「……」
とりあえず、時間を潰せるものなら何でもいい――とは思っていたものの、海の表情は険しかった。
「……釣れないな、思ってた以上に」
ふと、朝のBSで見かけ、いやに目に付いた釣り番組。それは華耶の口から釣りという言葉がついこの間出たからなのだろう。
なるほど、釣りであればただ眺めているだけで、それでたまたま魚が釣れさえすれば夕飯の足しにもなる――という安易な気持ちが、画面の向こうにいる釣り初心者と思わしき芸能人と釣りの達人とのなんともいえない微妙な空気感のあるやりとりを見て海は思い立った。
もし自分の性に合うようなら改めて釣り用具などを買えばいいだけだし、合わないようならば金を浪費し始める前にやめよう――と、都内で釣具を貸し出してる釣り堀を探し、そうして杉並にある釣り堀に海は足を運んでいた。
平日の朝ということもあって、客入りは閑散としている。11月下旬の冷たい風が時折強く吹き荒れ、顔が肌寒く感じた。
日本に引っ越してきてからの時間が、フィンランドほどの冬の寒さにはもう耐えられなくなるのではないかというほどに自分から寒さの耐性を奪ってしまったと前にもオルガに話したことがあったが、たったこの時期の風を素直に寒いと思ってしまうようになったあたり、きっとこれから自分はもっとこの時期の寒さにこたえるのだろう。
かれこれ、一時間くらいだろうか。全く手ごたえがないまま、海は時折竿を動かしてみたりなんかしながら、当たりがくるのを待った。念のため手にはめていた指ぬきの皮手袋が心もとなく、指先を容赦なく凍えさせる。ただ黙って待っているという時間は容赦なくこうしたつま先の神経をつついてくるから、神経質な性格の海は思わず不機嫌になった。
時間制の料金ということもあって思い切って半日――四時間ぶんの料金を払ったのだが、このまま一切当たりすらないまま帰るのでは、さすがにいくら時間を持て余していると言ってもあまりに収穫がなさ過ぎる。かといって、このままじっと黙っていては、自分はどうにかしてしまいそうだ。
退屈を少しでも紛らわすために海は耳に付けていた無線式のイヤホンで携帯から小音量でラジオを流し、少し場所を変えて再び餌をつけて糸を垂らした。
〈――さて、本日はアニメ化されたのがつい去年の冬。そこから一躍大ブームを巻き起こし来月劇場版が公開され、あれよあれよと人気作家の階段を駆け上がったライトノベル『薬莢、からり。』の原作者、エスデス・エムナンデスさんにお越しいただきました!〉
「ひでえペンネーム」
〈いやあ、自分で言うのもなんですけども……ひどいペンネームですよね〉
「自覚はあるんだ」
〈今日はここから一時間、たっぷりお話伺いたいと思います。エムナンデス先生への質問や応援メッセージは――〉
相変わらず他の客もおらず、聞こえてくるラジオにぼそぼそとツッコミを入れても誰も不思議に思わない。
邪魔が入らないというのはいいものである。
東京というものはもっと騒々しいイメージが海の中ではあったが、それは平日の町並みを自分が記憶の中で薄れさせていってしまったからという部分もある。
そもそも、かつて自分が平日の町並みを歩いていたときだって本当はこんな風に、自分の見えている世界がたまたま人口密度が高かっただけで、広い目で見てみれば本当は対して自分がいた世界だって、そこまで混雑していなかったのかもしれない。
単純に、自分が一体どれほど人の目を気にして生活していただけなのだろうか――というような気にもなったし、人の目を気にするような立場の中でずっと生きてきたのだから、それは仕方のないことだろうと自問自答を繰り返して海は当たりを待ち続けた。
「……っとと……」
せっかく当たりを感じそうになったところで、海はその耳に流れてきたのが音楽ではなく携帯の着信音に変わったことで、思わず慌てた。無視しようと思えば無視することも出来たのだが、こうしたときに慌てて携帯まで堀に落としては最悪だ。
海は仕方なく竿を片手に、いっそ魚を逃がしてしまうつもりで携帯を取り出した。
「代わりに獲ってやるよ」
「すみません」
隣に居た男が声をかけてきたため、海はその声に甘んじながら、急いで携帯の画面を見つめた。着信の相手がオルガだと知り、嫌な表情をしながら通話ボタンを押すかどうか少し戸惑いながら――しぶしぶイヤホンの通話ボタンを押した。
〈やっほーヨッシ。元気?〉
《お前が電話かけてくるまではね》
〈あー。またそうやって自分から幸せが逃げるようなことを言う。ほんと変わんないねーそーゆーとこ〉
《お前だって口の悪さは相変わらずだろうが》
〈まー、口の悪さとかはぶっちゃけどーでもいーんだわ。ちょっとさ、ヨッシに頼みごとっていうか話があって。うちらさ、近々日本に来るつもりでいてさー〉
《断る》
海はきっぱりとした表情で言葉を発した。別に先ほどの男以外に客だって居ないのだからその場で話し続けてもよかったのだが、海は釣り堀の奥のほうへと隠れるようにして通話をしていた。結果的に、まあまあ大きな声を出すことになってしまったので一旦場を離れて遠ざかったのはいい判断だっただろう。
〈えっ……ちょ、まだ用件も言ってないのに断るなんてひどくねー?〉
あまりいい返事はこないと思っていたオルガだっただろうけれど、思っていた以上に鋭い言葉できっぱりと断られたオルガはさすがにうろたえながら笑った。相変わらずだなと思っているのだろう、しばらくして笑い声は普段のオルガのものに変わり、しばらく海の耳にはケラケラとした笑い声ばかりが聞こえていた。
早く通話を終わらせてしまいたかった海は、自分の意見を押し付けるようにしてオルガへ言葉で切ってかかった。
《嫌な予感しかしないんだよ、お前のそういうのは。日本に来るつもりってことは、もう話を押し通すつもりでいるか、押し通せる材料があるから最後のダメ押しに俺んところに来るってことだろ。何だよ。俺はフィンランドには絶対戻らないからな》
〈まー、そうだね。話をもう通すつもりでいるからなんだけどさー〉
《じゃあ、なおさら嫌だね》
〈そうは言ってもさー。話、飲んでもらわないと困るんだよねー〉
《なんだよ。またお前の母親の事情か》
〈まー、そうだね。そっちの事情もあるし、あとはいろんな人の事情がねー〉
《いろんな人の事情は考えるくせに、俺の事情は一切考えてはくれないんだな》
〈そういう仕事だからさーあ、うちら〉
《一般人になった俺にまだ付きまとわないといけないのかよ。何だ?今度は国に向けてメッセージでも撮ればいいのか?》
〈卑屈ー。やだなーそういう言い方〉
《じゃああと何があるんだよ。俺にだって俺の生活があるんだ》
〈こっちもさー、まだ撮りたいものがあるって言ったじゃん?そーゆーことなのよ。分かってちょーだい〉
《で、それが何なんだよ。とっとと用件を話してくれよ》
〈それをぶーぶー言って聞いてくれないのはヨッシのほうなのにさー〉
海は呆れたようにしてため息を大きく吐き、眼前にオルガが居たらつかみ掛かりたい気持ちを抑えて、ここが公の場だということもあってなるべく平静を保とうとした。
「……すみませんね」
ようやく通話が終わり、隣の男に軽く声をかけると、隣の男は手をぷらぷらと振って構わないようなサインを出した。
申し訳ないな、と思いながら海はその隣の男のクーラーボックスの様子を見て驚いた。大漁だ。同じ人間が釣りをしているはずなのに、どうしてこうも違うのだろう――器具の違いだろうか、それとも、狙っているポイントなのだろうか――。
案外、ビギナーズラックなんてものはないものだな――と海は思いながら、携帯をとうとうサイレントモードへ切り替え、がさごそと薄手のジャンバーのポケットにしまいこんだ。
男が引き上げた釣竿と一緒にはまだ少し温かい缶コーヒーが置いてあり――自分のクーラーボックスにも一匹、先ほどの魚が釣れたのだろうか――大きめの魚がぴちぴちと跳ねているのを確認し、申し訳なさでいっぱいになった。
自分からここに来ておいて、この魚が何なのかどころか、ここの釣り堀では何が釣れるのかも実のところよく分かっていなかった海は、その魚の大きさだけが頭に入ってきて、見慣れない魚に首をひねりながら缶コーヒーを開けた。普段あまりコーヒーにはすすんで砂糖を入れない海にとってはやや甘さを感じるものだったが、どこか懐かしさを感じる甘ったるさだった。
フィンランドに居た頃や、家に母親がまだ居た頃は、こうした甘ったるい菓子をよく作ってくれたものだった。
母親が家を出て行ってからは、自分からはあまり甘いものを食べなくなったし、コーヒーなんかもミルクこそは入れるものの、砂糖は入れないことが多かった。
華耶がたまに疲れがとれるようにとクリームを乗せたコーヒーを作ってくれることなんかもあったが、あれは心身が疲れているタイミングで作ってくれるものだから飲めるものであって、普段はブラックで飲むことがほとんどだった。
たまにはこうした一口で甘さを感じるものを飲み食いするのもいいものだな――と海は思ったと同時に、ふと、華耶の作る菓子が少しだけ恋しくなった。
バッグの中のゴミ袋に空き缶をしまい、しゃがみこんで再び釣竿を持ち、立ち上がろうとした海だったが――
「……おい」
ちょうど魚を釣り上げ、網でしっかりとその大きめの魚をキャッチして引き上げようとしゃがみこんでいたその男の顔を見て、海は思わず声を出した。その声は、呼びかけるような声というよりは、半分は苛立ってかけたようなものだった。
「……歳を取ったな、佳井海――」
「お前――」
海のほうを見向きもしないまま、白髪交じりの髪を結った男はぽつりと呟いた。
自分の知っている姿よりもずいぶんと長く伸びた髪は一瞬海の判断を鈍らせたが――その独特な髪の結び方と、そして相変わらず似合っていない三国時代の武将のような髭。一向にこちらを向こうとしないその男のすぐ横で、手に握ったままの釣竿をどうするべきか海は悩んだ。
しっかりと釣竿を握っていないと、すぐにでもつかみかかって、殴ってしまいそうだった。
「いつか全てを終えたお前さんに会って、一言、そう言ってお前さんを労ってやりたかった。だがねェ、本当に歳を取ったのは俺のほうだった。歳なんか、5つくらいしか離れてねェはずなのに、お前さんだけがいつまでも若々しくて――俺ァ、一丁前に50代みてェなツラになっちまった。まァ、50にもなるんだから、そらァいつまでも自分だけが若くいられねェってのは分かるけどよ。お前さんを目の前にすると、お前さんはやっぱ……普通たァ違うね。お前さんはずっと俺の知ってる――あの頃のままだ」
「それだけのために突然居なくなったってのか――清兵衛」
感心したようにして海の昔と変わらないいでたちを眺めた清兵衛は、うんうんと頷いていたが、海は両腕を震わせながら清兵衛を見つめていた。
怒りだとかそういうストレートな感情ではなく、言葉や態度に表しづらい、ただただ、爆発――という感情だけがそこにあって、それをこらえるのに海は必死だった。
「ガハハ。まァ、そうだ。お前さん、引退会見の時なんかも言ってたよな、一人の父親に戻りたいって。俺もね、野球に未練が出そうだから、なるべくあそこから出て行きたかったんだ。俺みてェなのは宵越しの金は持たねェって思ってただろ?こう見えてな、それなりに老後のための金はね、準備してたんだ。お前さんのイメージ以上に俺ァ高給取りだったし、こう見えて、競馬の腕にも自信があってな。……はじめに、髪と髭を剃って、あちこち旅をしようと決めた。釣りをしながら、旅をして、気ままに生きようと思った。遊んで暮らせるだけの金ならあったからな。坊主になった俺は、俺が思ってるよりも世間からは身を隠せたから、気楽だったよ。だから、俺を知らねェような片田舎の民泊やらに泊まって、そこからずっと日本中を旅していた。はじめは、北海道の沼田で半年近く隠居してた。だが、長く留まっていたらそこに俺が根付いてしまって、そのうち情が移りそうだったから、それからは長く居てもせいぜい数ヶ月から数週間って生活をしていた。あるときは、街まで車で二時間かかるような限界集落の山中で爺さん婆さんと畑を耕し、渓流で魚を釣って生活したりもした」
「そんなお前がどうして東京の釣り堀なんかに」
「釣れりゃ、どこでもいいんだよ、俺ァ。それが釣り堀だろうが、東京だろうが、海なし県だろうが、渓流だろうが、どこだっていい」
清兵衛は再び堀に糸を垂らすようにしてルアーを泳がせ、静かに当たりを待った。
「だがね、それでもお前さんたちの事ァ気になったよ。気にはなったが、俺がそこでチーターズに戻るのは、やっぱ違うだろ――あァ、違うんだわ。心の中にはまだ、俺ァやれるって思ってるもんだから、ここで俺がコーチなんかとして戻ってもきっと、未練だけがそこにあって、俺ァ、コーチという仕事を全うできねぇ。だから、俺ァ野球からなるべく離れようとした。お前さんがお前さんらしさを求め続けたように、俺も、俺が俺らしく生きるためことを求め続けた。世間の噂も入ってこねぇような集落に居座ったりしたのも、世話んなった爺さん婆さんから山を貸してもらって、しばらく山で生活したりしたのも、そういうことだ」
「それで連絡先も全部断ち切ったってのか。……バカだよ、お前は」
「悪ィことをしたとは思ったよ。だがね、きっとお前さんだって、もしすぐ近くに俺が居たら、相談してェなって思ったことが何度もあっただろ」
「……」
図星だった。図星だったからこそ、海は少しだけ腹が立った。分かっていたなら、なぜ一言残して消えなかったのか――と。未練があるのは分かるが、だからといって何故ありとあらゆる自分の痕跡を消したのか――と。
きっと、そんな海の未来すらも清兵衛には見えていたのだろう。清兵衛は笑顔の奥にそれなりに申し訳なさそうな目色をしながら海を見つめた。
「だから――次に会うときは、お前さんが現役を辞めて、お互い、ただの一人の男に戻ってからだ、って思ってた」
「お前、俺が東京に居るからわざわざ東京に居るとかじゃないだろうな。お前、案外女々しいところあるからな」
「ガハハ!お前さん、俺がそんな女々しい真似すると思うかね?あァ、っ確かに東京には定期的に来てると言えば、来てるさ。だがね、そのうちお前さんの家に遊びに行ってやろうか、なんてことは頭の片隅にはあったが、それだけのために東京に居座ることなんかしねェよ。ここは何するにも物価が高ェからな。大阪も何するにも高かったけどよ、酒を一杯引っ掛けるにしても、気軽に立ち寄れねェ」
清兵衛は高笑いをしながら、海の肩をバシバシと叩いた。
本当は『そんな女々しい真似』を見透かされたくないから言葉を重ねているだけなのではないか――なんてことも海は思ったが、突っ込むだけ野暮だから清兵衛にされるがままでいた。
「子供、産まれたんだってな。お前さんも、お前の奥さんも、よくやるよ。本当に、若いままだ。そこにいくらかの年月だけが流れただけでな。……で、名前は?」
「菜巳」
「そうか。今からだと……成人式にはお前さんも俺も、還暦過ぎてるな」
「あぁ。さすがに次はないよ」
「ガハハ。どうだかな。お前さん、夜は猛獣らしいからな」
海は相変わらずなかなか当たりのこない釣竿を握りながら、清兵衛が引き上げた魚を海のクーラーボックスに入れるのを見ていた。
「別にいいんだよ、そんなことしなくても」
「お前さんには、本当に悪ィことをした。引退セレモニーにも俺ァ来なかった。花束だって贈ってもいねェ。次に会うのは、お前さんの全てが終わってからだって思ってたからな。だから、これはほんの詫びだ」
ケラケラと笑いながら、清兵衛は白い歯を海に向けた。
「なにが詫びだよ。詫びのつもりなら、これっぽちで足りるかよ。お前、たったこれだけのことをしてまた居なくなるつもりか?」
「居なくはならねェよ。お前さんの人生に一区切りがついた――だから、これからは、俺ァお前と対等な立場で酒が飲める。お前さんとは、埋めねェといけねェ10年分の月日があるからな。お前さんが嫌じゃなかったら、お前さんとはこれからもまた酒を飲みたい。そしてこれからは、東京にはお前さんを会うことを口実に足を運びたい。だから、連絡先をもう一回交換してもらえるかい」
「もらえるかい、っていうか、交換しろ、っていうことだろ、それは」
「嬉しくねェのか」
「嫌じゃないけど」
「じゃあ、とっとと出せよ。携帯」
海は苦笑を浮かべながら、清兵衛へ携帯を向け、BINEの連絡先を交換した。なんでお前のほうが連絡先をねだってるんだよ――と言いたかったが、きっと分かっていて清兵衛も携帯を差し向けているだろうから、海はぶつくさ言いながら携帯を黙って差し出した。
「それにしても、お前さん、釣りのセンスはまるで無ェみたいだな」
「天は二物を与えずって言うだろ。これ以上俺に才能があったら、自分にこれまでたくさんの試練があったことも受け入れなきゃいけなくなる」
「ガハハ。お前さんも言うようになったな」
清兵衛は海の肩を再びバシバシと叩きながら、大声で笑った。
白髪の量と髪の長さ、そしてあの頃よりもさらに伸びた髭の長さが変わっただけで、そこのあったのは海のよく知っている清兵衛だったことに、海もまた珍しく大声で笑った。