〈7番――セカンド――佳井――セカンド――佳井――背番号――25――〉
あまりに突然のその起用に、甲子園は大きくどよめいた。何かの聞き間違いではないか――そう思ったファンがスコアボードをもう一度確認し、スコアボードに刻まれた4という守備位置が決して間違いではないことに二度目のざわつきが起きた。
「何やってんだよ」
「マジかよ」
そんな声もスタンドから飛び交う中、海はベンチでぶつぶつと独り言を唱えていた。
海の所属する兵庫チーターズのほか、東京エンペラーズ、東京スカイクロウズ、神奈川バトルシップス、愛知ドルフィンズ、広島レッドフィッシュが加盟するエクスプレスリーグ――通称、Eリーグ。
そして、北海道ワイルドベアーズ、宮城コンドルス、埼玉ライガーズ、千葉スカイオーシャンズ、大阪ブルーバイソンズ、福岡ダイヤモンドホーンズが加盟するシティリーグ――通称、Cリーグ。
二つのリーグの組み合わせを一時的に混ぜ合わせる『混合戦』が、大型連休の時期に重なる5月と8月の二期に分かれて行われるのが現在のこの球界のスケジュールだ。
これは、大型連休の目玉イベントとして球界が設けたものである、という興行的な目的だけでなく、夏の高校野球で甲子園が数週間にわたって使えなくなることに対する措置でもあった。
ゴールデンウィークの最中行われた、ブルーバイソンズとの試合――いわゆる関西ダービーに、会場は沸いていた。
沸いていたからこそ、こんな熱量のある試合で、佳井海という、一塁しか本来の力で守れないはずの伸び悩み中の選手が突然、最近守らされている三塁ならまだしも、ファンからしてみたら何の前触れもなしに二塁という重要なポジションについていることに驚きを隠せなかった。
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「……っ」
「もっとリラックスして投げなさい。君もなかなか、困ったものですねぇ?捕球までは完璧だというのに」
2月、春季キャンプのさなか、海は思い切ったコンバート……というよりは、試みの中にいた。
一塁で捕球をするのは得意なのだから、その身体能力を生かし、いっそ二塁や遊撃で使ってみるのはどうか――そんなことを言い出したのは小室だった。
何も考えずに投げれば遠投120m――地肩は強い。順当に考えれば、一塁専門なんてのはあまりに勿体無いはずだった。
『うちのショート、もともと投手やってたこともあるから送球はべらぼうに速いんだけど、送球が雑なんだよ。力むと球が上ずるみたいで――』
どうしても、あの夏のビジョンが頭に思い浮かんでしまう海。
大きな体に見合わぬ細さだからこそできる、しっかりと下半身を曲げることのできる柔軟な捕球。ここまでは完璧だ。
しかし、そこから一塁へのスローイングをしようとすると、上手に送球ができない。
自分では気づいていないかもしれないが、キャッチボールのときのような肩の使い方ではなく、送球までのフォームが海はそのつどバラバラになってしまっていた。
球は上ずったり――あるいは、随分と山なりの軌道を描き、一塁まで届かないこともあれば――一塁の頭上を越すような軌道を描くこともあった。
時折三塁を守っていた――というよりは、守らされていたとき、海には一塁までの距離は、ずいぶんと果てしなく遠く感じられた。
守備にはミスが許されない――そのプレッシャーが海の右肩を狂わせた。三塁よりは一塁までの距離が圧倒的に短い距離にあるはずの二塁をこうして練習していても、絶対にアウトにしなければならないという使命感から、海の送球はことごとく乱れた。
「スローイングさえ安定してくれれば、ショートでもセカンドでも使えるでしょう。動きが悪いわけではありません。ええ、スローイングが問題なんです」
小室が深刻そうな表情で前野に話しながら、遠くで海の守備を見ている。
「気難しい性格です。何かと思いつめてプレーしがちな人間ですし、素材はいいのに、色々と考え事が多いんでしょう。自分で自分を扱いきれていないのが、見ててやきもきします」
半分くらい前野に対する嫌味をこめて小室は呟いた。考え事をさせているのは誰のせいだと思うか――?そんな意味をこめたつもりだったが、前野は全く気づいていないようだった。
「キャッチングが安定しているあたりは、さすがだよな」
小室が前野から少し離れたところで練習を見ていると、生駒が話しかけてきた。生駒の言葉に小室は首を振って否定した。どうしてか、と生駒は不思議そうな表情で小室を見つめた。
「いいえ。いっそ、キャッチングが安定してないほうが僕も夢を見なくていいから楽なんです。辛抱強く一塁を選任させ、しばらく打撃だけに集中させましょうと監督にも進言できますし、あるいは、いっそ送球含めて周りがサポートする前提で、身体能力を生かして、数年かけてでも外野に回してじっくり様子を見てみませんか、とも言えます。走塁技術や盗塁技術はともかく、地の足は速いし肩も強いわけですから。捕球さえ安定してしまえば、外野からの送球の乱れは、周りがカバーできるかもしれませんからね。あのスローイングさえなんとかなれば、なんて思わせてしまうあの素材が憎たらしいです」
ライナー性の当たりもそう、少し角度のある打球も背の高さを生かしてキャッチするところまではできている海の内野守備を見ながら、羨ましそうに小室がぼやいた。
「二塁なら、トスみたいな送球でなんとかなるかもしれません。チーターズは今、監督が攻撃力を重視していることもあって、セカンドやショートを守れそうな野手がもう少し欲しいところですからね。佳井くんを秘密兵器として扱う手はあってもいいと思います。送球はギャンブルにはなってしまうでしょうがね」
それが出番に繋がるなら――と、海もまたキャッチングは積極的に行った。不思議と、ランナーを意識しないときのスローイングはそれなりに安定しているから、よほど海はあの夏の終わりを引きずっているのだろう。
なんとかして、あのエラーの記憶を消し去りたいところだが、海にとって最大の不運は、自分の所属するチーターズの本拠地があの夏と同じ、ここ甲子園の地だということだ。
どれほど意識を殺ごうとしても、ホームで試合をする限りは常にあの夏と同じ場所に立っているのだから、どうしてもボールを投げるまでの動作のたびにふと自分の言葉や、大きく逸れていったあの悪送球がよぎってしまう。
自分にはあまり後がない――その現実もまた、海を焦らせた。
的を相手にてボールを投げれば普通に投げられるというのに、人間を相手に投げるとどうにも送球に迷いが生じる――そんなところからもレギュラーの確約が取れないという事情を海は抱えていた。
プロ6年目。早い者はレギュラーどころか、タイトル争いに絡み始める者だっている。同じ世代の選手が少しまとまっているチーム事情があるとはいえ、未だにこうしてレギュラー争いから一歩引いている状態というわけにもいかない――。
「――じゃあもういっそ、捕れない奴が悪いって思っちゃうのは?」
春季キャンプを終えて天王寺の自宅に戻り、久々に家で華耶との食事を楽しんでいた海は華耶とそんな話をしていたのだが、あまりに意外な華耶からの返答に思わず海は目を丸くした。
おかしいことでも言った?と言わんばかりのきょとんとした華耶の目つきだけがそこにあって、海はしばらく言葉に困った。
「そんなバカな話があってたまるかよ。そんな気持ちでセカンドやショート守ってたら、いくらなんでもたるんでるにもほどがあるだろ。送球ミスはどうやったって俺のミスなんだから」
と、海は正論を突きつけたが、華耶は即座に反論した。
「そう、それ」
そう言って口いっぱいに頬張っていたカレーをぐっと水で飲み込んだ華耶は、海をじっと見つめた。
「海くんさ、そのあたり自分のせいだと思い込みすぎなの。中学・高校のとき、ほとんど一塁しか守ってなかったんだよね?で、最初の頃はミスしまくって、めっちゃ怒られてたんだよね?で?中学時代必死で練習して、自信を持って一塁を守れるようになりました。そんで?中学・高校の頃、自分の背の高さだとかのおかげでアウトになったようなプレーや、自分がなんとか捕ったからボールデッドにならなかったり、ファールゾーンにボールが転がっていかなかったようなプレー、どのくらいあったか軽くでいいから思い出せる?」
「まぁ、うん……けっこうあるよ。ピッチャーの悪送球、無理やり腕伸ばして捕球したこととかもあるし」
「そう!それ」
今度はびしっ、とカレースプーンを海に向けて指しながら、華耶は真顔で海を見つめる。海は少し押され気味にその目の前に突きつけられたスプーンの射線上から顔を逸らした。
「そういうのはさ、当たり前のプレーなんかじゃないんだよ、そもそも。一塁が必死でそうやってボールを止めたからアウトになったプレーってのは、結構あるはずなんだよ。だから――」
今一度、カレーをすくって頬張りながら、華耶は再び水をぐっと飲み干し――
「そういうのを積極的に顔に出していけーって話してるんじゃなくて、仮にちょっとだけ悪送球してそれがエラーになっちゃったら、『俺ならあれが捕れてたんだけどな』くらいのつもりでいたらいいの。きっと海くんが海くんに向かってボール投げたら、エラーのうちいくらかはアウトになったか、あるいはちゃんとプレーとして成立してたと思うんだよ。キャンプの映像、あたしも一分一秒こと細かく見れてるわけじゃあないからなんとも言えないけど」
「そんな一塁守ってるやつを悪く思うようなことなんか……」
「たまには思いなさいよー。あたし、一塁守ってる人に『おいヘタクソー!』って直接言って来いって話してるんじゃないのは分かるよね?たまにさあ、そうやって責任転嫁でもしてないとさ、海くんきっと相手の好プレーに阻まれた打球だって自分のせいって思っちゃうし、守備だってそんなつもりでやってたらさ、そんな気持ちで一年センターラインなんか守ってたら爆発しちゃうよ。もうさ、割り切っちゃえ」
「割り切っちゃえって……そんな簡単に」
「表で言ったらボッコボコにされるけどさ、心の中で『今のは捕れただろ』って責任転嫁するくらい、相手がエスパーかメンタリストでもない限り誰も責めてなんかこないよ。今まで自分が受けた危ないボール分、エラーしてやればいいんだよ。それもできないなら、もう監督に『一塁以外で使わないでください』って言うしかないよ。でもそれは嫌でしょ?」
「華耶……お前さぁ……自分のことじゃないから簡単に言ってくれるよなぁ……」
ニコニコしながらカレーを再び頬張る華耶をよそに、なかなか次の一口が進まない海。カレーの味が進まないのではなく、指摘されたことを素直に受け止められるほどの気持ちがまだ海には備わっていなかった。
自分のエラーは自分だけの問題――当たり前のことじゃないか――そんな気持ちが海にはまだ根付いていた。
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いい当たりだが、二塁真正面――。
久々に試合開始からスタメンとして出場している海の打席結果は、まずはセカンドへのライナーが記録された。
挨拶代わりに外のボール球を引っ張った海は、その感触を確かめるように両手を見ながらベンチへと戻ってきた。
「もう一球待ってもよかったんじゃないか?」
打撃コーチの生駒が隣に座り、海に話しかける。
「もう少し引っ張ればよかったですね」
海はグラブをはめながら、特に相手にするような様子もなく応えた。
「ミスしたけど、今日の俺には次の打席がある、って思ってるんだろ」
「だから気持ちが楽ですと答えられたらいいんでしょうけどね。ゴロなんかじゃなくて今みたいなライナーばかり自分の守備の時に来ればいいのにとばかり考えています。幸い、捕球はまあまあ俺、できるので」
「馬鹿言え。打球がお前を選ぶものかよ」
守備のことをベンチで口にしたように、実際この日、海には打撃のことなど考える余裕はあまりなかった。
7回、二死満塁のピンチで、二塁ベースと海の間とを裂きたがっているようなコースに鈍い当たりのゴロが向かってきた。
6点ビハインド。
もはや試合は決まったようなものだが、これ以上の失点はやれない――。ランナーもスタートを切っている上に、際どく滑り込まれたらフィルダースチョイスの可能性も十分すぎるくらい考えられる。
今日ショートを守っている者が、普段スタメンにいる球界きっての名手ではなかったこともあり、無理に二塁方向への送球は考えないほうがいい。となると、素直に一塁に投げるしかない――。
ぶわっと嫌な汗が海の中で湧き上がってくるのを感じた。
これが6点ビハインドなどではなく、同点の場面で向かってくることだって、これからセカンドやショートを守る機会が仮に増えたなら、そのうち何度も直面していくことだろう。
そんな時、自分は果たして冷静にこの場面を捌けるだろうか――一塁へ向かう打者もまた、なんとかセーフになろうと必死に突っ込んでくるのだ。
6点リードがあってなお、野球にセーフティリードなんてものは存在しない――そんな勢いで突っ走ってくる。何しろ、このスポーツは勝利至上主義なだけでなく、見た目上分かりやすい成績が契約に直結する個人事業だから、自分の成績のためなら何でもする人間が世の中いくらでもいるのだ。
1打席1打席、普通とは違う意味での勝負がかかっている人間がいるのだ――。
『俺ならあれが捕れてたんだけどなくらいのつもりでいたらいいの』
「ぬああっ――!」
片手でつかんだボールを海はそのまま一塁へ向かって横っ飛びしながら、半ばやけくそになりながら放り投げた。
若干ホーム側に逸れそうになったボールを、はっとした表情で一塁は慌てて捕球する。少し際どいタイミングだが――無事にアウトの判定が審判から繰り出された。
審判もこのプレーを演出したかったのか、少しだけ間を置いて判定を出したのが海を苛立たせた。審判が変に自我を持って試合を操作するんじゃない――そんなことを考えながらベンチへと下がる海。
どん、と肩をぶたれた海は、一塁手が『危ない球投げやがって』という表情でこちらを見ていることに気づいた。
海はさりげなく脱帽し――
『もうさ、割り切っちゃえ』
という華耶の言葉を思い出し、考えていることを顔には出さないようにしながら軽く頭を下げて謝った。
割り切るということが簡単にできたなら、どれほど楽に生活できただろうか――。
改めて、華耶が言ったことの難しさを海は痛感した。