海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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最終章 佳井海
225・青波が止んだ頃


〈――さて、続きましては先月10月6日、リョーコ製薬公式Vtunerの麗雅星リョーコさんとユニットでの曲を発表したシエル・アウリンコイネンさんの新曲『サニー・バイ・サイド』をお送りします。こちらの新曲、実はPVでギターを弾いているシエルさんがなんと実際に弾いた音を収録しているのすが、その軽快なロックサウンドにも注目したいところです。どうぞ!〉

 

「チャンネル、変えてくれないかな」

「えー」

「自分の曲、自分で聴きたくないんだよ」

「でもさ、別に自分の歌声じゃないからさー。娘の曲だよ?娘の」

「……なんか、ヤなんだよ。はじめは作曲だけって話だったのに、結局アレンジのほうまでやっちゃってるからさ。この部分をこうしときゃよかったかなーとかそういうのも思っちゃったりするし、編集の段階でもういやというほど聞いてるから、周りほどノれないんだよ」

海は不機嫌そうにしながらキッチンで料理をしていた。華耶はそんなことお構いなしに、ラジオから流れる軽快なオーバードライブギターをしっかりと聞かせるようにしながら、10月に生まれたばかりの菜巳【なみ】にミルクを与えていた。

 

「お姉ちゃんが歌ってる歌をね、お父さんが作ったんだよー、菜巳。菜巳の想像なんかよりずっと、菜巳のお姉ちゃんもお兄ちゃんも、お父さんも、皆凄い人なんだから。別に凄い人になろうとしたわけじゃないのにね、皆。だから、菜巳も普通でいいんだよ。普通にしてたらきっと、凄くなれるから。最初から凄くなろうとして凄くなるって、案外ね、難しいことだから」

「あんまりそういうことを言うと新が悲しむぞ」

華耶の実家から送られてきたかぼちゃを包丁で切りながら、海は苦笑を浮かべる。

 

「でも新はほら、改心したしさ」

「まあ、うん」

「プレーだってさ、だいぶ変わったじゃん。強引なドリブル突破はしてるけどさ、後ろとかにも目があるようなパスするようになったじゃん。包囲されたらフリーになってる選手のあたりにパスできるようにもなってるし。怖いよ、アレ。まだ22歳だってのに、世界のプレーヤーを完全に手玉に取りはじめてる。あたしが見てもすごいって分かるくらいだから、たぶんプロからしてみたらよっぽどだよ」

「俺が――」

「俺が22歳のときなんかはもっとひどかった、でしょ。もう、いいじゃん。振り返る必要なんて、もうなくなったんだから」

「……それもそうだね」

海は華耶の笑顔を見ながら、同じくして微笑を浮かべた。

 

7月。世間が今年も甲子園の出場校がどうだとか、常連校が敗退しただとかで賑わっている頃、海はフィンランド大使館で握手を交わしていた。

相変わらず硬い笑顔でフラッシュに焚かれながら、作った笑顔の口元が時折ひくつかせて表情が崩れそうになったが、なんとか耐え切った。

 

「……本当にいいんですか?」

「さすがにスタジアムが完成するっていうのに、こちらが何も寄贈しないわけにはいかないでしょうし」

「それはそうですけども。……大事な宝なのでしょう?」

「宝かもしれませんが、僕にはもう必要がなくなったものですから」

 

自分の使っていたバットと同じモデルのものを200本、そして引退セレモニーで着ていたユニフォーム、本来着る予定で着れなかった昨年度の特別ユニフォーム――。

高校の頃使っていた一塁用ミット、入団当初、念のために作るよう言われていてそのままほとんど使わないまま、それでも前野の指示でずっと持ち続けていた外野手用グラブ――。

 

現役時代の何から何まで全て――というわけではないが、来月完成予定のカイ・スタジアムのすぐそばに急遽建設されることになったカイ・ミュージアム。そこに海はこれまでの装飾品などを多数寄贈することにした。

家の中にこれまでの野球にかかわるものをなるべく残さないようにしたかった海は、手っ取り早く処分できる場所だと思い、出来れば寄贈して欲しいと言われたものよりもはるかに多くたくさんのものを寄贈した。

大体、最後に着用したユニフォームだってここぞとばかりに大量生産し、案の定プレゼント用だとかなんだとかでたくさんサインを入れることになったり、球団からの餞別として多数もらってしまったのだから、そうした要らぬ世話を海は早く処分してしまいたかったのだ。

 

もちろん、甲子園に併設されているチーターズ記念館にもそのいくらかは寄贈したが、記念館だってそれなりに広い建物ではあるものの、だからといって自分のものばかり置くわけにはいかない。記念館側としては『チーターズ生え抜きのレジェンドとして』だのなんだのと、館内に大きめのコーナーを設けるつもりでいるという話はしていたが、甲子園は自分だけのものではないのだから――と海はある程度自重する形をとった。

 

どうしても『佳井海の心のふるさと』としてアピールしたい川口市からも、最近は暗いニュースでばかり街が取り上げられてしまうことから根付いてしまったよくないイメージを払拭したい思惑があるらしく――商業施設内の一角をリニューアルして『佳井海メモリアルコーナー』なんてものが作られることになった。

そこにもユニフォームの一部や記念ボール、そしてサインなんかも寄贈することになったが、甲子園にある記念館とは差別化を図るために、海が当時食べていた『その辺の草』グッズのほか、テレビ出演の際に一度だけ使ったギター、当時の学校の制服のレプリカだとか、薫の実家とも協力し、その実家のレストランをかたどった模型や食品サンプルなども展示され、どちらかというと海そのもののルーツをたどるような形になるらしい。

川口にはもう長い間行っていないというのに、施設の概要の説明だけでなく、近々名誉市民を与えるつもりでいるだのなんだのとまくしたてられ、海は困惑しながら市長と会談を交わした。

 

別に、自分の功績を知ってほしいだとか、必要以上に自分の功績をアピールしたいわけではなかった。それでも、変にサインなんか入れて他人にプレゼントしたものを売りに出されるのも癪だった。

昨今、有名人のこうしたグッズはねだるだけねだってすぐに高値で売りに出されることが多かったから、自分の意思を離れて自分の値段を売買されるよりならば、こうした大人の都合に合わせて寄贈してしまったほうが寄贈品の所在をつかみやすいから――と海は自分から所持品の寄贈もいくらかすすんで行った。

 

わざわざ日本ではなくフィンランドの記念館のほうにグッズを多く寄贈したのは、祖国には一応義理も立てたかったという事情こそあったが、何より、ふと現役時代のことを思い返して苦しくなるよりは、自分からはすすんで帰らないであろう祖国に思い切ってたくさんのものを寄贈してしまったほうが、目に見えない場所にあるから気持ちが安らぐ――という事情もあった。

 

今、手元にあるのは、どうしても手元に置いておきたいとか、それだけは寄贈してはいけないと華耶がせがんだものと、華耶たちとキャッチボールをするためのグローブや当時のバット、ベストナインの寄贈品や記念品くらいだ。

 

そうして寄贈を免れた優勝ペナントだとか、その時々のユニフォーム、ベストナインのトロフィーだとかは、離れの家にある倉庫に大事にしまわれている。一方、海は華耶がどこにどうそれらをしまい、何がしまわれているのかすら知らなかった。

知ったら気になってしまうだろうし、実は写真撮影用に使っただけのほぼ未使用のユニフォームが各種1着くらいは華耶が隠してあるということを知ったら海が不機嫌になるだろうから、厳重に保管してあった。

 

「せっかく記念館なんて作ってくれたのに、なんとなく当時の資料だけあって、実物がないんじゃ、国民だって納得しないでしょう。国民がそこまで野球に興味を持ってくれるかどうかは分かりませんけど」

「それでも国民からしてみたら、佳井さんは英雄ですよ。きっと今に、フィンランドは野球人気がやってきます。少し前の国際大会で野球人気が爆発したチェコがそうだったように」

「チェコがたまたまうまくいっただけですよ」

海は控えめに大使館の代表と軽めの挨拶をし、その場を離れた。

 

「――僕は、あんまり感心しませんけどね」

取材をしに来た木村が、近くの食堂に昼食を案内してくれた。食堂、とは名前がついているものの日替わり定食には洋食のものもあるし、月替わりでヨーロッパ料理なんかも出している意外性が売りの食堂らしい。

木村は自慢のから揚げ定食を、海は日替わり定食の鶏肉のコンフィを頼んだ。待っている間、木村は先ほどの大使館での出来事に不満そうな表情で触れた。

 

「お前が感心しようが、しなくてようが……?ん……感心しなかろうが……?……とにかくだよ。お前の感心で俺の行動は変わらないよ。俺はお前じゃないし、お前の考えを俺が共有しているわけじゃないんだから」

日本語にふと自信が持てなくなった海は自分の言いたかった言葉が上手く出なかったことに咳払いをしながら、水を飲んで間を保とうとした。

 

「大体あんなもん、家にとっといたって、どうにもならないだろ。家にユニフォームがあったら俺が若返るわけでもないし、思い出に浸ったところで、俺の人生は戻ってこないし、俺の全盛期だって戻ってこない。振り返って浸るだけの過去がありすぎると、人はそこで停滞しちゃうんだよ」

「でも、一般人になった先輩は、なんだか黙って歳だけ取ろうとしてる気がして」

「それの何が悪いんだよ。そりゃあ俺だっていつまでも若くいたいけど、スポーツって、歳を取ることを拒まれて生きるものだろ。一般人になってまで歳を取ることを拒まれちゃ、かなわない」

「でも……今、何が楽しみなんです?今は。子供だけが楽しみなんて言ってたら、老け込むのなんてあっという間ですよ。子供って、あっという間に歳取るんですから。それについては先輩が痛いほど現役の間、見てきてるはずですよ」

「……あのなあ。まだ子供もいないお前に――」

その先を言いかけて、はっとした表情を浮かべた海は途端に咳払いをし、手を振った。

 

「今のなし。忘れてくれ」

「気にしてませんよ。分かってて俺もラギと結婚したんですから」

木村は笑いながら海の気まずそうな顔をなんとも思ってないような素振りで見つめていた。

「ラギ……?」

「柊って書いてシュウって読むんですよ、アイツ。だから、ラギって呼んでるんです」

「……ああ、そう」

自慢げに木村が携帯の画面を見せつけようとしてきたので、海は『いいから』と手を跳ね除けるようにして肘をつき、そっぽを向いた。

 

「……で?野球から開放されて青春を取り戻そうとした先輩は今、何が楽しみなんです?なんだか、野球を忘れようとしていることが主語になりすぎてて、そのまま歳取る以外のことがなさそうに見えるんですけど」

「案外、そうでもないよ」

「だから、その楽しみを教えてくださいよ、俺に。別に記事にするわけじゃなくて、個人的に関心があるんです」

「感心だの関心だの、日本語は難しくて嫌だね」

海はテーブルに置かれたポットで水を再び汲み、それを口に含んだ。

 

「茶化さないでくださいよ。何か楽しみがあるなら、教えて欲しいって言ってるんです」

「あるにはあるけど」

「言いたくないんですか」

「あんまりね」

「公の場だからですか」

「……まあ、うん」

 

木村が想像しているものとはまた別の意味で公の場だからこそ言いづらいことを抱えていた海。

ベル・イェーガーという"ガワ"――いわゆる芸名で晴留へ楽曲提供をすることにした海。ベルは清兵衛の苗字である大鈴から取ったもので、イェーガー――すなわち狩人は、自身の代表曲、Hunting Timeから構想を得たものだ。

たまたまジェネルのつづりであるJenneleのJもかぶっているが、これはたまたまだ。仮にジェネルが勝手に意識したものだと思って飛びついてきても仕方ないが、海としては全く意識していないものだった。なんでもいいから、佳井海という名前で楽曲提供して、晴留への歌に無駄な価値がつかなければ、正直なところ、名前だってなんだってよかった。

ただ、不幸にもありふれた名字として使われる田中も木村も、海には身近に知り合いが居るものだから、彼らの苗字を『その辺の人間』という意味として使うのは失礼にあたると判断した結果、こうしたペンネームのような名前にせざるを得なかっただけの話だ。

 

……という事実を木村が握ったら、それもそれで何をされるか分からない。海は絶対に木村だけには言ってたまるかと思って黙っていた。

 

「夜激しそうですもんね、先輩」

「まあね」

バカでよかった――海はそう安心しながら、運ばれてきた定食に手をつけはじめた。

 

以前とは違い、リビングにはトロフィーも飾られてなければ、ユニフォームだって飾られていない。新のポスターが少し大きく飾られている隣にやや控えめに、引退セレモニーで放ったバックスクリーン直撃弾のホームランボールが飾られてあるにすぎない。

 

特大パネルに飾られた胴上げの瞬間の写真だとか、引退セレモニーでのボールを打った瞬間の写真だとかは、応接間だとか客間に飾られていて、海が普段目にすることはないような位置にある。

昔のようにリビングにはピアノが置かれていて、時折海や華耶が――あるいはその両方がピアノを弾いたり、それを真似するように真結や広乃、そして琉美と諒斗が二人で演奏するが、それだって毎日ではない。

 

野球という概念を切り離しただけでこれほどリビングはぽっかりと大きく穴が開いたように、がらんとその存在感を誇示するものがピアノくらいしかなくなるものか――と海は思った。それでも、自分から野球というものを振り返る回数を減らしたかったからそうしてリビングに昔のように自分のグッズを置くのをやめたのだ。広々としたリビングには今、自動掃除機が二台ほどウロウロして、それぞれが時々線を交えながら互いにすれ違って充電器へと戻っていく。

 

菜巳が仮に野球に興味を持つタイミングがあったとしても、そのきっかけは自然であってほしいと思ったからこそ、菜巳の生活範囲内にもあまり自分の功績にかかわるものは置きたくなかった。

どうせ、自分が野球選手だったということはいずれバレてしまうのだ。だからこそ、これほど多くの子供を授かっていながら、結局高校まで野球を続けたものが居なかったことをこれまでも何度かメディアに指摘され続けたこともあって、菜巳にはプレッシャーを与えたくはなかった。

生まれてきた時点で野球と向き合わなくてはならない、なんて人生はきっと、自分の二の舞になるだろうから――。

 

「でさ、海くん。音楽のことはまあ分かったよ。でもさ、さすがに24時間父親やってます、っていうのもさ、そう何年も続かないと思うんだよ。今はいいよ。でも、幼稚園通うようになりました、小学校通うようになりました、ってなったらさ、あたしだって家でリモートワークしてる以上さ、結構時間あるよ。なんか今、やりたいことないの?自分の名義で音楽やる気だって今はないんでしょ?今は、っていうか、この先もしばらく……下手すりゃ永遠に、か。海くんだって、さすがに家に居る間、ずっとサカってるわけじゃないでしょ?」

華耶は菜巳を抱き上げながら海に背中で話しかけた。海も、今は華耶に抱かれている菜巳がこの後自分が思っているよりも早く成長し、手元から離れていくことは分かっていた。幼稚園に入るまでの間なんてあっという間だし、小学校に入学したかと思ったらそれを卒業するまでの間なんて、現役の中であまりにその記憶はあっという間だった。きっとこれからもそうだろう。

 

「サカってるって、ひどい言いようだね。華耶だって、ふとしたことですぐその気になるじゃないか」

「それはそうだけどさー……」

海にはぐらかされたような気がした華耶は、そういうことじゃなくて、と海のすぐ隣に座って、じいっとその顔を見つめた。

相変わらず、硬く、何を考えているのか――その心の淵の底が深そうな瞳。昔ほどそこに闇を感じることはなかったが、それでも、相変わらず海は海のままだ。

 

「……顔を覗き込んでも、何も出ないよ」

「えへへ」

「……いちゃつきたかっただけ?」

「うん」

「……アホらしい。……一応さ……幸い、老眼なんかは今のところ無縁だから、ミニチュアなんか作ってみようと思ったりもするんだけど」

「いいじゃん」

「別に、作ったからって、売りたいわけじゃないんだよな」

「あー」

「ああいうのって幅は取るし、仮に離れを工房にしたとしてもさ。例えば作ってる最中の様子を手元の様子だけを動画にしてそれをアップロードして……ったってさ、多分、手の感じで俺が誰か分かっちゃう気がするんだよ。イベントなんかで売りに行ったりしたら、なおさらだろ。プラモデルなんかもそうだ。かといって、個人で作るに留めていたら、俺みたいに黙々と作業しちゃうタイプのやつは、キリがない。きっとすぐに、倉庫をプラモだらけにして、処分に困っちゃうよ」

「あー、それはそうだよね……。……あ、じゃあさ、釣りとかは?さすがにさあ、プライベートな時間にまでずけずけと踏み込んでくる人、あんまり居ないでしょ。あれからもう半年以上経ってるんだからさ。テレビにだってあんまり顔出さないんだからさ、さすがに世の中、もう海くんがその辺ほっつき歩いてたって、変に構ってくる人なんかいないって」

「どうだか」

 

浮かない顔をして、鼻で笑う海を華耶は心配そうな顔で見つめた。

 

「菜巳にいろんなこと教えたいっていうか、いろんな世界見せたい父親でありたいならさ。今、あたしが産休で家に居る間、アレもダメ、コレもダメ、なんて言わずにさ、色々やってみたほうがいいと思うよ。プラモのことだってそう。木村さんにも言われたんでしょ?楽しみあるのか、って。家のこと、よくしてくれるのはとてもありがたいし、料理や掃除、洗濯だってしてくれるのも凄くありがたいし、菜巳とあたしを連れて色々ドライブに連れてってくれるのも嬉しいけどさ……。人目を気にしてたら、なんか今の海くん、菜巳が大きくなる前に、ただの引きこもりになっちゃいそうでさ」

「なっちゃいそうっていうか、半分なってるんだよ」

 

華耶の必死の訴えを、半笑いで自虐した海。その様子に華耶はむうと頬を膨らませて、肩をゆすった。

「だーかーらー。今は色々と休みたい気持ちも分かるから、別に今すぐ出かけて世界を見に行ってこいなんて言わないからさ。もう少し、自分にワガママな日々送ってよ。なんかあたし、それが心配だよ。自分はちゃんとした父親でなきゃいけない、みたいなさ、使命感だけがまた前に出てきちゃってる気がしてさ、ここんとこの海くん」

「……」

 

自分では十分自分本位のつもりなのだが、どうやらまだ足りないらしい――。自分本位に生きることの難しさを海は感じながら、コーヒーを飲み込んだ。

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