が激しいカーチェイスをしていることなども、二人にとってはどうでもよくなっていた。
「ほんとはさ、夜まで黙ってようと思ってたんだけどさ。変にタイミング逃しそうだから、今のうちに言っておくよ」
「ん?」
「誕生日、おめでとう。華耶。去年も誕生日そのものは祝えたけど……きっと……こうして本当の意味で落ち着いて誕生日を迎えられたのは、今年が初めてだよな。出会って30年近く経つってのに、二人そろって、ゆっくりした一日を過ごしながら迎えられた誕生日なんて、なかった。きっとこれからは毎年こんな風に祝えると思うし、そうであり続けたい」
海はそう言って、華耶にコーヒーの入ったグラスを差し向けた。華耶は紅茶の入ったコップを差し出し、静かに乾杯した。
「……キザなこと言うようになったよねー、海くんも。出会った頃なんて、もっとブスーっとしてた」
「そうかな」
「そうだよ」
華耶はそう言って笑いながら、紅茶を口に含んだ。
「誕生日プレゼント、引っ越す前にあんまりかさばるもの贈るのも、なんだと思ってさ。引っ越してから、改めてどこかに買い物しに行こう。何でも買うから」
「十分すぎるくらいプレゼントもらってるよ、あたしは」
そう言って華耶は腹をさすったが、海は気まずそうに顔をしかめた。
「それじゃ俺の気が済まないんだよ。毎年、ろくに誕生日プレゼントだって贈れずにいたんだから。だから、来月改めて――」
「――だったらさ」
「ん?」
華耶がニッと笑いながら海を見つめる。意地悪そうに、ニヤニヤしながらじーっと見つめ、言葉を言おうとしない。
「……なんだよ」
「引退セレモニー、多分、もう一回くらい打席くらいには立たせてくれるはずでしょ。始球式のくくりかなんかでやるかもしれないけどさ」
「どうだろう」
「さすがに海くんの最終打席をあんなんにはさせないでしょー」
「それを決めるのは俺じゃないからな」
そんなことを言ってはいるが、華耶は海が本当は打席に立たされることを察していた。それが始球式という形になるのか、それとも、また別の形になるのかは分からないが、海があくまでしらを切る様子を見せたので、真剣な眼差しで海をじっと見つめた。
突然目をじっと見開いて見つめられた海は圧倒される形で、少しのけぞりながらその視線を受け流すのが精一杯だった。
「仮になんかあるとしたらさ……いや、あるって思っておいてよ。一発、センター返しくらいは狙ってよ。実際に打つ打たないは別としてさ。適当に流すくらいのスイングとかじゃなくて、全力で振りに行ってほしいんだ。仮にそれが始球式だったとしても、さ」
ふと思い返すのは、海も田中もこれからがキャリアの絶頂期を迎えるかどうか――といったときのことだった。
当時、チーム一筋でエースを張っていた投手が引退することになり、年末に行われるファン感謝祭にて引退セレモニーで海と『真剣勝負』というていで1打席限定の真剣勝負が行われることになった。
シーズン終盤、突然浮上した話は『真剣勝負ならば』と、海もしぶしぶその茶番を受けるつもりで進んでいたのだが――
『息子にかっこいいところ見せたいからさー、引退セレモニーでの真剣勝負さ、空振り三振してほしいんだよねー。ダメかな?そのほうが俺も最後カッコよく終われるし、君だって俺の球を豪快に空振りしてすごく絵になると思うんだけど』
と、ある日投手本人に呼び出された海はそんなことを頼まれたのだった。
それでは真剣勝負ではないではないか――と海は激しく反発し、そんなことをするようならばセレモニーには出席しない、と揉めに揉めたことがあった。
わざわざ直接1対1の環境で呼び出して話をつけるくらいだ。広報にもきっと通していない話だろうから、海はこのことを誰にも言わずにおいた。
こんなことを他の誰かに話して必要以上に事を大きくしないために、華耶にすらも当日は『体調が悪い』と嘘をつき、自らの病を盾にしてファン感謝祭そのものを欠席した――ということがあった。
誰が自分の本当の最後の打席を飾るのかは分からないが、始球式だろうと、あの時のように1打席勝負になろうが、海は当時のようなことにはならないだろう――そう思いながら、ふと、自分のセレモニーがどうなるのかを少しだけ案じ、そして、少し苦い表情でそっぽを向いた。
「……別にいいだろ、そんなこの先あるかどうか分からないことなんか。そんなことより、もっとちゃんとした買い物とかでいいだろ」
「ちっちっちっち……分かってないなー、海くんは。あたしが本当に……本当に見たかった景色――見せて欲しいんだよ。海くんの野球人として、本当の最後の……最高の瞬間を、あたしに届けて欲しいんだ」
「……アホくさ」
そっぽを向いた海を首を伸ばしながら追いかけ、なおもじっと見つめてくる華耶。海はそんな華耶を鼻で笑って、足を組みなおした。心底興味がなさそうにしながら、リモコンを手にとって真上に放り投げてを繰り返す。
「アホくさってなにさー。あたしは……」
最初からそれが望みで――という言葉を軽々しく言うことは華耶にはできなかった。確かにあの日――自分が結婚の条件として突きつけたのは、海の最後の日なんかよりも、華々しい海の野球人生のほうが重きをなしていたのだから――。
「……?なんだよ?」
「……ううん。でも本当に……あたしが今望んでるのは、海くんの最後が最高の瞬間になることなんだよ。海くんがもう二度と昔のことなんか……現役の辛かったことなんか思い出さなくていいように。……きっと、思い出しちゃうんだろうけど」
「そんなの、決まってるだろ」
思い出すなと言われるほうが無理だ――そんな思いと同時に、仮に本当に自分に最後の打席があるのならば、その打席に全てを出し尽くすという思いもそこにはあった。
海はそんな複雑な思いを胸にしながら――
「この期に及んで、適当に流してスイングするわけないだろ。俺だって――最後の打席があんなものだったなんて、認めたくない」
と、少しだけ早口に呟いた。
『俺と!!戦え――!!!!』
思わず声を枯らしたあの打席のことを海は思い出した。勝負の世界とはいえ、最後の最後に勝負すらしてもらえなかった場面をふと自分で穿り返してしまった海は、不機嫌そうにコーヒーを飲み干した。
「……でも、ちゃんと買い物くらいはさせてくれよ。一回くらい、ちゃんとプレゼントはしておきたいんだ。来年でいいや、なんて言ってたら、そのまた来年も同じように別にプレゼントなんていいよ、なんてお前、言いそうだからね」
海はそう言って、放り投げたリモコンを強く握り締めた。