3月18日。
夏日を記録した昨日に引き続き、じっとしていれば汗ばむほどの陽気が、朝から家の窓に差し込んでいた。
時折思い出したように冷たい風こそ吹くものの、雲ひとつない青空。今日も暑くなるだろう。
ここ数日、快晴が続いていたせいか都内でも桜の開花宣言がニュースで報道され、短くも華やかな、薄いピンクの花盛りをあたりは迎えようとしていた。すぐ近くの大学や町並みの木々からも、徐々に色づいた様子が見て取れる。このあたりも近日中に桜が咲くことだろう。
そうなると掃除が大変だな――そう思いながら、海はドアを開けて外に出た。
「あーあー、いいんだって。海くん。あたしがやるから」
布団を干そうとしていた海を見て、軒先で大窓を開けてくつろいでいた華耶が飛び出し、海を止めた。
「でも――」
「でもじゃないよ。今日は大事な日でしょー」
「……別に。毎日が大事だよ。大事じゃない日なんかこの世にはない」
「だとしても」
華耶が海の言葉を遮るようにして布団を奪い取った。
「それでも、その中でもとびきり大事な日ってのはあるでしょー。毎日が毎日平常心で居られるわけじゃないんだよ、人間は。海くんはどんな一日でも大事に過ごそうとしてるのは分かるし、それって、とても素敵なことだと思うけど。……だとしてもだよ。今日は……自分のことを優先してあげて」
華耶が布団を干しながら、海の腰をバシバシと叩いた。
「そんなこと言われてもね……別に俺が何かするわけじゃあないし」
「でも、何もないってことはないでしょ」
「……まあ……どうだろう。分からないよ。会って何するかだとかも分からないし。結局、今日一日をどう過ごそうかというのも、分からないままだった」
海はそう言いながら、小石を池にぽんと投げて腕を組んだ。
「分からないままでいいんだよ。それくらいデリケートな話だし。あたしからも、アレしろ、コレしろなんて、ヘンなアドバイスなんかしないからさ」
「……だったら、一緒に着いてきてほしいよ。俺一人じゃ心細いんだ」
「あたしが着いていったらまた別の話になっちゃうからさぁ……」
「そりゃ、分かるんだけどさ」
海はしきりに腕時計を眺めて時間を気にしているようだった。
8時47分――ついさっき時計を見たときから数分しか流れていないことに海はやきもきしているようだった。
動いていないと落ち着かない――そんな様子が華耶には読み取れた。それでもなんとか平常心を保つために『大事じゃない日なんかない』と言った海。そうでもしないと、落ち着けないのだろう。
「……で?集合が何時?」
「11時半」
「だいぶ後だね」
「うん」
「出発は何時くらいの予定なの?」
「10時半でも十分間に合いすぎるくらいかな」
「車は?」
「なんかあったら向こうが出すらしいから、今日は電車で行くよ」
「珍しい」
「華耶が知らないだけで、俺、意外と電車には乗ってるよ。この辺車で行くには面倒なところがあるから。東京って、便利だよな。俺みたいな背で金髪の奴なんか、そんな珍しくない。伊達メガネなんかかけてたら、あんまり俺だって分からないからね」
「周りが気を遣ってるってのもあるんじゃないかな」
「それはあるかもね」
「でも、電車でどのあたり行ったりするの?」
「中野あたりの、歩いてたら何かしら色々あるところなんかかな」
「ふーん。……あたしを置いて?」
「……妬くなよ。華耶に隠れてこっそりプレゼント買いたいときとか、あるんだよ」
華耶は意地悪のつもりで海を見上げたのだが、海の不意打ちに心を射抜かれて思わず胸を押さえた。
こういうところなんだよな――。
と、ふとしたときに飛び出る海の優しさや配慮に華耶は海に背を向けて顔を赤らめ、なんとか隠そうとした。
一旦家の中に戻った二人は、紅茶とクッキーを食べながら菜巳の様子を眺めていた。
「本当ならね、華耶と菜巳を連れてくのもありだと思ったんだけどね。さすがに、おふくろと会うだけなら、それだと情報量が多くてそれどころじゃないだろうからね。……それでも、やっぱ着いてきて欲しいけど」
「駄目だよ。一度は二人で会わなきゃ。あたしたちを盾にして、二人の時間を誤魔化すの、よくないよ」
「……分かってるよ」
海はそう言いながら、華耶に抱かれている菜巳を写真におさめ、時計を気にした。
「早く着くくらいがちょうどいいのかもしれないけどね」
「海くん、約束の時間には早めに来てたもんね」
「待たせたら悪いからね」
「まー、それだけ海くんが神経質ってことだと思うけど」
「やめてくれよ。気にしてるんだ」
海は華耶のからかいに不機嫌そうな顔をしながらクッキーを頬張り、紅茶で流し込んだ。バターを多く使った、普段どおりの甘い香りが鼻をついた。
「……それじゃあ、ちょっと早いけど俺、出るよ」
「ちょっとどころじゃないと思うけどね」
「車両トラブルなんかあって遅れたら、いくらなんでも申し訳ないだろ。こういうときに限って車両トラブルは起きるんだ。華耶と出会ったときがそうだったように」
「そう言われると反論できないなあ」
海はそう言って、肩にポーチを下げた。庭に敷かれた長い石畳を歩き出そうとして、ふと海は振り返り――
「華耶――」
「ん?なーに?」
「……今までありがとう」
「何言ってるの。今更じゃない。前にも言ったでしょ?あたしと海くんの日々は、これからまた始まっていくんだから。これからも、ずっと――ずーっと、ね」
「それでもだよ。おふくろと会うきっかけなんかは、きっと華耶がいなかったらつかめなかっただろうから。だから――」
その続きを言いかけた海に対し、華耶は海にゆっくりと歩み寄った。
「あー、分かった。この期に及んであたしをもう一回口説こうっていうんでしょ?相変わらずおませさんだなぁ、海くんは」
「……別に、俺はそんなつもりじゃ……。……もういい。茶化されたら、なんだかどうでもよくなった」
華耶の"おねーさん"ぶった表情は、出会った頃のままだった。きっと華耶にしてみても、海には出会った頃のままに見えているのだろう。わざとらしく体を密着させてみせた華耶を振りほどき、海は再び石畳を歩き始めた。
やや不機嫌に揺れるあの頃のままの金髪が遠ざかり、やがて曲がり角から見えなくなったのを確認し、華耶は胸に手を当てた。
何度も何度も心を擦りむき、その度に這い上がってきた海。その心の傷跡を、これからまた何年もかけて自分は癒していくのだ。
体の傷跡と違って、治ったつもりでもふとした瞬間に傷口は開いてしまうからこそ――いずれ亡くなるであろう、今日これから会う母親の分まで自分は"おねーさん"であり、愛人であり、そして海にとっての身近な母親であり続けよう――改めて華耶はそう誓った。
「……ごめんね、海くん。黙ってたことなんだけどさ――」
チケット予約情報のお知らせ
佳井華耶 様 いつも日本ユニバーサル航空を利用くださりありがとうございます。下記の情報でチケットの予約が完了いたしました。お間違えがないかどうかご確認をお願いいたします。
6月21日発 羽田-ヘルシンキ 7:50発 大人2名 子供1名
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《――そんなわけでさ、罪滅ぼしをさせてほしいんだ》
《罪滅ぼし?》
海がナレーションの収録と映像の確認に行っていたこの日、オルガは華耶をたずねていた。
《そ。……ヨッシには随分手荒なマネで母親と会わせるようなことしちゃったし。これまでも付きまとってばかりだった上に、忙しいだの、何だの、ヨッシってばなかなかゆっくりできなかっただろうからさ。私としても、これを最後にしたくないんだわ。出来上がった球場だってきっと、見たくないとかなんとか言いそうだしねー》
《それは確かに》
《だからさー、全部終わったらさ――改めて、うちに遊びにきてよ。やりづらいだろうからさ、私は出張かなんかでいないことにするから。二人で……いーや、小さい子一人置いてはいけないよね。三人、かな。もう一回ゆっくり過ごしながら、これまでのこと、カメラの回ってないところでいろいろ……いろいろ、積もる話なんかをしてほしい》
オルガはそう言って航空チケットの予約画面を見せつけてきた。
《6月22日。ヨッシの誕生日だったよね。誕生日を向こうで迎えられるように……3泊4日の予定にしようと思ってる。きっとヨッシ、前々から言ってたら絶対嫌がるだろうから、内緒にしといてほしい》
《それは……もちろん》
華耶は決して安くはないそのチケット代を見つめ、オルガを心配そうに見つめた。
《あー、いいよいいよ。ほんとに、こればっかりは私の気持ちだから。さすがにこれ以上は連れて行けないよ。三人なら払えるよって話》
華耶はそんなオルガの表情を見て笑った。
《菜巳のことなら、子供たちに面倒見させることだってできるのに》
《いーや。大事にしたいって言ってたからさ、最後の子は特に、って。他の子たちはまだしも、最後の子がまだこんな小さいうちにさ、親がどんな場所で育ったのかとか、見せてあげたほうがいいなって思って。そこ含めての罪滅ぼしなんだ、これは私の》
《ありがとうございます、わざわざ》
華耶は複雑な笑みを浮かべ、そして深々と頭を下げたがオルガはそれを煙たく思ってか首を横に振った。
《いーや。いいのよ。……これからも、ヨッシのこと、よろしく。あんなんでも、兄だって分かったら……ちょっとは申し訳なさなんかもいろいろ湧くからさ》
《ううん。いいんだよ。こちらこそ、これからもよろしくね。あんな"子"だけど……あたしにとっては、大事な大事な……あたしの王子様だから》
華耶とオルガはそうして握手を交わし――そして一度きつめにハグをした。
《……あたしもさ、実は……引退して、いつか時が来たら、海くんの生まれた街を見たいって思ってたんだ。いつか海くんが全てから開放されて、気持ちの整理がついたら……こっそり買っておいたチケットなんか見せびらかしてさ、連れて行きたいと思ってたんだ。本当は、海くんがあんな引き際なんかしなかったら、引退した後、そうやってすぐにでも海くんを労ってあげたかった。だから、海くんの前で思わせぶりなことだって言っちゃった。でも……できなかった。海くんが引退した後のご褒美、昔からずっと考えてたつもりだったのに……いざ二人とも歳取ってみたら、なかなか海くんにとって何が一番幸せなのかとか、どうやったら海くんを本当の意味で労ってあげられるのかとか、あたしにはいったい何ができるのかとか……分からなくてさ。だから……こうして無理にでも背中を押すきっかけをくれて、本当に、ありがとう》
《ううん。いいんだって。別にそんなこと。……ヨッシもさ、ヨッシには勿体無いくらいのお嫁さん手に入れたと思うよ、ほんとーに。こんなんでよかったら……いつでもチケットなんてあげるからさ》
それぞれが背負った海という男の運命のかけらを握り締めるかのように、時々震えながら二人のハグはしばらく終わらなかった。
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「……海くんは失った30年とか思ってるかもしれないけどさ……違うよ。時間って、それでも……取り戻そうと思えば、いくらかは取り戻せる。そう思ったほうが……きっといいから。……それがあたしの役目だから」
ぶわっ、と強めの風が吹き、ロングスカートとサイドポニーが激しく揺れる。
どこからか飛んできた薄いピンクの花びらが庭にいくらか舞ってきて――その一枚が、華耶の手のひらに吸い込まれるようにして落ちてきた。
これからの二人の――家族の日々を、祝福するように思え――華耶はその花びらを大事に、優しく手のひらに包み込んだ。
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9時半を指したばかりの時計を見ながら、海はすぐ近くのバス停へと向かい、そのまま自由が丘までしばらくバスに揺られた。自由が丘でバスを降りてから、東横線、東急多摩川線へと乗り継いでいく。
途中、電車の中で流れたニュースのトピックでは昨日のオープン戦でのジェネルの3打席連続ホームランが挙げられていて、海は一瞬そのニュースを見つめるが、自分からその試合結果をすすんで調べることはしなかった。
代わりに思い返したのは、薫のことだ。あの打席を自分の中の最後とけじめをつけていた薫は球団からの慰留を断って打撃投手を引退しただけでなく、一度野球との区切りをつけたいということで球団からも退いていた。
今は華耶のはからいで、ヨシイ・エンターテインメントが運営している都内のスポーツジムのスタッフとして働いていて、会おうと思えば会える距離にある。最近はそれを知った直人が土日に通っているようだ。
やろうと思えばもう一度打撃投手としての道もあったはずだが、セカンドキャリアという点と、何より、追い続けてきた佳井海という存在がもういないことで吹っ切れたという薫。最近は髪色を明るく染め、かつての浅井薫という人間が持っていた明るさをジムでも遺憾なく発揮しているようで、たまに家に遊びに来ては身体作りをしないといけない真結や広乃にもつきっきりでトレーニングをしている。
きっとこれで、よかったんだろう。きっと――。
平日、通勤ラッシュの終わった電車はさほど席には困ることなく、海はその大きく細い身体をしっかりと電車の座席に沈めたままでいて、目的地へと向かう電車の中でいつしか目を閉じていた。
耳にかけていた無線イヤホンからは、うっすらとした音量でだけ、先に完成していた映画の主題歌であるDOE'zの『ウミノカナタデ』が流れていた。
マルコとニコが今のDOE'zのサポートメンバーだからということで、オルガや日本側の製作スタッフが相当頼み込んでオファーを勝ち取ったらしく、その出来は相当なものだった。きっと、DOE'zのここ10年を代表する曲のひとつになるだろう。
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《大体、なんで集合場所が蒲田なんだよ》
《色々考えたんだよこっちも。川口駅じゃ、目立ちすぎるでしょ。それに、ヨッシだって川口駅で再会は嫌でしょ。あまり、思い出したくない土地だと思うし》
《……》
海はオルガから言われた蒲田という待合場所に難色を示していた。オルガとしてはどうせどこを伝えても難色を示されるのだから、蒲田で押し通したかったところがあった。
《まず通ってた高校は都合が悪いでしょー。通ってた中学だって公立校だからちょっとアレでしょー。東京タワーも目立ちすぎる、スカイツリーはもっと目立ちすぎる。どれもこれも人の妨げになるから、ヨッシの奥さんと出会った浅草橋の駅のホームなんてもってのほか。ヨッシの思い出の地って基本的に、人が多いところだからねー》
《……》
《だとしたら、球場なんかもあんまりって感じでしょ。しかも、文京ドームも、ベイスタも、どっちもヨッシとはそんなに縁がない。甲子園はちょっと遠すぎる。じゃああと、蒲田くらいしかないでしょーに。西蒲田公園。二人が出会った、大事な大事な場所》
《……茶化そうとしてるところあるんじゃないか?あの公園で俺の運命が本格的に動き出したっていうことを》
《茶化すなんて人聞きの悪い。ヨッシの事情を考えたら、平日の午前、そんなに人もいなくて、一般人を巻き込まずにすんで、ヨッシにとっての思い出の地があと他になかったんだよ。それとも、それが嫌だったら川口駅にでも行く?行かないでしょー、さすがに》
《ヤな奴だね、お前は》
《配慮したつもりだよ、これでも。それにこの時期なら、桜だって咲いてる。これ以上内ロケ地でしょ。話題だって出しやすいだろうし》
《桜くらいで話に花を咲かせられるほど俺は口達者じゃないよ》
海はオルガの言葉を眉をしかめながら返し、足を組んだ。
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〈蒲田――蒲田です――お降りの際は――足元にご注意ください――〉
着いた、というよりは、着いてしまった――という感情のほうが海にとっては強いだろうか。10時半をしばらく回ったところで、電車は海を蒲田まで連れてきた。海は渋々電車から降り、待ち合わせに指定されていた西蒲田公園までゆっくりと歩き始めた。
あの夜、楓悟から逃げるようにして家から飛び出し、当時華耶が住んでいた寮のすぐ近くにあった西蒲田公園にすがるようにして歩いていたときは、生きることに絶望しかなかった。
生きることに絶望しながらも、あんな父親のために人生を無駄になんかしない――と、いかにして自分らしく、強く生きるかという気持ちと、誰でもいいからこの状況から救って欲しいという気持ちとが常に相反しあって、心を締め付けてやまなかった。
自分は母親を恨みはしない。これまでもそうだったし、きっとこれからもそうだ。ただ、恨みはしないが、もし、母親が家から出て行ってなかったならば――せめて、あと数年、家から出て行くのを待ってくれていたならば――と思うことが海には何度もあった。これからもその思いは胸のどこかに残り続けるだろう。あと数年待っていてくれていたなら、せめて、自分も母親と一緒に別の家で過ごすことも出来ただろうという思いまでは捨て切れなかった。
どれほど言葉で自分を強くし、そして誤魔化しても、祖国に戻るきっかけを失ったのだ――自分には過去を振り返るだけの、自分に還る場所が今や華耶の胸の中しかないのだ。
大阪に住んでいる間に、自分のルーツとして強がってアピールできる武蔵小山や秋葉原だって、風景がだいぶ変わってしまった。もはや変わらないのは、華耶の優しさだけだ。あの時、自分を一緒に連れてフィンランドに戻してくれていたなら、ここまで自分は本当の意味で日本人を名乗っていいのかどうかと迷うことだってなかっただろう。
どれほど運命がもう少し順調に進んだとしても、いずれ、楓悟は自分と母親を家から追い出しただろう。けれど、もし、自分が母親の面倒を見るという手段をとっていたならば、東京に住み続けたまま、プロ野球界に入る事だって断って、普通の人生を歩むことだって出来ただろう。
家を出るための都合なら何でもよかったと、プロ野球界の門を叩く判だって押さないことだって選べただろう。
一歩一歩、あの頃とは秋葉原ほどはあまり変わらないままの、駅前の人間の情欲が服を着たような町並みを歩きながら、公園へと進んでいく。
あの時絶望に打ちひしがれながらベンチに座っていた自分。そのベンチは形や塗装を多少変えつつも、今もそこにある。人はまばらだが、親子連れが咲き始めた桜を見て思い思いに写真を撮ったり、声を挙げたりしている。
海はなんとなく、今公園に居る人々の多くが撮影班だということに気付いていた。周りが親子連れな分、カメラと思わしき箱を持った者や、不自然に黒ずくめのファッションの男がいると余計目立つ。自分が予定より早く入ったことに、多少慌てているようだった。海はベンチに座りながら、お構いなく――と手をひらひらさせながら、そのまま足を組んで瞳を閉じた。
目を開けたままでは、ふと視界に飛び込んできた母親に自分が動揺してしまいそうだったから、事態が動くまで、じっと視界を閉ざしていようと思った。
ふと、視界を閉ざしながら、かつての自分の母親との思い出を振り返ろうとした。
30年という月日が自分から奪ったもの母親との記憶は、あまりにも多い。まして、母親がいなくなってからの日々は自分にとって、あまりに慌しいものだった。
ステーキの焼き目を必要以上に焦がしてしまったこと――
千葉のテーマパークにこっそり二人で行ったこと――
限定モノのシャツを色移りさせてしまって、自分が本気で母親に怒ったこと――
断片的な記憶は、うっすらとそのまぶたの奥にでも染み渡ってくるのだけれど、どんな日々だったかというものが、なかなか思い出せずに居る。きっとこれからも、思い出そうとしても思い出せないのだろう。
自分はもうカイ・ヒューゴ・アラヤではなく、佳井海なのだ。
佳井海として過ごした人生のほうが長くなってしまった今、自分は自分から母親との日々を進んで忘れようとしたのだ。そして母親であるウルスラもまた、今はシルタネンという旧姓を名乗って生きている。
今更会ったところで、本当の意味で自分たちは、親子としての関係を取り戻せるのだろうか――海はそんなことを考えながらも、きっと、ウルスラもまた、同じ感情を抱いて日本に来ているに違いないと思った。
オルガが一体どんな言葉で日本に連れてきて、どんな言葉でここに呼び出したのかは分からない。オルガのことだから、自分とウルスラが再会した後のことなんて、ノープランのままでいる可能性だってある。結局、メディア側の人間なんてものは、自分とウルスラが再会したところを撮って、感動を演出したいだけなのだろうだから。
本当に、自分は今日ここに来るべきだったのだろうか――段々不安や焦り、そして、しまっていたはずのオルガへのちょっとした不満が海の足を震わせた。硬めのゴムが敷かれた靴がジャリジャリと土を鳴らしていく。足を組みなおして貧乏ゆすりを止めようとしたが、落ち着かない。
はぁ――と深いため息をつきながら、海はこうしたときのためにと持ってきていたペットボトルの茶をポーチから取り出し、少しだけ口に含んで再び瞳を閉じた。
頓服薬を飲み込むかどうかは迷ったが、やめておいた。
「――カイ……?」
「――カイ…………?」
どこか懐かしい声が響いていた。落ち着きを取り戻していた海は、うつらうつらと半分眠っているような様子で、その聞き馴染みのある声は夢の中の声なものだと思っていた。
《――カイってば……!》
左、右、右、左――と、独特な肩のゆすり方で海の肩を揺さぶる声の主。それは確かに、自分がかつて朝起こされたときのものと同じものだった。
リアルな夢なものだ――そう思いながら、海はゆっくりとまぶたを開いた。
自分と同じで、やや癖のある金髪。自分とはあまり似なかった、薄く青い瞳。
かつて自分が何度もそれを華耶に重ねたように、不安そうな表情で――年老いてなお大きくまっすぐな瞳は自分をしっかりと見つめている。
「……Aiti――?」
止まっていた時間が、再び動き出したのを海は感じた。
会ってどうにかなるのかなんて感情なんてもうどうでもよく――自分の知っているまま、少し年老いたその母親の姿を見て、海は思わず立ち上がった。
「……Aiti――」
二度目のその海の言葉は、少し湿った。いっそ、亡くなってしまっていればよかったものを――などと一瞬でも思った自分を、海は恥じた。
《……ごめんね、カイ。こんなに……こんなに遅くなって――》
《……いいんだ。もう――そんなこと、どうだっていいんだ――》
海の胸の辺りにその顔をうずめ、きつく腰に回した細い腕を伸ばして海のその背中をさすりはじめるウルスラ。海もまた、ウルスラの首の向こう側で、泣くまいとは思っていた涙をとうとうこらえきれず、三度目を口にした。
「……Aiti――!」
少しだけ咲き始めていた桜が、先ほどまでよりも優しくなった春の風にうっすらと揺れ、公園じゅうの桜が手を振っているようにしてざわめき、さわさわと音を立てる。
それがどこか海のさざなみのようにも、拍手のようにも聞こえ――これまでの日々と、そしてこれからの自分たちの日々を祝福しているようだった。
雲ひとつない空から差し込んだ優しい日差しはベンチをしっかりと照らす。
カメラ越しに見えるその二人は、あまりにも眩しかった。