それから4試合、海は不安視されたセカンドの守備……特にスローイングも、ギリギリのところでエラーを出さずになんとか守り続けた。
海を狙って打てば何とかなるかもしれない、という相手チームからの露骨な作戦も、前野が騒ぐほどの目立ったエラーや悪送球を連発するほど海は大きなミスをしなかったものだから、相手チームは意図していたほどなかなかセカンド狙いの出塁をできずにいた。
一方で、打てば16打数5安打――前の試合では無安打に終わったものの、その前の試合は猛打賞を記録した。
相変わらず『勝利に繋がらない安打』と前野は海の打撃をメディアの前で痛烈に批難したが、この4試合の間に放った長打は2本。決して悪い当たりではなかった。
長期的に使ってくれさえすれば、外野の頭を越す打球もたまにはしっかり打つことができる――という自分なりのアピールができたものだと海は自負していた。
そうしてこの日も海は、スタメン発表でその名を呼ばれることに確かな手ごたえを感じながらファンの歓声に応えていた。
4回表。早くも4点差という大きなビハインドを背負ったチーターズは、後続の中継ぎの制球がなかなか定まらず、あっという間に四球でランナーを出した。
ノーアウトで1番へ打順が戻った戦況に、前野が不機嫌そうにベンチから何か叫んでいる。サインを出し忘れている前野を尻目に、冷静にヘッドコーチがゲッツー狙いのサインを出している。もはや、どっちが試合の舵を取っているのか分からない状況だ。
試合が始まったときはそれでも好意的な空気に包まれていた甲子園は、今日もあっという間に怒号が飛び交っていた。
初球からいきなり制球の定まらないフォークを放り込む投手。コースが甘いが、ストレートにヤマを張っていたのだろう。泳ぐ形でスイングしたボールは、ショートめがけて微妙な転がり方をしていく。
この日の試合も、普段ショートを任されている球界随一の名手の代わりに同世代の選手がショートを守っていた。
落ち着いてショートがしっかりとボールを捕ったあと、何度かステップを踏みながら少しぎこちない送球でこちらにボールを放り投げた。
二塁はきっちりアウトにできるだろう――しっかりと二塁ベースを踏みしめながら、その大きな体をくるりと一塁方向へ回転させ、長い腕を振って一塁へと投げ込む。
頼むからしっかり構えているところに飛んでくれ――そんな思いを乗せたボールは、じわり、じわりと一塁へと向かっていく。
打者の足も極端な俊足ではないにしろ、左打者という利点もあり、一塁の判定は際どくなりそうだった。
この打球がアウトにできないようであれば、自分のレギュラーは一生ないだろう――そう海には感じられた。
前野は何でもいいから自分を試合で使いたがらない理由を探そうとしている。セカンドとして最低限穴を開けないくらいの動きをし続けないと、そのうち今度は守備にまで難癖をつけ始めるのは目に見えている。
一球一球が海にとって、人生を左右しかねない状況にいる。これほど送球一つ一つに自らの死刑宣告がかかっていることに海は胃がきりきりする思いだった。
頼むから逸れてくれるなよ――
そんな思いを託された送球が一塁手のグラブに――しっかりと吸い込まれていく。審判のアウトが告げられると、海は無意識に一塁手へサムズアップをするが、それは一塁手の目には見えていなかったようで――海もまたすぐ定位置へと戻った。
考えてみたら、親指を立てるほどの好プレーではなかったな――と無意識に出したその右手を内心馬鹿馬鹿しく思いながら海は一度ズボンに拭い、プレーに集中することにした。
こんなところをカメラに抜かれていたらどうするんだ、などという心配もしたりした。
……もちろん、親指を立てる海の姿も、それを見ていない一塁手の姿も、しっかり中継には映っていたことを海はこの年の暮れに放送されたバラエティ番組で知ることになるのだが。
――侍の魂 燃やせ――♪
――唯一の高みを目指し
羽ばたけ佳井 海の彼方へ――♪
5回裏の先頭、海の2打席目が回ってきた。
先ほど守備のせいだけではない。ここ数日、自分でも思っていた以上に二塁を守れている――レギュラーというプレッシャーもまるで感じないどころか、今までよりも高揚感があるせいか、手ごたえを感じる打席が一つ一つ増えていった海は、甲子園の独特の威圧感を孕む応援歌も、前よりも冷静に聞き取ることができていた。
自分が実力で呼ばれたというよりは、レギュラーの体調不良による繰り上がりでスタメンを張っているということは分かっていたが、同世代三人でレギュラー争いの火花を散らしている中、自分は間違いなく今のようなプレーを続けられれば、近いうちにこのレースから頭ひとつ抜けるはず――そう確信しはじめていた。
初球、内角低めのカットボールを空振りし、続けて同じような見送った内角へのストレートは、少しだけ際どいゾーンだった。審判によってはストライクを取られていてもおかしくない。
相手投手に少し動揺があったのか、続けざまにもう一度同じようなところを狙った直球が向かってくるが、意識しすぎたのだろう――コースが少し甘い。
カコンッ――と小気味いい音が海の耳にしっかり届き、その当たりが決して当たり損ないではないというしっかりとした木の響きが両手に伝わってくる。素直にはじき返した鋭い打球はセンターの手前でバウンドしていた。
もう少し引っ張って右中間を裂くことができればよかったのだが、少しだけ全体からやや一塁側に寄っていたシフトをうまく突くことはできなかった。
流して打とうにも、一塁側へと少し強い風が吹いているものだから、なかなかそうもいかない。応援歌のように高く高く打球を羽ばたかせることができればいいのだろうけれど――と海は一塁ベースをしっかりと踏みながら考え事をした。
後続の打者が三振したあとに続いた打者が、海がまさに一瞬思い浮かべていたような高く高く打ち上げた打球を放っていた。
思い切り叩き付けた打球は勢いそのままに、甲子園の強い風をものともせず、ビジター側でホーンズの応援団が構えているレフトスタンドへと文字通り差し込まれていった。
爆撃、という言い方が正しいだろうか――迎撃ミサイルのような高い角度のまま、風さえ吹いていなければまだまだ打球が伸びていそうな――そんな圧倒的なパワーを乗せた一打だった。
『お前の安打は勝利に繋がらへんからな』
チームは勝利に近づいているのに、一気に海を現実へと引き戻すかのような、複雑な状況がそこにはあった。
自分にあのような力任せの打球は、たぶん打てない。ああした打球を追い求めて自分を壊してしまったら、それこそ華耶がかつてたどった運命と同じ轍を踏んでしまう。
「さすが」
「ハッハッハ……当たり前ですよ。俺を誰だと思ってるんです」
ベンチで手厚くチームメイトに祝福されるその同僚を見て、海は考えてみたら久しく自分は華耶以外にこうした形で『さすが』などと言われたことがないことに気がついた。
ホームランというものはそれほど試合の流れを変えるものだ。自分だってそれは高校時代によく経験した。同点弾だけじゃなく、点差を詰めるホームランなんかも、ベンチの空気がそれだけでガラっと変わる。
勝利に繋がらない安打、というものが監督だけではなく――自分の想像以上に他人が自分の安打に対して思っていることなのであれば、やはり悠長に構えて安打だけ狙っている場合ではないのではないのだろうか――海はベンチでじっとバットを見つめた。せめてバットが華耶みたいに励ましてくれたなら、気も紛れただろうに――と海は下らないことを考えた。
ふと考えてみたら、今シーズンここまで打点はひとつもないことを海は思い出した。
片手で数えるほどあっただろうか――?ものすごく数は少ないとは言えど、何度かは間違いなく回ってきた記憶のあるその得点圏をしっかり生かせなかったのは事実だし、4試合スタメンで起用させてもらってここまで打点が0というのは、海の自己評価の低さに拍車をかけていた。
チャンスが回ってくる回数がそもそも少ないと言った所で、自分に期待されているホームランを打てずに居続けているのは確かだし、自分を取り巻く環境やその評価を考えると、打点0という状況はあまりよろしくはない――そう考えると海はじれったさを覚えた。
自分が手ごたえをつかんでいるということなど、周囲にとってはどうでもいいのだ。自分を評価するのは自分ではない。周囲だ。そんな分かりきったことを何故自分は忘れかけていたのか――
『海くんさ、そのあたり自分のせいだと思い込みすぎなの――』
『心のなかで責任転嫁するくらい、エスパーでもない限り誰も責めないよ――』
『もうさ、割り切っちゃえ――』
目を閉じ、全てを遮断しようとした海に、華耶の言葉が蘇ってきた。
「……華耶――」
「荒屋――じゃなかったな。すまん、佳井。……佳井!大丈夫かお前。聞こえてるか?」
生駒が目を閉じたままの海を揺らして再度海を現実に引き戻す。
「なんですか」
「なんですかじゃないよ。お前、打順回ってくるぞ」
「打順って。俺、さっき立ったばかりじゃないですか」
「バカ。もう一回打順回って来るんだよ」
「……は?」
何を寝ぼけたことを言ってるんだ、と海は生駒を見返したが、生駒はとても冗談を言っているような顔ではなかった。
「分かってるよな、お前。お前に打順が回ってきたとしても、変に監督の言葉を意識して、一発なんかを狙う場面じゃないぞ。このタイミングでお前にもう一回打順が回ってくるってことは、この回、お前で始まって、お前でこの試合を決めるチャンスなんだぞ。お前は、お前の打撃をすればいいんだ」
「あんたに言われなくても……分かってますよ。俺の仕事は、俺にしかできませんから」
海はそう言いながらすっと立ち上がり、ネクストバッターサークルへと歩いていった。一発のことをふと頭に浮かんでいたことを読まれたようで、海は少し嫌な気分になった。
前の打者がライトの頭を越える長打を放ち、満塁だったランナーは二人帰ってくる。5対6。逆転だ。試合はまだ5回裏だというのに、観客席は大いに馬鹿騒ぎを始め、サヨナラ勝ちを決めたような気でいる。
お前で始まってお前で決める――響きはいいものだが、自分がやったのはいつもどおりのヒットだけだ。自分がこの回5点取ったわけではない。
お前で決める、なんて言われても、逆転打を放ったのだって自分ではないから、別に自分が何かしたわけではない――。
海の肩に降りかかったプレッシャーというのは、せいぜい、この場面で打てないようなら、次にスタメンのチャンスがめぐってくるのは随分先のことになるだろう――ということくらいだった。これが同点だとか、1点ビハインドだったならば、また違うプレッシャーがあったのかもしれないが――と海は苦笑した。
二死、ランナー二・三塁。
外野は前に詰めているし、内野は後ろに下がっている。リーグが違うことから、一年間にたった数試合しか当たらないはずのダイヤモンドホーンズの守備陣にすら、自分が普段どんなヒットを打つのか完全に対策されている。
狙うとしたら、少し下がった一塁手を狙って、ファールラインギリギリくらいを引っ張るくらいしかないだろう。
いっそ、内野がだいぶ下がっているからセーフティスクイズをする、という手もあるのだろうけれど――そんなことは普段からバントの練習を積み重ねてきた人間にしかこの場面では通用しないだろう。
生駒が自分の打撃をしろと言ったように、ここで思いつきの作戦をして失敗したら、自分はとうとう生駒からの信用すら失うだろう――。海はゆっくりとバットを構え、サインの定まらない投手を見つめていた。
初球、外に逃げるようなコースへとフォークが投げられる。
「――しまっ――」
強引に引っ張ってスイングしたボールは、地面に叩きつけるような弾道ですぐさまファールラインを超えていった。
今のような打球を三塁方向に流して打つ練習だってしていたが、相変わらず風が一塁側に吹いている以上、得策ではないだろう。
功を焦るなよ――と海は自分に言い聞かせ、再びバットを構えた。
少しサインの交換がスムーズにいかず、しばらく間を置いて投手が二球目を投げる。また外だ。
きっと内には投げてくれないだろう――海はもう一度外へ放り込まれたストレートを強引に引っ張った。タイミングが少しずれ、構えていた一塁手の近くへ鋭い打球が転がっていく。
そうそううまくはいかないものだな――海はなんとかアウトになるまいと必死で足を飛ばした。一塁手のグラブが白球をつかもうと腕を伸ばすが――わずか数センチ届かない。その瞬間にワァッと球場が沸き立ち、ライトの前へとボールは転がっていった。
急いで前に出てきたライトがなんとか失点を許すまいとホームへめがけて送球するが、そのボールは少しだけ三塁側に逸れてしまった。
慌ててキャッチャーは三塁側に回りこみながらホームへと走ってくるランナーをタッチしようとするが、ランナーとの衝突を防ぐためにやや前に出ながら大げさに三塁側へと外れざるをえない形になった。
なんとかタッチを試みようと考えていたであろうキャッチャーはボールをキャッチしながら、ホームへと突っ込んでくるランナーへのタッチアウトを渋々諦め――この間に二塁を狙うことも考えてた海を刺すためにすぐさま二塁へと送球した。
慌てて海は二塁へ飛び出そうとしていたその足を一塁へと戻し、事なきを得た。
ひときわ大きな得点テーマが球場を包み込む。まだ5回裏の攻撃中で、それもたった2点リードだというのに、球場はリーグ優勝でも決めたかのような雰囲気で歓声が飛び交う。負け試合だと完全に思っていたからなのか、その熱量はすさまじいものだった。
相変わらず喜怒哀楽の激しい観客だ、と海は思いながら――『この回、自分で始まり自分で決める』という任務を与えた生駒がこちらに向かってガッツポーズをしているのを確認し、ベンチに向かって小さく頷いた。
最終的に11対10という壮絶なシーソーゲームとなったこの試合、海は7回には相手への併殺をしっかり決め、打っては4打席3安打、7回の再度逆転を許した状態での反撃の際にも四球で出塁した。
8回にはエラーをひとつ記録したが、猛打賞を決め、今季初めての打点を大事な場面で決めた。
今の自分にできる最善を尽くした試合結果だった――自分では思いながら海は内野席の声にわずかに応じながら、試合後のベンチへと下がっていった。
「おい、佳井」
前野が相変わらず不機嫌そうにしながら、そんな海を呼び止めた。
こんなときくらい少しでも嬉しそうにしたらどうか――海はそう思いながら内心うざったそうに前野の呼びかけに応じた。
「なんですか」
「明日からお前はベンチや」