海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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29・2マス戻るふたり

ベストナイン授賞式が終わってから、あっという間に年末年始がやってきたかと思うと、あっという間に春季キャンプの季節がやってきて、そうして今年もペナントレースが始まっていたが、一部の野手の表情はあまり晴れていなかった。

 

球場で使っているボールの質が変わった、と言えば言い訳になるのだろうか――。

力でボールを叩き潰したり、あるいは、その芯を的確に捉えて、100%以上の力を込めて振りぬけるほどの者ならば、さほど違和感なく飛ばせるであろうそのボール。

……あるいは、どこか重たく、勢いがそがれるものだから、意図的に内野の間へと軽く転がして、一塁へ全力で突っ込むことのできる脚力ならば苦にしないであろうボール。

 

どちらかというとボールをしっかりと引き付けて相手が嫌がるところへ転がすような玄人向けの渋い打撃をする打者や、海のように力まずしっかりとバットにボールを乗せるタイプの中距離打者なんかはそのボールになかなか馴染めずに居て、春季キャンプの頃から海とレギュラー争いをしていた発展途上の若手内野手陣は総じて苦戦を強いられていた。

 

もちろん、海は芯を的確に捉えることは徐々にできているのだが、バットとの相性や、イメージする飛距離とのズレを修正することに苦しんでいた。

 

バットをやっと意のままに使いこなせるようになった海にとって、いつもよりも妙に飛ばないように感じられるそのボールは思わぬ敵となった。

 

まもなく25歳を迎えようとしている、まだギリギリ若手の部類に入っている海。

プロ1年目の木製バットの感覚をつかもうとしていた時よりもずっと、それがプロの洗礼というか――どれほどチームや環境に恵まれていたとしても、球界のさじ加減ひとつで選手生命が変わってくることがあるということを、今になって海は思い知らされていた。

 

自分ではしっかり芯を捉えたつもりのボールが、イメージどおりに伸びずに不自然に落下していくというのは、メンタルにも乱れが生じやすいので、思うように行かない日々を過ごしていた。

不調をメディアの前で語る選手も少なくないと記者団からも言われていて、実際、他球団の選手なんかを見ていても時折打球の行方を見て不快感を露わにしたり、ボールへの不満を直接メディアの前で語る選手を海も度々見ていた。

 

去年、代打ベストナインを獲得してなお海は前野からの信頼を手に入れることはできず、今季も開幕からスタメンを外されていた。

それで時折代打として出場してもなかなか去年ほど調子が上がらないものだから、前野からはより一層厳しいマークが続いていた。

 

中学・高校と、同じ埼玉にありながら、あまり自分からは足を運ぶことがなかったライガーズの本拠地、所沢ベースボールドーム。この日も海はやや蒸し暑いその打席に立ちながら眉をしかめていた。

 

5回表、3対5。2点を追いかける場面で先頭打者からの代打で出場した海。その内野陣は相変わらず後ろに下がり、外野は少し前に出てくるような打球を挟み撃ちにするようなシフトが敷かれていた。

 

昨シーズン、あれほどの好成績を残した海にとって、対策を練られることくらいは多少想定していたのだが――その守備シフトの間を縫うような打撃が、今年の飛びづらいボールに嫌われていた。

 

キャンプ中、オープン戦、そして開幕した3月末からずっと感じていた違和感が4月を終えてなかなか拭いきれず、こうして5月の前期混合戦に入ってなお、海はいわゆる『佳井シフト』を射抜くような打球を打てずにいた。

 

ならばこういうときくらい、まっすぐ走るだけなら速い部類の足を生かそう――少しだけ普段よりも内野グラウンドに叩きつけるようなスイングで一塁の真横を狙うのだが、もともと叩きつけるような打球というよりは、弾道のきれいなライナーであったり、地を這うような低い弾道の打球が内野の横を抜けていくようなタイプのゴロを打つタイプだった海にとって、こうした付け焼刃のアイデアはよりいっそう深い泥沼の悪循環を招いた。

 

らしくない打球は、選択としては悪くなかったのだろうけれど、深めに守っていた一塁が冷静にその球を捌く。

 

高校くらいであれば通用した打球だったのかもしれないが、いくら守備が不安視されている相手一塁手だとはいえ、基礎がまったくなってない選手が守備についているなんてことはプロの世界ではほとんどない。

 

なんとか足を高く上げてギアを上げようとするが、一塁までの距離は海の足を生かすには短すぎた。しっかりとボールをつかんだ一塁手が、カバーに入った二塁手に少し危なげなトスをして塁審がアウトを宣告する。

 

快音は、きょうも遠い――。

 

『もっと使ってください』

 

そうベストナインの授賞式で口にした以上、打席に挑む海は意気込んでいた。今年こそはレギュラー奪取のまたとないチャンスだと思っていたこともあり、海は毎日1回しかめぐってこないその打席の繰り返しと、そのたびに前野から言われる小言に、徐々に疲れを見せ始めていた。

 

これほど長期のスランプともなると、もともと考え込みすぎるタイプだから、今年はビジター戦がしばらく続く前期混合戦の間、海はよく眠れず、夜中はストレスで嘔吐を繰り返す日々が続いた。

今日もまた、眠れぬ一夜になるだろう。

 

悪循環――。

 

その文字がトイレに顔を突っ込みながら、さっき押し込むようにして飲んだ水をまた吐き出すということを繰り返す海の頭にその三文字が浮かんだ。

埼玉での試合のあともチームはそれなりに好調を維持し、前期混合戦を7勝5敗と勝ち越しでターンしたというのに、海は前期混合戦最後の地だった仙台からの帰りの新幹線でもずっとトイレから出られずにいた。

 

「おかえりー。うっわ、すごい顔色……。え?どうしちゃったの?体調不良?」

 

仙台で買ってきた牛タンと菓子をテーブルに置くなり、ぐだっ、とソファに座り込む海。

ただでさえ白い顔が青白く、細く端正な顔つきはさらに細くなり、眼に見えてやつれていた。

ここのところ仕事が忙しく、海の試合だけを追うわけにはいかなかった華耶は、数週間ぶりに見る海の顔色に思わず慌てふためいた。

 

「熱があるとかじゃあないよね?」

「そういうわけじゃないよ」

「ケータリングの味が合わなかった?」

「いくらビジター戦とはいえ、ケータリングがまずかったら、自分でなんとかするよ」

「あたしと会えなかったのがそんなに寂しかった?」

「……3割――うぷっ、50%くらいは」

「なんで突然2割跳ね上がったのよ、そこ。2割って結構でかいよ、2割って。いや、ほんとだよ。2割て」

「ごめん。今俺の前で"割"って単位使わないでくれるかな、華耶」

「ん?え?……あぁ」

 

海の顔色の悪さの理由をなんとなく悟った華耶は、海の隣に座って背中をさすり始めた。

「吐きそう?」

「吐き気はあるけど、もうこれ以上は出ないと思う。いや、でも人間出そうと思えば何だって胃から出てくるからね。次は胃が口から飛び出てくると思う」

「やめてよ、そんなゾンビ映画みたいな」

華耶も、それ以上のことも特に言わなかった。何か下手な言葉をかければ、それがかえって海の現状を苦しめることになる――華耶は後ろから海の肩に手を回し、そのままじっと黙っていた。

海がそこから動こうとしないあたり、相当こたえているのだろう。

 

「……そういえばさ」

「ん?」

一体どれくらいの間、そうしてじっとしていたのだろう――時計の針の音くらいしか室内には響いてなかった空間に久々に別の音が鳴り響いた。

 

「新と晴留は?」

「あぁ、お母さんのとこ。明日戻ってくるんだ」

「……?あれ、ひょっとして華耶も家を空けたりしたんだ」

「うん。プレゼンとかがあって、ちょっと東京の本社に呼び出されたりしてさ。ちょっと一週間くらいバタバタしてたし、叔母さんもちょっと用があるとかでさ。明日、お母さんが二人を連れてきて、そっからしばらく家で面倒見てくれるんだって。あたしは別にいいって言ったのに」

 

娘の晴留も2歳になった。来年からは幼稚園に通わせるつもりでいる。息子の新も来月には無事に1歳を迎える。

育児にも慣れてきたしということで、住み込みで面倒を見てくれていた叔母の美樹にはこの春から華耶は『一人で大丈夫』と育児の手伝いを断っていた。

 

春から秋の間は半分くらいは家に居られない海としては、華耶を一人にすることはとても不安だったし、叔母や華耶の母が育児の手伝いをしてくれるなら断る必要はないのでは――と言っていたのだが、華耶は『あたしは一人でも大丈夫だから』と張り切っていた。

 

そんな華耶が、少しだけ疲れてそうな表情を浮かべていることに海は気づいた。

 

「華耶。やっぱりさ、叔母さんかお母さんに面倒見てもらったほうがいいと思うよ」

「大丈夫だって。あたし、まだまだ元気だしさ。可愛い寝顔見てたら頑張れちゃうから」

「……じゃあ聞くけどさ。仕事で何かあったろ、お前。"まだまだ"元気、って言い方なんて、今まであんまりしなかっただろ」

「……別に。なんてことないよ」

 

ニッ、と笑った華耶の顔もまた、疲れていた。いつも白い歯までちらつかせるほどの笑顔が、今日は控えめだった。

 

「プレゼンが失敗したか何かもっと重大なことがあったんじゃないかって顔してるけど」

「……大丈夫だよ。あたし、仕事は好きだから」

仕事は、という言い方が海には引っかかった。引っかかったとはいえ、華耶が素直に白状してくれるものだとはあまり思えないように感じられた。

 

「……俺には言えないこと?」

「……ごめんね。ほんと、大したことじゃないからさ。海くんが元気ないことのほうがよっぽど重大だもん。あたしにとっては」

自分があまり最近抱えていることをすすんでは言わなかったように、華耶もまた、それ以上は言おうとはしなかった。

「そっか」

それ以上のことは言わず、海も黙った。

 

人事異動ひとつで今まで保てていたバランスが崩れたり、あるいは流れが狂うということを、華耶はよく知っている。

あまり詳しくはないが、サッカーなんかは2~3年でスタメンどころかベンチ入り含めてほぼ全員が入れ替わったりするチームだってあることも耳に挟んだことがある。

そういう意味で、野球はコーチや監督が長期契約を結んでいたりすることがあるし、選手だって移籍は毎年あれど、数年で大きくガラっと変わるということは、よほどの大事件がない限りは起こらない。

 

一方で、ほぼ変わらなかったはずのメンバーにおいて、唯一欠けたメンバーや、唯一の入れ替わりや人事異動がかえって流れを大きく狂わせることを華耶は仕事柄よく見ているつもりだった。

 

海だって、監督が変わればのびのびとプレーできるに違いないと思っている。プロ野球の12球団という数字は、チームに根付く選手を生みやすい一方で、選択肢が12しかない――逃げ場がない、という意味では窮屈でたまらない世界だろう、と華耶は思った。

 

「あー、駄目駄目。全ッッ然駄目。私が注文したこと全然、全ッッ然できてない。え?何?あんたの6年ってなんだったの?6年ずーっと給料泥棒してたってこと?中途で6年もいてさ、もう33になるんだよね?分かる?私まだ28だけどあんたの上司なの。あんた、自分でその社員証に『私は使えないクズです』ってアピールしてるようなもんなんだけどさ、分かる?バカだからわかんないかなそういうこと?」

「……」

「え?黙ってりゃなんか解決すると思ってる?うっわ使えねーなもう。分かったよ、時間の無駄だからとっととデスク戻って。顔見てるだけでイライラする」

 

この春から動画コンテンツ部門のディレクターとプロデューサーが二人一気に配置変更になり、よその部署から中松という若手の――いわゆるやり手のキャリアウーマンがディレクターとして異動してきた。

 

基本的にはリモートで働ける職場だった職場において『顔も知らない人間と仕事はできない』と、定期的にオフィスに部門ほぼ全員を呼び寄せてプレゼンの打ち合わせをはじめ、各種業務を行っていたのだが――あまりに『自分のやり方』を押し通すスタンスに、部門の空気はゴールデンウィークの前から最悪になっていた。

 

ゴールデンウィークに休暇を取ろうものなら『一番客が来てコンテンツの再生数伸ばさないといけない時期に休むとか図太い神経してんのね』などと嫌味を言い、休暇を取り下げるまで個人攻撃を繰り返す――とりわけ、立場が下の昇進を諦めた者や、自分より年下の人間には特に攻撃を繰り返していた。

 

《えーっと、そこのルーペ使わないと見えないちっこい奴。相変わらず小さいよねー。身長小さいくせに胸だけ生意気に育っちゃってさ。あんた、私が言ってること分かるんだよね?英語できるって言ってるんだから。あんた、なんか英語で反論してみてよ。ほら、聞いてやるからさ。ほらチビ》

「……」

 

華耶は内心中松の英語にうんざりしながら、試合中継の様子をイヤホンで拾っていた。

球場の音ひとつが動画のネタに繋がることだってあるから――と前の上司は言っていたし、イヤホンをつけながら働くということはなんら問題がないとされている部署だった。

 

今回のプレゼンのテーマは、速球がミットに収まったときの音シリーズだ。

《聞こえてるの?》

わざわざ左耳のイヤホンをブチッと外し、耳元で言ってくるくらいだから、よっぽどの人間だ。このご時勢、これほど他人に強気に出られる人間の胆力を華耶は素直に羨ましく思った。

 

周囲も嫌そうな顔をしながら、トイレに逃げ込む者もいれば――休憩スペースへと複数人で向かう者もいる。

 

「中松D【ディレクター】。音拾ってる最中なのでちょっとごめんなさい、そういう話は後でにしてもらえますか?」

わざと華耶は日本語で中松に言い返した。自分が英語を話せるからと、わざわざ英語で話しかけてくることに華耶は怒りの感情を出しそうになったが、できるだけビジネス的な態度で中松へ接した。

 

《はぁ?あんた、私が話しかけてるのにそんな態度はなに?産休ばっかり使ってるヤリマンのクソビッチのくせに。仕事で今から遅れをカバーしようったって無駄だからね。私、あんたは絶対潰してやるから。前の上司はあんたをめっちゃ評価してたみたいだけど、あんたみたいなビッチ私大嫌いだから》

 

日本語で話したら問題になるからわざと暴力的な英語で華耶に言葉を投げてきたのだろう。中松の言葉に華耶は思わず頭が沸騰しそうになったが、ぐっとこらえ――

「ごめんなさい、一応これ急ぎの仕事なので他に用がなければデスクに戻ってもらえますか?」

と日本語で返すと、中松は逆上しきって顔を紅潮させた。

「あー!!腹立つ言い方するなあ、あんたは!!」

 

ブツリ、とPCのコンセントを抜く中松。編集中の動画が一瞬にしてブラックアウトし、華耶ははぁ、とため息をつく。

 

《もうこのコンセプトはなし。私が今そう決めたから。そういう地味な企画、私は通さない》

勝ち誇ったような表情でデスクへと戻っていく中松を見て、華耶はため息をついた。

 

プロデューサーがさらにその上の立場としているのだが、プロデューサーに中松のことを相談しても『まぁ中松さんは仕事ができる人だから』とあまり相手にしてくれない。

これは誰からだってそうだ。中松の態度については相当周囲から声は挙がっているようなのだが、今年やってきたプロデューサーはどうやら中松に手篭めにされているのか、随分と頼りなかった。

 

頼りないだけならいいのだが、問題を公にしたくない上に、面倒ごとに巻き込まれたくないタイプなのだろう。プロデューサーとしての仕事はまあまあやってくれるのだが、人心掌握であったり、現場のまとめをなかなか率先してやってくれないものだから、みるみるうちに動画コンテンツ部門は空気がよどんでいった。

 

リモートで働けるからまだいいのだが、こんな状況で毎日本社に出勤なんて日々が続いたなら絶対にこの会社はもたない――華耶はそう思った。

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