「え?一緒に出かけた?」
「うん」
「車で?」
「ううん。タクシーで」
「タク……ええっ?タクシー?」
「うん。珍しいよね」
華耶はキッチンに置かれた『ちょっと出かけてくるね』という晴留の字の張り紙と、靴箱には晴留だけでなく海の靴も入っていないことを不思議に思った。
リビングでゲームをしていた直人は華耶にそれを問われると、海と晴留が一緒に出かけたことを素直に伝えた。タクシーで出かけたということに、二人で酒でも飲むつもりなのだろうか――ということはおおよそ推測がついたものの、別に飲むだけなら家でも出来るだろうに――とも華耶は思った。
「一対一で飲みたかったんじゃないかな」
「だったら別に、離れとかがあるじゃん」
「そりゃそうだけど。なんだろうね。食事券とかでも当たったのかな?」
「だったらなおさらみんな誘って欲しかったところはあるけどねー。あたしを差し置いてまで」
「うちは大家族だからそうもいかないよ。皆で行くとかなると、焼肉とかじゃないとだし、食事券当たったからってそこで払いきれるかどうか」
「それもそうだね」
華耶は冷蔵庫の中身やキッチンのフライパンの中身を確認し、あとは暖めるだけで食べられる状態にしてある料理の群れを眺めながら、微笑を浮かべた。
「……まあ、たまにはお父さん貸してあげないとね」
「何か言った?」
「ううん。なんでも」
華耶の独り言を直人は聞き逃し、聞き返したものの、華耶は振り向いてただ首を振った。
:
:
「別に、そんなに大事な話があるなら家でも、なんなら、離れでもよかったんじゃないの」
「まあでもほら、一回くらいちゃんと食事はしたかったし」
世田谷の新居から歩こうと思えば歩いて行けるくらいの距離に、個室と貸切メインの料理店がある――そんな情報を知った晴留は早速予約を取って海を連れてきていた。
「一旦、現役お疲れ様、ってちゃんと言いたかったんだよ。皆の前とかだと茶化されるし。一回くらいは自分で稼いだお金で夕飯も奢りたかったしね。……ううん。一回だけじゃないよ。これからも、何度も」
「別にそんなこと気にしなくていいのに」
海は白を基調とし、あたり一面が白に覆われたその個室にあまり落ち着かないような様子を見せながら手を拭き、深い息を吐いた。
晴留は笑顔こそ浮かべているが、晴留もまた、落ち着かないような顔を浮かべている。海はそれがひとつ気がかりだった。
「……晴留。わざわざ俺を呼び出してこんなことしてるってことは、何か他に、大事な用件があるんだろ。いいよ。言いづらいことなら、別にゆっくりでいいけど。要件があるなら早くしないと、俺、すぐに人の話を聞かなくなるぞ」
乾杯をした後も、なんとなく晴留がとりとめのない話をぷつぷつと繰り返していることに違和感を覚えていた海は、前菜に手をつけながら、晴留の表情をじっと見つめた。
「……あのさ」
「何?」
話を切り出しづらいときの上目遣いと、ぎこちない『あのさ』という言葉は、華耶の遺伝子をしっかり受け継いでいた。背も髪の色も自分のものを受け継いだが、こうしたときは華耶の子であるのだということを晴留はしっかりと証明してみせていた。
「……お父さんさ、曲とか作ってみたくない?」
「作るって、どういう」
「そのままの意味だよ」
「そのまま、って……そのままって言われてもね」
海は頭をかいた。そのまま、と言われても、晴留の意図がなかなかつかめなかった。
「……それは何、俺にもう一度歌手やってほしいってこと?」
「ううん。違う」
「じゃあ、どういう――」
「きっとさ、お父さんはあの二人のバンドじゃなきゃ、もう自分からは表立って音楽はそんなにガンガンとはしていかないと思うんだよ。お父さん、ゆっくりするために現役辞めたんだからさ」
「まあ……そうだね」
晴留にも自分の姿はよく見えていたらしい。音楽をすすんでしたくない理由も見透かされていることに、海はいかに晴留が周囲をよく見て生きているかを感じ取った。
そんな海を差し置いて晴留は携帯を取り出し、画面を見せた。
画面の中では、オレンジのポニーテールで、海の知ってた姿とはまた少しイメージチェンジをした、海の言う"ガワ"に包まれた少女が歌ったり踊ったりしている様子が流れていた。
何度か見た覚えのある、確か――シエルナントカとかいうVtuberだ。
「お母さんにはさ、かなり早い段階で前に二人きりになったときに一応伝えてはいたんだ。私が裏でこういうことしてる、って。別に後ろめたいことしてるわけじゃないのに、裏、っていうのも変だけどさ」
「でも、お父さんに伝えるのが遅かったってことは、心のどこかに後ろめたさがあったからだろう」
「……それは、そうなんだけどさ」
晴留は気まずそうにしながら、どう説明するべきかを悩んでいる様子でしばらく海の顔をじっと見つめた。
別に咎められたわけではないにしろ、海から突きつけられた言葉にはそれなりに晴留にとっては刺さった。実際、いろいろな理由をつけて海にはしばらくの間隠そうとしていた活動でもあるから、なおさらどう説明していいか迷った。
少し目線を下げ、海からその視線を逸らすようにして、晴留はようやく言葉を紡ぎ始めた。
「……お父さんには、今まで好きにやらせてもらってたよね。だから、お父さんが現役を辞めた後、今まで好きにさせてもらってた分……引退後はお父さんに好きに生活させてあげたくてさ。……実はさ、ダイワビールからもらってる給料なんかじゃ比較にならないくらい、広告収入やらなにやらもらってる。今に始まったことじゃない。お母さんに先に伝えたのは、確定申告の都合なんかもあったから。それくらい……早いうちから私、結構稼げちゃってたんだ」
「……」
「もちろん、企画とかでそれなりに出費はあるけどさ。それでも、お父さんの今までの年俸と比べたらそりゃ……ちっぽけかもしれないけどさ。明日突然この活動をスパッと辞めても、お父さんやお母さんには新車買ったり、しばらく世界旅行させてあげられるだけのお金は稼いでる」
「お金のことは別にいいよ。何で今まで黙ってたの?別に怒ってるわけじゃないけど、こういうの、稼げるかどうかなんて、やってみなきゃわからないことなんだよね?軌道に乗れなかったら、どうするつもりだったの?」
海はビールを流し込みながら、晴留をじっと見つめた。ショックを受けているわけでもなければ、何か問い詰めるわけでもなく、そこには全くの無表情があった。
「……そんなことさせるために大学行かせたわけじゃない、って言われたら、そこまでだからさ。それに……上手くいかなかったとき、そこまでに使ったお金が無駄になっちゃうわけじゃん。配信や収益が軌道に乗るまで、黙ってようって思ってさ。2年くらいやって、軌道に乗るようなことができなかったら辞めようと思ってた。早い人はデビューしてすぐにドカンと流行るし、ある日突然バズる人だっている。2年やってそんなタイミングやきっかけをつかめないなら、私には商業の才能はないと思って諦めるつもりだった。……私なりの就職活動に向けての活動って言えば、人聞きはいいよね。でも……私が思ってるより、恐怖を感じるくらいには稼げちゃった。新が問題を起こしたときに、誰にも言わなかったけど……内心、何かをきっかけに身元割れを起こして、この先配信どころかまともな生活ができなくなることを先に心配するくらいには、私の中のもう一人の私は世間の人気者になっちゃってた」
海もある程度はシエルという配信者がどれほど世間に定着して、そしてどのくらいの視聴数を稼げているかはネットニュースのトピックスだとか、聞いてもいないのにジェネルらから教えてもらえるものだから把握はしていた。
しかし、目の前にいる自分の娘があの正体だとは――。
晴留から告げられる一つ一つの事実が確かにこれまでの日々に納得がいくものではあったものの、なるべく平静を保っている海だったが内心驚きを隠せずにいた。
「でも、そうしているうちに私は大学卒業しちゃったし、お父さんはそれどころじゃなくなっちゃったし。だから、伸ばし伸ばしで今になっちゃった。それは……ごめんなさい。お父さんは毎日が勝負だったからさ、変に私のことを教えて、お父さんを混乱させたくなかったんだ」
「……そっか」
晴留の真剣な――それでも、申し訳なさそうな表情に海は目を細め、腕を組んだ。それ以上の言葉を出すには、海も少し時間が必要で――コップに注がれた茶を含んで、しばらく天井を見た。相変わらず、不気味なまでに白い天井は、見ているとめまいさえしそうだった。
「……配信、少しくらいは見てたよ。ほんの少しだけね。晴留が思ってるような少しとはもっと違う次元での少しだけど。凄い人気だって周りが言うから、ちょっとはね」
「……」
「前にギターの話したことあったよね。……なるほどね。今思うと、なんだかよく話がかみ合わないな、って思ってたよ」
「ごめんなさい。ギターやってるって話したとき、言っちゃえばよかったのに」
「別にいいよ。気にしてないから。晴留なりに事情があったのは、これまでの出来事と今の話でよく分かったからね」
海はそう言って再びビールを飲み、晴留のグラスにもビールを注いだ。
「でも、野球を辞めたお父さん、なんだかつまらなさそうでさ。でも……現場に戻りたいってわけでもない顔してるからさ。……なんか、見てて色々悩んでる気がするんだ。だから……私に――ううん。私っていうより、シエルに、曲を書いてあげてほしいんだ。きっとお父さん、自分の名前がクレジットに出るの嫌だろうからさ、名前を変えてさ」
「……」
「……もちろん、今抱えてるもの、全部が終わってからでいいよ。セレモニーが終わって、お父さんの中で区切りがついたら――シエルに曲を書いてあげてほしい。それで稼いだお金は、うちにまた入れるからさ。そのお金、お父さんの好きなように使って欲しい。私がまだVtunerとして動けるうちにやっておきたかったことでもあるんだよ、お父さんが書いた曲で世に歌を出す、って。こう長いことやってると、流行り始めほどの爆発力はやっぱりないんだけどさ、それでもまだ再生回数、そんなに落ち目ではないし。5年もやってたらまあまあ同じような人だって後からやってくるし、新しいことしてないとみんな目新しい人に流れちゃうんだ。私は周りの配信者と違ってそんなにゲームとか得意じゃないからさ。英語っていう武器はあるけど、それだけで食いつなげられるほど甘い世界でもないし」
言葉こそはっきりしているけれど、晴留の表情にはたどたどしさがあふれ出ていた。機嫌を窺うような表情が徐々に晴留の言葉にも伝染し、最終的には
「駄目……かな……?」
と弱弱しい言葉を吐かせた。
海は天井を見上げ、はぁ、と息を吐いた。
「全部が終わってからでいいんだね」
「うん」
「本当にお父さんの名前を隠していいんだね」
「うん」
「……じゃあ、いいよ。娘に頼まれたことは今まで頭ごなしに駄目と言ってきた事はなかったし、これからもそうだ」
「……ありがとう、お父さん」
晴留は心底ほっとした表情を浮かべながら、次第に笑みを取り戻していった。
「……そのシエルという子にも伝えておいてくれるかな。一番最初にモッキンバードなんて買っちゃって、随分無茶したね、って。俺は、てっきりSGを買ったものだと思ってたから。決して安いギターじゃないし、大事に使っていれば一生使い倒せてもおかしくないものだから、大事に使うんだよ、って、言っておいてあげて」
海の言葉に晴留は思わず目を見開き、そしてどう答えるべきか悩んだ様子を見せた。
バイト代だけではなく、趣味で買っていた漫画やゲーム、そしてお菓子なども少し我慢してお金を貯めて買った、中古の黒いモッキンバード――。
どうしても海と同じものを使いたかった晴留だったが、海の持っている、限定モデルのサイケデリックな緑をしたモッキンバードまでは手が出なかったが、それでも尊敬する父と同じ型のギターを持っていることは晴留にとっては誇りだった。だからこそ、海にモッキンバードの話題をされたことに、晴留はつい言葉を詰まらせた。
きっとこれからも新しいギターを手にすることもあるだろう。それでも――モッキンバードを手放すことは絶対にないだろう――そう改めて晴留は胸に誓った。
「……うん。きっと、シエルも一生大事にすると思う。他のギターを買うことがあっても、他のギターを使うことがあっても、絶対そのモッキンバード、大事にするように伝えておくから」
晴留はそう言いながら、景気よくグラスに注がれたビールを一気に飲み干した。自分に似たのか、酒には強いようで顔色一つ変えないまま続けざまにビールを注いだ。
:
:
「……何か、君にとって最近いいことでも起きたように見えるのだけど」
次々と軽快にボールを捌く海に、犬塚は後ろから声をかけた。
「どうして」
「まるで、先週くらいとはスイングが別人だ。今すぐにでも社会人リーグや独立リーグあたりに戻ったなら、打撃成績上位に食い込めそうだ」
「じゃあ、駄目だね。プロに戻れるくらいのスイングじゃないと。これまでは、それ以下だったってことだろ」
犬塚の言葉に惑わされず、海はバットを再び振り続けた。
昔のようにバットをへし折るほどのスイングではなく、あくまでもセレモニー当日に合わせるような、実戦をイメージしたスイングを続けていた海。
それでもこの数週間、海はバットを何本かは折った。それだけ力んでいるということの裏返しでもあったし、単純に数多くのボールを打ち続けたということの裏返しでもあった。
「でも、本当だよ。とても、もうすぐ一打席だけ立って本当に終わりにするにはもったいない」
「本当に最後の打席だと分かっているなら、最後の打席は自分の理想のスイングでありたいからね」
理想のスイング。そう語る海に犬塚はふとこれまでの海の姿を思い返した。相手として海の打球を見てきたし、味方としても海の打球を見てきた。その中に、自分だったらこれが毎回打てれば――そう思うような打球は何度もあったが、海にとっての理想はあの中にどれほどあったのだろうか――。
「……今まで理想のスイングというものが、君にはあったのかな」
「……その時々ではあったのかもしれないけれど、どれが自分の中で一番理想だったかは……覚えてないね。記憶に残ってないってことは、ひょっとしたら、どれも結局理想じゃなかったのかもしれない」
「……あのサヨナラホームランは最高の打撃ではなかったのかい?」
犬塚の言う『あのサヨナラホームラン』――それはWBCSで放ったサヨナラホームランのことだろう。確かに、自分のキャリアを振り返れば印象的な一発だったとは思う。
でも、それが最高の打撃だったかと言われると、たぶんそれも違うだろう。
「そうでもないかな」
「そうでもない?」
犬塚からしてみれば海のあの一打はこれ以上ない打撃だったように思っていたから、意外だった。
確かに海は別に毎打席ホームランを狙うような打者ではないから、最高の一打がどの打席だったかと聞かれると他にもっと印象的な打席があったのかもしれない。
それでも、普通の人間だったら間違いなくあの打席での一打を最高の打撃と位置づけるだろうから、海のごく普通の切り返しを少し意外に思った。
「仮にあれが俺の中の最高だったとしても、今の自分が全盛期の頃の理想のスイングを意識してもどうしようもないんだ。人としての基礎は変わってないし、自分の中で理想とする打球というものは常にあるつもりけど、当然、あれから少しくらいは身体も衰えてるし、怪我からのスランプで長いこと苦しんだ事実がある以上、理想の打球はあっても、理想のスイングっていうものは、今の自分に出来る一番の妥協点になるだろうし、それがどこなのかはもう少し俺自身が練習の中で見つけないといけない」
「……分かってはいたつもりだけど、君は、ひどく現実主義者なのだね」
「ああ。誰よりも、現実の冷たさや厳しさを見てきたつもりだよ」
「でも、皆そこまで自分に厳しくは生きてはいないよ。もう少し、自分に優しくしてもいいと思うのだけど」
「その優しさが自惚れを生んで、俺が俺自身を滅ぼしたんだ」
会話をしながらも、犬塚が突然タイミングをずらしたチェンジアップにもしっかりと流して対応した海。犬塚は海のその集中力に感心した。
打撃面で言うと、自分とは比べ物にならなかった世界にいた海。きっと、自分の知っている世界とは違うものが、海の目の前には広がっているのだろう。海にとっての『最高の一打』というものは、きっと、本当のところは存在しないのかもしれない――そんなことを犬塚はふと思った。
「……私が君のように自由自在にボールを捌けていたら、どんな世界が広がっていたのだろうね」
「大していいものじゃないよ。打てることが当たり前になったら、人間、冷たいものだ。4割が当たり前になった途端、3割5分を不調だと言われるようになる」
「では、どうせ打てないと期待されないのと、どちらが君にとっては幸せだったと思う?」
さらにテンポを狂わせるため、今までは140km/h前後のボールを繰り出していたところを突然160km/hのストレートに切り替えた犬塚だが、海は球筋を見て即座に対応し、しっかりとジャストミートしてはじき返した。
これも弾き返すか――。
犬塚は内心驚嘆しながら、海をじっと見つめた。
「そのときは、野球をやってなかった俺が、きっと一番幸せだったと思うよ」
「……君らしいね」
犬塚は拍手でもしたい気分だったが、海を茶化してしまいそうだったのでそれはやめておいた。
もう練習なんてしなくていいのではないかと内心思い始めていたが、いかんせん、練習に突き合わせたのが自分たちなのだから、海のやりたいように練習をさせ続けた。
きっと海の中ではまだ、もっと今の自分にもそのスイングは上を目指せるものだと思っているのだろうから――。