海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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30・ふたりの打開策

清潔感のある香りが漂っていたはずのその独特のテカり感のある白っぽい空間は、サウナから上がった途端、人間の生々しさの残渣がまだ残っている空間に様変わりしたように海は感じていた。

 

シャワーで汗を洗い流してなお、自分もまた、その"生々しさ"の原因であることを拭いきれずにいるように海は思った。

ベッドに横たわってまだあられもない姿で眠っている華耶の姿を見て、7年前にここで過ごした夜とは少し違う立場に海は物思いにふけた。

 

あの時とは違って、バスローブの有無に気を遣わなくてもよくなった関係の変化に、自分が華耶と過ごしてきた日々の長さを少しばかり噛み締めたりもしたが――閉め切った窓の向こうに、恐らくもう照り付けているであろう初夏の日差しのことを考えると、この夜が意味を成した夜であって欲しいと海は思ったし、とうの昔に存在を諦めた神の存在とやらに都合よくすがりつきたくもなった。

 

「……ただいま帰りました」

「おかえりなさい。もう、やだなあ海くん。堅苦しくてさ」

「すみません」

 

再び本社に呼び出しを受けていた華耶に代わり、子供の世話と同時に華耶の代わりに海の食事を作っていた華耶の母・三葉が出迎える。

 

相変わらず、海は調子を崩したままだった。

今日も、落ちる球なら勢いがつくだろうと思ってスイングした球が想像以上に伸びず、予め内野のだいぶ奥まで後退していたセカンドに余裕を持って捕球されるという笑えない打席結果に終わっていた。

結果として、9回にサヨナラ本塁打が飛び出しチームは勝利したとはいえ、5回、1点ビハインドの先頭打者で起用してもらった場面としては最悪の結果だ。

こうした場面でヒットを打てないから前野に散々叩かれるのを分かっていて結果を出せないのだから、海は自分の情けなさに腹が立った。

 

「海くん。こんな時に聞くのもどうかと思うんだけどね」

「はい」

「最近の華耶、どう思う?」

「どうって」

「海くんなら、私がこんなこと聞いてる理由が分かると思うな」

 

華耶が以前言っていた『秘伝のレシピ』だと言う、大盛りのジャンバラヤがどんと皿に盛られた通称『佳井家風トルコライス』が食卓に並ぶ。

 

本当に親子代々受け継いでいるレシピらしく、確かにジャンバラヤは華耶が作ったような味がした。年季が入っている分、確かに味に熟練度の違いも感じた。

深みというのだろうか、同じように作っているはずだが、どこか華耶の作った味よりもほんの少し、角の取れた、奥深い味がしていた。

 

『佳井家のエネルギーはここから生み出されている』なんてことを三葉は冗談めいた口調で最初こそ談笑していたが、突然話題を切り替えるようにして海にそう話しかけた。

 

海もまた、最初は質問の意図が掴みかねるような様子を見せたのだが、三葉の真剣な表情を見てスプーンを置いた。普段は笑顔を見せる分、こうした時に目つきの鋭さが際立つのは、佳井家の血のつながりというものなのだろう。

 

だとすると自分の血のつながりは――

 

海はそう思うと、腕を組んで一度食べるのをやめてしまった。

 

「ああ、別に食べながらでいいんだ。試合後でおなかすいてるだろうし」

「……すみません。じゃあ、いただきます」

三葉に促されて、止まっていた食事を海は再び進めた。

別に、三葉の話だけが自分を止めたわけではないのだが、海はなるべくそれ以上のことは悟られないようにしながら大きめのエビフライを口へと運んだ。

 

「それでね、海くん。なんだか最近あの子、思いつめてるところがありそうな気がするの」

「俺の性格が伝染【うつ】ったんですかね」

「それだけならいいんだけどね」

「いいんですか」

「長く暮らしてたら、性格なんてちょっと影響されてもおかしくないもの。恋人同士とか、夫婦ってそんなもんだからさ。ただ、なんかそういう感じっていうよりは、あの子……なんだか、何かがうまく行ってない気がするの。その原因が仕事じゃないかなって思ってて」

「仕事がうまくいってないのは確実だと思います。今年は随分と呼び出しも多いみたいですから。でも、仕事は楽しい、とも言ってました」

「……上司、かな」

ぽつり、と腕を組みながらつぶやいた三葉は、海を見て少しだけ気まずそうな表情を浮かべた。

 

「……上司が大変だと、苦労しますからね」

三葉の言葉に、海もまた、ぽつりと本音を漏らした。

 

「ごめん。今の海くんにはちょっとセンシティブな話題だったね」

「いえ、いいんです。俺の場合は、結果を残せない俺が悪いので。ただ、華耶の場合は、とても仕事でヘマをするようには見えません。俺は華耶がどう働いているかは分かりませんが――二度も産休を取っておきながら、どっちも産休を3ヶ月くらいで切り上げて職場復帰してあんなに働いています。家計のことは俺がたくさん稼ぐから、もっと楽していいって言ってるのにですよ。あれは、よほど仕事が好きじゃないとできないことです。会社に迫られて仕事の復帰を切り上げてるようなのであれば、華耶は絶対に文句を言うでしょうし。アイツ、優しいけど、不満に思ったことは素直に口にするタイプですから。でも、そのくせ他人に迷惑かけたくないからって、本当に困ってることとかはなかなか話してくれない」

「私もおおむね同感。たぶん、会社の中でよほど何かが起きてないと、華耶はああはならないと思う」

ですよね、と海はグラスに注がれた麦茶に手をつけながら首を縦に振った。

 

「あんな顔してる華耶は――野球をやめる直前くらいの頃以来だから。あれ以来、よほどのことがないと華耶はずっと笑ってた。あの時くらい疲れてる顔してる華耶なんて、母親としては見てられない。でも、母親が仕事のことに口挟むなんてことは……華耶の性格を考えたら、あんまりいいことないと思う。だからね、海くん。私からひとつ、頼みがあるんだ――」

 

東京。文京ドームで終えたエンペラーズとの試合後、海は手配していたタクシーに乗り込み、運転手を少しだけ急がせていた。

時刻は22時16分。東京を南下するような形でタクシーは首都高1号線を快調に飛ばしていく。

 

「私ね、あんま大きな声じゃ言えないんですけど、うちは一家総出でチーター党なんですよ。明日は1日オフなんでしょう?なんで蒲田なんかに?」

 

タクシーの運転手は、突然そんなことを言い始めた。険しい表情を続けたままの海は、タクシーの運転手の突然の言葉にどうしていいか分からないような素振りを見せながら、財布を取り出した。

 

「……5万やるんで、誰にも言わないって約束してもらえますか」

「何言ってんですか。チームのファンがマスコミに情報売るようなことしません。そんなの、ファン失格ですよ。お金も受け取れません。お金なんかより、サインをいただけたらそれで十分です」

タクシーの運転手は笑いながら、海の言葉に対して明確に拒絶した。

 

「だけど、あんたを信用する材料が俺にはあんまりないんですよ」

「そこの後ろの座席のポケットに私の名刺があります。このご時勢、車の中には監視カメラだって搭載されています。この空間でしか知りえない会話が外に漏れたなら、うちの会社を訴えてくださって構いません。話せないくらいのことなら、私もそれ以上は詮索しませんから」

「……」

 

しばらく、車に沈黙が流れた。ガタン、と道路の歪みに揺れる車の音と、時折車内に流れる無線の音くらいしか車の中には響いていなかった。

座席に置いてあったボールペンを握って海は名刺を二枚取り出し、そのうち一枚の裏にサインをし――後ろから運転手に手渡した。

 

「……デートですよ。蒲田に思い入れがあるんです」

「ああ、お嫁さんとですか。それにしても、この時間帯に蒲田でだなんて、なかなか変わってますね」

「まぁ、色々あって」

「そうですか。わざわざ帰りの新幹線ずらしてまでですもんね」

「えぇ、まあ」

それからしばらくして、蒲田西公園のすぐ近くにタクシーは停まった。

 

「佳井選手」

開いたドアから出ようとした海を運転手は一度呼び止め――

「私は、スランプからの復活を信じてますよ。代打でプレッシャーなんか、感じないわけないですからね。うちらの仕事だって、お客さんとは基本的に1打席限りです。1打席ミスっただけで、色々言われる仕事です。ですから――またスタメンに戻ったときにでも、ガンガン打って見返してやってください。サイン、家宝にしますよ」

「……どうも」

「まいど」

ぎこちなく笑みを浮かべた海を、満足げにサインを掲げながら運転手はドアを閉じて去っていった。

 

この時期の天気予報は当てにならず、蒲田に着く少し前あたりから、突然の強い雨が降り出した。大粒の雨が容赦なく海を襲い、髪を乱した。

 

用具係に大体の荷物は渡してしまったから、財布と携帯くらいしかポケットに入っていない海の装備は手薄だった。

 

少しだけ早足でその公園へと向かう海。

自分だけが雨に降られているわけではない。

22時45分に――そう待ち合わせしたということは、ずっと前から待っている可能性があるその姿を考えると、海は本当なら走り出したい気分だった。

 

べたり、と薄手の黒い服がそのボディラインを強調するように雨で地肌に張り付いていた。

いつになくしおらしく、女の顔を覗かせていた華耶の表情。きっと、自分が思っているよりもずっと普段から多少無理をしていて、本当はこんな顔をしたいときだってあるのだろう。

ベンチから立ち上がった華耶に、海は念のため差していた傘を放り投げてきつく抱きしめ、しばらく二人は雨に黙って打たれながら世界を閉ざした。

 

「ごめん。23時に着くって言ったほうがよかったね」

「……いいよ。ちょっと雨に降られたい気分だったから」

「仕事終わってからずっとここにいたんだ?」

「ずっと、ってわけじゃないけどね。でも、色々考えてたらここを待ち合わせ場所にしてくれたわけだしさ――だいぶ前から待っちゃってた」

 

しん……と一瞬強まった雨脚が、また何事もなかったかのようにピタリと止まる。遠くでは雷鳴が響いている。あちこちで降ったり止んだりを繰り返しているのだろう。

 

『今すぐにでも三人目を作ろう』

 

そう連絡したのは、華耶の母・三葉と食事をした夜のことだった。

遠征で東京に来ることになる三連戦のあと、落ち合おうと海は半ば一方的に電話をした。

 

華耶は本社からの呼び出しで東京に出張している間、海がまだ借りたままでいる武蔵小山のマンションで生活していたのだが――待ち合わせにわざわざ蒲田を指定したことに、海が冗談で言ってるわけではないと察した。

 

どうとでも理由をつけることだってできたのだが、海はあえて必要最低限のことしか言わずに華耶を連れ出した。

上司とうまくいっていないこと、あるいは、会社でうまくいっていないこと――そんなことを詮索したら、華耶のプライドを傷つけることになるだろうし、華耶もまた、その一言だけで自分が何を言いたいのかを察してくれるだろう――と海は思った。

 

かつて華耶がこの場所で自分の運命を変えたように――今度は、自分が華耶の運命を少しだけ変えてやる番だという海の強い意思がそこにはあった。

単純に、つけるほどの理由や何かしらの言い訳だとか都合、あるいは口説き文句が思い浮かばなかった、という事情も確かに隣り合わせていたのだが――。

 

「じゃあ、海くん――」

 

華耶はしばらく海の胸に顔をうずめていたが、覚悟が決まったのだろうか。再び強い雨が降り出し始めたが、構わないようなそぶりで華耶はその大きな眼で海を見上げた。

期待と、不安と、怯えるような目線と――いろんな感情が複雑に入り混じった目つきでを繰り返しながら、それでも、普段見せないような女の顔で海を見つめながら――

 

「……ちゃんと、一発で決めてよね。柄にもなく見得を切ったんだからさ。こんなときまで勝負弱くならないでよね」

「……冷めること言うなよ」

「へへへ」

 

それでも、冗談を言う気力だけは取り戻したのか――春以来、久々に華耶がそうして笑っているのを見たように海は思った。

放り投げた傘に、大粒の雨粒が大量に弾かれて、オーディエンスのような音を奏でていた。

 

~~~

 

7月に入ってしばらくしてから、大阪の自宅に戻ってきた海に華耶は抱きついてきた。

 

「報告はヒット打った日って決めてたから、またしばらくヒットが出なかったらどうしようって思ってたよ」

 

華耶の顔色は万全ではないにしろ、だいぶ戻ったように海には見受けられた。

「人が全然打たないような言い方、やめてくれる」

「でも大絶賛スランプじゃん。去年は4割が見えかかってたのに、今季ここまで2割切りそうな流れがずーっと続いてるじゃん」

「余計なお世話だよ。それで?報告って?」

「んー。分かってるだろうから、ちょっと予想より斜め上の話をしようと思うんだ」

 

ニヤニヤと笑みを浮かべながら海の横腹をひじでつつく華耶。

 

三葉に頼まれて子供の様子を再び見に来ていた美樹は、エプロン姿で新をおんぶしながら皿を洗っていた。

先ほどその報告の"意味"を予め聞いてはいたのだが、斜め上、という言葉を聞いて他に何かあったのだろうか、ということに興味津々な様子で遠くからその会話を見守っていた。

 

「海くんが相変わらずムッツリスケベで夜通し私を好き勝手してくれたおかげでね」

「そこはどうだっていいだろ。美樹さんだっているのに、お前」

お構いなく、という表情で美樹は様子を見ているが、一体あの夜どれほどのことをしたか、華耶は美樹の前ですらうっかり言いかねないので海は目で『それだけは絶対やめろ』と合図を出していた。

 

華耶は嬉しそうな表情と、いたずらっぽい表情とを交互に浮かべながら――さてどうしたものかという思わせぶりな様子を見せ、海に耳打ちした。

「双子ちゃんなんだって。次の子」

「えっ、双子」

思わず海は確認するようにして華耶を見返した。美樹もまた、驚いた様子で華耶を見つめた。

 

「双子……となると、真剣に引越しも考えないといけないのかな……。まだ大丈夫かなって思ってたけど、ここに双子は部屋の数的にちょっと」

「あら。そのうち不動産屋にもいかないといけないね、二人とも」

 

あと何年かしたらきっと狭くなるであろう――1階層ごとはそこそこコンパクトでこそあるが、決して普通に暮らすだけなら狭いわけではない3階建ての貸家がとたんに窮屈になっていくことを海は感じた。

 

からかうようにして美樹は携帯で物件を探しながら、新築ならいくらだ、貸家なら家賃はこのくらいだ、だの、勝手に話を進めようと笑っていた。華耶もまた、美樹と一緒に携帯で物件を見ながら、「パパもっと頑張らないといけないね」などと他人事のようにしてニヤニヤしはじめた。

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