海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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221・47000人が望んだ世界

「うっわ……着たくないな、これ……。……なあ、本当に着なきゃダメか?」

ジェネルの予想通り、海はサプライズのユニフォームに怪訝な表情を浮かべた。今更こんなチームで全員が背番号25をつけて試合をするなんてことに一体何の一体感が生まれるというのかという疑問点もあったし、そんなことをする意義が海の中にはなかなか浮かばなかった。

大体、こんなことくらいで団結できるならば、こうした催しのユニフォームを144試合着ればいいだけの話だ。結局は何か理由をつけて団結を演出したり、観客を呼び込む材料がほしいだけの球団や上の人間の思惑だけがそこにあって、本当のところは引退する自分の意志なんてのは最後までどうでもいいのだな――と海は思った。

 

「大体、サイン入れるとき白ペンじゃないといけないじゃないか。あるのか?白ペン。……ないってことはないと思うけどさ。こんな時くらいしか白ペンなんか使わないのにさ。勿体無いことをする」

海は鏡に映る自分の姿に苦笑しながらなんとなくポーズをとってみせた。背中に映る、金の糸で刺繍されたKAI.Yというネームと、背番号25が若干激しめな主張をしている。

 

この背ネームとも背番号も、今日で本当に最後になる。別に背番号に何かしら思い入れがあったわけではないが、多くの人間がかなり後ろのほうの背番号を手にする中で、自分は25という比較的若い番号を入団時点からもらうことができた。そこにそれだけの期待があったのだろう。

別に特定の背番号そのものにこだわりがあったわけではないとはいえ、それなりに見栄えのいい数字を背負ったまま海は結局、入団から引退までずっと変えずにやってきた。途中で変わったのは、自分の名字だけだった。

 

背番号を見栄えのいいものに変更したいという事情は海にもそれなりに理解できるものではあったが、背番号ひとつ変えるだけでもグッズなんかも作り直しだし、過去のグッズを持っていたファンなんかはグッズを買いなおさないといけない。

自分が荒屋から佳井に苗字を変えた時だって、ファンはグッズを買い直すことになってしまったわけだし――自分の都合で過去のグッズが使い物にならなくなるような状況を海はあまり作りたくなかった。きっと63番だろうが、74番だろうが、自分に与えられた背番号が何番であっても、自分は変えなかっただろう。

 

そうしたことを考えていた海にとって『背番号25へのこだわりは?』というメディアからの質問には長い間苦労した。そのたびに気の利いた言葉が見つからなかったし、大体、普段そこまで生活の上で目にするような数字でもなければ、25という数字に何かしら思い入れがあるような生活をしてきたわけではないから、どうしようがないのだ。

 

ファンにグッズを買ってもらうのが野球選手の仕事のひとつでもあるから、グッズを買いなおさないといけない状況をなくするため、なんて言葉は球団にとってはあまりいい言葉ではない。だからこそ、海は『特にないです』と言い続けることしか出来なかった。

でまかせにあれこれしゃべることが出来る他の選手をうらやましいと思う反面、よくもそうペラペラと思ってもないことを言えるものだ――と海は思った。

ひょっとしたら、中には本当に思い入れがある人もいるのかもしれないけれど、恐らく皆が皆ちゃんとした思いで背番号を誇りに思っているわけではないだろう――自分のチームの空気を見ていると、海はそう思わずにはいられなかった。

 

早めにロッカールームに入り、着替えた海。ぞろぞろと練習を終え、ユニフォーム姿に身を包んだ選手が戻ってきて、なんとなく軽い挨拶を交わしたものの、海もまた、なんとなく居心地の悪い空気に、早くセレモニーが始まらないだろうかと思いながらそわそわしていた。

 

もう引退したんだからわざわざこんな大きなイベントをしなくても――そんな中堅どころや若手の目線だって感じるし、海だって出来ることなら年をまたいでセレモニーなんてしたくなかったから、この日の主役ではあるものの、あまり部屋の中心にはいたくなかった。

変にそうして『俺に気を遣え』みたいな大物ぶったこともしたくなかったので、自分の意志と、もう半分はそうした周囲の空気に押し出されるようにして、部屋の隅のソファで座って、それ以上近づかないで欲しいというオーラを出していた。

シリンダーの中で圧縮されたスポンジのような窮屈さから、海はたった数十分のこの空気が地獄のようだった。

 

ジェネルも真悟も、海にあまり話しかけることはしなかった。変に話しかけて海を乱すことをしたくなかったので、別によそよそしい態度を取っていた訳ではなかったが、仮に話しかけるタイミングがあるとするならば、全てが終わってからにしようと思っていたようだった。海もまた、二人が積極的に近づいてこないことに少しだけ安心を覚えながら、最終的には目を閉じてしまい、完全に周囲の空気をシャットアウトしてしまった。

 

~~~

 

ああ、恥ずかしい――。

 

電光掲示板いっぱいに表示される、海のこれまでの軌跡。

プロ1年目――開幕戦、エンペラーズ相手に延長戦で放ったプロ入り初ヒットの映像が映し出される。今改めて自分で見てみると、よほど肩に力が入っていたのだろう。フォームにも迷いがあって、随分みっともないヒットだ。きっと今も、実は自分のフォームを客観的に見るとそんなに変わってないのかも知れないけれど、そうして自分のプレーが延々と映し出される光景は海にはなかなか耐え難いものがあった。

 

観客としてはそれらが嬉しくもあり、こらえきれない惜別の念も入り混じって時折ため息のような声が漏れたりもした。

 

〈イエエエエエエエエエエエエイ!!!!〉

〈身長198cm!体重78キロ!〉

〈長所!!イケメンなところォオオ!!〉

〈短所!!コミュニケーション能力の欠如ォーー!〉

〈野球界に舞い降りたキングオブ人見知りぃ!〉

〈全てをさらけ出したそう、この俺はァー!!!!!!〉

 

「……最悪」

 

プロ入りして間もない頃、ファン感謝祭で流行の芸人の格好をさせられただけではなく、本人のネタをもじった芸までやらされたときの映像が流れると、会場は一気に爆笑の渦に切り替わった。今の若手や、若いファンたちからしてみたら、自分がこんなことをやらされていたとは思いもしなかっただろう。

こんなもんなんで使ったんだよ――と海は帽子の上から頭を掻いた。

 

カメラもよく自分のこれまでを撮っていたもので、清兵衛との食事シーンや、ジェネルとの練習の場面、未だに売られ続けている自分の『正直言って』シャツを紹介させられたときの映像、ホームランパフォーマンスとしてやっていたI love youのハンドサイン――そんな、自分でも多少カメラのことを覚えている場面だけではなく、感謝祭でマルコやニコと演奏したときの映像なんかもそこには組み込まれていた。

いつ撮ったんだよ――と恥ずかしくなるような、試合後一人でうなだれる海の映像に、思わず審判にストライクゾーンの判定を疑う場面の映像、まさかカメラが回っていると思わなかった球場内コラボメニューの試食回の映像などが延々と流れていた。

 

WBCSのサヨナラホームランの瞬間、その次回大会のWBCSでの満塁ホームランの瞬間――。

キャンプでバットを折りながら、思うようにいかず声に出さずに顔だけで吼えた瞬間――。

前野に露骨に干されていた頃、届かぬダイビングキャッチに悔しがった瞬間――。

ベストナイン授賞式での硬い表情のままの会見――。

そして、相変わらず硬い表情のままの引退会見――。

 

〈佳井選手――〉

〈長々と過去をほじくり返されるのは趣味じゃないと思ってましたが〉

〈スタッフ一同、頑張って映像を凝縮したところ、それでも15分を越えてしまいました――〉

〈今まで色々無茶聞いてやった分、最後くらい許してね――

〈球団広報一同〉

 

最後にブラックアウトした背景に白文字でスタッフの遊び心が入ったテロップが流れると、再び球場は笑いに包まれ――

最後に、事実上最後になった試合、海が悔しがりながらフォアボールになった瞬間の映像と、三塁めがけて走り出した瞬間の映像が途中まで流れてフェードアウトし、それにかぶせるようにして――

 

〈佳井選手、27年間ありがとう〉

という文字が流れた。

会場が大きな大きな拍手に包まれ、海はそれに対して帽子を取って球場全体を三度ほどぐるりと見回し、応えた。なおも拍手はやまず、大雨のようだ。

改めて、27年という時間の長さを10分弱の動画にまとめられると、それでもこのくらいの長さになってしまうのだな――という思いもあったし、逆に、これほど苦労して生きていても15分くらいにしかならないくらい、人間の人生というものは割とあっという間なものだ――とも思った。

 

続けて、引退にあたって、相変わらず金髪の似合っていない田中から、相変わらずカメラ慣れしてなさそうなコメントを寄せた映像が流れた。

これからも会おうと思えば会える距離だからこそ、別にこの代表コメントが田中でなくてもよかったのに――とは思ったが、考えてみたら今連絡が取れて、曲がりなりにも親しい間柄にあった当時の選手というと田中くらいしかいないから、仕方ない。自分の友好関係など、そんなものなのだ。

 

海の延々と続いた映像とは対照的に、引退に寄せて当時の自分を知る、対して自分がよく知らない球団OBや、WBCSで共に戦った他チームのOBや選手からのコメントはあっという間に終わってしまった。

続けて番組の企画や球団の企画で自分にイラストを寄せてくれた漫画家やイラストレーターたち、音楽番組で少しだけ競演した経験のある大物ボーカルたち、別に交流はなかったが球場で球団テーマソングを歌ってきた歌手たち、そしてファンだったという芸能人たち――言ってしまえば悪いが、それぞれのメッセージが場を繋ぐようにして映像が流れた。

そしてその最後に、DOE'z……というよりは、マルコとニコがコメントを寄せた。申し訳程度に、メインメンバーの真中と坂本からもコメントをもらい、会場はまさかのサプライズに今一度大きな拍手に包まれた。

 

海は内心、他の交友関係に満ち足りていた選手たちの引退なんかも実は演出でそう見えているだけで、本当のところは尺を稼ぐために出演させられている人間なんかもいるのではないだろうかと思ったりもした。

特段、偉大な選手というものの引退にも、身近な選手の引退にも自分は特に興味がなかったから、その引退セレモニーの内容をこと細かくは覚えてないし、いかんせん去年のファン感謝祭も自分は怪我の治療中という事情から欠席してしまったから、自分と引退の時期が同じだった選手がどのようにして去ったのかも分からない。

 

清兵衛だって、本人の意向でちゃんとしたセレモニーはせずに球団を去ったし、田中だって怪我やタイミングの都合から、一般的な引退セレモニーなんかはしていない。

一般的な、という言い方をするのは田中には失礼なのだが――去年の秋の暮れに、NaOtomo本人の希望もあり、甲子園という地で結婚式を挙げた田中は、結婚式と引退セレモニーを同時に行うという思い切ったことをしてみせた。

 

式を挙げる時期を逃してしまったから――という理由もあって、その田中の引退セレモニーには一般客は入れなかった代わりに、インターネット中継のチケットを手に入れた者だけが配信で結婚式兼引退セレモニーを見ることが出来る、という行動に出ていた。これは田中のためというよりも、球場につめかけたNa0tomoのファンが何をするか分からないから取られた措置でもあるらしいということを後に海は聞かされた。

 

あくまでもメインが結婚式ということもあって、自分と長年ここで戦い抜いたはずの田中のセレモニーでさえもごく控えめに行われたから、結局海の中で『このチームで戦い抜いた選手』としての行われるセレモニーという印象が、あまりないのだ。

キャリアを通してチーターズに居続けた選手はこの27年、海の知ってる中ではほとんどいない。そのほとんどがチームを出て行ってしまったからだ。別に球団が外様の選手に冷たくしてきたわけではないにしろ、他のチームではチーム一筋にやってきた選手に対してはそれなりに盛大なセレモニーを開いているということを聞いたから、チーターズにおいて同じ条件の選手に与えられるセレモニーなのかどうかは海にはよく分からなかった。

 

「……もしかして、田中か?」

 

ふと、海はその脳裏に田中のことがよぎった。

映像として登場した田中が、この後登場して自分に向かってボールを投げる相手を引き受けるのでは――そんなことを海は考えた。

確かに簡易的なセレモニー自体はやったにしても、正式な引退セレモニーをもう一度したがっているのではないか――だからこそ、この一ヶ月近く、田中は自分の前に姿を現さなかったのではないか――海はそんなことを考えていた。

 

そうこうしている間に、8年前に優勝を決めた時のスタメンが発表されながらオーバーハンズの生演奏が終了した。大きなゴンドラに乗って演奏していた彼らの演奏や、バックスクリーンに映し出されていた、本来そこに立っているはずだった海のイラストをフルアニメーションで描いた漫画家・エルキャンプの映像なんかも、考え事をしていた海にはもはやまったく聞こえも見えもしていなかった。

 

スタッフからバットが手渡されたことで現実へと引き戻された海は、一瞬はっとした表情を見せて混乱を見せたが、すぐに現実を取り戻し、バットをじっと見つめた。

現役の間使い続けたバットと寸分の互いのない――規定ギリギリの長さではあるが、長距離打者専用として作られたようなバットではなく、あくまでも海らしく、ミートポイントを広く取った巧打者向けのバットだ。今日のためにわざわざ自分のサインがわざわざバットの刻印にされている。

 

〈それでは――佳井選手、現役最後の打席をやり直すにあたって、こちらの方にお越しいただきました!ご会場の皆様、ライトスタンドをご注目ください!まもなく、リリーフカーが発車いたします!〉

 

ドライアイスだろうか――大げさに白煙が炊かれ、その中からリリーフカーのヘッドライトが突き破るようにして近づいてくる。

よほど大きく炊いたものらしく、深い煙がもくもくと上がり続けていて、バックネットのあたりにいた海からは、その姿はまだ見えない。

 

一方で、外野のあたりからその姿を確認した観客からは、地鳴りのような歓声と、先ほどまでとは比べ物にならない拍手が鳴り響き始めた。

だとすると、投手としてマウンドに向かうのは清兵衛か、ジェネルだろうか――そんなことを海は考えていた。

それでも、二人が使っていたものではない、聞き覚えのない入場曲が流れ始める電光掲示板に、海は思わずその映像を注視し、思わず震えた苦笑を浮かべた。

 

「――マジかよ」

 

ゆっくりと近づいてくるリリーフカーはまだその表情を読み取るには距離がありすぎるが、自分の知っている姿からは随分髪の色も変わり、長く伸ばしていた髪は少し梳いたように見えるその風貌が徐々に近づいてくる。

点滅しながら切り替わったスコアボードに刻まれたその名前が本当に本人なのかどうか疑わしく思いながら、海はただただその事実に笑うことしかできなかった。

 

〈チーターズ――マウンドに上がりますピッチャーは――浅井――9番――ピッチャー――浅井――背番号――101――〉

 

ウグイス嬢からのコールに会場は一気に沸き、浅井コールが会場全体から鳴り響く。きっと、海だけではない。誰しもがその姿がもう一度甲子園に戻ってくるとは思っていなかったこともあり、まるでこれから打席に立つのが海ではなく薫なのではないかというくらいに薫コールは鳴り止まなかった。

 

リリーフカーから降りた薫を祝福するかのように、今一度大きな拍手が響くと薫は球場全体に深く一礼し、ゆっくりと、一歩一歩マウンドへと近づき、プレートの上に立った。緊張した面持ちで、天を見上げ、しばらくそこから首を下げずにいた。

ようやく正面を向いた薫を見た海は、一度バットをスタッフに預け、マウンドへとゆっくり向かっていった。この距離でも分かるくらい、薫の表情は早くもぐしゃぐしゃだ。

 

「よく戻ってきてくれたよ、本当に」

「佳井さんと同じで、きっと私も、もうマウンドには戻りません。そのつもりで来ました」

「……何言ってるんだよ、バカ。投げられるようになったから、ここに戻ってきたんだろ。現場に復帰しないといけないんだよ、お前は」

海はそう言って右手を差し出した。

 

「……ですが、佳井さんの思ってるような球はきっともう投げられないです。一球で、しっかり私の野球人生にピリオドを打ってください」

薫もそう言って、右手を差し出した。硬い握手を交わしたあと、一度は互いに肩を引き合うことを考えたのだろう、ぎこちない動きをしたあと――それはすべてが終わってからのことだ――と判断したのか、すぐさま腕を解いた。

 

「……変に焦らすと、おかしな空気になるからね。俺も、一球で終わらせるつもりでいた。お前が何投げるつもりでいるか分からないけど――互いにキリがいいように、一球で終わらせよう」

「お願いします」

「こちらこそ」

そう言って打席へと戻っていく海。徐々に薫コールから応援団は佳井コールへと代わっていき、何年も耳にしたその応援歌が大音量で鳴り響き始める。

 

〈3番――サード――佳井――3番――サード――佳井――背番号――25――〉

 

その名がウグイス嬢によってコールされた瞬間、会場のボルテージは一気に高まった。WBCSの決勝戦ですら味わったかどうかくらいの一体感と音量が海を包み込む。

海は三塁側ではなく、振り返って一塁側のベンチを見つめた。甲子園、ビジター側の一塁ベンチには心配そうに見つめる華耶や子供たちがユニフォームに身を包んで見守っている。左打者の海の背中をしっかり見納めるためにわざわざ誰もいない一塁ベンチに家族を連れたのだ。

 

「……こんなことになるなら、去年のうちにスパっとやめといたほうがよかったよ。やりづらくてしょうがない」

ミットを構える真悟に海はそうぼやいた。

「佳井さんみたいなのを黙って引退させるわけがないってことですよ。諦めてください」

真悟はそう言うと、両手を広げて薫とサインの交換を始めた。

 

「……」

風はレフトからライトに向かって、やや強めの追い風が吹いている。風に押されて打球が戻ってくるようなことはないだろう。

海は薫の覚悟が決まるまでの間、バットを大きく構え――その時を待ち続けた。

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