海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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223・海の彼方で

ベースをゆっくり一周し、ホームベースを踏んだ後に行われた海への25回にも及ぶ胴上げの最中、ずっとジェネルは泣いていた。顔をぐしゃぐしゃにしながら、永遠にも思えた胴上げがようやく終わって海が地面に下ろされると、人目もはばからずに海に抱きついた。なだれ込むようにして円陣に加わっていたユニフォーム姿の華耶もまた海に抱きつき、なかなか離そうとしなかった。

 

海は二人の肩へと腕を伸ばし、しっかりと二人が気が済むまで抱きつかせてやってから、それを少し離れたところで見ていた薫の元へ歩み寄り、お姫様抱っこをする形で、ジェネルらへ薫のことも胴上げしてほしいと頼み、今度は薫を胴上げすることになった。

同じくして、25回胴上げをされた薫は、はじめ平静を保とうとしていたようだったが、降りる頃には顔を涙いっぱいで濡らし、もはや薫かどうかすら分からないほどまで泣いていた。

海はそんな薫へ肩を回しながら、手を振って会場の歓声へ応えた。薫もまた、何度も球場全体に頭を下げながら、帽子を掲げて海同様に挨拶をした。

「お疲れ、薫」

「佳井さん……ありがとうございました」

そう言って薫は海ともう一度握手をし、ベンチへと下がっていった。

 

〈――皆さん。今日はこんな僕のためにわざわざ足を運んでくださり、ありがとうございました。27年間と数ヶ月の間の応援、本当にありがとうございました。頼りない打者ではありましたが……最後の最後に、こうして夢を与えられたのは、せめてもの、こう――何って言うんですかね……よかった、っていう言葉一言で表すのも、ちょっと単純すぎるんじゃないかなとは思うんですけど――〉

 

携帯で動画を見ている新の横で、監督のビルブロックとコーチが覗き込むようにして黙ってその様子を眺めていた。

 

《本当に行かなくてよかったのか?》

《いいんです。俺、そういうのキャラじゃないんで》

《……キャラかどうかの問題ではないと思うんだが》

《チームだって今優勝争いしてますし。大事な時期に穴を開けるような選手と思われたくないですしね》

コーチの問いに新は振り返りもせずに淡々と答えた。監督もコーチも、そこまでストイックにならなくても――と思いながらも、父と子の複雑な関係に踏み込みすぎるのもな、と互いに顔を合わせて苦笑を浮かべた。

 

パスで味方を生かすということを覚えた新は、自ら点を取るだけのプレーだけでなくチャンスを増やすためのプレーが出来ることになったことで、その日のメンバーや試合状況によってポジションを器用に変えることのできるプレーヤーになっていた。

新もまた、フォワードでの起用を前提としながら、他のポジションを任されていることに文句を言わなかったし、自分の才能を上手く引き出すような采配を続けるビルブロックに信頼を寄せていた。

一枚も二枚も皮の向けた姿をピッチの上で見せ続ける新は、若くしてチームのファンだけでなく、ロンドンのサッカーファンをも魅了していた。

 

優勝争いをしているだけでなく、自分の今置かれている立場が分かっていたからこそ、新は引退セレモニーに直接顔を出すことはしなかった。

一番大きな理由としては、監督やコーチらがうっすらと察していたように、自分がそうして会場に行くことで海を邪魔したくなかった、ということなのだが――そんな言葉は新の口からは決して放たれることはなかった。

 

もちろん、監督もコーチも一試合出場を空けてでも、両親の最後の晴れ舞台には行くべきだとかねてより声をかけていたのだが、新はそれを固辞し続けていた。

キャラではないから――というのは本心ではあった。

両親の最後を現場で直面して平静を保てる気がしなかったのも事実だし、そうしてイギリスに戻ってプレーに支障が出たら『一試合出場を空けてでも』ですまなさそうだったから、新は現地には行こうとしなかった。

単に今更父親に寄り添うような女々しい振る舞いをしたかっただけではなく、ようやく周囲に定着させた佳井新というものを自分の手で崩したくなかったし、何より、そんなことで再び周りを失望させたくなかったのだ。

 

それでも、こうしてセレモニーを見てしまうのだから、自分はなかなかひねくれている――そう新は思い、引きつった笑みを浮かべた。

 

〈――引退会見のときも言ったと思うんですけど、正直言って、僕は決して――決して、いい父親ではありませんでした。家のことは妻に任せっきり。シーズンが始まれば、一年の半分は家を空けてしまう。そのうち、病気で迷惑までかけてしまって……子供たちだって、そんな僕を見て、自立をしようとはしてくれましたけど、寂しかったに違いありません。子供たちとも互いの誤解の中で、上手くいかない日々なんかもありました――〉

 

「互いの誤解って……」

思わず新はツッコミを入れてしまった。誤解をしていたのは自分だけであって、別に海は自分に対して激しい誤解をしていたわけではない。

何もこんな場面でまで、自分のことをフォローしなくてもいいのに――そう思いながら新は髪をかきむしった。

 

「違うだろ……。あれは……あれは、俺が勝手に……」

新は声を震わせながら、画面の向こうでスピーチを続ける海をじっと見つめていた。

 

バックネットの二階席、いわゆるVIP席へと招待されていた四宮は、妻の未来と一緒にその海のスピーチを涙を浮かべながら聞き入っていた。

 

〈――僕は、あまり人付き合いのいい選手ではありませんでしたし、よそのチームの選手と積極的に仲良くしたら、なんだか、それを口実に移籍の理由ができてしまう気がして、WBCSなんかも周りと打ち解けることができませんでした。チームのメンバーとだって、僕はあまり付き合いのいい選手ではありませんでした。コミュニケーションだって、常に受身でしたからね……そんな僕を構ってくれたチーム内外の全ての人に、僕は敬意を表したいと思います。若い頃から僕のことをファンだと言ってくれて、そして、僕が大変な目に遭ったときも助けてくれたタクシーの運転手――メディアという垣根を越えて、一人の男として、僕を野球選手としてではなく、一人の男として接してきた、数少ない記者――彼らが居なかったら、きっと僕は、この厳しい世界で27年も走りきれなかったと思います。……野球選手として、当時のメンバーたちとの思い出よりもそういう、外部の人間に支えられてきた思い出のほうをペラペラと話すのもどうなんだろうとは思うんですけど――皆さんが思ってるよりも、野球選手って、外部の人間とのかかわりもたくさんあるんですよ。選手同士の関係だけじゃなく、野球に携わるすべての人々それぞれが大事だと僕は思ってます。バット職人だとか、グローブを提供してくれるサプライヤーとか。……そういう、外部の人とのかかわりには割と恵まれていた僕はきっと、幸せ者なんだと思います――〉

 

自分のことを言われると思っていなかった四宮は、声を殺しながら泣いた。未来は四宮の肩をさすりながら、未来もまた涙を浮かべた。

 

「……未来。僕はね……何度か……タクシーの運転手を辞めようと思ったことがあったんだよ」

「そうなんですか?」

「僕が、ゲーム会社を辞めなければいけなくなってから……たまたま都内で……ゲーム会社以外で、僕をすぐに雇ってもらえるような仕事がたまたまタクシーだったんだよ。ドライブが趣味だったからね。でも……タクシーって、いろんな人を載せるんだよ。成功してる人も、失敗してる人も」

「ええ」

「そうするとね……時折、人の感情を載せ続けるのが、嫌になることがあるんだよ。僕は、失敗した側の人間だから、人の成功なんか聞くと羨ましくなるし、だからと言って、人の失敗なんか聞くと、自分だっていつまでもこうしていないで、もう一回ゲーム会社の現場に戻るための何かを作らなきゃいけない、ともそのたびに思ってしまうんだ。でも……夢を諦めるために僕はタクシーを選んだんだから、甘ったれちゃ駄目だ、とも思って……押し競饅頭になった感情が時々爆発しそうになることがあった。だから、しょっちゅう現場を放棄したくもなった」

「……ええ」

未来は代えのハンカチを四宮に渡し、ひたすら聞き手に回った。

四宮はハンカチを受け取り、再び目に溜まった涙を拭いながら、話し続けた。

 

「まだ佳井選手が、荒屋姓だった頃――佳井選手も、行き詰ってそうだった。応援してたチームの、それも注目の若手選手を都内で載せることになるなんてあの時は思ってなかった。それにあの時は、荒屋選手が行き詰ってるっていうのは週刊誌やスポーツ誌の誇張表現だと思っていたんだよ。ああいうのって、好き勝手書いてるもんだと思って、ろくに心には留めないようにしてたからね。……でもね、そうやって好き勝手書かれるのはスター選手ならではの宿命だと思ってた僕から見た佳井選手は、思っていたよりもずっと、一人の人間だった。それを見て……なんだろうね、僕なんかは、随分ちっぽけな理由で悩んでいるように見えたんだ。悩んでることそのものがなんだか、恥ずかしくなって……もっと頑張って生きなきゃな、って思ったんだ。それと同時に……きっと、ここでタクシーを続けていたら、また会えるような気がして……その時、僕は定年までタクシーやり続けようと思ったんだよ。次にまた佳井選手を載せるときには、もっと僕はこの仕事を誇れるようになっていよう、と思ってね……。……続けてきて、よかったよ。もっと、僕らみたいな仕事は、ああいう住んでいる世界が違う人にとっては、当たり前にそこにあって、存在が当たり前すぎて忘れられていくものだと思っていたから」

「ええ……ええ」

そう言いながら、未来は再び嗚咽しだした四宮の肩をさすりはじめた。

 

〈――何か、自分でも動かなきゃって思ったとき、僕にはもうフィンランドの国籍がないのに、大使館の人たちも親切にしてくれました。そうして、皆さんもよく知ってると思いますが――マルコやニコ――リストライネン兄弟と知り合いました。彼らと出会った頃は、まさかあんなに大きなバンドを組むことができるとは思ってませんでした。正直言って、彼らが僕よりももっと大きな世界をつかむとは思っていませんでしたし――音楽と全力で向き合い続けて、そして、本当の意味で夢をつかんだ彼らのことを、僕は尊敬します。……彼らと一緒にバンドを組み、時間を共有できたこと。そして、そんな僕たちがまだ、明日もちゃんと見えてなかった頃――僕たちの曲を長年球場で使ってくれたこと。そんな僕らの曲が球場で流れることを楽しみに来て下さった人が思っていた以上にたくさん居たこと――改めて、音楽という点で僕を取り巻いていた環境や全ての方々に、感謝したいと思います――〉

 

ニューヨークのホテルで深夜、メンバーと酒を飲みながら様子を見ていたマルコとニコ。坂本も真中も、佳井海という人間の作る曲のことや、佳井海というスポーツマンのこともある程度は知っていたものの、リストライネン兄弟の熱意にやや押される形でその中継を眺めていた。

 

「僕たちが納得しましたからって言っても、たまに、曲ごと封印するときがあるんです、カイは」

「僕たちがどうしてって聞いても、『なんか……ダメなんだよな……』ってしか、教えてくれないんです」

ニコがわざとらしく海のモノマネをして、坂本や真中が思わず口を押さえる。

 

「そうやって、駄目になった曲と曲とがたまに繋がったりして、新しい曲になったこともあります。結構皆どこもやってることだとは思いますですけど、ダメって言って没にした曲も、カイはどこかでまた使いたがってるところがあるんですよ」

「へぇ」

「没にした曲をボーナストラックとかに使ったりすればいいのに、カイはそういうことをしたがらなかったんです。没曲なんかボーナストラックにしたら、買ってくれる人に失礼だ、って」

ニコはそう言いながら、今日何本目か分からないビールを一気に飲み干し、テレビに映されたその中継映像をしっかりと見つめた。

 

「カイは僕たちのことを、夢をつかんだって言ってくれましたけど、カイがいなかったら、マナともサカとも、きっと一緒に音楽をすることはできなかったと思います。いつか、カイに恩返しができましたらいいなと……そう思います僕は」

マルコはそう言って、腕を組みながら目を伏せた。

ニコもまた、マルコの肩へと腕を回し――

「僕たちはまだ、これからですから。たくさんライブに出ながら――自分たちの音楽について、また少しずつ勉強していきたいと思っています。その中で恩返しの方法を、何か考えられたらいいなって思ってます」

そう言って笑顔を見せた。

 

〈――きっとこれからのチーターズは、僕が居なくてももっと強くなれるものだと思っています。僕のような、気難しい選手なんかが居なくても――もっと、一人ひとりが意識を持って戦えば、すぐにでも皆さんに優勝旗と――日本一のトロフィーを持ってこれるものだと信じています。プロってそんな生易しい世界でもなければ、自分一人の人生だって常に考えて生きなければならないから、それはあくまで理想でしかありません。だから――その役目をこれから担っていくのは誰だ、とは僕の口からはあえては言いません。一人ひとりが常に心の中で、ここで戦う理由だとか、そういう……なんだろうな……すみませんね、こんなときにちょっと言葉が浮かばなくて――〉

時間に制限もつけないから、この際、言いたいことを全部言えばいい――そう球団から言われたものだから、言いたいことを言っているつもりの海だったが、原稿なんかは持たずに現場に来たものだから、ふと、自分が何を言っているのか、分からなくなってきた。海は苦笑を浮かべながら、少し場を誤魔化すようにして天を仰いだ。

 

腹立たしいほど、どこまでも続くような雲ひとつない青空だった。

 

じっと見つめていれば、太陽がこちらを突き刺すようにして自己主張をしてくるし、このまま天を仰いで誤魔化し続けていたら、かえって自分は余計なことを考えてしまいそうで、海は再び視線を戻した。

 

〈……一人ひとりが、団結しろなんてことは言いませんけど……互いを可能な範囲で、分かって欲しいんです。これは別に、選手に向けてだけではありません。長い現役生活の中で、いろんな声をいただきました。ファン同士のぶつかり合いも少なくないと聞きましたし、実際、僕の家や周辺にもいろんなことがありました。薫……浅井打撃投手をめぐっても、いろんなことがありました。本当の意味で僕らが日本一になるためには、そういうところから変わっていかないといけないと思っています。僕は今日、本当にこの縦じまのユニフォームを脱ぎますが、次に僕がメディアの前でチーターズの話題をするときは――その時は、日本一になっていてくれたらいいなと心から思います。僕の居なくなった後のチーターズもどうか、皆さん、よろしくお願いします――〉

 

海はそう言って深々と一礼し、壇上を降りた。

 

太陽ばりにまぶしいフラッシュが焚かれ、目をしかめそうになったが、最後まで海の目には涙はなかった。ただただそこには、やっとこれで一般人に戻れるのだ――その安堵だけがそこにあって、戻りを待っていたユニフォーム姿の華耶や子供たちに囲まれ抱きつかれ――球場からは激しい拍手と佳井コールが再び巻き起こり、これで本当にセレモニーの最後なのだということを拒むようにして、その歓声はしばらく鳴り止まなかった。

 

今にも顔を崩してしまいそうなほど目を腫らして涙を浮かべた華耶と海が再び球団スタッフと共に整列すると、球場には球団テーマソングが流れ始め――それはまるで、夏の甲子園大会の校歌斉唱のようだった。

 

海はなんとなく、なぜ試合に勝利したのに校歌を泣きながら歌っている者がいるのか、今になってようやく理解できた気がした。

達成感というものは、時に心を突き動かし、緊張から開放されたことで、思いが爆発するのだ――。

海はそれでも表情をピクリとも動かさないまま、球団テーマソングを声を張って歌い始めた――。

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