海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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229・互いの幸せを願えばこそ

「……」

幼児用ベッドで寝転んでいる菜巳に対して猫じゃらしを使って遊んでいる海だが、その表情は険しかった。

 

なるべく笑顔で菜巳をあやそうとしていたのだが、その表情は硬く、脇でクッキーを作っていた華耶は作業がひと段落すると海のもとへゆっくりと近寄り、その隣に立った。

 

「……菜巳にまでそういう表情や性格移ったらどーするの?海くん」

「……」

返事はなく、険しい表情であるくせにどこかぼーっとしている海の姿がそこにあり、華耶はそんな海を少し不審に思った。

 

「……聞いてるの?」

「……うん」

「なんかこの数日、変だよ、海くん。スパゲッティ食べるのにフォークと間違えてスプーンで巻いてたり、『タワーチョコ』と『街路樹チョコ』とを間違って買ってきたり、鳥むね肉と鳥もも肉間違って買ってきたり。挙句セロリとパセリ間違って買ってきたりさ。さすがにセロリとパセリは間違えないでしょー、いくらなんでも」

「……」

華耶が心配そうにして海の表情を覗き込む。じいっと、問い詰めるでもなく、ただ、純粋に不安そうな表情で、海の硬い表情を見つめている。

 

「ね、海くん。あたしには言えないタイプの何か?」

「……そういうわけじゃないんだけどね、別に」

「じゃあ、話してよ。海くんだって、自分の問題だー、自分の問題だー、って言いたいけど、自分じゃどうにもならないこと分かってるから、突っぱねられないんでしょ。だったら、言っちゃえ。言って楽になりそうなら、さ」

華耶はそう言って、ソファに座って隣のあたりをぽんぽんと叩き、海を招き入れるようにした。海は渋々隣に座って、ため息をついた。

 

「あー、開口一番ため息つかれるとちょっとヤだなあ」

「……ごめん」

海が素直に謝ったことに、華耶は事の重大さをなんとなく察し、それ以上は海を茶化すことはしなかった。

 

海がしばらく言葉を言いづらそうにしていたので、華耶はテーブルに置かれていたポットからコーヒーを注ぎ、生クリームを山ほど盛り付け、上にチョコレートソースをかけたものを海に差し出した。こうした時、少しでも落ち着けばと思っていつも出しているコーヒーだ。

海はしばらくコーヒーを見つめたまま、スプーンでクリームを崩し、そして徐々に沈みながら色を変えていくコーヒーを眺めながら――時折ため息で揺れる隙間からの波間へと口をつけ、ゆっくりと飲み込んだ。

 

「……へたくそな字でさ、ファンレターが届いたんだよ」

「ファンレター?」

「ああ」

「よかったじゃん」

「……ああ」

「……?え?どこ行くの?海くん」

 

そう言って、海は一度席を離れ、部屋から封筒を持ってきた。封筒から取り出した手紙を華耶に渡し、海はしばらく黙った。

 

『オルガへ。もしこの手紙を読んでいるなら、直ちに中身を見ずに海へ渡しなさい』

 

そうわざわざ赤いペンで書かれた英語が、マトリョーシカのようにして入れられたもう一枚の封筒に書かれてあり、華耶は息を呑んだ。フィンランドの雪景色を模したデザインの封筒だが、その赤文字から漂う威圧感はただならぬものがあった。

 

海は目で「まあ、中を開けよ」といった表情で華耶を見つめ、華耶もまたもう一枚の封筒から、その中身を恐る恐る開いた。

 

Dear 海――そう書かれた、不恰好な文字。途中までは日本語で書こうとは思っていたのだろうか――次の行の最初の文字は、インクが随分とにじみ、悩んでいた様子が華耶にも窺い知れた。

 

「……読んでいい?」

「声に出していいかどうかってこと?」

「そういうわけじゃないけど」

露骨に嫌そうな顔を浮かべた海に、華耶は苦笑を浮かべて海の言葉を否定した。

「俺はもう中身全部見たから、見たいなら一人で見ていいよ。別に一緒に読まないと嫌だとかそういうわけじゃないんだよね?」

「まあ、うん」

少しばかり一人でこの内容を読むことに躊躇いがあった華耶だったが、海の浮かない表情と、それでいて少しピリついた声色を見て華耶は一人でその内容を恐る恐る目で追い始めた。

 

 親愛なるカイへ

 

 頑張って日本語で手紙を書こうとしたけど、自分なりに感情を整理するのが難しいから、やっぱり英語で手紙を書かせてちょうだい。

 今でも英語ちゃんと読めるよね?大丈夫だよね?

 ……大丈夫なものと仮定します。

 

 今更手紙なんて送ってきても、なんてことをきっと思っていると思うんだだけど、ママなりにケジメをつけたいと思ってこの手紙を書きました。

 映画を作るにあたって、昔の映像とか写真が欲しいんじゃないかと思って、データを入れたUSBメモリを入れておいたから、使ってちょうだい。

 ママは一日も海のことを忘れたことがないという証拠になればと思うけど、こんなものでカイが今更ママのことを許してくれるとは思ってません。だから、改めて許してちょうだいということはママも言いません。この写真をもって、ママなりのせめてもの謝罪とさせてちょうだい。

 

 そして、これはまだオルガにも黙ってることだけど……ママはパパと別れて国に戻ったあと、別の男の人と家庭を築きました。もう恋愛なんてしないだろうと思っていたし、カイを置いてきてしまった以上、子供なんて……と思っていました。だけど、ママも一人の女だということを新しいパパの前では捨てられませんでした。そうして授かった子供がオルガです。

 

 日本を出て行ってからも、もともとカイのことは動画サイトとかで追ってはいました。高校野球で大活躍したというニュースも見てたし、その後プロでいろいろ大変なことになったというニュースも、パパが事件を起こしたというニュースも、そして――カイが世界大会で大活躍したニュースも、ずっと見ていました。

 

 たまたまメディア系の仕事に就いてたオルガがカイと接触したと聞いて、ママはとても驚きました。驚いたし、ひょっとしたら、オルガがカイを追うことでもう一度ママはカイに近づけるかもしれないと、つい魔が差しました。

 カイを残して国を去っただけではなく、今度はオルガを利用してこうしてカイに接触したママは間違いなく、最低です。天罰っていうのかな。オルガが高校生だった頃、新しいパパが病気で亡くなりました。そしてママも何年か前に結構大きな病気にかかりました。たまたま上手く治療がいって、ママはまだそれなりに元気に生きています。あまり無茶をできない身体にはなってしまったけど、ママはカイを捨てたという事実があるから、ママはこの病気を素直に受け入れることにしました。

 

 パパのことだって大変だったのに、カイは強く生きてきたと思います。そんなカイに今更ママが合わせる顔はないから、映画の公開を楽しみにしてます。

 国際大会の様子だけじゃなく、これまで国内で放送されたカイの特集も、動画サイトで公開されているカイの試合の様子も、お友達と仲良くご飯を食べている様子なんかも、あまりよくないかたちでアップロードされている、カイの子供が生まれた日のドキュメンタリーなんかも……ずっと、ずーっと、追い続けてきました。

 連絡もよこさずに仕送りを止めちゃってごめんなさい。でも、きっとカイにも新しい今の生活があるから、いつまでもママが干渉し続けるのもよくないと思って、ママなりに考えた結果です。きっとカイにしてみたら、いつまでも母親みたいな顔してそばにいるようなことをされるのも、不快だっただろうから。

 

 野球という仕事から解放されたカイがどんな日々を送るかは、ママにはとても想像がつかないけれど、素敵な奥さんと、たくさん……随分たくさん授かった子供たちと、ずっと楽しい日々を送ってくれればと思います。

 オルガはああ見えて意外とズブいところがあるから、ママとカイとの関係は気づいていないようです。だから、カイがママの息子だということはこのまま黙っててちょうだいね。オルガにまで失望されたら、ママ、今度こそ本当に生きていられなくなっちゃうから。

 

 お互いだいぶ歳をとってしまいましたが、お体に気をつけて。

 

 ウルスラ・シルタネン

 

「……」

「……とんだファンレターだよな。こんなの、今更見せられたってどうしろってんだよ」

 

目を丸く開ながら、感情をどう表せばいいか分からないようなそぶりをしている華耶をよそ目に、海は吐き捨てるようにして呟いた。

「ドッキリにしては、タチが悪いよ。仮に、ここに書かれてること全てが嘘偽りないとしても……冗談きつい。どこまでが仕組まれてて、どこまでが仕組まれてないかも分からないし……俺、知りたくなかったよ。こんなこと。きっとそういうことなんだろうなと思って生きてきたけど……事実として突きつけられると、どういう顔すればいいのか、分からない。生きてることを素直に喜べばいいのかだってね」

海は少しだけ残ったコーヒーに口をつけ、カップを空にしてから――ため息をつきながら背中を丸めた。うつむくか、うつむかないかの中途半端なところに首を傾け、自嘲気味に鼻でヘッとゆがんだ笑い声をあげ――落ち着かない様子で華耶を不安げに見つめた。

 

「本当に、オルガさんはこのこと知らないのかな」

「知らないと思うよ。今までこれら全部知ってて俺にこうして取材してきたなら、アカデミー賞ものだ。テレビ作る側なんかやめて、役者になったほうがよっぽど稼げるよ。……失望されたら生きていけないってまでおふくろが書いてるくらいだ。きっと、本当に黙ってたことだと思うよ。オルガは俺の過去の写真なんかを持ってなかったし、オルガから俺の過去の写真を俺に求めてき続けた。それが事実だ」

海は華耶へ目線を合わせないまま、ぽつりぽつりと呟いた。

 

「……知らないままで、いいのかな。このまま、何もかも」

「……黙っててほしいっておふくろが言ってるんだ。知らないフリしてたほうが、いいだろ」

「……」

意味ありげな沈黙を貫いた華耶に、海は少し苛立ったような様子で再び呟き始めた。

 

「……俺だって、どうしたらいいか迷ってるんだよ。でも、それはおふくろにしてみても同じことだと思う。俺がそう思ってるように、おふくろだって、俺と会いたくないんだ。会いたくない理由は違っていても――こういうところ、親子なんだよ。憎んでるわけじゃないけど、今更会ったら、色々と気まずいんだよ」

「でもそれは――」

「仮におふくろが俺と会ったって、おふくろにはおふくろの生活がある。手紙にだってそんなことが書いてあった。この後仮に俺がおふくろと一度会ったところで、きっと、それっきりだ。おふくろが今更日本で生活できるわけじゃないし、それは俺だって同じだ。今更すべてを投げ打って祖国に戻って生活できるわけじゃない。それでもどうしても会いたいっていうなら、今ならビデオ通話だとかなんだとか、いろんなツールがある。……でも、俺も、おふくろも、そういう手段をとうとう今まで選ばなかった。これ以上、広がってしまった距離を縮めようがないからだよ。縮まったところで、俺もおふくろも互いに後ろめたいから、それ以上どうしようもないんだよ」

海はそう言って、ソファに転がっていたクッションを不快そうに二度ほど殴りつけた。反発力のあるクッションが食い込んだ左手を徐々に押し返し、それに苛立った様子で再び一度殴り、ハァと浅く早いため息をついた。

 

「それでもどうしても二人を繋ぎとめる何かが欲しいと仮になったとするよ。だからって、オルガに今までのことを全部話せるかって言ったら……おふくろは話せないと思う。俺も、オルガに何も悟られずにおふくろと会う機会を設けられるかと言ったら、多分、無理だ。アイツにもこの事実を受け止めないといけない日がきっと来る。……今、俺とおふくろが変に直接会って、この30数年間互いに胸に秘めていた綺麗な思い出の意味が変わってしまったら、俺はともかく、おふくろはこれから先、本当に生きられなくなってしまう。オルガはおふくろの新しい生活の中心だ。そのオルガにまでおふくろが嫌われるような未来があってはいけない」

 

「……でも、あたし……それはそれとしてもさ、一度は絶対、会ったほうがいいと思うんだ」

「それは華耶が部外者だから言えることだよ。華耶はいつも俺に、世界はそんなに汚くないって言ってくれたけど、そこまで世界って誰に対しても等しく優しくなんかないんだよ」

「違う――」

華耶の言葉を遮断しようとした海は、逆に華耶に遮られてしまった。

 

「海くんのお母さんがテレビとかで海くんの様子を見てるっていう事実があるから、きっと海くんはそれで十分だと思ってるんだと思うよ。でも……なんだろう。あたし……あたしはきっと、海くんが言うように部外者だからこんな無責任なこと言えちゃうんだろうけどさ。本当に海くんのお母さんのことが今でも憎めないならさ……それこそ、あたしが海くんのお母さんと一瞬ダブって見えて、それであたしを運命の人として選んだくらいならさ……そんなお母さんの今を、一度、受け止めてあげたほうがいいと思うんだよ」

「……」

「分かるよ。海くんのこれまでのこと考えるとさ、海くんの言うことは痛いほど分かるんだよ?……でも……やっぱりさ、寂しいじゃん。思い出の中でしか生きてない存在って。それも、実の母親がだよ?……今、元気で生きてるって分かってるだけでも海くんにとっては十分なのかもしれないけどさ……元気で生きてるうちに、もう一回会ったほうがいいと思うんだ。……そのほうがきっといいよ。絶対、今会わなきゃ……死ぬまで後悔すると思う。後悔だけが海くんの人生なんだとしてもさ……そんなレベルの後悔まで胸にした海くんを、あたしはきっと……あたし一人では受け止められない。あたしは母親の代わりみたいなものだけど、でも……まだ生きている実の母親以上にはきっと、なれないから」

一言一言、海に気を遣うようにして華耶は苦しそうに、しまいには涙目になって呟いた。

海は黙って華耶の言葉を聞きながら、納得したような、できないような――曖昧な表情のまま、とうとうどうにも返事をできずにしばらくいた。

 

「……海くんの言い分も分かるんだよ。会って、その後どうするんだって話も。きっと海くんのお母さんは、これからもフィンランドで生き続けるだろうし、海くんだって、これからもここで生き続ける。……それこそ、海くんが言ったようにさ、だったら、一度直接会って……それから、ビデオ通話とかなんだとか、たまに電話なんかしたらいいじゃん。オルガさんとの関係を海くんのお母さんは気にしてるけど、それって本当は建前で、本当は、海くんのお母さんだって、きっかけがないから会えないだけでさ……海くんが本当はお母さんのこと許してないかもしれないって思いこんでるから、わざとあんな書きかたしたんだと思うんだ。……だから……っ……」

「……なんでお前が泣くんだよ。よしてくれよ」

「だって……っ……」

目に溜めていた大粒の涙をとうとうこらえきれずにぽろぽろと流しながら、華耶は海の手を握った。

 

「……海くん。会ってあげて、お母さんに。絶対、そのほうがいいはずだから。オルガさんだってきっと、事情を聞いたら許してくれるはずだから。何度でも言うけど、世界ってそんなに優しくないかもしれないけど……海くんが見えてる世界より、本当はもっと優しいはずだから」

強く、強く握ったその小さい手には、確かなメッセージが伴っていた。じっとまっすぐを見つめる華耶の瞳――かつてウルスラもこんな顔をして、よく自分に言い聞かせられたものだった――と海は思った。

 

「……別に、オルガのことなんか、どうでもいいっちゃ……どうでも……よくない……けどさ。仮にも、種違いの妹が俺に近寄ってるってわけだろ、おふくろの言ってることが本当なら。その事実を受け入れられるかっ言ったら……複雑だよ、正直言って。別に、おふくろが家から出て行ったあとの生活を咎めるわけじゃあないけどさ。おふくろもやっぱやることやってたんだよな、っていうのは……やっぱり、思うよ。わざわざ手紙に書くくらいだから、きっとおふくろ、幸せな日々だったんだと思う。俺のことを意識的に追いかけてないと、幸せに溺れるくらいには。きっとオルガだって、同じように複雑な気分になると思うけど」

海はそんな華耶のまなざしというよりは、重なって見えたウルスラの表情から逃げるようにして目線を逸らし、自嘲気味に笑った。

 

「……いずれにせよ、オルガがこの事実をどう受け止めるかだよ。アイツ、別にこんなことに対して湿っぽくはないし、こんなことでおふくろを失望しやしない奴だとは思うけどさ。万が一、アイツがこの事実を受け止められなかったらそのときは、この話も終わりだと思う」

 

海はそう言って、テーブルに置かれたウルスラの筆跡をもう一度眺めた。思えば、自分の母親の筆跡なんて見たことがなかったかもしれないし、記憶から抜けてしまったかもしれない。

本当にこの筆跡が自分の母親のものなのかどうか――未だにまだ冗談なのではないかと海はうっすら思った。

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