海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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227・白々しさの中に真実は眠る

「正直言って、関心しないね」

港区の高級ステーキ店に招待されていた海は、怪訝な表情を浮かべていた。

オルガの隣には通訳。そして、木村や球団広報たちに混ざって、球団代表や野球連盟のお偉方の姿もある。貸し切った10人席の個室には、見慣れた顔とそうでない顔とが入り乱れていて、海は嫌な気分になった。

 

自分の味方になってくれそうな人間が誰も居ない状況下で頼みごとをされるということは、ここに来た時点でもう自分は断れないということだ。オルガとの電話でもそれはもう確定事項だったはずなのだが、海としてはてっきりオルガと他数名くらいとの打ち合わせで呼ばれたものだと思っていたから、思っていた以上に話が大きくなっていることに海はどうしてそういうことを最初から言わなかったんだ――とオルガを睨んだ。

 

もちろん、オルガだって最初からこういうメンバーで人が集まるということを海に伝えていれば絶対に海はこの場にはやってこないと思って隠していたこともあるのかもしれないが、だとしたら、一般人に戻ったはずの自分にあと何の用があるのだ――そう思わずにはいられなかった。

 

「分かってると思いますけど、僕、もう一般人ですよ。僕からあと何を搾り取るつもりなんですか」

「まぁ、そう言わずに」

海の隣に座っていた木村が海を制した。

 

「お前はどっちの味方なんだよ」

小声で海は木村に呟いた。

「そこまで悪い話ではないですから」

「いい話か悪い話かどうかはお前らじゃなくて俺が決めることだろ。俺の主観をお前が決めるんじゃない」

「それはそうなんですけど、とりあえず話は飲んでもらえますか。もう既定路線なんですよ。良くも悪くも先輩はもう一般人です。一般人になってしまったってことは、あとはハイって言うしかないんですよ」

「俺の相談もなしに勝手に話を進めておいてか」

海は不機嫌そうにテーブルに置かれた水を口に含んだ。

「場合によってはお前を殴ってでも帰るからな」

と睨んだ海の表情は、いつもに増して鋭かった。

 

「……では、皆さんお集まりのようですね。それでは、改めまして本日の進行を勤めさせていただきます大和スポーツ、スポーツ担当の木村覧穂【きむら・みのり】です。よろしくお願いいたします。今回はわざわざフィンランドよりお越しくださったオルガ・シルタネンさんに代わりまして、私が代理で進行をさせていただきますが、オルガさんからは既に何を話して欲しいかこのようにカンペを作成していただいてますので――」

予定ギリギリにやってきた、これまた海とはあまり面識のない男が慌しく入室したのを確認し、木村は前に出て進行を始めた。

 

随分と偉くなったものだ――と海は関心と半分バカにしたような表情で木村を見つめた。

 

〈――さて、続きましてはこちらのニュースです。冬の間のトレーニング方法を学ぶために、フィンランドから派遣されたトレーナーや老若男女の野球愛好家たち20名が北海道の独立リーグにて2ヶ月の野球留学をすることが決定しました。また、独立リーグのみならずワイルドベアーズの私設応援団たちとの交流も予定されており、日本ならではの鳴り物応援文化にも触れるとのことです――〉

 

「……ただいま」

「おかえりー。……うっわ、なんかすっごい疲れた顔してるね、海くん」

リビングに入ってきた海の表情は眉間にしわが寄り、現役時代さながらひどく険しいものだった。

華耶は気を遣って『疲れた』という言葉を使ったが、実際にはその表情は不機嫌極まりない感情がむき出しで、街で少しやんちゃな者たちにあらぬ声をかけられたらすぐにでも手を出してしまいそうなほど、どこか殺気すら感じるものだった。

ここでうっかり機嫌が悪いのか、と尋ねれば海は不機嫌であることを隠さないだろうから、華耶はあえてその言葉を遠まわしなものにした。

 

「……まあ、疲れた、と言えばさ、疲れたよ。出された肉の味なんて覚えてない。打ち合わせなんかそこそこに、いい肉を食わせてくれるって話だったのに」

「じゃあ今度、あたしと一緒に行こっか。せっかく高くてちゃんとした店なのにさ、料理楽しめなかったなら、もったいないじゃん」

「別に、高い料理が食べたいわけじゃないんだけどさ」

「あたしが行きたかったんだよー。なかなか簡単に行けるような店でもないしさ。お金は有り余ってるとはいえ、だからってほいほいと高い外食なんて使ってたら、きっとあっという間だしさ。……まあ、晴留も新もなんなら真結たちもうちにはお金たくさん入れてくれてるし、いいんだけどさ。なんだか、こんな歳から子供に養われてるのも、なんかこう……隠居してる感じで嫌じゃん」

「別にそこは気にしなくていいだろ。ちゃんと理由があってお金入れてくれてるし」

気まずい笑みを浮かべた華耶を海は軽くあしらい、冷蔵庫から味のついてない炭酸水を取り出して海はそれをぐっと飲み干した。なんでもいいから、喉に引っ付いたままの苛立たしい感情を押し流さなければ、気がすまなかったが、こんな気分ではクリアな炭酸水特有のちょっとした苦味や独特の風味すら腹立たしく思い、海は思わず『あぁっ』と不機嫌なうなり声を上げた。

時折地下室で練習しているときなんかは出していた声だったが、華耶の前では滅多に出さなかったその声に、よほどのことがあったのか――と華耶は少し心配そうに海を遠くから見つめていたが、海は華耶の顔を見ないまま、台所に手をついてうつむきながらぼやきはじめた。

 

「……去年、密着取材しただろ、あいつら。アレをさ、ちゃんと日本語字幕とかつけたり、尺の都合でカットした場面を編集して、ディレクターズカットとしてもっかい売りたいらしい。当時の事情から流せない部分なんかもあったらしいからさ。もちろん、印税はちゃんとこっちにも入ってくるようにしてくれてるから、そこはいい」

「よかったじゃん」

「そこまではね」

海はとぼとぼと歩きながらソファにやや乱雑に座り、隣に座っていた華耶の肩へと腕を伸ばし、少しだけ引き寄せた。

海からはうっすらとワインの香りが漂っていたが、さほど飲んでいなかったのか、引き寄せられた華耶は、こんな時に素直に甘えてくる海にはそれほど悪い気はしなかった。

 

「あいつら、まだ俺にやってほしいことがあるらしくてね」

「やってほしいこと?」

「ああ。やるからには、もっと俺の根っこの部分から知りたいみたいでさ――いろいろまとめて、ドキュメンタリーだけじゃなくて、俺のこれまでの流れを映画にすることになったんだって。日本とフィンランドの合同でね」

「ええ?すごいじゃん。なかなかないことだよ」

「よしてくれよ。俺の人生なんて、まだこれからなのに。たった40数年生きただけの奴を数奇な人生だとか茶化して映画にして、不愉快だ。別に俺が自分からすすんで奇妙な人生を歩んできたわけじゃないのに。あいつら、俺を搾ればまだまだ金になるもんだと思ってるだけなんだよ」

「お金どうこうじゃなくて、多分フィンランドの人たちが本当に、もっと海くんを知りたいと思ってくれたからなんじゃないかな。そんな別に、海くんのことを茶化してるだけじゃないと思うよ。そこはこう……やっぱ、海くんこういうとき、ちょっと卑屈だと思うよ。もっと素直に受け取ろうよ、人の興味関心を。……そうは思えない人生を歩んできたのは分かるし、海くんにしか分からないテリトリーがあるのも分かるし、そこは尊重するけどさ」

「……分かってるよ。そんなこと」

すねるようにしてつぶやいた海の後頭部に華耶は手を沿え、よしよしとなだめるようにして撫でてやった。海は「子ども扱いするなよ」と嫌そうにしたが、今度は華耶が海を引き寄せる形で腕を巻きつけるものだから、海は華耶にされるがままになってしまった。

 

「……でもね、俺の人生を映画にしたら金になる見込みがあるから、ディレクターズカットだの、映画化だのなんてことになるんだろ。別に俺の生い立ちだとかなんだとかなんて、動画サイトでもなんでも、やり方なんていくらでもあるのに」

「でも、断らなかったんだよね」

「断れなかったんだよ。……断れるかよ、球団だけじゃなくて、球界のお偉方が何人も集まってる状態でさ。酒でもかけて退室したかったよ、俺だって。それが許されるならね」

海は投げ出した足を組みなおし、じっとこちらを見つめる華耶の視線から逃げるようにそっぽを向いた。

 

「それに、俺の生い立ちを映像化するってことは――」

海はふと、テレビの向こうでまだ特集が組まれているヘルシンキの町並みや、木々の群れをじっと見つめた。

自分の記憶よりも随分と近代的な建物が増えたような気もするし、その実そこまで変わっていないようにも見える。思い出そうにも、もう昔の記憶すぎて頭に残っている記憶はあやふやなピースがあまりにも多くなってしまった。

すすんで忘れようとしたわけではないとは思っているが、華耶という存在と共に歩んできた日々の中で、自分が日本人として生きることを選んだ以上、意識の奥深くではひょっとしたら、自分はもう日本人なのだから――と忘れる努力をしていたのかもしれない。今や、自分がフィンランドに住んでいた頃の家の間取りさえおぼろげだ。

にもかかわらず、楓悟の憎たらしい表情だけはそこにはっきりとあって、本当に思い出したい母親の表情は、ガラスの曇りが取れないままでいる。きっともう、ずっとこのままだろう。

 

「……俺の過去を明かすってことは、親父や、おふくろの話をしなければいけない。親父みたいなどうしようもない奴は別にいいよ。どれほどボロクソ言ったって、あいつが社会的にろくでもなかったということを皮肉にも事件が照明してくれた。でも俺は、おふくろのことは悪く言いたくない。……別に、恨んでるわけじゃあないんだよ。おふくろが出てった理由は、親父が女癖が悪かっただけじゃあないから」

「海くん……」

 

家の中で荒れていた時期があった――ということを包み隠さず華耶にだけは話していた海は、その過去についてはあまり日本のメディアにも話してはこなかった。

 

唯一、海がメディアに対してNGを出し続けてきた、自分の過去の家庭の事情――。

いい加減、そこについて話してはくれないか、という部分もメディアにはあるのだろう。会食の際にはやはり、オルガも木村も皆、野球選手・佳井海の原点というものにこだわっていた。

 

「……だから、一応言ったんだよ。俺の過去のことをどうしても知りたいなら、俺は親父のことも、おふくろのことも、俺が覚えてる範囲のことは全部話すって。ただ、親父のことはともかく、絶対、おふくろのことまでは悪く扱うような話にはしないでほしい、って。おふくろが生きてるかどうかなんて分からないけど、生きてたらもう70くらいになってるはずだ。正直言って、下手してたら死んでてもおかしくない年齢だろ。そりゃあ、死んだ親父のことを悪く言うのはよくて、家を出て行ったおふくろのことは悪く言わないでほしい、なんてのはおかしい話なのかもしれないけどさ。それでも――おふくろのことまで俺は憎んで生きてるわけじゃない。だからって、何度も言うけど……会いたくはないんだけどさ」

「空白の時間を自分で認めたことになっちゃうからだよね」

「うん」

 

海は炭酸水のペットボトルに再び口をつけた。ただ苦味がそこにあって、胸のつっかえは引っかかったままだった。

 

「――そっか。よかったよかった」

相変わらずウルスラは部屋に飾られた不恰好な絵画と、部屋に大量に飾られてある海の写真とを交互に眺めながら、その電話に応じていた。今までと少し変わったのは、その部屋が病室から自宅に変わったことだった。

リンゴの皮をむきながらその電話をハンズフリーで応じ、時折切ったリンゴをひとつまみしてみせた。

 

〈でもさー、ヨッシもまた変なこと言うんだよ。自分の生い立ちを説明するのは別に構わないけど、母親のことは悪く描かないでほしいって〉

「……」

ウルスラはリンゴの皮をむく手を止め、表情を強張らせた。じっと黙って、その言葉を詰まらせた。

 

〈……お母さん?……ウルスラ?聞いてる?〉

「あ……うん。聞いてる聞いてる」

オルガから突然呼ばれた自分の名を呼ぶ心配そうな声に、ウルスラは作り笑いを浮かべるような声で応じ、なんとか自分を取り戻そうと平静を装った。

〈あー、よかった。また発作とかでおかしくなったかと思ったじゃん。大丈夫なんだよね?一応、今んところは全部治ったってことでいいんだよね?〉

「ごめんごめん。そこは大丈夫。手術、ちゃんとうまくいったから。しばらくは大丈夫だろうって。数値も安定したままだし、今は元気元気」

ナイフを一旦置き、シルタネンはポットから紅茶を注いで一息ついた。

 

〈ヨッシの母親が家から出てったのは事実なんだからさー。私は、そういう生のヨッシの感情をもっと知りたいわけ。きっと皆、ヨッシが何を感じて、何を目標に野球してたのかとか、絶対気になってるはずだからさ。それを『悪く描かないで欲しい』とかさー。甘っちょろいじゃん、いくらなんでも。恨んでるに決まってるって。絶対、なーんか隠してると思うんだよなー、ヨッシは〉

「――オルガ」

ウルスラは笑みを浮かべながら、オルガのやや暴走した言葉を抑制した。

 

「本当に、カイはそう言ったの?」

〈そう、って?〉

「悪く描かないで欲しい、って」

〈うん〉

「……そっか。……本当にそう思ってるっぽかった?」

〈私はこの手の仕事してるから、それだとちょっと困るなーとは思ってたけど。えー?なになに?なんかずいぶん気にするじゃん〉

「だって、両親のことで苦労したって言ってたじゃん?推しの謎めいた過去はやっぱり気になるじゃない?」

〈まー、それはそうか。まー、そうだね。ヨッシさ、父親の悪口はいくらでも言ってきた。今までもそうだった。でも、母親の悪口は言ってこなかった。母親の話はちょっと、って言って、どうしても言おうとしなかったんだよ。だから……よっぽどのことがあると思ってるけど、恨んでなさそうなのは本当なのかなって思ってる。父親のことは今でも恨んでるって言ってるけど、母親のことを言おうとしないあたり、よっぽどそれ以上の憎しみがあるか、本当に言葉通りかのどっちかだもん〉

「そっか」

ウルスラはふっ――と落ち着いたような表情を浮かべながら、残りの紅茶を飲み込んだ。

 

〈でもさー、ウルスラも日本来ればよかったのに。私がちょっとうまいことやったら、憧れのヨッシにだってすぐ会えるのにさ〉

「……憧れは、憧れのままにしといたほうがいいものもあるんだよ。それに――」

ウルスラは、壁に大きく貼られたWBCSの決勝サヨナラホームランの写真を見ながら――

 

「……やっぱ、なんでもない」

〈なんでもないって何だよー〉

「ま、わたしは病気のこともあるしさ。無理に日本に行って倒れたら、シャレにならないし」

〈それもそっか〉

そう言いながら、ウルスラは取り繕ったような笑顔を浮かべた。

溢れそうになった涙をハンカチで拭いながら、しばらくオルガの言うことにうんうんと半分適当に返し続けたウルスラは、途中まで切ったリンゴのことを忘れかけてしまっていた。

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