「――ところでさ、ずーーーーっと気になってたことがあるんだ」
「何?」
まだ天王寺に引っ越したばかりの頃。華耶は部屋でギターをかき鳴らしている海を見ながら、CDを手にした。滅多にない、眉間にしわを寄せた犬のような表情で、しばらくうーんとうなったままその茶色っぽいデザインのCDジャケットを眺めている姿に海は少し気が散ったものの、特に構うことなくひたすらギターを歪ませていたのだが――あまりに不機嫌なままだったので、海は仕方なくギターを下ろし、華耶に構ってやることにした。
演奏そのものが嫌だったのか――と思っていたのだが、なおも不満げに、華耶はパッケージと海とを交互に見返して、うーんとまだうなり続けていた。
「……なんだよ」
「ねー海くん。海くん確か、あたしの前に付き合ってた人がいたって言ったよね」
「ああ、まあ、うん」
あまりその話は思い出させてくれるな――と海は嫌そうに応えた。
「あたしの記憶の限り、確か、あんまりいい感じの仲じゃあなかったんだよね」
「名前も思い出せないくらいにはね」
「そこは思い出してあげようよ。一応、初恋だったんでしょ」
「恋と言うには向こうからの一方的な愛情すぎたよ、あんなのは」
「うーん」
まだ何か不満らしい。言いたいことがあるなら言えばいいのに――と、海は珍しく遠まわしなままの華耶の様子を不思議に思っていた。
「じゃあさ。なんでsan sebastianなんか入場曲にしてるの?」
「なんでって……なんで?」
今になって実はもとからメタルが嫌いだ、ということもあるまいが、フィンランドのみならず日本でも爆発的に流行ったバンドの代表曲のひとつに華耶は突然不満を申したてた。
とはいえ、華耶が自分の音楽にわざわざ合わせてやっている可能性だってあるから、海は「あんまり好きなジャンルじゃない?」と聞いたが、華耶は「そういうわけじゃないんだけどね……」と、相変わらず歯切れの悪さを見せた。
「はっきり言うけどさ。珍しいよ、今日の華耶。珍しいっていうか、なんか……様子おかしいよ。何?ジャンルそのものじゃないなら、このバンドに不満があるの?それとも、なんかもっと別のことに不満があるの?」
「そりゃー、不満だよ。そりゃー。海くん、考えてもみてよ。この歌、失恋ソングじゃん。なんかこう……めっちゃ好きだった子がなんか自分には不釣合いすぎる子だからって別れちゃって、みたいな歌でしょ?めっちゃ端的に言うと」
「それは一応……そうともとれるけど」
「なんでそんな曲にしちゃったかなー?そりゃ、入場のタイミングでオーオー言ってる部分、歌詞を知らなきゃめっちゃかっこいいかもしれないけどさ……なんかこう、あたしに重なるものを感じずにはいられないんだよ。自意識過剰かもしれないけどさ、なんだかこう……海くんがあたしに対して思ってるようなことを歌に重ねてる気がしてさ。でも、あたしは別に他の男のとこになんか行ってないじゃん。あたしはずっと――海くんのそばにいるじゃん。それがなんか、ヤだなって……」
「それは、違うね」
海は華耶をじっと見つめた。華耶は不満そうなまま、頬を膨らまして海をじっと見返している。こんなときに女の顔を覗かせるのだから、ずるい女だ――と海は思ったが、言うべきことは言ってしまったほうがいいと判断した海は平静を装って言葉を続けた。
「あの時の俺が、今は他の男になったんだよ」
「海くんが?え?今は他の男?ん……?ん~ん……っ?」
突然何を言い出すんだ、というような表情で華耶は海を見つめたが、海は至って真剣な表情のままだ。それがかえって面白く、華耶は少しだけ表情を崩したが、今度は海が華耶を見て不機嫌な顔を見せた。茶化されるといつもこうだ。
「華耶に出会った頃の俺は……もっと、今みたいな感じじゃなかった。確かに、本質は変わってないと思うよ。……でもね、華耶が俺を変えてくれたんだよ。俺という人間を、生まれ変わらせてくれたんだ。華耶と出会った直後の俺から見て、今の俺は華耶と付き合ったことで別の人生を歩むことが出来たんだ。あの時の俺のままだったら、きっと俺にとっては華耶は不釣合いな人間だっただろうし、そうならないように華耶が俺を導いてくれた――そういう視点で俺はこの曲を使ってる」
「ふーん」
華耶は海をじいっと見つめながら――
「内心、あたしが突然他の男のとこに行っちゃうんじゃないかとか思ったりしたりは?」
「その時は、俺の人生なんてそんなもんだったなって思うと思うよ。一度じゃない、二度、三度くらい死んでるような人生だからね」
「あはは!だーいじょうぶ。そんなこと、まずないから。あたしが今更、子供すら連れて海くんほっぽりだすなんてこと、ありえないから」
「だといいけど」
海は不機嫌そうに華耶を見つめると、華耶は海へとなだれ込んできた。湿気を帯びた笑顔で、じっと見下ろしてくる華耶の表情は、昼から見せるには少し早すぎるように思えた。
「そんな、誰にでも都合のいい女じゃないから、あたし。分かってると思うけど、さ」
「分かってるよ」
自分に覆いかぶさるようにしてなだれ込んだ華耶は、じっと海を見つめたまま、それ以上のコミュニケーションを求めているような気がして、ふと海は目線を反らした。
感情表現がまっすぐな華耶の目線をじっと見つめていると、ペースを完全に捕まれそうで嫌だった。今少しでも気を緩めたら、華耶はきっとなんだってするだろうと思ったからだ。
――結局、それから引退まで入場曲を一切変えることもなく入場曲としてずっと使い続けてきたsan sebastian。その残響はあっという間に応援団の声にかき消され、球場内は応援歌が大音量で合唱され続けていた。
それはもはや合唱というよりは、叫びにも似た、観客たちからの限りなく限界に近い声で、今すぐにでも枯れそうなほどだ。この後公式戦だってあるというのに、よくやる――海はそんなことを考えていた。
――侍の魂 燃やせ――♪
――唯一の高みを目指し
羽ばたけ佳井
海の彼方へ――♪
サインは決まっているのだろうけど、薫はなかなかボールを投げようとしなかった。応援歌をじっくり海に聞かせてやりたい――という思いもあったのだろうけど、その表情にはやはり不安が見られた。
一旦タイムを取った真悟が、薫のもとへ歩んで何か声をかけた。海はその様子を黙って見つめながら、薫にはあまり必要以上に気負って欲しくないようなことを思いながらも――それを自分から声をかけに行くのはかえって薫にプレッシャーをかけそうで、海は何もしなかった。
応援歌がループをし、佳井コールと薫コールとが交互に行われ、応援団も二人のもう二度とない瞬間を自由にさせていた。もはや、声を送る以外のことはファンにはできなかったからだ。
あれほど試合中には早くしろと煽っていたファンも、この時ばかりは遠目から聞こえてくる野次は『頑張れー!』というまっすぐな声ばかりだった。
何故そんな素直な応援が試合中に出来ないのか――何故そこまで素直になれるなら、薫への攻撃をしばらくやめなかったのか――考えればキリがないことばかりが海の思考回路を埋め尽くし、出来るならば早くこの勝負を終わらせたい――そんな一心で海は何度かバットを揺らし、自分の間をなんとか作ろうとした。黙っていたら、場の空気に自分が飲み込まれてしまいそうだった。
意を決したように、薫はこちらを見て深く頷いた。
両腕を高く掲げて振りかぶりながら、カクッ……カクッ……と海にとっては少し不思議なタメを作る薫。本当に大丈夫なんだろうな――という不安こそあったが、それでも、これまで幾度となく見てきた薫の大きく沈み込みながら腕を後ろへぐっと引く動きがそこにはあった。
薫なりにフォームを矯正してきた結果なのだろう、一つ一つが不自然なつながりだというのに、どこか以前よりも躍動感のあるフォームだ。
粘り強く後ろから突然飛び出すように繰り出されるその左腕の白球を海はしっかりと睨んでいた。
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その一球を、ダミアンはなかなか投げようとしなかった。マウンドでキャッチャーとサインをもう一度確認するも、カウントをワンボールツーストライクと追い込んでいながらかたくなにダミアンはサインに首を振り続けた。
地鳴りのようなUSAコール。日本の応援団も負けじと声を出してはいるのだが、完全に雰囲気としてはアウェーな状態だ。普通、相手の攻撃時は声を出さないのがマナーとされているのだが、よくよく考えたら自分たちのファンだって相手の攻撃時にあと一球コールをよくするのだから、文句など言っていられない。どんな状況でも、打者は黙って投手の球を打たなければならないのだ。それが打者に出来る唯一の仕事なのだ。
海はひたすら、ダミアンの左腕から白球が飛び出してくるその瞬間を待ち続けていた。
アメリカが産んだ現世代最強左腕――。
そんな肩書きを引っさげていたダミアン・メリッサ・シェーン。ボクサーのフックのような、殴りつけるようなサイドスローから放たれる最速163km/hのストレートに、左打者からしてみたら膝元に容赦なく食い込んでくる、曲がりの大きいツーシーム。そして、大きく外に逃げていく、現地ではフリスビーと揶揄されているスライダー。そしてその二つを張っていると容赦なく投げ込んでくる、一瞬ふわりと浮き上がってから縦に落ちる、チェンジアップのような遅いカーブ。
二球続けてストレートでカウントを取ってきたダミアンが最後、自分を打ち取るために何を投げてくるか、海は判断に困った。
もう一度速い球で勝負してくるか、それとも、タイミングを外しにくるか――。
恐らく、外へのスライダーは必死で繋いでくるとダミアンも分かっているだろうから、スライダーでは勝負してこないだろう――いや、この状況で膝元目掛けた内側から食い込ますようにしてスライダーを投げ込む度胸と制球力がもしあったなら話は別だ――。
ダミアンは再び首を振った。今度は明確に苛立ちを見せた。
あとアウトひとつで世界が決まる――それでも、2対1、ランナーを一人置いている状況だ。タイムリーを打たれれば同点だし、一発出ればサヨナラとなる。最強投手と言われながらもダミアンもまた、一筋縄でいかない相手だと判断したのだろう。
ニッ――と歪んだ笑みを見せたダミアンはようやく首を縦に振った。セットアップポジションから、ランナーを警戒するような仕草を見せたが、牽制球を匂わせた直後、すばやい動きでボールを放った。
どのボールも一級品でありながら、いずれもストレートとほぼ一緒の腕の振りが持ち味のダミアン。ゆっくり力を抜いたカーブですら、しっかりと腕を振りながらリリースの瞬間だけ指先の力を抜くようにしているから、癖の出やすいカーブでさえも判断しづらい。
だからこそ、ダミアンはここぞという場面でそのカーブを使ってくるし、ダミアン自身、そのカーブによほど自信があるのだろう――度胸の試される場面でこそカーブを使ってくる――。そういったデータを伝えられていた海は、しっかりとカーブに狙いを絞っていた。
速い球が来たならば、なんとかカットすればいいだけのことだ。それができるかどうかは別としても、きっとダミアンは、こんな力と力の勝負のような場面――お互いに必要以上に力が入ってしまうような場面なんかで、力をしっかり緩めた遅いカーブなんて投げないだろう。海はそう予測していた。
読みが外れたら外れたでもう仕方がない。勝負の駆け引きというものは、そういうものだ――。それができないから、自分は数多くの試合を落としてきたし、きっと、この試合もそうして読みが外れた瞬間、負けるだろう。
もちろん、読みが外れたとしてもなんとか反応して打つ自信もあれば、最低限カットでカウントを刻む自信だってある。シーズン中だって、いつもそうして粘り強く自分のペースに持ち込んで勝負してきたつもりだ。
しかし、この一球で勝負を決めなければ、ますます次の一球の駆け引きが分からなくなるからこそ、海は早く勝負をつけてしまいたかった。
自分の読みが外れて試合が負けたのなら、とことん自分のことをなじればいいし、読みが当たったときは、二度と自分のことを勝負弱いなんて言う輩にそんなことは言わせない――そんなつもりで海はボールを待った。
ふわり、ふわり――と近づいてくるボールは、海へ勝利を手元に運んでくれるかのような妖精に感じられた。
しっかりとこれを冷静に捉えて打ち上げれば、間違いなくスタンド一直線だろう――。
一発を意図して狙うことも今まで全くなかったわけではないけれど、まさかこんな大事な試合で一発を意識することになるとは思っていなかった。
海はバットをすっ――と出した瞬間、わずかに口元だけが笑みを浮かべていた。おかしくておかしくて、たまらなかった。
こんなに綺麗に読みが毎打席当たるなら、苦労しないのに――。
そんなことを考えながら、バットに込める力を最大限まで高め――しっかりとその白球をバットに乗せた海。まるでフリー打撃のように、いつもどおりバットの芯に白球はぴたりと――家に帰るなり自分から抱きついて離れず、キスをねだって離れたがらない華耶のように粘っこく密着し、白球はわずかにバットの形にきれいに合わさって歪んだ。
バットが満足げに白球をねぶり、解き放った瞬間から先のことは、夢中だったせいでよく覚えていない。
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すっ――と薫が投げた球に、海はふと、WBCSのことを思い出した。滅多に過去の試合のよかった部分のことなんて思い出さないのに、突然あの日放ったサヨナラホームランの瞬間が頭によぎったのは、海なりにこの一球をどうしても逃したくなかったからなのだろう。
海は犬塚との会話で否定こそしてみせたが、それでも、自分の中で限りなく理想に近かった打席、打球というのは、きっとあの打席だったのだろう。だからこそこんな大事なときに、目の前のボールと重なって過去の記憶がよぎってくるのだ――海はそんなことにおかしさを感じながら、グリップがへし折れるほど両手に力をこめた。
間違いなくあの打席のホームランが自分にとっての最大の理想であるにもかかわらず、バットを振った瞬間までは覚えているのだけど、そこから先のインパクトだとか――細かいことは正直言ってよく思い出せない。
だが、きっとあの時も今と同じように、自分はこんな風にバットに力を込めていたに違いない。記憶が自分を呼び覚まさなくても、両手の感覚だけがしっかりと『これがお前のやり方だ』と言わんばかりに手ごたえがあるのだ。
薫があえて速球ではなくこうした浮き上がる球を投げた理由は分からないが、きっと、薫なりに今できるベストがこの球なのだろう。
『佳井さんの思ってるような球はもう投げられないです。一球で、しっかり私の野球人生にピリオドを打ってください』
薫はさっき、そんなことを口にしていた。これ以上の球をきっと、今の薫は投げられないのだ。だからこそ、海はこの一球をしっかりと叩く必要があると思った。
ふわり――ふわり――と近づいてくる一球。ど真ん中から、やや少し内角寄りだろうか。
『一発、センター返しくらいは狙ってよ。実際に打つ打たないは別としてさ。適当に流すくらいのスイングとかじゃなくて、全力で振りに行ってほしいんだ』
華耶の声すらも脳内で響きだす。
本当にこれで最後なんだ――海は腕が千切れても、腰が千切れてもいい――そんな勢いで、かつてのバッティングフォームのように思い切り足を上げて振り下ろし、その白球を叩いた――。
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車椅子に乗った、老婆と言うには少し元気すぎる白髪混じりの金髪の女性が、病室に飾られている青を基調とした不恰好な絵画を満足そうに見ている。
「ウルスラさん、点滴交換しますよー」
「ああ、ごめんなさい。いつもありがとうね」
若い看護師が点滴を交換しながら、ウルスラと呼ばれていた女性が絵画と交代交代とで見ているパソコンの画面を見つめる。
聞き慣れない言語に乗せて、『ベースボール』と呼ばれるスポーツをしている光景が映っている。
「……ウルスラさん。これ、ニホンゴってやつですよね。何言ってるか分かってるんですか?」
「そりゃもう。日本に住んでたことだってあるんだから、完璧じゃないけど、半分くらいは分かるよ。なんたって、推しの引退セレモニーだからねぇ、録画だってしてあるけど……それでも、やっぱりちゃんと見たいんだよ。ありがたいことに今の時代、こうやって球場の様子を配信してもらえるから、リアルタイムで見ることだって出来る。日本はまだ、昼なんだねぇ」
ウルスラは点滴を変えてもらいながら、画面の向こうでゆっくりとベースを回り、ホームで待ち受けるメンバーへ向かって両手を振り上げながら走っていく金髪の男をじっと見つめ、涙を浮かべていた。
「どういうところに推そうと思ったんです?こんな、絵までもらっちゃって」
「ええ……?そりゃあ、もうね……」
看護師からティッシュを渡されたウルスラは目元の涙を拭いながら、メンバーだけでなく金髪の男の家族らしき者が混じったその胴上げを、じっと見つめていた。
「カイはね……凄いんだよ。本当に。親の都合で国を捨てることになって……海の彼方で……立派に戦い抜いたんだよ。日本人として生きていくって腹決めて、現役をやりきった。もとはフィンランド人だから、っていう単純な理由だけじゃなくてね、本当に……本当に、カイは、一人の人間として、よくやったと思うんだよ、私は」
看護師からしてみたら、そこまで泣くほどのものなのだろうか――とは少しばかり思ったけれど、それほど推し続けてきた選手の最後の瞬間なのだから、まあ仕方ないか――と思い、点滴を変えた後もずっと隣で配信を見続けていた。
胴上げに加わった者のほぼ全員が背番号25、という奇妙な光景。
きっと、ベースボールをよく知らない自分には想像もできないほどの選手だったのだろうな――と看護師は思いながら、目を真っ赤にしてじっとパソコンを見つめているウルスラの脇で立ち続けていた。