「……」
前の日から大阪に入っていた海は、家族を連れて甲子園のグラウンドへ立っていた。
「戻って……きちゃったね」
「ああ。でも、次はもう戻らない」
ついさっきまで春の甲子園大会の決勝戦が行われていたグラウンド。長野の城西上田と埼玉の拓智未来とがぶつかり合った試合は、延長11回――15対14という最後まで息の詰まるような展開の続く壮絶な打撃戦を見せ、城西上田が優勝旗をもぎとった。
それをVIP席で見ていた海一行は、閉会式が終わって観客が去った後、グラウンドへと案内されていた。明日のセレモニーで皆が緊張しないように、あらかじめ今日のうちにグラウンドに立っておこう、というスタッフからの計らいだった。
かつて華耶が立ちたくても立つことのできなかった――自らの手でその場へ立つことを諦めた甲子園の土。華耶は遊撃手の定位置に立つと、ゆっくりとしゃがんでその手をグラウンドにゆっくりと手形をつけるようにして触り、そして気が済んだのち天を仰いだ。
「一塁って、こんなに遠かったっけ」
「遠いよ。何度も投げるのが嫌になるくらい、遠かった。外野みたいにちょっと送球がずれることすら許されない。一塁がやる気のない奴だと、送球がちょっとずれた球をあっさり捕り逃してこっちのエラーにされることだってある」
「……海くん、高校の頃は一塁しか守ったことなかったのによく立ってたよ、こんなとこ。ボール捕るのうまいからってだけで立つ場所じゃないよ、ここ」
「ああ。……すすんで思い出したい思い出じゃないけどね」
「あはは。……そうだよね。辛かったよね、きっと。海くんよく、打つほうは3割打てば褒められるのに守備は9割ですら怒られるんだから、って守備のこと随分気にしてたもんね。……あたし、ここからどうやって一塁に向かって投げてたか分からなくなったよ」
「投げてみるか?」
「……」
海の問いかけに華耶は一度海を見つめたあと、遠くで見守るスタッフに目をやり――そして、海に向けてこくりと頷いた。
「分かってると思うけど、転ぶなよ。華耶一人の身体じゃないんだから」
「大丈夫大丈夫。まだそこまで重くないし、動きに制約かかってないから」
「俺から言っといてなんだけど、そういう問題じゃないんだぞ。無理するなよ」
海はスタッフにグローブとボールを準備させ、さすがに遊撃からだと不安だということで華耶を二塁に立たせて自分は一塁に立ち、そこからキャッチボールをはじめた。
小柄な身体から、スナップのよくきいた軽快なボールが手元に返ってくる。何度も家で軽くキャッチボールをしたことはあったが、きっとこれまでも自分の居ない間、こうして投げる練習だけはしてきたのだろう。ボールの勢いに『どうやって投げていたか分からない』という言葉ほど怠けていた感覚がまるでない。
「もっと山なりに投げてくるもんだと思ったから驚いたよ。いい球投げるね」
「えへへ」
海は華耶に極力負担をかけないよう、できるだけ山なりのボールを返すが、華耶から返ってくるボールは『もっとちゃんとしたボールを返せ』といわんばかりに相変わらずいい送球が返ってくる。
「せっかくの思い出だもん。あたしが立ちたくても立てなかった甲子園でキャッチボールをさせてくれた。しかも、夫婦でね。生まれてくる子には、この思い出を託して野球してほしいなって思いはちょっとあるよ。海くんは、あんまり子供たちにはすすんで野球させたくないと思ってるのは分かってるけどさ。……まあ、野球でもなんでもいい。なんだっていいんだよ。夢って、形を変えて叶うことってあるんだよってこと……お腹の中の子にまで伝えたいなって」
「……華耶の思うような子に生まれてくるといいね。今までの子供たちも皆いい子だったし、俺や華耶が思うように育ってくれた。これから生まれてくる子も……そうなってくれるといいね。まずは無事に生まれてきて欲しいけれど」
「大丈夫だよ。あたし、頑張るから。それに、これが最後じゃないかもしれないし」
そう言って華耶はひときわ鋭いボールを投げてきた。海はそれに少し圧倒されるようにしてボールを受け取った。
「冗談きついよ」
と海は華耶の言葉に苦笑いを浮かべた。
「でも、これが最後にならないくらい――これからも、夜通しあたしのこと――愛してほしいな」
「バカ」
海はそんな華耶の言葉に思わず清兵衛たちに向かって投げていたような鋭いスローイングをしかけ――すんでのところでリリースするのを抑えた。
子供たちが続けざまにキャッチボールをしている間、海は外野のあたりを歩いていた。去年はまだこのあたりをランニングで走っていたと考えると、たった1年の間に自分の身分が完全に変わってしまったことを改めて思い知らされた気がした。
《落ち着かない?》
《まあね》
海のすぐ近くをオルガのカメラが追い、複雑な胸中を秘めた海の表情をしっかりと収めていた。
《未練、湧いてきたりした?》
《仮に未練が出てきたとしても、ここじゃもう野球はしたくないよ。勝負にこだわってしか野球をできない日々なんて、もうごめんだ》
《それ、日本のメディアにも同じように言える?》
同じくしてカメラを回しながら海を追い続けているメディアを見ながら、海はオルガの問いに対して苦笑した。
《もちろんだよ。俺は……一人の父親に帰るんだから。次にバットを握らされるのは、きっとOB戦だろうけど、それはきっと俺のキャラじゃない。……分かってるんだよ。俺には勝負師で、孤高の打撃職人であり続けて欲しいって皆思ってる。打撃職人でもなんでもなくなった俺のスイングになんて、何の価値もないからね》
《そんなこと……》
《だから、俺はもう勝負師にも職人にもならない。華耶に与えてやれなかった30年を取り戻す日々がこれから始まるんだ。日本のメディアにだって同じようなことを散々言ってきた。今更、お前たちの前と日本のメディアとで言うことを変えるなんてこともしないよ。本心だ》
海はそう言いながら、バックスクリーンを見上げた。
何度も打球をぶち当ててきたバックスクリーン。旗はいつもどおり風でゆらめいている。30年の間に、スタンドやフェンスに提供していたスポンサーの企業もいくらか様変わりし、いつの間にか企業ロゴが変更になった企業なんかもそれなりにあった。
《さっき、華耶も言ってたけどさ。こうしてみると結構遠いよな、打席からここまで。現役のときはそんなこと全然思わなかったんだけどさ……俺、打席からこんな距離を飛ばしてたんだなって考えると、随分これまで無茶してきたんだなって思うよ。もちろん、俺よりもっとホームラン打ってる奴はたくさんいるよ。でもね、俺はもともとホームランを量産するタイプではないと自分で思っていた。よく、こんな距離まで何本も飛ばしたもんだと思うよ。自分が現役の間に何本のホームランを打ったかなんて、もう忘れちゃったけどさ》
海はそう言いながらフェンスにもたれかかった。
380本という数のホームランのうち、どれほどの数をこの球場で放ってきたかも、そもそもこれまで積み重ねてきた380本という数字そのものも、海の頭にはなかった。そんな表向きの数字よりもただひたすら勝利にこだわってきた結果なのだろう。
オルガは一応その数字をすぐ答えられる状態にはあったが、教えても野暮だろうと黙っていた。
《まだきっと、お前は俺のこと撮り足りないって思ってるだろうけどさ。今日まで、よく懲りずに俺のこと撮り続けてくれたと思うよ。俺、お前が思ってるほどそんなに面白い男じゃなかっただろ。英雄というには、無様だっただろ。よく、最後まで付き合ってくれたと思うよ》
《ううん。別にいーよ。これが私の仕事だからね。むしろ、ヨッシはよく包み隠さず出してくれたと思う。正直、怪我の時点でうちらの取材ももう終わりかなーって思ってたからね》
オルガはそう言いながら、笑みを浮かべた。カメラで顔を隠しながらも、ニッと白い歯を見せている。
《撮影が終わったら向こうに戻るんだよな》
《まーね。さすがに引退後の姿を延々撮ってても、ヨッシに悪いし。もともとはヨッシの大事なシーズン1年を撮るだけの企画が、まさかここまでのことになるとはうちらも思ってなかったし、こうしてヨッシのプロとしての最後を撮れたら、うちらとしてもあとはもうほぼ終わりかな》
《じゃあ、やること終わったら、とっとと帰ってくれ》
《ひどい言い草。まー、そーだね……強いて言うなら、子供が生まれそーな時にまた来よっかなって思ってる。企画としてはたぶん、そこで最後の区切りにしたほうがいいかなと思ってるから》
《迷惑なやつ》
海は鼻で笑いながらオルガを一瞥した。
「おはようございます。眠れましたか?」
「なわけないだろ」
「でしょうね」
「分かってるのに聞くなんて悪趣味なやつだね」
「そういう仕事なんで」
翌朝、家族よりも早く起きて、ホテルで朝食をとっていた海に木村が同席していた。最後の日を撮ろうと、どこのメディアも距離こそとっているが、あちこちでカメラの視線を感じる。
他の新聞社に密着されるくらいなら木村に密着されてたほうが幾分マシだ、と海は最後の日の新聞社からの密着は木村を指名していた。今更変に他の記者からあれこれと詮索されたくもなかったのだ。
「実は12月に挙式することにしたんですよ、僕も」
「へぇ」
「ひっそりとですけどね。先輩もよかったら来て下さい。親がちょっと結婚に難色示してるので、いっそこの際、家からも出るつもりでいるんです。もう俺も随分歳ですしね」
「なんでそんな忙しい話を今」
「一般人に戻った先輩はきっと、僕とは付き合ってはくれないでしょうから」
「別に、食事くらいならいいよ。お前がこれから一般人に戻った俺のことをあれこれ探ろうとしないならね」
海は朝食のサラダとローストビーフ、そしてスクランブルエッグを交互に食べながら木村を見つめる。
「……本当ですか?」
「お前がいなかったら、俺はあの日おかしくなってただろうからね。それだけは本当に感謝してる」
「……やめてくださいよ。今、泣くところじゃないんです」
「勝手に感極まってるのは、お前だけだよ」
海は木村が早くも声を潤わせていることに呆れながら、食事を続けた。
「で……調子、どうですか」
「これ以上お前が俺にちょっかい出さなければ大丈夫そうだよ」
「そう言われても……これが俺の仕事ですから」
「今にも泣きそうな声してる奴が言うセリフかよ、それ。お前には明日があるかもしれないけど、俺は今日で本当に終わりなんだから」
「分かって……ます……よ」
ハンカチで目の辺りを拭いながら木村は鼻をすすらせた。
「みっともないなあ、おい。お前、それでも中央紙の記者かよ。まだ今日の出来事なんて始まってないのに。お前……そんなんで、俺の最後を追えるのかよ。お前、少しくらいは成長した気でいたのに、まるで変わらないな」
海は心底呆れながら木村の様子を目で追いながら、食事を続けた。
「お前には、俺の最後を追って、そして書く役目があるんだからな。地方紙だってきっと俺のこと書きたがるかもしれないけど、中央紙には中央紙のスタンスで俺のことを書くんだろ。お前、事実上俺の専属メディアみたいになってるんだから、しっかりしてくれよ。お前がそんなんじゃ、俺、消化不良で終わりそうなんだよ。もし最後まで俺についてくるつもりならしっかりしてくれよな。オルガの前でそんな顔してたら、オルガに全部いいとこ持ってかれるぞ。あいつらは球団公認で取材してるんだから、いざとなったらあいつらが割り込んでくることだってありえるんだぞ」
海はそう言って立ち上がり、食堂から出て行った。遠くからオルガたちのカメラもこちらを見ていたが、海は今の一連の流れをあまり使って欲しくなさそうな顔を浮かべてやった。
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「forever25ユニ、ですか。これ……本人にはサプライズなんですよね?」
真悟は海のよく着ていた黒いジャケットをモチーフとした、黒を基調としたユニフォームを眺めていた。背番号25で統一されたそのユニフォームに、真悟は複雑そうな表情を浮かべた。
集合よりもだいぶ早く来ていた真悟とジェネルは、二人きりのミーティングルームで腕を組んでいた。
「嫌がると思いますよ」
「そんなこと言ったら、そもそもセレモニー自体を嫌がるだろうからさ」
ジェネルはミーティングルームに飾られたそのユニフォームをじっと眺めた。
ミーティングルームに飾られた花束。びっくりするほど――という言い方はあまりにも海に対して失礼なのだが、同業者からよりも外部からの花束のほうが圧倒的に多いその花束。
その中に、清兵衛のものはなかった。
田中と犬塚――あとは、行きつけだった洋食屋だとかケーキ屋だとか、メディア各社だとか――同業者以外からの花束ばかりが目立っていた。
当然といえば当然なのだろうけれど、その中には前野や今野の花束なんかも見当たらなかったし、チームOBの花束すらもどれほど探してもほとんどなかった。チーム出身者としてめぼしい名前があるとしたら、せいぜいあの声の大きかった先発投手くらいだ。
海が他チームとの交流を極力行ってこなかったこともあり、WBCSに二度出場したことがあるというのに、送られてきた花束というとWBCSで監督を務めた者と、そして決勝戦で火花を散らしたアメリカ代表の監督からのものがある以外には、あれほどの功績がありながら海の歩んできた道を示すように、同業者からの花束はほとんどなかった。
野球選手たちからの花束が少なかったせいか、それとも単純に量が多かったせいか――贈られてきた花束の中で、DOE'zからのものと、ヘビーガンFC一同からのものがひときわ目立っていた。
「ほんと、繋がってる世界が広いくせに、知り合いが少ない人でしたよね」
「他球団からの知り合いなんかもろくにいないもんね。WBCS二回出てるんだから、少しくらいそこで誰かと繋がっててもよさそうだったのに……まあ、海さんらしいって言ったら、らしいけど。でも、当時の日本代表の監督しか花束がないって、よっぽどだよね。別に、嫌われてたってわけじゃなかったはずなのに」
「佳井さんのほうから絡みにいくタイプでもないですし、はじめてメンバーに選ばれたときなんかは佳井さん、ゴリゴリに全盛期だったときでしたよね。テレビ越しに見てても打席での圧がやばかった時期ですし、きっとあんなんを前にして、誰も佳井さんについてこれなかったんでしょう。……俺たちだって、佳井さんにはついていけませんでしたから」
「……私は、ついていこうとはしたよ。そこは勘違いしないでほしいな」
「それは多分、周りも同じだと思いますよ。きっと、ついていこうとはしたんです。でも、誰もついていけなかったんだと思います。……本当についてこれたのは、ジェネルさんくらいでしょう、きっと。WBCSの短い期間の間に佳井さんを理解しようとしたって、きっと、無理ですよ。俺たちが何年かかっても理解できないんですから。でも――」
真悟ははぁとため息をついて、腕を組みなおした。
「ジェネルさんが15年早ければ、って言ってましたよね。俺ももし、20年早ければ――。もし、佳井さんが、皆が思ってるほど孤独じゃなかったら――皆が勝手に作り出した、佳井海という孤独が、言うほど孤独じゃなかったなら、って時々思うんですよ。あの人、俺たちだけは知ってるように――皆の皆が思ってるほど、一人じゃないですもん」
「……たらればの数だけ、悔しさがあるんだよ。怪我のことだってそうだし」
ジェネルは花束の上に飾られている、WBCS決勝戦でのサヨナラホームランの写真を眺めた。
ごく当たり前のようにスイングし、ごく当たり前のように打球の行方を見上げた普段どおりの海の姿。国際試合という舞台ですらいつもどおりの海だったそんな写真が、佳井海という男がどんな野球人だったのかをよく表しているように見えた。
「……もっと、強くならなくちゃね。海さんが獲りたかった、てっぺんをつかむために」
「……」
ジェネルはそう言って、早めの自主練習をするために着替えを始めた。真悟もまた、着替えを始めた。セレモニーが午前11時から行われることもあって、朝早くに練習をしなければ今日はまともに練習する時間がなかった。
「今日だけは、みっともない試合できないからね。分かってるよね?真悟くん」
「違いますよ。今日も、でしょう。一試合も落としていい試合なんてないって、佳井さん言ってたじゃないですか」
真悟の声にジェネルは噴出して笑い声をあげながら――
「わかってるじゃない、真悟くん」
と手を叩いた。