「……」
ボーカルの収録のときとは違う、マイクの威圧感を感じた。目の前にどんと構えたその黒い塊に吹き込む言葉。その意味や解釈は人によっては受け取られ方が違うからこそ、海は噴き出す汗がしばらく止まらなかった。
自分はどこまで行っても本当の意味では日本人ではない。イントネーションや言葉遣いだって、自分では9割5分以上はちゃんとしているとは思っているけれど、残りのその1割にも満たない部分がきっと、自分の日本語に違和感を与えていることだって分かっている。『正直言って』という昔からの口癖も結局治らなかったままだ。
皆、自分の日本語はおかしくない――イントネーションだって言葉遣いだっておかしくないと言っているけれど、自分の中では、絶対どこかがおかしいと思ってしまっている。
映画の中で、インタビューだけならまだしも、自分の声をナレーションとしても当てることになった――そのプレッシャーが海には重かった。
ただのナレーションではない。
あくまでも自分の言葉でその言葉を伝えて欲しいということで、生い立ちに関する部分の言葉は、海自身の言葉で伝えることになった。
一応、提出前に華耶がある程度は手直しをしてくれたし、そうして華耶から最低限調整を受けた原稿をスタッフからも確認してもらったが、その修正はほぼ行われなかった。
海のあるがままの言葉で綴られたナレーション――。それは映像の多くの中で、海の当時の心境として、ありのまま描かれることになる。これまでの日々に対しての不満だとか、チームの内情――それらの多少は華耶から手直しをされてはいるものの、これまでどんな気持ちで日々を歩んできたのかは赤裸々に綴られたものだ。単純にチーターズファン向けというよりは、佳井海という人物のドキュメンタリーとしての側面が強いから、かなりチームのことに対してもよくない表現を使ってしまった。そんな言葉を、映像を見た側がどう思うか――そう考えると海は胃が張り裂けそうなほどの重圧を感じずにはいられなかった。
映像も特にない状態で、とりあえず声だけを当てる――そんな状態で今日の収録は行われた。少しくらい映像が上がってないものか、と海はスタッフに確認を取ったのだが、大体こういう映像が上がります、という文字が流れるだけの映像にとどまっていて、どうやら映像の編集に手間取っているということが海に伝わってきた。
しばらくの収録が始まるこの日収録することになったのは、日本に来たばかりの頃の自分についてのシーンの収録だ。収録は仕上がった順ではなく展開どおり順番に行うらしいから、海はどうやっても収録するたびに自分の半生と向き合わなければならなくなる。それも海にとっては辛いものがあった。収録するたびに自分の日々を振り返るのだ。思い出したくないことだって、山ほどあるというのに――。
「佳井さん。緊張してますか」
「緊張するなって言われるほうが難しいですよ」
モニター室から音響担当が海に話しかける。スタッフは少しだけ室内の空調の温度を下げて海の負担を減らそうとしているのだが、海は相変わらず汗をハンカチでぬぐい続け、落ち着かないようにペットボトルの茶を飲んだ。
スタッフもある程度は海の心の病のことは知らされていたが、ここまで海がプレッシャーを感じるものだとは思っていなかったから、海のペースになるまでの時間を少しばかり待つことにした。
「打席と収録、どっちが緊張しますか。それこそ、WBCSの打席と比べたら」
「……ベクトルが違うんで」
気が紛れるような質問をしたつもりなのだろうけれど、頼むから、そうした部分で自分をいじらないでくれよ――と海は思いながら、ペットボトルの茶をもう一度口に含んで喉の開きをチェックした。
「佳井さん。それじゃあそろそろいきます」
「――お願いします」
スタッフからも恐らく海はずっとこのままだろう――そんな判断をしたのか、急かされるように声をかけられると、海は天井を見上げながら、意を決したように目の前のマイクに向かい、手元の台本を見ながら淡々と話し始めた。
「――荒屋海」
「――正直言って、俺はこの名前が嫌いだ。なんだ荒い家って。同じアラヤだったらもっと別の字があっただろうに、どうしてそういう字を選んでしまったのか問い詰めたい――問い詰めたところでどうしようもないのだけれど」
「――Kai Hugo Alaja――それが何年か前までの俺の名前だった――」
「……はい、カット!いいですよ佳井さん。ぶっちゃけあんまりナレーションの技術にまでは期待してなかったんですけど、一発OKです。いい感じにいろんな感情出ててよかったですよ。残りのシーンもこんな感じでお願いします」
褒めてるのかけなしてるのか分からないような言い方で音響担当は海に向かって拍手を送った。
海はそんな音響担当に愛想笑いこそしながらも、内心随分失礼な奴だ――と思いながら水を口に含んだ。
野球ゲームの解説役だってついこないだ収録したばかりなのだから、収録に関しては全く初心者というわけではない。ナレーションがはじめてというだけなのだ。随分見くびられたものだ――と思いながら海は再びヘッドホンをつけ、読み方の打ち合わせを行った。
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「ねーえ海さーん。聞いてくださいよー。こないだ木村さんがねー、ジェネルさん、見かけの割には成績地味ですよねーとか言われてることについてどう思いますか、とか言ってきてー。見かけが地味か派手かなんてどーーでもいいじゃないですかぁ!?十分派手な成績してますよねー私!?」
相変わらず距離感の近いジェネルがそこにはいて、なんとか間に割ろうとする華耶だったが、海のもう片方の隣では華耶が菜巳の面倒を見ることに専念できるためにと気を遣った晴留がビールを注いでいた。
華耶は歯がゆい思いをしながら菜巳の寝顔を時折気にして、海の対角線上にあるソファに座ってその顔を少しばかり恨めしそうに見つめた。
いつまで経っても自分は女でありたい――と昔から華耶は海に対して言っていたし、ジェネルに対してもこれからは恋敵だ、と華耶は言っていたが、確かにそこには対等な立場になった華耶が居て、ジェネルに時折引きつった笑顔を浮かべていた。
年末年始は家に居させて欲しいと仕事を断った真結と広乃は、直人の両隣に座って他愛もないテレビ番組を見ながら、チャンネルを回している。
「分かったから、腕に巻きついてベタベタするのやめろよ」
「これがベタベタせずにはいられますかって!来季もっと頑張って欲しかったら素直にそう言えばいいのに。何なら、自分だってそう思ってるのに『周りがそう言ってましたよ』みたいなクソ伝書鳩みたいなことするのが滅・茶・苦・茶!腹が立って!ちょっと仕事が順調だからってあーゆーところ直さないと、いつか絶対仕事でやらかしますよ。中間層っていうのはああいうところに落とし穴があることを木村さんはまだ知らないんですよ」
「まあ現にアイツはそうやってお前に対してやらかしたわけだけどね」
海はそう言いながら、ジェネルを落ち着かせるためにビールを注いでジョッキを手渡す。ジェネルもまた、ジョッキを手に深いため息をついて、ぐっとビールを飲み込んでテーブルにあったアナゴのから揚げへと手を伸ばした。
「それにしても、そこまでするなら来ればよかったと思いません?変なとこ、律儀なんですよねー、清兵衛さん」
「律儀っていうか、江坂に居た頃だって清兵衛のやつ、うちには来た事がほとんどないんだから。長い旅はアイツを少し変えたかも知れないけど、人間の本質なんてものはそう変わるもんじゃない」
「でも、だとしたらですよ」
ジェネルはぐい、と海の顔をじっと見つめた。
「だとしたら、どうやって海さんともう一回会おうとしたっていうんですか、清兵衛さん。絶対、一回くらいはここに来るつもりだったとは思うんですよ。たまたま会えてたから、こうして家にお魚送ってきたりできるようになっただけで」
連絡先を交換してから、清兵衛は下処理をした魚をよく冷蔵で送ってきてくれた。清兵衛なりの罪滅ぼしの気なのかもしれないし、ひょっとしたら何も考えずに送ってきているのかもしれない。
結局、この年末年始もどこかで酒でもと思っていたが、その姿を東京に現すことはなく――なかなか清兵衛も釣りが忙しいのか、それとも清兵衛なりに何か他の用事でもあるのか、その予定は合わなかった。
自分もすすんで清兵衛のプライベートに踏み込むことはしなかったから詮索はしないが、さすがにいくら旅人をやっていると言っても、釣りだけやっているわけではないだろう。清兵衛なりに何か他にいろいろやらなければならないことがあるのだろうと思って海はそれ以上のことを思わないようにした。
「落ち着きのない奴だよ、アイツは。でも――」
「でも?」
「この年末年始は、多分意図的に来なかったんだと思うよ」
「どうしてですか」
「アイツ、俺の引退まではあえて会おうとしてなかったんだよ」
「知ってますよ?」
「年末年始にお前が来るだろうって分かってるからきっとアイツ、お前に気を遣ってここに来なかったんだと思う。お前が今アイツに会ったら、きっと色々意識するだろうから」
「そんな、別に私は――」
ジェネルはその次の言葉を出そうとして、出せなかった。
海が居なくなってからのチーターズがどうなっているかは海はよく知らないが、よほど大きい補強があっただとかそういった話を聞かないこともあり、今まで自分が担っていた役割が今度はジェネル一人にのしかかったことになる。
真悟だって前にズカズカと出て行って人を率いることができるタイプではないし、その真面目さや言葉の刺々しさから最近は中堅やベテランと肌が合わず、チームの中で孤立し始めていた。
自分と歩幅をあわせて歩ける者がいないのだから、ジェネルの置かれている立場は、かつての自分以上に過酷だ。
きっとそんな状況で、引退した自分と清兵衛が楽しそうに酒でも飲んでいたら、きっとその空気にジェネルはつられてしまう――今まで清兵衛が自分と進んで会おうとしなかった理由が本心ならば、きっとそういうことだろう。
「だとしてもですよー。私が現役退く頃には清兵衛さんいくつになってるかって話ですよ。それが5年後かもしれなければ、10年後かもしれませんけど」
「今から10年後か。あんまり、考えたくないな」
海は軽くあしらうように笑いながら、自分が10年歳をとったら何歳になるのかを途中まで数え――やめた。
「私は別に、気にしないからいいんですよー。また前みたいに飲みたいだけなんです。前と関係性が変わった、とか思ってるのはそれぞれが勝手にそう思ってるだけで、私は別に変わったなんて思ってないですから。離れてる間の月日が人の関係を変えるなんてものは、アレです。そうして、自分が変わってないけどアイツは変わった、とか、あーだこーだ理由を付けて今の自分を守りたいだけなんですよ、大概」
「そんなもんかね」
「私は今でもずーっと海さんを追いかけ続けてますし、今でも華耶さんのことは勝手にライバルだと思ってます。清兵衛さんも田中さんも皆、私にとっては先輩です。もう現役じゃないからとかそういうの……私は別に、気にしないですよ。周りが勝手に私のこと気ぃ遣ってるだけじゃないですか。そうやって孤独にさせられてたのが海さんなんですから、私のことまでそうして孤独にさせないでほしいなって思うんですよ。真悟くんだって、今はあんなんですし」
「……」
海はジェネルのおちゃらけた言葉の中で、確かに鋭利な刃物となって輝いていた『そうして孤独にさせられてた』という響きに思わず顔をしかめた。自分はジェネルに今でも変わらない気持ちで確かに接しているが、ジェネルに気を遣うということは、確かに、そうして行き場のなくなったジェネルからさらに行き場をなくすることなのだ。
清兵衛の気遣いもまた正しいことだが、ジェネルの主張もまた、正しいのだ。
「……分かったよ。清兵衛のやつにもちょっと、相談してみるよ。お前がどう思ってるかよりも、お前のことも考えてくれ、って」
「ありがとうございます。……やっぱり海さんは、海さんですねー。自分のことだけ考えて生きたいと思ってるはずなのに、他人のこと考えて生きちゃう」
「……そうなったのはお前らのせいだろ」
海は満面の笑みを浮かべながら感謝するジェネルに、冷めた笑みを向けながらビールを飲み込んだ。
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《ごめんねー。詫びの意味も兼ねてさ、今日はもっかいこないだの店に連れてこうと思うんだ》
《それを口実にお前があの店を気に入っただけだろ》
《それはそうだけどさ。ヨッシだってこないだ、全然料理おいしそうに食べてなかったし》
《食えるかよ、あんな空気で》
年が明けてすぐ、オルガは海のもとへやってきた。一応、取材ということにもなっているが、海からしてみれば単純に自分を連れて昼食に出かけたかっただけのようにしか見えなかった。
オルガに呼びつけられ、前回会食したステーキ屋で昼食をとることになった海は、個室でオルガと二人きりになった。
《退屈でいいね。経費で落ちるんだろ、こういうの》
《私もさすがにそんなことしないよ。ひどいな。映画にする以上、ヨッシの取材をまた続けないといけないからさ。だからわざわざ気を遣って個室にしたんじゃん。きっとヨッシ、広間じゃ嫌がるから》
《まあね。でも、これ以上掘ったって俺からは何も出ないよ。俺という井戸からはもう散々出し尽くしたはずだろ》
海はコップの水を少し含みながら、腕を組んだ。
《子供のことが気になっててさ。どう?最近》
《まあ、順調だよ。俺が料理してるときの包丁の音なんかにきょろきょろしたり手を動かしてみたりしてるって華耶は言ってるし、最近は声も出始めてるね》
《かわいい?》
《自分の子供だぞ。何人目だろうが、変わらないよ。そんなの、正直言って愚問だね》
《まー、そーだよね。かわいくないわけないか》
オルガはけらけらと笑いながら、本当に昼食をしたかったようでそれ以上深くは海に対してあれこれと言わなかった。
昼食を終え、しばらく黙っているとオルガがカバンからなにやら取り出し、海へと手渡した。
《そうそう。今日ね、これを渡そうと思ってたんだ》
《封筒?》
なにやら少しだけ厚みのある封筒に、海は首をかしげた。手紙以外のものも入っているようで、海は少し嫌そうな顔をした。
《お母さんからの手紙。病気も一応治ったけど、またいつ倒れるか分からないから、どーしてもヨッシに渡して欲しいって聞かなくて》
《ふーん》
海は封筒を受け取り、その場で開こうかどうか迷ったのだが、封をしたままの封筒を見て、ふと違和感に気づいた。
《……ちょっと待て。お前、中身見てないのか?》
《そりゃそーだよ。個人的な中身なんか見る趣味ないよ。そこまで人として終わってるように見られてるならまあまあ心外だね》
《個人的な中身、ねえ》
海は怪訝な顔をしながら、カバンにその封筒をしまいこんだ。
《……まあ、家で見ることにするよ。なんか、封までしてあって、お前にも内容告げてないってことは、よっぽどプライベートなモノが入ってるってことだろ》
《そーだね》
《ってことは、お前にもあまり見て欲しくないものかもしれないってわけだ。今開けるのはよすよ》
《そーしてくれると助かる。私もあんまり自分の親がテンション上がって他人にキャーキャー言ってる手紙とか、あんまり見たくないから》
《だよな》
海もまたうっすらと苦笑を浮かべながら、個室から出て行った。